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『静かな雨音の向こうで』 一 水の中

掲載日:2026/10/04

この物語はフィクションです。統合失調症への理解を深めるために制作させていただきました。

症状の現れ方も、回復の道筋も、人それぞれ違います。ハルカの物語は、そのうちの一つの描き方にすぎません。

もしあなた自身や身近な人が似た状況にあるときは、一人で抱えず、精神科や地域の相談窓口に相談してみてください。

『静かな雨音の向こうで』

一 水の中

雨の夜は、ハルカにとって少しだけ楽な夜だった。雨音が部屋を満たしていると、あの声が聞き取りにくくなるからだ。

最初は、眠れないだけだった。講義室の後ろの席で、教授の声が水の中の音みたいに遠かった。ノートを取ろうとしても、一行書くたびに前の行が何の話だったか分からなくなる。友人の美咲に誘われた鍋の約束を二回断り、三回目は返信しなかった。

十月に入るころ、夜中の二時に、耳元で誰かが言った。

「また失敗したね」

振り返っても誰もいない。壁の向こうで、隣の部屋の人が咳をした。

二 辻褄

翌朝、ゴミ置き場で隣人と目が合った。相手はすぐに目を逸らし、袋を置く手が一瞬止まった。

(見ている)

その夜、ハルカは机に向かって考えた。感情ではなく、論理で。

声が聞こえるのは二時台。隣の咳も二時台。一度なら偶然だ。でも三晩続いた。壁は薄い。そういえば、春に隣へ人が入ったとき、挨拶に来なかった。挨拶に来なかったのは、来る必要がなかったからではないか。もう私のことを知っていたから。

声は「また」と言った。「また」は、前に私を見ていた人の言葉だ。私の失敗を知っているのは、私と、見ていた人だけ。

疲れのせいだ、という反論も一応は検討した。でも疲れは、声の内容までは決めない。あの声は、私が去年の発表でつまずいたことを知っていた。

穴はなかった。穴を探せば探すほど、穴がないことが分かった。怖いのに、胸の底では奇妙なほど静かだった。何週間も続いていた「何かがおかしい」という感覚に、ようやく名前がついたからだ。

ハルカはノートを開いた。

10/14 2:07 声。

2:12 隣で咳。

2:19 廊下を歩く音。

   これで三回目。

次の週、郵便受けの前で、隣人は何か言いかけて口を閉じた。会釈だけして階段を降りていく背中を、ハルカは見送った。

(今、言いかけた)

何を言いかけたのかは分からない。分からないことが、ノートの空白をまた一行埋めた。

美咲がアパートに来たのはその週末だった。インターホンが鳴り、ハルカは音を立てずに息を止めた。「いるんでしょ? 心配してるんだよ」と声がした。ハルカは玄関の内側で、その声が本物の美咲なのか考えていた。三十分後、足音は去った。

母に電話をかけたとき、ハルカは話したいことが多すぎた。隣の人のこと、ノートのこと、子どものころの遠足でバスの席を間違えた日のこと、電気メーターの回る速さのこと。話はあちこちに飛び、母が「ちょっと待って、順番に」と言うたびに、ハルカは苛立った。全部つながっているのに、なぜ分からないのか。

「お母さん、盗聴されてる。気をつけて」

長い沈黙のあと、母は言った。「……一回、病院に行ってみない?」

その言葉で、母まで向こう側の人間になった気がした。

「お母さんも、あっちなんだ」

「何言ってるの。あんたのために言ってるのに」

「私のためって言う人が、一番」

そこで電話を切った。母が次に何を言おうとしたのか、ハルカは知らない。

母はその後も何度か来た。インターホン越しに「ご飯、置いておくね」と言って帰る日が続いた。ある晩、母は玄関の外で、ドアに額を預けて小さく息を吐いた。さっき電話で声を荒げたことを、母は何度も思い返していた。何をどう言えば娘に届くのか、もう分からなかった。

三 扉

扉が開いたのは、十二月の雨の日だった。

三日、ほとんど何も食べていなかった。ドアの外に置かれた弁当のにおいが、廊下から染みてきた。ハルカは立ち上がった拍子にふらつき、そのまま玄関まで歩いて、鍵を回した。

「……声が、うるさくて」ハルカは言った。「ずっと、怖かった」

母は何も正さなかった。「そう。怖かったね」とだけ言った。

初診の診察室で、ハルカは声のことを話せなかった。「眠れなくて」とだけ言い、医師は十分ほどで睡眠薬を出した。二回目の診察で、母が横から「この子、誰かに見られてるって」と言い、ハルカは母を睨んだ。

医師はゆっくり尋ねた。

「声は、今も聞こえますか」

「……少し」

「いつごろから?」

話しているうちに、医師が病名を口にした。統合失調症の可能性が高い、と。

「違います」とハルカは言った。「私は、病気じゃないです」

医師はうなずいた。「今日は、納得しなくていいですよ。まず、眠れて、声が少し小さくなることから始めましょう」

ハルカは納得しなかった。ただ、薬の袋は受け取った。

四 霧

最初の薬は、頭に霧がかかったようだった。朝は起きられず、午後になっても指先が重く、鏡の中の顔が他人の顔みたいに平べったく見えた。三週間でハルカは飲むのをやめた。

声は、一か月かけてゆっくり戻ってきた。

母がそれを知ったのは、残った薬の数を数えたときだった。

「なんでやめたの」

「お母さんは飲んでないから分からないでしょ」

「分からないよ。分からないから、言ってほしかったの」

母の声は震えていた。怒っているのか泣いているのか、ハルカにも母自身にも判別できなかった。帰り際、母は玄関で長く黙り込んでいた。その背中を、ハルカは見ないふりをした。

診察に行くのが嫌になった。母から届くメッセージを、開けない日が続いた。それでも二月に、ハルカはもう一度診察室の椅子に座った。理由は説明できない。ただ、声が少しも静かにならない夜が続いたからだった。

医師は責めなかった。

「また、一緒に探しましょう」

五 何もしない日々

薬を変えると、声は小さくなった。代わりに、何もしたくなくなった。

シャワーを三日浴びない。冷蔵庫を開けて閉める。テレビをつけて、何を見ていたか思い出せない。母が来て、「少しは散歩でも」と言っても、ハルカには「散歩」という言葉の意味が、遠い国の言葉みたいに感じられた。声が静かになったのに、部屋は少しも静かにならなかった。空っぽの音がした。

大学は休学した。

デイケアには、母に連れられて行った。最初の日、ハルカは壁際の椅子から動かなかった。世話好きのスタッフが「じゃあ、お茶でも」と何度も声をかけてきて、それが煩わしかった。

三週目、トランプの卓に座った。年上の男性が、札を配りながらぽつりと言った。

「俺もね、隣の部屋の人が怖かった時期あったよ」

「……一緒にしないでください」とハルカは言った。

男性は少しだけ間を置いて、「そうだな、ごめん」と言って、札を配り続けた。ハルカは手札を見たまま、その日は一言も話さなかった。

翌週も、同じ席が空いていた。

声は消えなかった。小さくなる日もあれば、疲れた夜に急に近づく日もあった。ただ、いつの間にか「あ、今夜は声が来る夜だな」と思える日が、少しずつ増えた。夏には、母の作った味噌汁を、おいしいと思った。

次の秋、雨が降った。ハルカは窓を開けて、しばらく耳を澄ませた。

カーテンを閉めて、お茶を淹れた。湯気が立つ間、声がしたのかどうかは、考えないでおいた。

六 三年後

三年後の秋、ハルカは一年遅れで大学を卒業し、小さな会社で働いていた。朝は決まった時間に起き、電車に乗る。昼休みには同僚と昼食をとり、帰宅すると洗濯機を回して、その間に夕飯を作る。特別なことは何もない。それでも、あの冬の雨の日の自分には想像もできなかった毎日だった。

その日は朝から雨だった。午後、入力した数字を一つ間違えて、上司に指摘された。小さなミスだった。席に戻ってからも、ハルカはしばらく画面を見つめていた。ふと、誰かが何か言った気がして顔を上げた。向かいの席では同僚が電話をしていて、隣ではキーボードの音が続いている。誰もこちらを見ていなかった。

帰り道、駅前の本屋で文庫本を手に取ったとき、背後で男の声がした。

「また失敗したね」

振り返ると、会社帰りらしい男性がスマートフォンを見ながら本棚の前に立っていた。その人の声だったのかどうか、ハルカには分からなかった。本を棚に戻して、一度は店を出ようとして、結局そのままレジに並んだ。支払いを済ませて外に出ると、雨が強くなっていた。

傘の下で、スマートフォンが震えた。母からだった。

《今日、帰り遅い?》

《本屋に寄ったから少し遅くなる》

少し迷って、もう一行送った。

《今日はちょっと疲れた》

《じゃあ帰ったらゆっくり休みな》

ハルカはその画面をしばらく見ていた。

家に帰って夕飯を簡単に済ませ、風呂から上がるともう十一時を過ぎていた。カレンダーアプリを開くと、来週の木曜に「通院」と入っている。そのことが、少しだけ背中を支えてくれた。

ベッドに入って電気を消す。部屋は静かで、雨の音だけが続いていた。やがて、声がした。

「また失敗したね」

心臓が速くなった。昼間のミスが頭に浮かび、本屋の男の背中も浮かんだ。隣の部屋から物音がして、体がこわばる。かつては、こういう夜にノートを開いて時刻を書き留めていた。今夜、ノートは引き出しの奥に入ったままだ。ハルカは布団の中でじっとしていた。物音はやがて止み、声もそれ以上は何も言わなかった。

枕元の画面に、母のメッセージが一件残っていた。

《ゆっくり休んでね》

画面を閉じて、「今日は寝るよ」と呟いた。誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

雨音の向こうで、何かが小さく言った気がした。

ハルカは起き上がらなかった。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

声が聞こえる、見られていると感じる、意欲が出ない。こうした体験の現れ方は一人ひとり違います。この物語がその一端を想像するきっかけになれば幸いです。

本作の描写は、統合失調症のすべてを表したものではありません

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