妻が私の“救命手術費”を若い後輩の飲食店に使った
右目を負傷した事故の示談金が振り込まれた日、僕より喜んでいたのは美咲たちだった。
美咲と義母の芳江さん、それに義妹の奈々は、テーブルいっぱいに不動産会社の資料を広げ、蓮が開くカフェレストランの物件を選んでいた。誰ひとり、僕の右目の具合については聞かなかった。
「駅西口の角にある店でいいんじゃない? あそこが一番目立つし」
芳江さんはすぐに頷いた。
「少し高い分は、悠真のところから出せるでしょう? 蓮だって一人で店を始めるんだから、みんなで少しくらい助けてあげないと」
僕はその場に立ったまま、しばらく何も言えなかった。
その金は、事故で傷めた右目の治療と、仕事を休むあいだの生活のために残しておくはずだったものだ。
「それを店に使ったら、右目の治療が続けられなくなる」
ようやく美咲が顔を上げた。けれど、その目に浮かんでいたのは心配ではなく、露骨な苛立ちだった。
「片目が見えにくくても、厨房の仕事まで全部できなくなるわけじゃないでしょ。蓮はこれから店に立って、お客さんの前に出るんだよ。悠真、こういう時くらい何が大事か考えてよ」
もう言い返す気にはなれなかった。
結婚して二年あまり。僕はその瞬間になって、ようやく分かった。
美咲にとって僕の片目は、蓮が店を格好よく始めることよりも軽い。
だったら、もうこの家に残る理由もなかった。
1
そのあと、美咲たちは不動産会社との打ち合わせに出かけた。
誰も、僕が一緒について行かなかったことに気づかなかった。
美咲は蓮と内装材を選び、奈々は買ってきたドリンクを蓮に渡し、芳江さんは店の賃貸借契約も飲食店営業許可の申請も、蓮を営業者として進めるよう何度も念を押していた。
僕が路線バスに乗った頃、広告制作会社とのグループチャットにオープン告知用ポスターの初稿が届いた。
画面を見た瞬間、指先が冷たくなった。
中央に大きく載っていたのは、僕ではなかった。
料理とメニュー開発を担当するのは僕なのに、オープンキッチンの前でユニフォーム姿で笑っているのは蓮だった。
僕は気持ちを抑えながら、美咲に電話をかけた。何度かけても出ず、七回目でようやく繋がった。
「今度は何?」
「どうしてポスターのシェフが僕じゃないんだ?」
向こうは騒がしかった。美咲は歩きながら話しているらしく、声にも気のなさが滲んでいた。
「デザイン会社の人が、蓮のほうがお店のイメージに合うって。そんなことでいちいち気にしないでよ」
僕はスマートフォンを握る手に力を入れた。
「料理を作るのは僕だ。メニューも僕が考えたし、料理のコンテストで賞を取ったのも僕だよ。蓮をシェフみたいに載せたら、お客さんに誤解させることになる」
「そこまで気になるなら、自分でデザイン会社に連絡して直してもらえば?」
美咲は面倒そうに息を吐いた。
ところが次の瞬間、声の調子が急に柔らかくなった。
「蓮、そのエスプレッソマシン、ちょっと普通すぎない? カウンターは店の顔なんだから、せっかくならあっちにしようよ」
僕は車内の手すりを握ったまま、数秒黙った。
「もういいよ。好きにして」
返事を待たずに通話を切った。
考えてみれば、ずっと前から気づくべきだったのだ。
蓮は人当たりがよく、相手が何を言えば喜ぶかをよく知っていた。少し困った顔をするだけで、周囲はすぐに彼を気にかける。
僕は正反対だった。
人付き合いが得意ではなく、黙ってやるべきことを片づけるしか能がない。気づけば、僕がやったことまで誰かの手柄になっていることも珍しくなかった。
「蓮くんって、本当に気が利くわね」
「悠真も少しは見習ったら?」
そんな言葉は、もう聞き飽きていた。
美咲と結婚するため、僕は東京の星付きレストランを辞め、この街へ移ってきた。
駅前の定食屋、セントラルキッチン、フードデリバリー。生活を安定させるため、時間の許す限り仕事を掛け持ちした。
稼いだ金の大半は家計に入れた。
それでいつか、美咲の家族にも認めてもらえると思っていた。
けれど彼女たちにとって僕は、口下手で、ただ働くだけの冴えない男になっていた。
家に戻ると、家族のLINEグループには数十件の未読メッセージが溜まっていた。
そこには今日決まったばかりの内装イメージが何枚も貼られている。黒いアイアンの照明、コンクリート調の壁、無骨なカウンター。
全部、蓮が好きなインダストリアル調だった。
僕が何年も前から考えていた店の姿は、どこにも残っていない。
僕だって、自分の店を持つことを夢見ていた。
結婚してから少しずつ準備を始め、商圏の人通りや仕入れ先、厨房の動線、排気設備、美咲が好きな木目のカウンターまで、ノート三冊分にまとめていた。
けれど、もう必要ない。
彼女たちが僕に用意していた場所は、厨房の隅にある洗い場だけだった。
LINEでは、まだ楽しそうなやり取りが続いていた。
僕が黙っていることも、右目の状態が悪化していることも、誰も気にしていない。
最後に、美咲がこんなメッセージを送った。
「蓮と結婚する子は、きっと幸せだろうな」
その一文を眺めているうちに、笑えてきた。
「そこまで言うなら、美咲が結婚すれば?」
さっきまで賑やかだったグループが、嘘のように静まった。
直後、芳江さんから電話がかかってきた。
「どういうつもりなの? あんなこと書いて!」
受話口から鋭い声が飛んでくる。
「蓮が見たら傷つくって分からないの? あなた、自分がどれだけ美咲に迷惑かけてるか考えたことある?」
奈々からもLINE通話が入ってきたが、出ずに切った。
すぐに美咲からメッセージが届いた。
「悠真、いい加減にして。蓮は今日一日、店のことで走り回ってたんだよ。あんなこと言われて、ご飯も食べられないくらい落ち込んでる。ちゃんと謝って」
続いて親戚たちからも責めるメッセージが届いた。
画面を眺めながら、急にひどく疲れた。
「分かった。僕が悪かったって謝るよ。それでいいんだろ」
そう返した途端、誰も何も言わなくなった。
僕は寝室に戻り、しばらく連絡していなかった番号を探して電話をかけた。
「もしもし、悠真か?」
懐かしい声だった。
「黒田部長。前にお話しいただいたシンガポールの新規プロジェクト、まだ人を募集していますか?」
電話の向こうで一瞬、沈黙が落ちた。
「お前、前は奥さんのそばを離れられないって断っただろ。どうしたんだ、急に」
ちょうど玄関から笑い声が聞こえた。
美咲たちが蓮を囲み、今日選んだ内装や試食したスイーツの話をしている。
僕は窓の外に目を向けた。
「もう、大丈夫です」
黒田部長はそれ以上詮索しなかった。
「今回の仕事は、シンガポール拠点でのメニュー開発だ。最低でも二年は向こうで働くことになる。すぐ日本に戻れるような仕事じゃないぞ」
「分かっています」
「本当にいいんだな?」
「はい」
迷いはなかった。
電話を切ったところで、美咲が寝室に入ってきた。
手には持ち帰り用の容器を持っている。
「いつまで不機嫌なの。蓮が試作したデザート、残しておいてくれたから」
中を見ると、細かく砕いたナッツがたっぷり載っていた。
僕はピーナッツを含むいくつかのナッツ類に強いアレルギーがある。
美咲も知っているはずだった。
「これは食べられない」
彼女は容器を覗き込み、ようやく思い出したような顔をした。
廊下から芳江さんの声が飛んできた。
「食べたくないなら食べなくていいじゃない。蓮は出されたものに文句なんて言わないのに」
僕は何も返さなかった。
この家の食事も、味付けも、好みも、いつの間にか全部蓮に合わせられている。
今さら何を言っても、自分が惨めになるだけだった。
夜も遅くなり、そろそろ寝ようとしていると、ドアが静かに開いた。
美咲が小さな器を持って入ってきた。中身は、昔から僕が好きだった鶏のスープだった。
湯気を見た瞬間、胸の奥が少しだけ揺れた。
結婚したばかりの頃、美咲は確かに優しかった。
居酒屋の厨房でアルバイトをしていた時、店長に理不尽な扱いを受ければ一緒に抗議してくれた。
僕が口下手なのを笑われた時も、「ちゃんと働く人のほうが信用できる」と言ってくれた。
そんな頃を知っているからこそ、僕はなかなか諦めきれなかったのだ。
けれど、そのスープを受け取った直後、スマートフォンの画面が光った。
蓮がInstagramのストーリーズを更新していた。
写っていた器は、僕が手にしているものと同じだった。
「ちょっとスープが飲みたいって言っただけなのに、美咲先輩が何時間もかけて作ってくれた。甘やかされてるな、俺」
僕は湯気の向こうにある器を見つめた。
自分に向けられた気遣いだと思ったものは、蓮のために作った残りだった。
一口飲んだ。
昔は好きだった味なのに、その夜は妙に生臭く感じた。
2
翌日、僕はフードデリバリーの配達アカウントを停止した。
いつも同じエリアで配達していた顔馴染み数人と、駅近くの店で簡単に食事をした。誰も詳しい事情は聞かず、「またどこかで会おう」とだけ言ってくれた。
トイレに向かう途中、隣の個室を通りかかった時だった。
中に美咲がいた。
大学時代の友人たちと一緒で、蓮もその輪に混じっている。
蓮は、美咲が大学のサークルにいた頃の二学年下の後輩だった。
卒業後はほとんど連絡を取っていなかったらしいが、半年前、サークルのOB・OGの集まりで再会した。
そこから急速に距離が縮まった。
蓮はシャツ姿で、周囲に飲み物を注ぎながら器用に会話を回している。
数分もしないうちに、その場にいる全員を笑わせていた。
「美咲、その後輩くんと一緒に歩いてたら、夫婦だと思われるんじゃない?」
誰かが冗談めかして言った。
僕は思わず足を止めた。
美咲は否定しなかった。
少し照れたように笑って、蓮と目を合わせただけだった。
結婚してから、美咲は僕をこういう集まりにほとんど連れて行かなかった。
僕が人付き合いを苦手としているから、気を遣わせたくないのだと言っていた。
でも、その瞬間に分かった。
僕が居心地悪くなることを心配していたわけではない。
ただ、僕を人に見せたくなかったのだ。
僕は視線を外し、廊下の奥にあるトイレへ向かった。
戻ってきた時、洗面スペースで二人と鉢合わせた。
美咲は蓮のシャツの襟元についた口紅を、濡らしたハンカチで拭いていた。
二人とも酒が入っているらしく、距離が異様に近い。
蓮が伏し目がちに口を開いた。
「美咲先輩、悠真さんのお金まで店に使って……やっぱり怒ってますよね」
美咲は顔を上げた。
「気にしなくていいよ。家のお金なんだから、私がどう使うか決めればいいでしょ。私は蓮の店を応援したいの」
蓮はじっと彼女を見つめた。
「それで悠真さんの目が本当に見えなくなっても?」
「それでも」
その言葉を聞いた瞬間、耳の奥で何かが弾けたような気がした。
蓮の口元がわずかに緩んだ。
「じゃあ俺って、幸せなのかな。それとも不幸なのかな」
彼はさらに距離を詰めた。
「ずっと『可愛い後輩』のままって、結構きついんですよ」
美咲の動きが止まった。
次の瞬間、彼女は蓮の腰に腕を回し、自分から唇を重ねた。
僕は薄暗い廊下の先に立ったまま動けなかった。
胸の内側を鈍い何かで削られていくようだった。右目の奥が痛み、視界まで揺れ始める。
長い口づけが終わると、美咲は蓮の胸元に額を預けた。
「三年前、悠真じゃなくて蓮と出会ってたらよかったのに」
その一言で、何かが完全に切れた。
どうやって二人の前まで行ったのか覚えていない。
気づいた時には、蓮に向かって拳を振り上げていた。
けれど、右目の視野が狭くなっていたせいで距離感を誤り、拳は蓮を外れて壁を強く打った。
直後、蓮に突き飛ばされた。
身体が後ろに傾き、左目の周辺を洗面台の硬い角に激しくぶつけた。
視界が白く弾けたあと、熱いものが頬を伝った。
次に目を開けた時、僕は救急外来の処置ベッドに横たわっていた。
左側の顔には厚いガーゼが当てられ、少し動くだけでも鋭い痛みが走る。
美咲はベッド脇を落ち着きなく歩いていた。
僕が目を開けると、彼女はすぐに足を止めた。
「悠真、いくらなんでも考えすぎだよ。さっきは私が酔ってふらついたから、蓮が支えてくれただけでしょ」
「キスも、転びそうになったから?」
美咲の表情が固まった。
それでもすぐに眉を寄せる。
「せっかくみんなで楽しく飲んでたのに、どうしてあんなふうにするの? もうすぐ店もオープンなのに。蓮だって今すごく大変なんだよ」
僕は白い天井を見上げた。
「僕は昔から、空気を悪くするだけの人間だったんだな」
美咲は何か言いかけた。
僕は目を閉じた。
「ここまで連れてきたのも、僕が警察に相談するのが嫌だったからだろ」
しばらくして、蓮も救急外来にやってきた。
額を押さえ、ひどく具合が悪そうな顔をしている。
重傷なのは僕のほうなのに、芳江さんも奈々も真っ先に蓮の周りへ集まった。
「蓮くん、大丈夫? 気持ち悪くない?」
「悠真さんも、いきなり殴ろうとするなんてひどいよ」
僕は半身を起こした状態で、黙ってその様子を見ていた。
顔も目も痛み、表情を動かす余裕すらない。
そんな時、処置を手伝っていた看護師が口を開いた。
「左眼の打撲がかなり強いです。網膜にも異常が疑われるので、眼科で詳しく診てもらう必要があります。これ以上ぶつけたり強く刺激したりしないでください」
ようやくその場が静かになった。
けれど、それも一瞬だけだった。
蓮が額を押さえてよろめき、美咲の肩に寄りかかった。
芳江さんがすぐに僕を見た。
「悠真、少しどいてあげたら? 蓮くん、めまいがするみたいだから」
耳を疑った。
美咲まで、当然のような顔でこちらを見る。
「ここ、救急の処置ベッドなんだから、少しだけ代わって。蓮、気分悪そうだし」
「僕が処置を受けてるんだけど」
「もう包帯もしてもらったでしょ?」
美咲はそう言って、僕の腕を引いた。
「外の椅子で待っててよ。蓮を少し横にさせてあげて」
急に引かれたせいで身体が崩れ、左側の顔をベッド脇の金属柵にぶつけた。
目の奥に鋭い痛みが走った。
「っ……」
僕が壁に手をついているあいだに、蓮は処置ベッドへ横になった。
「でも……悠真さん、怒りませんか」
口では遠慮しながら、毛布まで引き寄せている。
美咲は彼の肩まで毛布をかけた。
「気にしなくていいよ」
僕は壁にもたれた。
左目に当てられたガーゼの端に、じわりと赤い色が滲んでいた。
看護師がすぐに気づき、もう一度処置室へ戻るよう言った。
その後の検査で、左目には外傷性の網膜裂孔があり、剥離が進み始めていると告げられた。
眼科医からは、早めの硝子体手術を強く勧められた。
手術日は翌週の水曜日になった。
僕は廊下の椅子に座り、LINEを開いた。
「来週の水曜に手術になった。蓮の店に回した分から、当面必要な分だけでも戻してほしい」
送信した。
しばらく待っても、既読はつかなかった。
その夜、僕は医師や看護師から何度も考え直すよう言われたが、予定していた手術をいったんキャンセルし、自分の意思で病院を出た。
もう、美咲に頼って何かを待つこと自体に疲れていた。
書類に署名した時、手は不思議なくらい震えなかった。
終わらせなければならないのは、治療の予定だけではなかった。
3
翌週の水曜日。
蓮のカフェレストランがオープンした。
入口には開店祝いのスタンド花や胡蝶蘭が並び、午前中から知人や親戚が次々にやってきた。
美咲と芳江さんは新しい服で客を迎え、忙しそうに店内を歩き回っていた。
ところが、開店して間もなく洗い場のアルバイトが辞めた。
想定以上の仕事量と厨房の暑さに耐えられなかったらしい。
シンクには皿や鍋が積み上がり、店長役のスタッフが人手を探して慌て始めた。
芳江さんは厨房を一度覗いただけで、すぐに顔をしかめた。
「悠真に連絡しなさいよ」
美咲を振り返る。
「あの子、こういうのは早いでしょう。今までだって全部やってたんだから、すぐ来てもらえばいいじゃない」
美咲はそこで初めて僕のことを思い出したように、スマートフォンを取り出した。
何度電話をかけても繋がらない。
苛立った彼女はLINEのボイスメッセージを送った。
「悠真、今すぐ店に来て。洗い場が回らないの。三十分以内に来なかったら、本当に離婚するから」
送信したあと、画面に残っていた僕のメッセージが目に入った。
「来週の水曜に手術になった。蓮の店に回した分から、当面必要な分だけでも戻してほしい」
今日だ。
美咲の顔色が変わった。
店内では何人も彼女を呼んでいた。
けれど、美咲は何も答えず、そのまま店を飛び出した。
車で市立総合病院へ向かい、眼科外来の受付に駆け込んだ。
「すみません、高橋悠真の手術のことで……今日、予約が入っていたはずなんです」
受付の職員が端末を確認した。
「高橋さんでしたら、予約されていた手術はご本人からキャンセルされています」
美咲は息を止めた。
「キャンセル……?」
「医師からは早期手術を強く勧めていましたが、数日前にご本人の希望で取り消されています。その後は受診されていません」
「そんな……」
美咲はスマートフォンを握りしめた。
僕の金を管理していたのは、ずっと彼女だった。
事故の示談金も、婚姻中の貯金も、その大半を蓮の店に回していた。
「手術をしなかったら、どうなるんですか」
「網膜剥離が進めば、視力に重大な障害が残る可能性があります。状態によっては失明することもあります」
美咲の指先が受付カウンターの縁を掴んだ。
何度電話しても繋がらない。
LINEを送っても、既読にならない。
そんな時、蓮からボイスメッセージが届いた。
「美咲先輩、洗い場が本当に回らないんですけど……いつ戻ってきます?」
美咲は返信しなかった。
病院のロビーにある長椅子へ腰を下ろした。
空調の風が頭上から吹き下ろしている。
しばらくして、芳江さんから電話が来た。
「どこ行ったの? こっちは大変なのよ。蓮くん一人じゃ回らないじゃない」
美咲は長い沈黙のあと、小さく口を開いた。
「悠真、目が見えなくなるかもしれない」
「え?」
「手術しないと危ないって。予約も入ってた。でも、数日前にキャンセルして病院にも来てない」
電話の向こうが静かになった。
「だったら本人がちゃんと説明すればよかったじゃない。必要なら必要って――」
「言ってた」
美咲が遮った。
「LINEが来てた。お金を戻してほしいって。私が見てなかっただけ」
今度こそ、芳江さんは何も言えなくなった。
しばらくして、弱い声が返ってきた。
「じゃあ……とりあえず店に戻ってきたら? 今、本当に人が足りなくて」
美咲は通話を切った。
廊下の向こうで子どもの泣き声が聞こえた。
点滴スタンドを押した患者が、ゆっくり通り過ぎていく。
病院だけは何事もなかったように動いていた。
美咲の頭の中には、たった三つの言葉だけが残っていた。
網膜剥離。
手術。
失明。
一方、僕は駅からかなり離れた築古の1Kに移っていた。
六畳ほどの部屋に、小さなキッチンと古い三点ユニットバス。窓の向こうには隣のアパートの外壁が迫っていて、昼間でも薄暗かった。
今の僕には、それくらいで十分だった。
左目はほとんど見えず、右目も万全ではない。
フードデリバリーの仕事は続けられないので、配達用の電動アシスト自転車も近くのリサイクルショップへ売った。
手元に残った現金で、当面の生活だけは何とかなる。
携帯電話の番号も変えた。
古い番号を解約する直前、着信履歴には美咲から九十件以上の不在着信が残っていた。
一件もかけ直さなかった。
五日目、近くのコンビニで離婚届を印刷した。
僕は自分の欄だけ記入し、署名した。
美咲が婚前に購入したマンションや婚前から持っていた資産は、当然僕のものではない。婚姻後の共同財産については財産分与を求めることもできたが、その大半はすでに蓮の店へ流れていた。
残っているものを巡って、これ以上彼女と関わる気にもなれなかった。
財産分与を求めない旨を書いた短い書面を添え、証人欄は空けたまま、美咲の住所へ送った。
コンビニを出ると、右側から日差しが差し込んだ。
空は驚くほど青かった。
こんなに綺麗な色だったのかと、ぼんやり思った。
午後、知らない番号から着信があった。
何度か続いたので、仕方なく出た。
「高橋さんでしょうか。私、以前お勤めだった店舗の顧問をしている弁護士の佐伯と申します」
切ろうとした手が止まった。
「右目を負傷された厨房事故について、お話ししたいことがあります。相沢蓮さんの件です」
4
佐伯先生とは、駅前のファミリーレストランで会った。
三十代くらいの女性で、短い髪に濃紺のスーツ姿だった。
席につくと、すぐにタブレットをこちらへ向けた。
「事故の日、高橋さんは厨房で荷物を運んでいましたね」
「はい」
画面には、防犯カメラの静止画が映っていた。
「高橋さんが箱を持ち上げるために屈んだ時、相沢さんがコンロ脇にある油鍋の柄を外側へ向けています」
映像を拡大する。
「そのあと高橋さんが立ち上がり、肘が柄に当たって鍋が倒れた。ここまでが一連の流れです」
僕は画面を見つめた。
画像は鮮明ではない。
それでも、蓮が鍋の柄に触れ、僕のいる方向へ向きを変えているのは分かった。
「故意だったってことですか」
佐伯先生はすぐには頷かなかった。
「現段階で、故意に傷害を与えようとしたと断定はできません。ただ、調理中に鍋の柄を通路側へ向けるのは通常の安全な操作とは言えません」
彼女は少し間を置いた。
「しかも、相沢さんは直前に高橋さんの位置を確認しています。この映像は、少なくとも単純な不注意だけでは説明しにくい材料になります」
僕は椅子にもたれた。
右目を失いかけた始まりまで、ただの事故ではなかった。
怒りが爆発すると思っていた。
けれど実際に湧いてきたのは、妙に冷たい虚しさだった。
「もう一つあります」
佐伯先生が続けた。
「相沢さんの店ですが、今朝、保健所の立ち入りが入っています。衛生管理上の問題が複数見つかり、営業をいったん止めるよう指導されたそうです」
僕は何も言わなかった。
彼女もそれ以上は勧めなかった。
帰り際、厨房の映像データを僕のメールアドレスへ送ってくれた。
「今後、刑事・民事のどちらで責任を追及するにしても、重要な資料になる可能性があります。どうするかは、高橋さんが決めてください」
「ありがとうございます」
夜、アパートへ戻った。
暗い部屋でスマートフォンの画面だけが白く光っている。
佐伯先生から届いた動画を保存した。
しばらくすると、別の通知が表示された。
「シンガポール行き便のeチケット発券が完了しました」
スマートフォンを伏せた。
翌朝、最低限の荷物だけを持って、この街を離れた。
その頃、美咲のもとには僕からの郵便が届いていた。
蓮の店は、シャッターに「臨時休業」の紙を貼っていた。
保健所の職員はすでに帰ったあとだったが、店の前には事情を聞きつけた人が集まり、スマートフォンを向けている。
「絶対、誰かが嫌がらせで通報したのよ」
芳江さんは店先で苛立っていた。
「じゃなきゃ、開店したばかりでこんなことになるわけないでしょう」
蓮は青い顔をしたまま黙っている。
美咲は聞いていなかった。
封筒から取り出した書類を見て、手が止まった。
離婚届。
夫の欄には、僕の署名がある。
添えられていた書面の日付は五日前だった。
つまり、僕は病院を出てすぐに離婚を決めたことになる。
美咲は古い番号へ電話をかけた。
「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」
同じ案内が流れる。
彼女は離婚届を封筒へ戻し、そのまま歩き出した。
「どこ行くの?」
「悠真を探してくる」
「探してどうするのよ。離婚したいって言ってるのは向こうじゃない」
美咲は立ち止まらなかった。
僕がよく配達していたエリアへ行き、コンビニや飲食店で聞いて回った。
以前よく顔を合わせていた配達員にも連絡した。
「悠真さん? もう配達やめてますよ。自転車も売ったって聞きましたけど」
それ以上のことを知る人はいなかった。
夜になり、美咲は車の中でスマートフォンを開いた。
地域情報を扱うSNSアカウントに、蓮の店の動画が上がっていた。
「開店直後に保健所の立ち入り。営業ストップになったカフェ」
コメント欄には、蓮の過去まで書き込まれ始めている。
以前にも知人と共同で店を始めようとして金銭トラブルになったらしい、という話も出ていた。
さらに、美咲のことまで特定されていた。
「この人、前に病院で怪我した旦那さんをベッドからどかして、別の男を寝かせてた人じゃない?」
「え、目を怪我してた旦那さん?」
「その男、弟じゃなくて大学の後輩らしいよ」
美咲の指が止まった。
誰かが短い動画を投稿していた。
あの日、救急外来の待合スペースにいた患者の家族が、騒ぎをスマートフォンで撮影していたらしい。
映像には、美咲が僕の腕を引き、処置ベッドから立たせる場面が映っていた。
僕は壁へ手をつき、その向こうでは蓮が当然のように横になっている。
コメント欄は炎上していた。
「旦那さん、目を怪我してるじゃん」
「なんで後輩を寝かせるの?」
「これでただの先輩後輩って無理があるでしょ」
そこへ蓮からLINEが届いた。
「美咲先輩、店が止まって本当にまずいです。運転資金が足りないんですけど、少しだけ貸してもらえませんか」
美咲は返信しなかった。
代わりに、過去のトークを遡った。
二十万円。
三十万円。
五十万円。
八十万円。
設備、内装、仕入れ、保証金。
三か月のあいだに、美咲が蓮へ回した金は二百万円を優に超えていた。
僕が右目の治療と休業中の生活のために残していた金も、その中に消えていた。
そして僕が彼女に頼んだのは、一度だけだった。
「来週の水曜に手術になった。蓮の店に回した分から、当面必要な分だけでも戻してほしい」
催促もしなかった。
二度目もなかった。
5
一週間後、厨房の防犯カメラ映像がネット上に出回った。
蓮が鍋の柄を通路側へ向ける様子は、短い映像でも十分に分かった。
僕が屈んで箱を持ち上げようとしている。
蓮が一度こちらを見る。
鍋の柄を回す。
僕が立ち上がり、肘が当たる。
油鍋が傾く。
動画はXを中心に拡散した。
店の炎上と重なり、蓮の名前まで広く知られるようになった。
美咲は芳江さんの家で、その動画を何度も見返していた。
「そんな……蓮くんが、こんなことするわけ……」
芳江さんの声は力を失っていた。
「見て」
美咲は画面から目を離さなかった。
「鍋を動かす前に、悠真がどこにいるか確認してる」
誰も何も言えなかった。
美咲は立ち上がり、上着を手にした。
「どこ行くの?」
「蓮のところ」
それだけ言って家を出た。
蓮が住んでいたのは、店からさほど離れていないワンルームマンションだった。
インターホンを鳴らすと、少ししてドアが開いた。
「美咲先輩? どうしたんですか、急に」
美咲は玄関から動かなかった。
「鍋の柄、わざと動かしたの?」
蓮の顔から笑みが消えた。
「何の話ですか」
「動画、見たよ」
美咲はまっすぐ彼を見る。
「あの日、悠真のほうへ鍋の柄を向けたよね。あれ、わざと?」
蓮はドアノブを握ったまま、視線を落とした。
冷蔵庫のモーター音だけが聞こえている。
「答えて」
長い沈黙のあと、蓮が小さく息を吐いた。
「こんなことになるとは思ってなかったんです」
美咲の表情が固まった。
「少し怪我すればいいと思っただけです」
蓮は顔を上げた。
「配達もできなくなれば、先輩だって分かると思った。あの人じゃ、まともな生活なんてできないって」
「私と別れさせたかったの?」
「だって、釣り合ってないじゃないですか」
声に苛立ちが混じり始める。
「いつも疲れた顔で働いて、帰ってくれば油の匂いがして。金もない。人付き合いもできない。先輩があんな人と一緒にいる意味なんて――」
「もういい」
美咲が遮った。
そこで初めて、いくつもの記憶が繋がった。
蓮とは大学のサークル時代に知り合っていた。
二学年下の、人懐っこい後輩だった。
卒業後は疎遠だったが、半年前のOB・OG会で再会した。
久しぶりに会った蓮は以前より話が上手くなり、「自分の店を持ちたい」と目を輝かせていた。
美咲は彼を家族に紹介した。
蓮は来るたびに手土産を持ってきた。
芳江さんの話を楽しそうに聞き、奈々を褒め、食事のあとは自然に皿を洗った。
対して僕は、複数の仕事を掛け持ちしていた。
帰宅する頃には疲れ果て、義母と長く世間話をする余裕もなかった。
いつの間にか美咲まで、愛想がよくて人前に出しても恥ずかしくない蓮のほうが、僕よりも立派に見えるようになっていた。
蓮が生活の中へ入り込んでくることを、美咲は止めなかった。
店の中心から僕が押し出されていくことも止めなかった。
気づいた時には、蓮は僕と美咲の間に立っていた。
そして、その距離を許したのは美咲自身だった。
「悠真、失明するところだったんだよ」
蓮は黙った。
「手術が必要なのに、私はあの人の金をあなたの店に使った。病院では怪我してる悠真をベッドから立たせて、あなたを寝かせた」
美咲の声が低くなる。
「そのあと悠真は番号を変えて、離婚届だけ送って消えた。今どこにいるのかも分からない」
「美咲先輩、俺、本当にそこまで重くなるとは――」
「来ないで」
近づこうとした蓮を、美咲は一歩下がって拒んだ。
「あなたが壊したのは、悠真の目だけじゃない」
そこまで言って、言葉が止まった。
壊れたのは、自分の家だった。
裕福ではなかった。
大きなマンションでも、高級車のある生活でもなかった。
それでも毎日帰る場所があり、遅くなれば待っている人がいた。
その生活を壊したのは、蓮だけではない。
廊下から足音が聞こえた。
追ってきた芳江さんだった。
「美咲、ちょっと待って。蓮くんだって、本当にこんなつもりじゃ――」
美咲は振り返った。
「お母さん、もう庇わないで」
6
シンガポールの会社は、僕の治療についてもサポートしてくれた。
現地の医療保険と会社の補助制度を使い、専門医のいる眼科病院で診察を受けた。
左目の網膜剥離は、日本を離れるまでのあいだにさらに進行していた。
一度目の硝子体手術だけでは状態が安定せず、再手術が必要になった。
入院生活は単調だった。
診察を受け、点眼し、横になり、また検査をする。
ガーゼが外れる日、僕はベッドのシーツを握っていた。
医師に促され、ゆっくりと左目を開けた。
最初に見えたのは光だった。
そのあと、ぼやけた色の塊が少しずつ輪郭を持ち始める。
白い天井。
カーテンの皺。
ベッド脇のテーブル。
窓の外に広がる空。
見えた。
同室の患者が気づいて、「よかったな」と笑った。
僕も小さく頷いた。
思ったほど感情は動かなかった。
見えなくなる恐怖も、手術も、回復までの時間も、一人で越えてきた。
誰かに分かってもらう必要は、もうなかった。
退院後は、そのまま新しい仕事に入った。
朝六時には開発キッチンに入り、試作品の仕込み、レシピ調整、試食、記録を繰り返す。
夜遅くまで残る日もある。
それでも、以前のようにいくつもの仕事場を行き来し、家に戻ってまで誰かの機嫌を窺う生活より、ずっと楽だった。
三か月後。
左目の視力は0.6程度まで回復していた。
右目にも後遺症は残っていたが、日常生活には大きな支障がないところまで安定した。
ある日の午後、忙しい時間帯が終わり、僕は店の裏手に出ていた。
日本の番号から電話がかかってきた。
知らない番号だった。
一度切れた。
またかかってきた。
短時間に何度も続いたので、最後には出ることにした。
「もしもし」
しばらく何も聞こえなかった。
やがて、聞き覚えのある声がした。
「悠真……」
美咲だった。
僕は黙っていた。
「ずっと探してた。番号も変わってるし、どこにいるかも分からなくて……警察にも行方不明者届を出した」
声に疲れが滲んでいる。
「でも、事件や事故に巻き込まれた形跡は今のところないって言われて……」
僕は壁際に置かれた灰皿で煙草を消した。
「離婚はもう成立してる。何の用?」
向こうが黙った。
「ごめんなさい」
しばらくして、美咲が続けた。
「蓮のこと、全部分かった。鍋の柄を動かしたのも認めた。目……今はどうなの?」
僕は答えなかった。
「離婚届、出した?」
「出したよ」
僕が送った離婚届に美咲が記入し、成人二名に証人欄を書いてもらったうえで、市役所へ提出したらしい。
「でも、一度だけ会えないかな」
美咲の声が小さくなった。
「本当に、一度だけでいいから」
「会う必要はない」
「悠真――」
「最後に一つだけ言っておく」
風が木の葉を揺らしていた。
僕は日差しの落ちる地面を見つめながら、静かに口を開いた。
「病院で、美咲が僕を処置ベッドから引っ張った時、僕は左側を金属柵にぶつけた」
電話の向こうは静かだった。
「あとで医師に言われた。最初の外傷でできていた網膜の裂孔が、二度目の衝撃で悪化して、剥離が広がった可能性が高いって」
美咲は何も言わない。
「僕が治療と生活のために残していた金を、蓮の店に使った。怪我している僕を立たせて、蓮を寝かせた。そのあと僕を一人にした」
少し間を置いた。
「もう謝らなくていいよ。謝られても、何も戻らないから」
遠くで食器の触れ合う音がした。
「目はかなり回復した。こっちで手術も受けたし、仕事も始めた」
僕は左目で、陽の当たるレンガの壁を見た。
色も、形も、はっきり見える。
「これからの僕の生活に、美咲は関係ない。もう連絡しないで」
そのまま電話を切った。
画面が暗くなる。
胸の中に、勝ったような気分はなかった。
後悔もなかった。
ただ、ようやく終わったのだと思った。
7
あの電話のあと、美咲から連絡が来ることはなかった。
翌日には、僕が使っていた番号も解約した。
切れるものは、全部切った。
過去の結婚生活と同じように。
一方、日本では蓮の店を巡る騒動がしばらく続いた。
厨房の映像、救急外来で撮影された動画、保健所の立ち入り。
いったんネットに出たものは、何度も掘り返された。
美咲は以前住んでいたマンションを出た。
駅から離れた築古の1Kに、一人で住むようになった。
玄関を開ければすぐ狭いキッチンがあり、その奥に六畳ほどの部屋がある。
窓の外に見えるのは、隣の古いアパートの灰色の壁だった。
職場でもSNSの騒ぎが知られるようになった。
会社から事実確認と業務への影響について面談を受けた。
直接退職を命じられたわけではない。
それでも周囲の視線に耐えられなくなり、美咲は自分から退職届を出した。
夜、美咲は部屋の床に座り、スマートフォンの通話履歴を開いていた。
僕と最後に話した電話。
三分四十二秒。
その間に僕が言ったことを、美咲は何度も頭の中で繰り返した。
網膜の裂孔が悪化した。
治療のための金を蓮に使った。
病院で一人にした。
あの日のことを思い出す。
僕の腕を引いた感触。
僕が金属柵にぶつかった音。
左目のガーゼに滲んでいた赤い染み。
本当は見えていた。
ただ、気にしなかった。
あの時の美咲にとっては、僕の傷よりも、蓮が気分悪そうにしていることのほうが重要だった。
その一度の判断だけが全てを壊したわけではない。
同じような選択を、彼女は何度も繰り返してきた。
部屋の明かりはついていなかった。
窓から入る街灯の黄色い光だけが、白い壁を照らしている。
美咲は小さなテーブルの上に置かれた紙袋へ手を伸ばした。
中には、昔の写真が入っていた。
婚姻届を提出した日に、市役所の前で撮った一枚。
僕は白いシャツを着て、美咲の隣に立っている。
少し緊張したような笑い方だった。
あの頃は、両方の目がまっすぐ前を見ていた。
写真を見ているうちに、昔のことが次々と浮かんだ。
結婚して最初の冬。
美咲が残業で遅くなった夜、僕は配達用の電動自転車で駅まで迎えに行った。
後ろには保温容器を積み、中には温かいスープを入れていた。
風の冷たい夜だった。
僕は自分の手袋を外して、美咲に渡した。
「冷えた手でいきなり熱いもの飲むとつらいから、先に手を温めたほうがいいよ」
自分の指は真っ赤になっていた。
二年目の誕生日。
美咲が少し高いワンピースを欲しがった。
僕は何も言わず、その月は一日も休まず、いつもより多く配達に出た。
月末に金を渡した時、手首には湿布を貼っていた。
美咲はワンピースを買って喜んだ。
僕の手首については、翌日には忘れていた。
そんなことを、当時の美咲は大したことだと思っていなかった。
今になって、一つずつ思い出す。
すぐに胸を切り裂くような痛みではなかった。
もっと鈍く、逃げ場のない痛みだった。
息をするたびに、失ったものを思い出させる。
美咲は写真を紙袋へ戻した。
スマートフォンのバッテリーが減り、やがて画面が完全に消えた。
黒い画面には、痩せた自分の顔が映っている。
もう新しいメッセージは届かない。
灰色になった僕のアイコンが、再び通知欄に現れることもない。
僕が彼女に助けを求めたことは、ほとんどなかった。
一番必要だった時も、一度しか頼まなかった。
美咲は、それを見なかった。
階下から夫婦喧嘩の声が聞こえてきた。
妻らしい女性が、夫の帰宅が遅いと怒っている。
男は仕事だったと反論していた。
数分すると声は聞こえなくなった。
きっと部屋に戻り、また同じ暮らしを続けるのだろう。
どこにでもある生活だった。
美咲にも、かつてはあった。
街灯の明るさは変わらない。
夜だけが、少しずつ深くなっていく。
美咲は膝を抱え、その上に額を伏せた。
狭い1Kの部屋を、静かな暗闇が満たしていく。
もう、この部屋のドアを叩く人はいなかった。




