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ふわりと頬に柔らかいものが触れる。
綿毛のような感触が鼻先を擽り、むず痒くて思わず不満げな息が漏れた。それでも顔の辺りにしつこく纏わりつき、ベアトリーチェの眠りを邪魔するなにか。
「……ん、んー……じゃ、ま……っ!」
今度は髪をくいくいと軽く引っ張られ、流石に煩わしさから手を払う。手に触れたのは想像したよりも柔らかく、もぞもぞと動く毛の塊。
「! ……な、に……?」
ばちっ! と、一気に意識が浮上する。重たい瞼を開いた先、ベアトリーチェがその手で鷲掴んでいたのは野ウサギであった。
「なん、で……わたくし、――痛っ!」
身を起こそうとした瞬間、雷が身体の中を通り抜けたような痛みが全身に走って動きが止まる。
ベアトリーチェの手が離れた隙に野ウサギは素早く飛び跳ね、あっという間に逃げ去ってしまった。
「っぅ、う……、はぁ……」
身体のあちこちが軋んだ悲鳴を上げ、上体を起こすだけでも老人のようにぶるぶると小刻みに震えて息が乱れた。
時間をかけてようやく身体を起こしたベアトリーチェは、混濁した記憶が徐々にはっきりと線になって繋がるように全てを思いだす。
斬首刑により処刑された筈が、目覚めると見知らぬ場所に見知らぬ人間。
言葉が通じたと思えば役立たずの女で、自分を足蹴にした男によって無理やり連れて行かれ、そこで突然巨大な獣の化け物に襲われた。
自分でも馬鹿げた内容だとは思いつつも、嘘偽りない真実なのだから仕方がない。
獣に食い殺されそうになったベアトリーチェを助けたのは、憎らしいあの元凶である黒い鎧姿の男で、助けた癖に自分をまたも執拗に追い詰められたお陰で――そうだ、崖から落ちたのだ。
宙に放り出され、内臓が引っ張られるようなあの浮遊感を思い出し、ベアトリーチェは自身の肩を思わず抱き締める。
ばくばくといまさらだが騒ぎ立てる心臓が落ち着くまで、小さく丸まりながら恐怖をなんとかやり過ごした。
あの高さから落下して命があるどころか、身体中は痛むがどこも折れたりしていないことに小さな感動を覚える。運が良かったのだろう……そう思い込みたい気持ちとは裏腹に、あの瞬間の映像が頭の中で鮮明に焼き付いて離れない。
ベアトリーチェが崖から崩れ落ちる間際。
腕を掴み寄せ、腕の中へ守るように抱き締めてくれた、あの――……。
はっ! と、そこで回想を打ち破る。そうだ、ここは一体どこなんだろうか。
気絶する前は森の中だったが、見渡した限りでは洞穴のようなぽっかりとした空間が広がっている。
地面にそれそこウサギが穴を掘って作ったような、人の手が加えられていない洞穴だ。とはいえ、先ほど見かけたような野ウサギ程度ではここまで広い穴は掘れないだろう。
灯りなどないのに明るさを覚えたのは、高い天井――果たして地上をそう呼んでいいのか不明だが――に空いた穴から、明るい陽の光が漏れて差し込んでいたからである。
どうやら崖から落ちて、その勢いで地面を突き破って今に至るという状況のようだ。
空いた穴の真下にはぐちゃぐちゃになった草や枯葉が、細い木の根っこと土に混ざり、ほろほろといまも土埃を舞い上げている。それらがクッションの役割になったお陰で落下の衝撃が幾分か軽減されたのだろう。
「……あぁ……、最悪だわ」
そして、ベアトリーチェは見たくもない物をその土埃の向こう側に見つけてしまった。
小枝や枯れ葉に埋まって最初は気が付かなかったが、黒く染まった甲冑の腕部分が突き出ている。
緊張と落胆が混ざった息を細く吐きながら近付き、ぴりぴりと淡く痺れる指をそぉっと伸ばす。軽く小突いて反応を見てみたが、ぴくりとも動かないので今度はもう少し強く押してみた。
「……死んで、るの……?」
恐る恐る枯れ葉を払って生死を確かめようとしたベアトリーチェだったが、そこへ現れたのは無機質な金属の兜ではなく――目鼻立ちが整った端正な顔付きの、際立った美しさを持った男であった。
年の頃は二十代半ばぐらいだろうか。浅黒い褐色の肌は汗と土埃で汚れ、ぐしゃぐしゃに乱れた黒髪が頬に張り付いている。
意志の強そうな濃い眉に、高く通った鼻筋。神殿で会った白い男も大層美しかったが、どこか中性的な雰囲気を持っていた白い男とは違い、この男からは雄らしい野生的な美しさが感じられる。
一瞬男の造形美に注意が削がれたベアトリーチェだったが、それと同時に惜しいという感想も浮かんだ。
男の右目の瞼から唇の端まで。鋭利な刃物で斬り裂かれたようにくっきりと斜めに抉られた傷痕が、男の第一印象を畏怖なるものへと変えていたからだ。
「……案外しぶといのね。わたくしも、お前も」
血の気を失ったようにぐったりとしていた男は、かろうじて呼吸をしているのが窺える。落下の際にぶつけたのだろう。こめかみには赤黒い血が垂れており、対照的に生気のない顔色のせいでより一層死人のように見える。
酷い衝撃を受けてひしゃげた兜が、男から少し離れた場所で転がっていた。
「いったいなんのつもり……?」
男の意識がないと知って緊張が薄れたのか、次第に胃の奥からじくじくと熱い胃液が込み上げる。
ほぼ無傷のベアトリーチェとは違い、男の方は酷い有様だった。それもその筈。ベアトリーチェを自らの腕の中で守るように抱き締めながら、崖からこんな地中まで飛び降りたのだ。
あの時、男が手など伸ばさなければ、崩れ落ちたのはベアトリーチェだけだっただろう。よく見れば左の脛当てが大きくへこんでいる。もしかしたら折れているのかもしれない。
「わたくしを、殺そうとしたくせに……! いっそ、お前だけ死ねばよかったのにッ!」
怒りが昂って制御できず、ベアトリーチェは足元に転がっていた小石を男の腹辺り目掛けて投げつけてやる。カンッ! と、小気味良い音が響いて跳ね返った小石は、再びベアトリーチェの足元へと転がって止まった。
「…………、っふ」
その様子が何故だがやけに滑稽に思えて、しばらくぽかんとしていたベアトリーチェだったが、やがてふるふると肩を小さく震わせながら堪え切れずに笑い声を漏らす。
「ふっ、ふふっ……石を投げたのに、ふふふっ、跳ね返ってきたわ……っ」
数時間前まであれだけ死を意識させられた恐ろしい男相手にこんな真似ができるなど、いったい誰が想像できただろうか?
命の灯を賭けた極限下で振り絞った僅かな体力はとうに空っぽで、笑っただけで疲れてしまったベアトリーチェはその場でごろんと横になった。
枯れ葉がぐしゃりと耳障りな音を立てるが、思ったよりは柔らかい寝心地に背中を丸める。
「ふん。お前は卑怯な男ね? そんな硬い鎧を着ているんだもの。石などぶつけられたって、ちっとも痛くないでしょう? でもわたくしは違うわ。だってわたくしは生身で――」
言い掛けたところで、ぴたりと言葉が詰まった。
ほんの小さな小石でも投げればそれなりの威力はある。
「国を食い潰した売女め!」と酷い言葉でなじられながら、憎しみを込めて石を投げられるあの痛みを思い出し、ベアトリーチェはさらに膝を抱えて丸くなる。
「…………どうして、わたくしを助けたのよ」
あの時だって、誰ひとりとしてベアトリーチェを助けようなどとしてくれなかったのに。
閉じられた男の瞼はぴくりとも動かず、静かな呼吸音と差し込む柔らかな陽射しだけがベアトリーチェに降り注いだ。