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歴史に名を連ねるのは、なにも世界的に偉業を果たした偉人と呼ばれる者達だけではない。
時には大義名分を笠に大地を血に染めた残虐な殺戮者。
またあるいは、スキャンダラスな醜聞で尽きぬ愛欲に溺れた愚君。
その名を轟かせた彼等の悪業が歴史に刻まれ、人々から語り継がれる事となるのだ。
それは例えば、民を顧みず圧政を強いて奔放に財を消費する、自分勝手で強欲な――……。
「いや、ガチ悪女じゃん!!」
そう、――〝ガチ〟悪女として。
***
眼前に突き付けられた女の指をへし折ってやるのと、その女の背後で殺気を滲ませながらこちらを見下ろす黒い男に首をへし折られるのと、いったいどちらが早いだろうか?
計算してみるまでもなくわかりきった答えに、ベアトリーチェは片眉をぴくりと上げながら乾いた笑みを深めた。
「……あなたにほんの少しでも教養というものがあるのであれば、その指をどけてくださるかしら?」
「ぁっ……す、すみません……!」
極力丁寧に、そしてたっぷりと嫌味を乗せて指摘してやれば、チエはわたわたとその指を引っ込めて頭を下げる。
そもそもベアトリーチェには指をへし折る力などない。だからへし折るのは、きっと指以外のものがいいだろう。
「そ、そっか……死んだ直後に召喚……だから……」
「……」
遠慮がちに寄せられる視線には、好奇と怯えが混ざったような、やはり不愉快な類のものが含まれる。惨めな死を迎えた人間を目の当たりにして、女の視線は段々と不躾なものへと変わっていった。
あと数秒でもそんな目を向けてきたのなら、テーブルをひっくり返そうかと画策した頃。
「……⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️?」
口元に笑みを乗せたまま身を屈めた白い男が、チエの耳元へそっと何事かを囁いた。
言語はわからないが、甘くゆったりと蕩けるような声だった。
一瞬にして真っ赤に完熟したトマトと化した女は、片耳を押さえて狼狽えつつも男が口にした言葉にうんうんと頷き掛けている。
「あ……えっと、はい。聞いてみます……」
予想するに、ベアトリーチェに対していくつか質問があるのだろう。こちらは会話が成立しないため、チエを介しての対応になるのは仕方がない。……とはいえ、この世界で目覚めてからの待遇の差は歴然としているのが癪に障る。
こんな身なりをしていれば当然と言えばそれまでだけれども、お伽話を信じるのならば呼び出したのは大事な女神の依代で、ならばベアトリーチェに対しても女神の如く扱うのが筋ではないか? こんな扱いをされる世界など、とっとと滅びてしまえばいいと静かに溜息を吐いた。
「ベアトリーチェ・オーギュスター……さん。聞きたいことがあるんですけど……」
曰く、チエがベアトリーチェに投げた質問はこうだ。
生年月日はいつか。死んだ日はいつか。
こちらが身構えていたよりも随分と呆気なく、そしてくだらない質問に思わず気が緩みそうになる。
とにかく、一刻も早くこのくだらない問答を終わらせて、そしてたっぷりと湯の張ったバスタブへ思いきり飛び込みたい。喋る度に乾いて切れた唇が痛み、枷を嵌められた足首は擦れて赤黒い跡を残していた。
「……嘘、こんな偶然って……」
しかし、ベアトリーチェの回答に驚愕を見せたチエは隣に立つ男といくつか言葉を交わした後、ついに神妙な顔付きで押し黙ってしまった。
「……お前のその口は、閉じて欲しい時は開いたままの癖に、開いて欲しい時には口を閉ざすのね?」
「ご、ごめんなさい! えぇっと、ちょっとなんと言うか……言葉に悩んでしまって……」
「⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️?」
「あ……はい。やっぱりそうみたいです」
「……だから、さっきからなにを――、」
「⬛️⬛️⬛️」
「っ!?」
一人会話に置き去りにされるのもいい加減うんざりしたベアトリーチェが、上体をほんの僅か乗りだしたと同時。
それまで不遜に腕を組んで黙っていた黒い鎧の男が、音もなく抜き出した剣先をベアトリーチェの喉元へと突き付けた。
ひゅっ、と吐き出しかけた息を無意識に呑み込んで動きを止める。視線だけを持ち上げれば、金色の目を煌々と光らせながら、あと数ミリでも身を前に近付ければ躊躇なく首を斬ると宣告している状況であった。
……他でもない、このわたくしの首を……?
さぁぁ……っと引いていく血の代わりに、瞼の裏が怒りで真っ赤に染まった。
この男だけは、絶対に――……。
「⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️」
男の射抜く眼光の鋭さに真っ向から睨み返した時間は、たった数秒のことだろう。
剣を突き付ける男の腕を引かせたのは、もう一人の白い男だった。
宥めるような調子で会話を続ける男に対し、剣を下ろした男からは未だに殺気が漏れ出ている。やがて、チッ! と、大きく舌打ちをした後、ベアトリーチェの背後にいた男たちになにかの命令を下した。
「っ、な……なにをっ」
「ベアトリーチェさん……!」
「くっ……離しなさい! わたくしに触れるな!」
がしりと両脇から屈強な体格の男たちに捕らわれ、突如部屋から連れて行かれるベアトリーチェ。抵抗しようと力いっぱいもがいてみるが、すでに足のつま先が地面から浮いているのだ。ベアトリーチェの力ではどうしたって抵抗など無意味な行動だった。
「このっ……!」
ガチャガチャと鎖がぶつかる激しい音。どれだけ叫んでも視線すら寄越さない男たち。
どこへ連れて行かれるのか……どくどくと心臓が嫌な音を立てて胸を打つ。
ベアトリーチェには既視感があった。
逃亡を企てるも失敗に終わり、国の皇女としてではなく罪人として捕らわれ――断頭台へ連れて行かれる、あの光景と。
「……ッ、ゃ……嫌、嫌よっ! 離して……ッ!」
息が乱れるほど叫び暴れても顔色ひとつ変えない男たちは、他の集まってきた兵士らしき者達に指示を出すと、門の外で待機していた馬車へとベアトリーチェを放り投げた。
「ぅっ……!」
すぐにガチャン! と、外側から錠をかけられ遠ざかる気配。
馬車には窓らしきものはなく、座席にはクッションどころか敷き布さえない。抵抗するのに夢中だったので外の様子を詳しく伺えなかったが、取り囲む建築物の形式から見て、先程までベアトリーチェが居たのは神殿らしき建物のようだった。
馬のいななきと共にがたんっと車輪が回り、馬車が動き出す。どこへ向かうのか、向かった先で果たして無事でいられるのか、なに一つとして保障などない。
「……逃げ、なくちゃ……」
うわごとのように呟いて、その言葉の空虚さに我ながら茫然としてしまった。
――いったい、どこへ逃げるというのか。
ここがどこかもわからない世界で、言葉も通じず、なにも持たない者が逃げる場所などありはしないのに。
生前もこうして馬車へ乗り込み、国外へ逃げようと試しみて捕えられた。そんな言葉などで片付けたくはなかったが、これは因果なのかもしれない。
がたんがたんと、酷く揺れる馬車のせいで空っぽの胃から迫り上がった胃液が喉を焼く。
「…………逃げなきゃ」
それでも、逃げなければ。行く宛などなくとも、無駄死になど冗談ではない。
鍵は自力では開けられそうにないため、どこへ連れて行かれるのかも不明だが、目的地へ到着した瞬間が狙い目だろう。
「……硬い……」
そっと、ベアトリーチェは狭くて硬い座席に小さく丸まって横になる。
「はぁ……」
身体中がぎしぎしと軋んで痛いし、足枷は冷たくて重たいし、喉は乾いているが空腹はすでに麻痺している。
横になった途端、異様な瞼の重さに意識が一瞬だけ混濁した。慌てて目を見開くも、疲れ切った身体は睡眠を欲しているのかどんどん瞼が落ちていく。
こんな酷い揺れの中でさえも、まるでゆらゆらと微睡みに誘う揺籠のように感じられ、意識が曖昧にぼやけだす。
安全が確認できない状況の中で眠っては駄目だ、と頭の中では思いつつも。
ベアトリーチェの呼吸は、いつの間にか静かに規則的な寝息を立てはじめていった――……。
***
顔も知らない初老の男との婚約が結ばれたのは、ベアトリーチェが十二歳を迎えた頃であった。
政略結婚など貴族ならば当然。それが皇族ともあれば、国を左右する重要な交渉材料となる。女であるというだけで、ベアトリーチェの運命は産まれた時から決まっていた。
相手は五十も歳の離れた他国の王。妾を何人も抱えた、色に溺れる暴君だという。
両国の永久なる友好の証という名目で、会った事すらない男の元へ嫁ぐことがベアトリーチェの存在価値であった。
せめて成人を迎えるまでは……と、与えられた期限付きの自由。
社交界を賑わすロマンティックな恋物語など所詮は舞台上の脚本のみで、皆それを理解した上で演者になりきり楽しんでいる。上澄みだけを啜り、どろりと煮詰まった澱になど気付かない振りをして。
だったら、この享楽に身を委ねてなにが悪いというのか。
ベアトリーチェという〝商品〟を勝手に見定め、そのおこぼれにあずかろうと群がる有象無象に対し、清純無垢である必要など――きっと、どこにもない。
あぁ、なんだ。
足枷なんて、ずっと最初からついていたじゃない。
がたんっ! と。
大きな揺れと一際高い馬のいななきが、夢の淵にあったベアトリーチェの意識を呼び覚ました。
「っう……、!?」
反射的に見開いた視界は寝る前と同じく、質素で粗野な馬車の中だ。
先程の揺れで車体が大きく傾き、座席から転がり落ちたベアトリーチェは、寝起きで強打した背中の痛みに暫く身を蹲らせる。どうやら馬車が急停止したらしい。
……もしかして、目的地へ着いたのだろうか?
どれほど眠っていたのか判別はつかなかったが、警戒して馬車の扉を睨むベアトリーチェをよそに、外の気配は驚くほど静かであった。
「……? なに、この匂い……」
窓もないのに、どこからか漂う不快な匂いにベアトリーチェは思わず顔を顰める。
それは強烈な生臭さであった。
むわっと鼻に付く生肉のような、鉄錆びた匂いが馬車の中ですら匂ってくる。
「…………ちょっと、誰かいないの?」
いくらなんでも静か過ぎる。
馬車に揺られていた道中や、目覚めた瞬間には確かに聞こえた馬の呼吸や蹄の音は、先程から一切気配を消している。
元々会話が通じもしないのだからベアトリーチェがいくら呼び掛けようとも関係ないかもしれないが、何故だか無性に逸る気持ちが抑えられず、今度はもっと声を大きくして呼び掛けてみた。
「誰か! ねぇっ、誰もいないの!?」
目に見えない不安が焦燥感をじわじわと高まらせ、どんどんっ! と、馬車の扉を強めに叩く。
叩いた扉が外側から叩き壊されたのは、その直後であった。
「きゃあぁッ……!」
叩き割られた扉に突き刺さっていたのは、黒くて太い爪であった。
がこっ! と、ひしゃげた錠前がぶら下がった扉が地面に落ちる音。割れた木屑がベアトリーチェの手のひらに刺さり、ぱたぱたと垂れた血の滴が汚れた服に更に赤い染みを作る。
「はっ、はぁ……っ、な、なに……っ?」
怪我をした手をもう片方の手で押さえながら後退るも、狭い馬車内ではすぐに背中がぶつかって止まった。
急激に鳴らされる警鐘が鼓膜の奥でどくどくと煩く響く。嫌な汗が肌を滲ませ、息が勝手に震えた。
神殿らしき場所を出た時はまだ陽は落ちてなかったが、外れた扉から覗くのは真っ暗な闇と微かな虫の声。
それと、より一層強く感じる――生臭い血の匂い。
「……は、ははっ、本当に……冗談じゃないわ……」
グルルルルッ……と、腹の底まで冷えて痺れるような唸り声。
闇の中からでも浮かび上がる赤く濁った眼光。
今まで到底見たこともない大きな獣が、べっとりと血に濡れた牙を剥き出しにし――ベアトリーチェを覗き込んでいた。