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散々ベアトリーチェに屈辱を味わせた相手に対して、安易に感謝など口にしたくもない。
そもそもこんな酷い目に遭ったのも、元はといえばこの男のせいだ。
男が下した命令によってベアトリーチェは無理矢理追い出され、短い時間の中で二度も命の危機に直面した。
だからあの瞬間、僅かに感じた安堵はきっと気の迷いに違いない。そうだ……そうである筈だと強引に自らへ言い聞かせる。
「……どうして、ここへ……?」
どうせ言葉など通じないと知ってはいたが、少しでも平常さを取り戻すために浮かんだ感想をそのまま口に出す。
男の方はというと、最初から口を開く気は一切ない素振りで一瞥だけすると、ベアトリーチェの横をそのまま通り過ぎた。ようやく息絶えた獣の前へ止まると、馬上から上体を屈めて側頭部に刺さった剣の柄をずるりと苦もなく引き抜く。
軍事や戦闘についてなど知る由もないベアトリーチェから見ても、実に人間離れした所業だと改めて目を疑った。
数十メートル先の獲物に対し、騎乗したまま……それも四方八方を木々に阻まれた障害物だらけの中で、剣の柄まで深々と埋まるほどの威力で投擲をし、見事に一撃で急所を捉えて即死へと至らしめたのだ。さらに付け足せば、総重量が数十キロはあるであろう甲冑姿のままである。
「……」
「あ、ちょっ、ちょっと……!」
男は引き抜いた長剣にべったりと付着した血を軽く宙を凪いで吹き飛ばすと、鞘には戻さずそのまま馬車の方向へと向かって行く。
まだ足が動かないベアトリーチェはその背中に掠れた声を上げることしか出来ず、暫くすると獣のひび割れた咆哮が一度だけ聞こえ、その後は不気味なほどに辺りが静寂に包まれた。
それから何事もなかったかのように平然と戻ってきた男だったが、その鎧に滴る液体が先ほど馬車でベアトリーチェを襲った獣の返り血だという事は誰に言われずとも理解した。
「……っ、」
再びベアトリーチェの元へと対峙した男と、無言のまま視線を交わす。足は……まだ立てそうにない。
どうにか隙を見て逃げようとしたのは事実だったが、まるでこの状況を引き起こしたのが何故か自分のせいのように感じてばつが悪い。
男の視線はベアトリーチェを責めるような苛立ちを含み、そんな反応に「わたくしのせいじゃないわ! 全部お前のせいじゃない!」と真っ向から無実を主張してやりたかった。
やがて、チッと舌を打った男が至極不愉快そうに馬から降りる。
「ぇ……? っ、なに……!?」
黒い影がより一層濃くなったかと思えば、しゃがみ込んだまま動けずにいたベアトリーチェの手首をがしりと掴み、魚を釣り上げるような感覚でベアトリーチェの身体を地面から浮き上がらせた。
長い投獄により随分と痩せ細ってしまったとはいえ、自身の全体重が掴まれた手首に掛ける負荷はそれなりのものであった。
「くっ! は、離し……ッ、」
例えるならば男との体格差は歴然としていて、まさに大人と子供のそれである。ぎりぎりと手首に食い込む五指に堪らず足をばたつかせてみるも、力の反動で今度は肩が抜けそうになって生理的な涙が滲む。
「ぃ、痛……っ!」
万力で限界まで締め付けられていくような感覚に、手首から上の指先が段々と冷たく痺れて赤黒く変色していく。
苦悶に染まった顔で兜の隙間を覗き込めば、男の金色の眼はベアトリーチェの手のひらをじっくりと凝視していた。
一体なにを――……?
浮かんだ疑問は、ずきんっ! と、熱く突き刺すような痛みが手のひらに走った事で判明した。
「ぁっ……ぅう、っ……!」
男はただ無言のまま、獣に壊された馬車の破片で負った傷を見ていたのだ。
珠のように凝固した血の塊はルビーのように白い肌に映え、手首を掴まれ鬱血したせいで再び滲み出した鮮血が、つぅー……っと手首を掴む男の籠手にまで伝い落ちる。
「――……」
ベアトリーチェの手のひらから幾筋も流れる赤い糸を、鎧の男は茫然とした様子で見つめている。
金色の眼は煌々と怪しく光り、そして――ぐにゃりと歪んだ。
「かは……っ!」
突如掴まれた腕を振り落とされ、その勢いのまま背中を地面へと強く打ち付ける。
幸い尖った石や木の枝などはない位置だったが、ろくな受け身も取れずに強打した背中のせいで数秒息が詰まってしまった。
「ぅ、ぐっ……よくもっ、やった……わね、っ!?」
もはや痛くない箇所を探す方が困難なほどに、ベアトリーチェの全身は痣だらけであった。
ライオンが蟻を甚振るような真似をする男に対し、意地だけでよろよろとふらつく上体を起こして睨んでやる。
……しかし、次の瞬間どさりと苦しげに片膝を着いたのは男の方であった。
地面へ突き立てた剣に縋るような形で、甲冑越しからでも肩を荒く喘がせているのがわかる。
「……、? ちょっと……」
低い男の呻き声が、ぎりぎりと自らの歯を食い縛る音と共に漏れ響く。
無傷のように思えたが、もしかすると先程の獣によって怪我を負っていたのかもしれない。だとすれば――逃げるのは、いましかない。
じりじりと、尖った神経が過敏に肌を粟立たせる張り詰めた緊張感の中、ベアトリーチェはゆっくりと腰を浮かせた。
少しずつ……少しずつでいいからと震える足を宥めるようにして距離を広げていく。
――しかし、ここでも女神はベアトリーチェに気まぐれな試練を与えた。
ぱきっ、と乾いた小枝が折れる音が裸足の裏から伝わる。
しまった! と、思うよりも素早く。それまでゆっくりと広げていた男との距離は、非情にも瞬きの間にして詰められていた。
「ッ、あ……ぅっ!」
天地が揺れて引っくり返る感覚。
ぐらぐらと回る狭い視界。
気が付けば、大きな黒い影がベアトリーチェを堅牢な檻へ閉じ込めるように覆い被さっていた。
「っ! ど、きなさ……、ッ!?」
血を流す手は地面へ縫い止められ、もう片方の手はベアトリーチェの動きを止めようと首を強く押さえ込む。
重たく冷たい膝当てが、引き裂いた裾から剥き出しになった脚の間を無遠慮に割り入ってきた。
「はっ、ぁ……こ、のっ……!」
「――……、……ッ」
「っ、……?」
ふぅーっ、ふぅーっ……と。男の荒く乱れて篭った息が、ベアトリーチェの頬をぞわりと撫でる。
やけに熱を帯びたその息に、寒くもないのに背筋が粟立つ。……なにかが、おかしい。
鎧の男の行動は最初からベアトリーチェを敵視し、向けられる視線には蔑みと殺意しか含まれていなかった。
背中を踏み付けられた時も、剣を突き付けられた時も、襲い掛かる獣から――不本意ながらも状況的に見れば――助けてもらった時も。
しかし、今はまるで――……。
「――ッ、あぁっ!」
手首を捻られるような痛みが響く。
先程よりも流れる血の匂いが濃くなり、頭上からくつくつとくぐもった声が聞こえる。
「う、ぅっ……お、まえっ」
こめかみが怒りでぴくぴくと痙攣する。
暗闇に浮かぶ二つの月が、捕らえた獲物に悦ぶような弧を描いて――笑っていた。