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ノクティアは芸術と娯楽の国だ。
誰もが羨む“平和な王国”。
唯一の闇があるとすれば、
花の名を冠した闘技場《ネリネの円環》を誇ることだろうか。
"勝利が全て。勝てば望みは全て叶う"。
その言葉に心惹かれ、闘技者になるためにネリネの門を開く者も多い。
ネリネの門を越えた先には、地上に天を覆うほど巨大な闘技場がそびえたつ。
その影の下、地下へと続く階段がひっそりと口を開けていた。
その階段を降りていくと、光は失われ、石と鉄に囲まれた地下の居住地が広がっている。
そこに、闘技者と世話役たちの生活が押し込められていた。
闘技者には、望みを抱いて門を叩いた者だけでなく、
“平和なノクティア”の中で
居場所を失った荒くれ者や孤児も多く含まれていた。そうした者たちは闘技奴隷と呼ばれていた。
望みを抱く者の理想とは裏腹に、実質は強者が傍若無人に振る舞う地となっていた。
力を持たない者は、強者に"訓練"と称し袋叩きにされる。"訓練"で命を落とす者もいる。
特に孤児は強者の格好の的であった。
ネリネの居住地、地下の奥の奥にある
誰も使わなくなった古びた通路。
地下に張り巡らされた水源を受け止める水桶と古びた電灯だけがある。
そこは孤児アルドにとって殴られることも、
命じられることも、何も起こらない空白だった。
アルドは乳児の頃、「アルド」とだけ書かれた毛布に身をくるまれ、その身一つでネリネの前に捨てられていた孤児だった。
多くの孤児と同じように、"訓練"と称して日々ならず者に滅多打ちにされる。
しかし他の孤児と違い、彼は決して泣き喚くことも、現状を嘆くこともしなかった。
ノクティアの多くの民が持つ黒褐色の髪に、
淡く光る、しかし宝石とは呼べない濁った琥珀色の瞳でただ生きているだけだった。
普段通りの"訓練"という名の扱きが一区切りつくと、アルドは誰に言われるでもなく、そこへ向かった。
逃げているわけでも、期待しているわけでもない。ただ、何も起こらない場所に身体が勝手に向かうだけだった。
その日、アルドが代わり映えのない虚空を眺めていると布の擦れる音がした。
洗濯物の籠を抱えた幼い少女が、
通路の奥から現れた。
首元に走る傷、頬に残る殴痕。
それでも彼女はアルドと目が合うと笑った。
まるで当たり前のように籠を置き、
通路の端にある水桶の水で布を濡らし、アルドの腕に触れた。
理由もなく。説明もなく。
ただ、そこに傷があったから。
アルドは何も言わなかった。
拒む理由も、受け入れる理由もなかった。
ただじっと少女の手を見つめていた。
やがて遠くで低い鐘の音が鳴る。
少女は立ち上がり、もう一度だけ彼を見て笑った。
「またね」はない。
闘技者も世話役も翌日生きて会える確証はどこにも無いから。
それがこの地下の流儀だった。
翌日、少女は来なかった。
次の日も、その次の日も。
それでも気づけばアルドは同じ時間に、
同じ場所へ行った。
少女は世話役だ。
世話役の仕事は洗濯だけでない。
救護、清掃、調理と多岐に渡る。
来るわけがないと、思っている“つもり”なのに。
待っている"つもり"など、なかったはずなのに。身体だけが、あの通路を覚えていた。
数日後、また布の音がした。
少女はあの日と何も変わらず、
傷だらけのアルドににこりと笑い手当てをした。
その日から、会える日と会えない日が、
交互に積み重なっていった。
言葉はなかった。約束もしなかった。
少女は喋れない。
アルドも文字を知らない。
だから彼女は、地面に下手な絵を描いた。
本当に驚くほど下手だった。
指で示し、口を動かし、身振りで伝えた。
アルドは、それを“読む”ようになった。
誰にも教わらず、
誰にも共有できない2人だけの言葉。
「お前、名前なんて言うの。」
何度目かの手当ての時
アルドは初めて少女の名前を聞く。
キョトンとした傷だらけの顔で、
いつものように微笑んだ彼女は
【ミア】と声にならない声でアルドに伝える。
「ミア。」
アルドが呼ぶと彼女は頷き、アルドに指を指す。
「アルド。」
ぶっきらぼうに伝えてもミアはキラキラした瞳で笑い、口だけで【アルド】と呼ぶ。
その瞬間、アルドの胸に何かが芽生えた。
娯楽の国、ノクティアでいつも傷だらけの子供の唯一の娯楽だった。




