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 神という存在はつくづく無慈悲で不平等で。気まぐれに奇跡とやらを起こしては、無責任に試練を与えて高みの見物を楽しんでいる。

 ――いや、きっと見物すらしていないのかもしれない。


 気まぐれの先の行動など、与える側からすれば物乞いにコイン一枚を投げ捨てるような感覚なのだろうから――……。





 ***

 荒く乱れた短い呼吸。

 どくどくと胸を打ち付ける鼓動が、耳へ直接響くように騒ぎ立てる。

 辺りに充満する鉄錆びた血の匂いに噎せ返りそうになり、それでも息を殺すように喉奥を引き攣らせてなんとか飲み込んだ。

 ……あれは、あの化け物は一体なんなの……?

 街灯など当然ない静まり返った暗い森の中、月明かりに照らされて一瞬見えたのは、ベアトリーチェが乗っている馬車と同じか……もしくは、それ以上の大きな黒い獣であった。

 岩の塊のように分厚い巨体は真っ黒で硬質な短い毛で覆われ、豚のように醜くひしゃげた鼻からは荒い呼気が湯気のように漏れる。

 ぱっくりと大きく割れた顎からは、凶悪なまでに太く鋭い牙がぎらりと月明りに照らされていた。

 あれほど大きな獣など今までに見たことがない。馬車の扉を壊した獣は、隅で固まり蹲ったベアトリーチェの様子を暫く観察した後、うろうろと爪の音を立てながら馬車の周りをうろついて前方へと向かった。

「……っ、ぅう……」

 ぶちゅっ、じゅるるる……ごりごりっ、と。肉に牙を突き立て血を啜る音や、骨を噛み砕く咀嚼音が木々のざわめきに混じって響き渡る。

 込み上げる吐き気に口を押さえながら、ベアトリーチェは震える足に力を入れた。しかし、がくがくと笑った膝からは力が抜けて、すぐにぺたんとその場にしゃがみ込んでしまう。

 一刻も早くこの場から逃げなくては……と、そう焦る思いとは裏腹に、恐怖で竦んだ身体はベアトリーチェの意思とは真逆の反応を見せて足がぴくりとも動かない。

 馬車の外へ出た瞬間、あの巨大な獣が今度こそ自分に向かって襲い掛かってくるかもしれない。運良く気付かれずに外へ逃げ出せたとしても、短い鎖のついた足枷のせいで走ることなど到底不可能である。

「ッ、! ……ごけ、動きなさい……はやくっ、動け……っ」

 言うことを聞かない自らの身体を叱咤したベアトリーチェは、脛辺りまであった服の裾を歯で引っ掛けながら割いていく。細長いリボン状に割いた布を今度は足枷の鎖に絡ませ結んだ。気休め程度だが、これで歩く度にじゃらじゃらと鳴る金属音も少しはましになるだろう。

 ぶるぶると震えて重たい足を握った拳で数回殴り付ける。鈍い痛みを感じるうちに段々と足に力が戻ってきた。

「ふ……ぅっ、……」

 身を低く伏せ、這うようにゆっくりと、慎重に。

 耳をそばだてずとも、獣の咀嚼音はまだ馬車の前方から聞こえる。息を細く吐き、高まった緊張から引き攣る筋肉で崩れ落ちそうになるのを、何度も歯を食い縛って堪えた。

 段差のある最後のステップをなんとか降りたベアトリーチェは、緊張を緩ませることなく気配を窺う。馬車の影からはみ出る獣の巨体は、なおも耳を塞ぎたくなるような酷い咀嚼音を立てながら〝食事〟に夢中になっている。

 ……このまま、道から逸れて逃げよう。暗さにも大分目が慣れたお陰で月明かりだけでも辺りの様子は十分に窺える。

 一歩ずつ、確実に。息を殺しながら後退し、生い茂る草むらの影に身を潜ませる。逸る心臓が口から飛び出してしまいそうで、ぎゅっと強く唇を噛む。

 このままもっと距離を置こうと、更に一歩後退した時だった。


 べちゃっと、ぬるつく生温かい液体がベアトリーチェの右肩に垂れ落ちる。


「――……ぇ、?」


 背中が太い木の幹にぶつかった。

 やけに熱を持った木だ。

 そう思って首だけを見上げて――絶望と目が合った。


「ぁ……」


 爛々と血走った目を光らせながら、だらだらと大きく裂けた口から涎を垂らす獣が、ベアトリーチェを見下ろしていた。


 もう一匹居たのだと、いまさら気付いたところでなにが変わるだろうか?

 せいぜい食い殺される順番を馬車の中で震えながら大人しく待つか、自らもう一匹の胃袋へ飛び込むかの違いでしかない。

 この世界に女神なんて存在が本当にいるのだとすれば、きっとそれは美しい女の皮を被っただけの悪魔に違いないだろう。でなければ、生きながら喰われる女の悲鳴を聞くのが趣味の腐った加虐者かもしれない。


 ぬらぁ……っと。

 大きく口を開いた獣の湿った吐息が、ベアトリーチェの首筋を舐めるように掠めた瞬間。


「――ッ……!」


 見開いたままの目に映ったのは、銀色に走った光が獣の頭を真横から貫く映像であった。

 ぐらりと巨体がその勢いに傾き、膝を突いて倒れる。地響きのような振動が地面から伝わり、裸足の裏がびりびりと痺れた。

「…………ぁ、えっ……?」

 なにが起こったのか。

 びくびくっと小刻みに痙攣する獣の脳髄を貫く形で、なにかが突き刺さっている。

 短い取手のような物かと思ったが、よく見るとそれは剣の持ち手であった。

 なぜ、剣の持ち手が……と回らぬ頭で茫然とするベアトリーチェだったが、段々とこちらへ駆けてくる馬の呼吸音に気付いて正気に戻った。

 ……何者かがこちらへ向かって来ている!

 過ぎ去った死の恐怖は気を休める暇を与えず、ベアトリーチェの元へと訪れる。けれど、逃げようと踏み込んだ足は糸が切れた操り人形のように力が抜け、情けなくその場で尻餅を着いただけに終わった。

 やがて馬の気配が近づくと共に、硬い金属がぶつかり合うような音も大きくなってゆく。

 木々の合間から差し込んだ月の光が、ぼやけた黒い輪郭を徐々にはっきりとその正体を照らし出した。


 黒毛の馬に跨るのは、月明かりの中でさえも闇のように黒く染まった甲冑姿。

 ばさりと翻る漆黒のマントはまるで夜空に翼を広げた鴉のようで、ベアトリーチェの目の前へ辿り着くとその手綱をぐいと引いて止まった。


「……どう、して……」

「――……」


 騎乗したまま遥か高い位置で、兜の隙間からベアトリーチェを無言で見下ろす金色の双眸。


 あの神殿でベアトリーチェの背中を踏み付け、剣を向けた――黒い鎧の男であった。


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