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「皇女様! 聞いてくださいまし! 私、遂にあの御方と……!」


 広い温室の中で併設されたティールーム。

 四季の移ろいに左右されることなく、徹底的な温度管理と剪定により手間暇掛けて贅沢に育てられた花々たち。

 甘い蜜の香りに集うのは揺蕩う蝶だけではなく、お喋り好きで若い令嬢達にとっても格好の社交場であった。


 レースで華やかに縁取られた扇子に口元を隠しながらも、うっとりと身を乗り出す勢いで頬を薔薇色に染める彼女は、先週の夜に開かれた晩餐会の出来事を噛み締めるように語り出す。

 とある夜会で偶然落としたハンカチを拾って貰ったことをきっかけにして、徐々にその親交を深めていった伯爵家の子息との純愛物語が、遂に実を結ぶこととなったらしい。

「まぁ、素敵ね。紳士的でとてもお優しそうな御方でしたもの」

「そうね。お二人を見ているこちらがやきもきしてしまうほどだったわ」

「ふふっ。愛の証だと、彼が手掛けている貿易事業で輸入したという、とても珍しい異国の品をプレゼントされましたの!」

「あら? 見たことのないブローチだと思ったら」

「彼はセンスもあるのね」

 カップに唇を寄せる暇もないのか、テーブルを囲んだ令嬢たちはころころと鈴を転がしたように笑いながら、熱い夜のひとときに興味深く耳を傾けている。

「――そう。上手くいってよかったわ」

 そんな可憐で夢見がちな温室育ちの彼女たちへと優雅に微笑むベアトリーチェ。カップを持つ指の角度一つ見ても、一切無駄のない洗練された所作に数人が感嘆の息を零した。

「皇女様のお陰ですわ! あの時、機転を利かせてくださったお陰でお話しすることができましたもの!」

「きっと皇女様は愛の御遣いに違いありませんわ」

「えぇ、皇女様は天使も嫉妬してしまいそうな美貌ですもの」

「ふふ……皆さん、お上手ね?」

 取り止めのない会話を楽しむ令嬢たちに笑顔を絶やさぬまま、ベアトリーチェは甘ったるく舌に残るマカロンへざくりと齧り付く。

 数日前、夜会が開かれた庭園の隅に隠れながら、あられもない姿で盛り合う二匹の獣をバルコニーから見つけた。今も幸せそうに頬を染める彼女とは別の令嬢で、胸元に光るブローチだけは全く同じデザインの物であった。


 愛だの、恋だの、そんな不確かでくだらない話に夢中になる彼女たちも、やがては家門同士の結束や利益のために『結婚』という役割を果たさねばならない。

 大事に大事に、手間暇掛けて贅沢に育てられた温室育ちの『商売道具』として。


 花も女も、その身を枯らして干からびるまでは、美しく甘い蜜で誘って自らの存在価値を高める事に大した違いなどなかった。





 ***

 野生動物は血の匂いには敏感で、とりわけ狼は特に血の匂いを嗅ぎ分けて集まる習性があるという。

 狩猟大会を主催する貴族の誰かが昔そう言っていたのを思い出す。

 狩ったウサギの血が思ったより派手に噴き出し、木の幹にべったりと血の跡が残った。帰り際にその木の側を通って行くと、木に付着した血を興奮気味に舐めたり齧ったりする狼の姿を目撃したそうだ。

 今日だけで嫌というほど嗅いだベアトリーチェの鼻腔には、既にあの独特の錆びた生臭さがこびり付いて離れそうもない。

「ぅ、痛っ……!」

 出血の割にそこまで深い傷ではなさそうに思えたが、絶えず手首を圧迫して血を滴らせようとする男のお陰で、いい加減手首の骨すら折れそうだ。

「っ!? ちょっ、」

 地面へと押し倒され脚の付け根まで捲れ上がってしまった裾から、露わになった白い太腿を硬い金属がなぞる感触がした。

 首を戒めていた男の片手が、籠手越しにベアトリーチェの太腿――更に言うと内股の柔らかく際どい箇所だ――を、肉の柔らかさを確かめるように撫で、ぐにゅりと揉まれている。

「こ、のぉ……っ!」

 淑女――それも皇女という高潔な身分のベアトリーチェに対して、あるまじき野蛮で恥知らずな振る舞いをする男に激しい怒りが湧く。

 とはいえ、力と体格の差に加えて不利な体勢も仇となり、先ほどから息が乱れるほど抜け出そうともがいてみるが、ただただ無駄に体力を擦り減らしてしまうだけに終わる。それに男が纏う甲冑のせいで身動ぐ度にどこかしらがぶつかり、余計な怪我まで増えてしまいそうであった。

「ィ……っ、!」

 唐突に、ぶつっ、と刺すような痛みが内股から伝わり、膝が反射的に小さく跳ねた。

 男の籠手は指先にかけて肉食動物が持つ鋭い爪のように尖っており、その指先が何度もベアトリーチェの肌を撫で回していたことから、先程の痛みは皮膚を鋭利な爪先で刺されたのだと理解する。

 つぅ……っと赤い血が細く肌を伝う感覚に、これ以上ないほど限界まで溜まっていた不快感がさらに増した。

「なっ、にする――ひっ、!」

 愉悦じみた男の息は興奮で熱く篭り、それどころか頭部を覆う兜の隙間からは、だらだらと透明な涎まで垂らしている。

 相変わらず金の目だけが煌々と揺らめき、その瞳孔がきゅうぅっと縦に細く狭まっていくのが見えた。

 ……いくらなんでも正気じゃない。狂っている。

 いつか見た、庭園の影に隠れて獣のように欲を貪り合う男女の姿が脳裏に浮かぶ。けれど、貞操の……と言うよりは、好奇心から捕らえた蝶の羽を少しずつ毟るような、そんな類の恐ろしさが男からは感じられた。

 そのまま更に傷口を広げようと食い込む爪先。男の行動には加虐的な嗜好が顕著に現れ、ベアトリーチェが流す血に酷く興奮しているようだった。

 しかし、男の手の動きは突然ぴくりと止まり――……。


「――ッ、グ……ウゥッ、!」

「っ!?」


 がくがくと発作のように身体を大きく痙攣させながら、低い呻き声を漏らした。

 頭が痛むのか、男は兜の上から頭部を押さえ、上体をふらつかせつつもベアトリーチェの上からようやくのろのろと身を退かす。

 突然何故男が苦しみ出したのかは不明だが、そんなことはどうだっていい。――逃げ出すならいましかない!

 ひゅんっ! と、宙を斬る剣先が鼻を掠めたのは、逃げようとベアトリーチェが身を起こした直後であった。

 白い前髪が数本、はらりと風に吹かれて飛んでゆく。

 眼前にはやつれてみすぼらしい格好をした自身が、姿見の如く剣身に映り込んでいる。


 杭のように突き立てられた長剣の先には、ベアトリーチェの足首を戒める足枷と――砕けた鎖の破片が散らばっていた。


「……は……? な、なんで、」

「――……■■■」

「ぇ……?」


 やはり聞き慣れない発音。知らない言語。

 くぐもった声でなんと言ったのか、どうせ理解できもしないのについ聞き返してしまった。


「……■■■ッ!」

「きゃっ、!」


 怒号のように咆哮を上げた男が、ベアトリーチェの肩を突き飛ばす。

 ふらつく足には男の力が強過ぎたため、思わず重心が崩れて尻餅を着きそうになったベアトリーチェだが、がしっと二の腕を掴んでそれを支えたのもまた男の手であった。

「……わ、わたくしに、触れるなっ!」

 その手を今度はベアトリーチェが振り払う。意外な事に非力なベアトリーチェの力であっても、なんの抵抗もなくあっさりと男の手は離れた。

 そして再び同じ事をしきりに吼えており、これは一種の勘であるのだが……何故か、ベアトリーチェはこの時の判断が正しい物であったと確信じみたものを感じていた。


 逃げろ、と。

 男は必死に訴えていた。


「――っ、はぁ! はぁっ! はっ、はぁッ!」


 あとはもう、必死であった。

 塗装されていない獣道は裸足で駆けるには向いておらず、大地を踏み締めるたびに生傷が増えていく。

 こんな風に全力で、それも裸足で森の中を走るなど、皇女として生まれたベアトリーチェには初めての経験であった。

 肺が破れて穴が開きそうに痛い。息を吸うたびに針を飲み込んだようで、足はもう半分も上がらなかった。

 もはや走るというよりも、なんとか歩を進めるのがやっとだという方が正しいのかもしれない。それでも歩みは止めてはいけない。ずきずきと泣きたいぐらいに痛む足に力を込める。

 何故ならば、先ほどからずっと――男がベアトリーチェの後を追って来ているのだ。

 わざと逃した獲物を、付かず離れずの距離で追い詰めて狩りを楽しむように。

 あの瞬間は僅かに正気を取り戻したかのように思えたが、結局男にとってのベアトリーチェはただのウサギ程度にしか過ぎないのだろう。

 暗くどこまでも続くと思われた木々の奥、進む毎に漏れ差す月の光が強くなっていくのを見て、ようやく開けた場所に着いたのかと期待するベアトリーチェ。

「はっ……ァ、はぁっ、!」

 開けた道に出れば他の人間と出くわす可能性もある。どこか民家でもなんでもいい。

 言葉は通じずとも、他に誰か一人でも出会えたのならば――その者を身代わりにすればいいのだから。


「ッ、!? はっ、はぁーっ……はぁーっ、」


 明るく開かれていく視界。

 暗闇に慣れた目には照らす月明かりすら眩く、思わずぎゅっと瞼を閉じる。

 これで、やっと――……。


 逃げられる、と。

 その瞬間は確かに安堵していた。


「――そ、んな……うそ……」


 がつんと、頭を殴られたような衝撃であった。

 開けた視界に広がるのは、手が届きそうなほど随分と近くに感じる、大きな大きな金色の満月。……それだけだった。

 森の途中からぷつりと道は途切れ、そこには切り立った崖が終着点を示すかのように空へと続いていた。


 ふぅー……っ、ふぅー……っと。

 呆然とするベアトリーチェの背後から、あの興奮して獣じみた息遣いが近づく。

「! ……ち、近寄るなッ!」

「――……」

 黒く染まった鎧が月明かりに反射して、ぎらりと目に刺さる。

 振り向いたすぐ背後、思っていたよりも近い距離に男は立ってベアトリーチェを見下ろしていた。

「いや! いや、嫌っ! 来ないで……来るなっ!」

 捕まったらきっともう、気まぐれな奇跡など起こりもしないだろう。

 じりじりと追い詰められ摩耗した神経のまま、ベアトリーチェは癇癪を起こして後退る。


 高く男の腕に振り上げられた剣は、あの日断頭台の上で見上げたギロチンとよく似ていた。


「――ぁ」


 がくんっと地面が沈んで視界がぶれる。

 先細った崖は非常に脆く、気付けばベアトリーチェの身体は妙な浮遊感に包まれていた。


 ……落ち、る。


 思考すらも間に合わない。

 時の流れをゆったりと感じながら、無意識に伸ばした手。


 ベアトリーチェの意識が途切れる間際。

 共に落下しながらも、その手を掴み寄せて胸の中へと抱き締めたのは――硬くて冷たい金属の感触であった。


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