第3話 過去からの使者
その頃、三越近くの居酒屋で元同僚とよく飲んだ。
彼は営業畑だった。上司が同じような出版社を神田に起ち上げ、引き抜かれていた。その会社では小杉が合流してくるのを期待していたらしく、社長夫人の専務に何かにつけ面倒をみてもらった。
「どうですか。一緒にやりましょうよ」
元同僚は酒の席で何度も誘った。
急増する一八歳人口を背景に、高等教育機関では学生の争奪戦が激しくなっていた。ビジネスの好機とみて参入する業者も多く、業界は無秩序、ブラックボックスと化していた。
「悪いけど、もう学校案内集はやらないよ」
袂を分かったことを、彼に告げた。それでも、彼は辛抱強く、池袋まで出張ってきた。
細々と編集プロダクションを続けていた。
薄暗い高架下を渡り、しばらく歩くと豊島公会堂。その前に公園がある。公園を斜めに横切っていて、声をかけてきた者があった。
呼ばれた名前に反応し、小杉の足がピタッと停まった。もはや、人違いを装って、やり過ごすことはできなかった。
彼女に再会するのは一〇余年ぶりだった。何かの用事で上京したのだろう。
京都時代に見ていた彼女と少しも変わっていなかった。大柄で活発、長髪をなびかせ、バイクを乗り回していた記憶がある。
喫茶店に入った。近況を訊かれた。小杉は職業教育、専門教育に関心を持っていて、実際に啓発活動に携わっていることも話した。
小杉の顔を真正面から見つめ、髪を撫でながら、話を聞いていた。
「中学から行く高等専修学校(注三)という学校があるのですが、なかなか理解が得られないですね」
小杉は学校教育の課題について提起したつもりだった。
「そりゃそうよ。あんなところ行け言うたら、差別やって問題になるよ」
小杉は、これから予定が入っている旨を告げ、腰を上げかけた。
「カンパしてよ」
彼女は当然のように要求した。
小杉は一万円札をテーブルに置いた。
「少ないけど、おつりはカンパするから」
小杉は居酒屋に直行した。
まるで進化から取り残されたガラパゴス諸島の生物だった。
長年の胸のつかえが取れた。もう、京都時代のことは忘れてしまえる気がした。
当時、理論が間違っているとは思わなかった。ただ、組織には自分の居場所がなかった。大学のクラスでも居づらさは感じていた。何もかも捨てて飛び込んだつもりが、距離感は広がる一方だった。
電車のドアが閉まるアナウンスが流れていた。
(今、降りなければ、自分はボロボロになってしまう)
ふと、そんな思いに取りつかれた。小杉は閉まりかけたドアに手をかけ、ホームに飛び出していた。
「戻ってくるように伝えてください」
仲間から、兄の家に電話があったと聞いた。
翌年の四月、大阪の小さな出版社に入社した。
京都へは足を向けていない。東京転勤を希望したのは、京都から遠ざかりたいという気持ちも手伝っていた。
(自分は敗残者なのだ)
仲間を思い出すたびに、自らに烙印を押していた小杉だった。
(注三)高等専修学校:専修学校(学校教育法第一二四条 昭和五一年創設)のうち、中学卒を入学資格とするもの(高等課程)。ほかに高校卒を入学資格とする専門課程(専門学校)、入学資格を問わない一般課程(専修学校)がある。いずれも修業年限は一年以上。実務教育を特色とする。三年制の高等課程のうち文科省の指定を受けたものは大学入学資格が認められる。