姉が異世界で王妃になったらしい
「ちくしょう!側妃なんかとイチャイチャしやがって!」
結婚披露宴でしか見かけないようなドレスを纏った姉が、我が家のダイニングテーブルの横に立ち、缶ビールをあおって愚痴を吐く。
築四十年木造二階建て。
リビングダイニング合わせて十四畳。片付け魔の母のおかげでわりと片付いているこの部屋だが、ドレスで家の中を歩かれるのは御免被りたい。
だってせっかくの綺麗なドレスが、ハタキかモップに様変わりしてしまうから。
服飾関係に明るくない私でさえ、上質な絹なんだろうなとわかるドレス。
首からは肩こりが酷くなりそうなほど宝石のついたネックレス。
耳たぶが伸びるんじゃないか?と心配になるほど飾りがついたイヤリング。
髪も結い上げ、よく落ちずに収まっているな、と感心してしまうような髪飾り。こちらももちろん宝石付き。
当然指輪も立派だ。
新婦でもないのにこんな格好をしてビールを飲んでいるのは私の姉梨子である。
今はリュクセイロインという国の王妃をしているらしい。
数ヶ月前に突然行方不明になった姉が、数週間前にフラリと帰ってきて突然そんなことを言い出したから、両親と私は、『頭がいかれたのか?』『医者は何科に?』などとこっそり相談し合った。
その時もドレスを着ていた姉は、『言っておくけど、この地球上にはリュクセイロインなんて国無いから。奈々美なら知っているかもしれないけど、所謂異世界転移ってやつよ』なんてさらりと言ってのけた。
私はその単語自体は知っているし、どんな現象かも知っていたけど、それはラノベの中の創作だということも知っていた。
ヤバいな。けっこう仕事で追い詰められていたみたいだし、イカれた変な宗教にハマったか、と私は平静を装いながらも内心焦っていた。
母も動揺していたのか、キッチンに行って麦茶を用意してきたが、冷たい麦茶をワイングラスに入れていた。
姉はそれに関して突っ込むこともせず、クイッと飲むと、『やっぱり麦茶おいしいわぁ』とおかわりを要求していた。
姉は麦茶を飲んで一息つくと、行方不明になってからの話をしてくれた。
異世界転移をした姉は、聖女としての仕事をし、リュクセイロインの王太子と恋愛結婚した。
それからすぐに妊娠し、無事に跡取りとなる王子を産んだ。
どうやら聖女は異世界との移動ができるようで、それに気がついた姉は、『ちょっと実家に説明してきます』と置き手紙を置いてこっちに転移して来た、と話した。
その転移先との時間の流れが違うからなのか、姉が出産したというのが妄想なのか、とまだ疑心暗鬼だった私を見た姉は、『証拠を見せてやる』と言っておもむろにドレスを脱ぎ始めた。
ちゃんとコルセットまでつけていて、それは姉の指示のもと私が紐を解いて脱ぐのを手伝ったのだが、その段階で私はなんとなく姉の話は事実かもしれないと思い始めていた。
コルセットなんて見たのは生まれて初めてだし、こんな物を用意しているお店もそう見つかるものじゃないと思う。
母も近くで、『へぇ』『ほぉ』と見ていたが、父はリビングから追い出されていたため何を思っていたかわからない。
姉が証拠として見せてくれたのは妊娠線というやつだ。
下腹部に縦の肉割れ線がいくつかある。
こんなものはこの短期間でつくとは思えなかったし、母も妊娠線だと断言していた。
もう一度ドレスを着るのは不可能だったので、姉の部屋からTシャツとジーンズを持ってきて着替えを促したが、ジーンズがお尻でつかえて入らなくなっていた。
仕方ないので私のジーンズを渡したらちゃんとはけた。
ちょっと悔しいから駅前にできたスポーツジムに通うことを決意したけど、恥ずかしいから伝えていない。
それからまた父も交えて話を再開しようとしたのだけど、姉の足元で光が円を描き始め、『ヤバい、もう帰らないと。また帰ってくるかもしれないから、心配しないでね』とだけ言い残して姉は光の中に消えていった。
それが今から数週間前のこと。
案外早く帰ってきたな、と思ったが、どうやら今回は覚悟の家出らしい。
姉が産んだ王子は現在十五歳。
当時王太子だった姉の夫が国王に即位して十周年の祝いの年なので、姉はその式典やら祝宴やらの手配でてんやわんやしている最中に、夫がこっそりと側妃を迎えたのだと言う。
そして夫と側妃はまるで見せつけるかのように、姉の視界に入るところでイチャイチャするので、怒りに任せて家出してきたらしい。
所謂、『実家に帰らせていただきます!』というやつだ。
この場合、姉が行方不明になってから数ヶ月しか経っていないのにリュクセイロインという国で姉は十六年以上生活してきた、とかそういうことは突っ込まない。
姉がそれだけ長く生きているのに、見た目は行方不明になった時とまったく変わらないことも突っ込まない。
ちなみにリュクセイロインという国は竜族の治める国で、姉の見た目が変わらないのは竜族が長命ということが関係しているのか、それとも姉の体内時計が地球で生活してきた名残なのかもわからない。
長いものに巻かれるタイプの私は、わからないことは、『へぇ、そうなんだぁ』といったん受け入れることにしている。
それにしても側妃か、と何ともいえない気持ちで姉を見る。
姉は五百缶を既に空にし、バキバキと缶を手でつぶすと冷蔵庫からもう一本出してプルタブを引く。
それ、北海道限定販売のやつ。お父さんが楽しみにとっておいたのに、という説明は既に遅く、姉はまたゴクゴクと飲み始めた。
たぶん、こうしている間も姉が嫁いだリュクセイロインという国では時間がかなり早く流れているはずだ。
王妃が居なくなったと騒ぎになっているかもしれないし、もしかするとその側妃はもう妊娠してるかもしれない。
姉には教えていないが、姉が勤めていた会社は、姉が行方不明になった直後に二度目の不渡りを出して事実上倒産している。
いろいろとブラックだったようで、どこからも助け舟が無かったらしい。
よって姉は、世間的には単なる実家警備員ということになるのだろう。
だから何を心配することもなく、姉はここに居て平気なんだけど、はたしてリュクセイロインが平気かはわからない。
姉はまた、『ドレスを脱がせて』と私に背中を向けるので、私はそんなことを考えながら手を動かした。
今日の着替えは姉のパジャマだ。
まだ昼過ぎだけど、私のダイエットの成果はまだ出ていないから、私の服は貸したくない。
さすがにパジャマは着れたので、姉はドレスを椅子の背もたれに無造作に掛けるとその隣の椅子に座った。
ビールで顔を赤くしている姉は、首の後ろに手を回し、ネックレスを外すと無造作にテーブルに置く。
イヤリングも指輪も同じ。
姉はこういう高価なものに囲まれた生活が日常なんだ、と思わせる行動だ。
しかし、あまりにも現実離れした宝飾品を見た私は、『へぇ、すごいねぇ』と感心してあまり深く考えないようにした。
「じゃあ、どうするの?もうあっちに帰らないの?」
私の疑問に姉は言葉を詰まらせたが、『まあ、こっちに戻ってくるなら早いほうが良いよねぇ』と遠くを見た。
その様子に、『なんだ。まだ旦那さんのこと好きなんじゃん』とは思ったけど、なおのこと側妃と一緒にいる夫を見るのは辛いだろう。
こっちの感覚で言ったら、夫が愛人とイチャイチャしているんだから。
姉は何やら考え込んでいる。
私は声をかけるべきではないと判断して、ふと時計を見ると姉がこっちに帰ってきて五十分が過ぎたところだった。
さて、あっちではどのくらい時間が過ぎているのだろうか。
こっちに帰ってくる気があるなら早いほうが良いけど、あっちに戻るならもっと早いほうが良いと思う。
姉はいつどんな結論を出すのだろうか。
私は静かに待つつもりだった。
しかし姉の背後に強い光がさし、知らない人が現れたことで状況は一変する。
「リコ!私が悪かった。もうあの女は追い出したから、一緒に帰ろう」
「あら、国王陛下ではございませんか」
「ああ、もうそんな他人行儀な呼び方などしないでおくれ。それにリコは誤解している。あの女は側妃ではない。宰相が側妃として召し上げろとうるさく言うので仕方なく付き合ったが、あんな性悪女は側妃になどしない。いや、側妃も愛妾も持つつもりはないし、持たないと誓う」
「あら、そうですの?私の見えるところでイチャイチャしてらしたのに」
「あの女が散歩に行こうとうるさいから仕方なく隣を歩いただけだ。それに、あの女が立ち止まる所はリコが見ている場所ばかりだったと後から知った。すまなかった。数回我儘に付き合えば終わるだろうと安易に考えた私の落ち度だ」
「へえ。そうですか」
「リコ、お願いだから一緒に帰ろう。お前がいないのは辛すぎる」
「私も陛下があの女とイチャイチャしているのを見た時は辛かったんですけどね」
「本当にすまなかった」
姉は缶ビールをクイッとあおり、カンッと乱暴に机に置いた。
ああ、テーブルが傷つく、と考えた私はやはり一般庶民だからだろう。
異世界の王族は違うことが気になったようだ。
「ずいぶんと軽そうな金属だな」
アルミ缶のことをさしているのだろう。異世界にはないのかな、と考える私の目の前で、姉はおもむろに立ち上がると冷蔵庫から新しい缶ビールを二本取り出した。
それ、お父さんの······
という言葉は飲み込んだ。
姉が見知らぬ男性(姉の夫でリュクセイロインの国王らしい)に、『どうぞお持ちになったら?』と二本とも手渡したからだ。
「こ、これは何だろうか」
「ビールです」
「ビール?」
「缶に入っているから缶ビールと呼ばれています」
「そ、そうか」
「············」
「············」
沈黙が苦しい。
私はどうしたら良いのだろうか。
どうにもいたたまれなくて、私は姉の夫をチラチラと見た。
二メートルはありそうな程の背丈。見た目は王道のいい男。顔はハリウッド俳優も真っ青なほど良いし、着ている服はベルサイユのナンチャラに出てくるようなやつで、やはりこの世界のものでは無さそうだ。当然か。
そんないい男が姉に懇願している姿は何とも情けないが、たぶん長女気質の姉の尻に敷かれているのだろう。
パッと見は可愛らしくて庇護欲そそられる感じなのに、『私にまかせなさい!』と頑張る姿にこの国王も惚れたのだろうな。
実際には初めて見る、『実家に帰った嫁と、謝り倒して一緒に帰ってもらいたい夫』という光景に、私は舞台でも見ているかのような感覚でいた。
きっと、国王の服装が舞台衣装のようにしか見えなかったということも、現実とは思えなかった理由の一つだと思う。
さて、私がそんな感想を頭で考えている間に、姉がこっちに来て既に一時間は経っていた。
あっちではどのくらいの時間が過ぎているのだろうか。
国王は姉から渡された缶ビールを二本持ったまま立ち尽くしている。
温くなるから飲まないなら冷蔵庫に戻して欲しいな、お父さんのだし、とは思ったが、駅の近くで喫茶店を営んでいる両親はまだ帰ってこない時間だ。
父にはとりあえずビールは諦めてもらって、姉が帰ってきた証拠だけは残しておこうか、と思った私は、気まずい空気を醸し出す二人をスマホで撮った。
「あっ!それ新しいやつ?機種変したの?」
「うん」
「良いなあ。私もスマホ持っていこうかなぁ」
「あっちじゃ使えないんじゃないの?ってか、帰る気あるなら早いほうが良いんじゃない?」
「っ!そうだ!帰ろうリコ。早くしないと式典が始まってしまうし、リコが気に入らないと言っていたシュネーマン公爵令嬢がルクエルの婚約者に決まってしまうかもしれない」
「えっ!それは嫌!」
「ならば帰ろう。今ならまだ間に合うはずだ」
「そうね。えっと、奈々美······」
「お父さんたちには一度来たけどすぐ帰ったって言っておくよ」
「ごめん。ありがとね」
「いいえー」
姉が帰ると決めてから二人が転移で消えるのは早かった。
あれはたぶん国王も、転移であっちとこっちを自由に行き来できる能力があるということだ。
姉が話している最中に二人は光に包まれていたから。
それにしても、と私はテーブルに置かれた忘れ物を見てため息を吐く。
このとんでもない宝飾品だけは持って帰ってほしかった。
こんな物をどこかに売りに出したら、絶対警察からどこぞの窃盗団と繋がっていると疑われてしまう。
かといってタンスに入れておくのもなんだか怖い。
さて、これに関しては両親に相談だ、と逃げを図った私は、とりあえずバスタオルをかけて宝飾品を隠し、姉が残していった缶ビールを片付けた。
それから三十分後。
またまた既視感のある光が差したと思ったら、姉が座っていた椅子に封筒が現れた。
今度は手紙だけを送ったらしい。
そこには、こっちの二週間があっちの一年に相当すること、式典には間に合ったこと、忘れていった宝飾品は、好きに売ってほしいとあった。
こっちの二週間があっちの一年。
ざっと単純計算したけど、こっちの一年はあっちの二十四年ということらしい。
それなら数ヶ月いなくなった姉が妊娠し、出産した子が十五歳でも納得できる。
そこでふと気になったのは、今回姉が家出していたのはこっちで一時間強。
こっちの一週間があっちの半年、あっちの百八十日間がこっちの七日間。
············そこまで考えて、それ以上計算するのはやめた。
間に合ったのだから良しとしよう。
それからも姉は頻繁に手紙をくれた。
二ヶ月後届いた手紙には、研究チームの努力の結果、同じ味のビールが飲めるようになったと書かれていたのは驚いたし少々呆れた。
姉に会えないのは淋しいし、こっちからは連絡を取る手段がないのは残念だけど、なんとなくそのうちまた帰ってくるような気がしている私は、手紙が汚れないうちにテレビ台の引き出しにしまった。
テレビの横には、プリントアウトした姉と国王の写真が飾られている。
その二人を見ていた時、また椅子のあたりが光って手紙が届いた。
中を確認すると、『モバイルバッテリーと私のスマホを用意しておいて。モバイルバッテリーは多いほど嬉しい』とだけ書いてある。
これは?取りに来るってことなのかな?
なんとなく数分後には姉が来そうな気がして、慌てて姉と私のモバイルバッテリーを充電するためにリビングを出た。




