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――喉が渇いた。
摩耗した体力を回復するかのように、気付けば再び気絶するように眠りに落ちていたベアトリーチェだったが、耐え難い渇きに苛まれて目が覚めた。
「……っ、けほっ」
もはや舌すら渇いて声を出すことすらできず、ふらつく身体を起こせば直後に頭の中を揺さぶられたかのような眩暈が襲う。
……水。水を探さなくては。
そもそもこの洞穴はいったいなんなのか。随分と広い空間ではあるが、ただ広いだけで他にはなにもない。
湿気を含んだ土はしっとりと柔らかく、ベアトリーチェが居るこの場所以外に続く道などはどこにも見当たらなかった。
唯一、外へと通じる天井の穴からならば出られるのだろうが、どう見積もってもベアトリーチェがあと四人ほどで肩車をして届くかどうかという高さだった。
当然こんな地中に水場などある筈がないし、他に出口もなければ本格的に死を覚悟せざるを得ない。
死にかけて、生き延びて、また死にかけてを昨日から何度も繰り返したベアトリーチェ。せっかく生き延びたのだ、こんな場所であの男と一緒に野垂れ死ぬなどあってたまるかと乾いた唇を噛む。
出口がなければ作ればいい。土を盛り上げて、天井の穴から出るための土台を作ればいいのだ。途方もない作業になるだろうが、なにもしないまま死を待つなど絶対にしたくなかった。
「……?」
土を盛るのになにかいい物はないかと探しかけたところで、ひょこっと視界の端に焦茶色の毛玉が横切るのが見えた。枯れ葉が風で飛ばされたのかと思いきや、それは丸っこい毛玉から細長い毛玉へと変形する。
ベアトリーチェがここで目覚めてすぐに発見した野ウサギであった。
ぴんと長い耳を立てながら二本足で立ち、鼻をひくつかせつつ周囲を警戒する姿は確かに愛らしい小動物の仕草だ。
……ウサギ肉はローストもいいが、柔らかくなるまで煮込んだシチューも美味しい。
知らず、渇いた喉がごくりと鳴る。すっかり麻痺していた空腹が、きりきりと空っぽの胃を締め付けて訴えだした。
そろりそろりと、なるべく足音を立てないようにウサギとの距離を詰めていく。野ウサギを捕まえた事など当然なかったが、どうせ逃げる場所もなのだ。端っこまで追い詰めればきっとベアトリーチェでも捕まえられる筈。
……しかし、そんな舐めた考えが通じるほど野生で生きる動物は甘くはなかったと痛感したのは、派手にスライディングして顔面を土だらけにした挙句、ベアトリーチェの頭を踏み台にして悠々と逃げ跳ねられるのを五回ほど繰り返した頃であった。
「くっ……このぉっ!」
その頃になると、もはやこのウサギをなにがなんでも捕まえて、絶対に胃の中へ納めてやるという執念じみたものが燃え上がってくる。弱肉強食の常というものを、この小憎たらしいつぶらな瞳でベアトリーチェを見上げるウサギに教えてやらねばならない。
……そういえば、あの野ウサギはどこからやってきて、どこへ消えたのだろう。
はたと、ベアトリーチェの頭に一つの疑問が浮かんだ。
ウサギの餌になるような草や果実など見当たらないし、ウサギの巣にしては広いとはいえやけに糞尿の匂いもしない。
そしてベアトリーチェは唐突に閃いた。――きっと、どこかに抜け道があるのだと。
確信したベアトリーチェは最初にウサギが現れた時の状況を思い返す。
あの時はいつの間にか消えたと思ったが、恐らくその近くに抜け道があったのだろう。まずはその付近まで誘導するようにウサギを追い詰める……!
元々、不衛生な投獄生活で薄汚れていたベアトリーチェの服は、不格好に裾を引き裂かれた上に泥汚れで酷い有り様である。
かつては社交界の高嶺の花と呼ばれて流行を生み出し、貴族令嬢たちは皆こぞってベアトリーチェの真似をして羨望の視線を集めていた。
当時の彼女たちがこんな姿を晒してまで生にしがみつくベアトリーチェを見れば、もしかしたら「自然との一体感を演出されるとは、斬新で前衛的ですわ!」などと、数人ぐらいは感化されるかもしれない。
そんな想像に口元が思わずにやけかけた時、泥だらけになったベアトリーチェに追い込まれたウサギが――遂にその抜け道へと一直線に逃げ込んだ。
「……!」
行き止まりだと思っていた土壁の下に、数十センチほどの隙間が空いている。掘り返された土の跡からして、あの野ウサギはここからやって来たのだろう。
いまの痩せ細ってやつれたベアトリーチェでさえも、この穴を通り抜けるには身を這うようにしなければ難しい。
「っ、く……」
ずりずりと腹這いになりながら狭い穴を進んでいく。土が目に入らぬよう注意しつつ、なんとか潜り抜けた先。
そこに広がる光景に、ベアトリーチェの口は自然と開いて嘆息した。
ところどころ崩れかけているが、しっかりと人の手によって作られた苔むした石畳と折れた太い支柱。
薄暗くてよくわからないが、辺りに散乱しているのは欠けた巨大な石像の破片だろうと予想がついた。
何故なら中央になにかを祀るような祭壇と――首から上が崩れ落ちた、あの女神像が鎮座していたからだ。
「っ!? み、……ずっ!」
朽ちて壊れた古い神殿。
その異様な雰囲気に圧倒されていたベアトリーチェだったが、どこからか聞こえる水の流れる音に意識を取り戻し、慌てて音の出所を探す。
水の流れる場所はすぐにわかった。ひび割れて突き出た石壁の隙間から、ちょろちょろと澄んだ湧き水が溢れていたからだ。そのすぐ真下には広めの溝があり、ちょうどそこへ湧き水が溜まって水面を絶えず波打たせている。
「っ、……ん、っん……く……ぷはっ!」
気付けば夢中で顔を水面へ突っ込み、ごくごくと派手な音を立てながら渇きを潤していた。
冷たい、美味しい、美味しい……!
そんな陳腐な言葉しか浮かばず、必死で喉を鳴らしていたベアトリーチェだったが、いままで飲まず食わずだった状態から大量の水分を胃に入れたせいだろう。
「はぁー……生き返ったわ……、ぅぐっ!?」
濡れた前髪をかき上げながら満足して一息吐いた瞬間、今度は引き千切られるような胃の痛みに苦悶の表情を浮かべる羽目になってしまった。