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太古の昔、かつてこの地には魔獣のみが存在していた。
種の繁栄と生存。――そして破壊本能。
本能のみで生きる魔獣たちは殺し合い、喰らい合い、そして奪い合って生きていた。
そんな魔獣たちの地に、異界の女神が手を差し伸べる。女神は魔獣たちに理性を与え、慈しむ心を、憐れむ優しさを授けた。
そうして魔獣から神獣へと生まれ変わった獣は、やがて女神との間に子を成す。それは人の形をした子供であった。
人は神獣の強さと女神の賢さを持ち、そうしてこの地の発展へ大きな貢献をした。……しかし、中には先祖返りをする者も産まれた。
獣としての本能を色濃く持つ者たちは、やがて人の形を保てなくなり、本能が理性を凌駕した結果、魔獣へと変貌して大地を壊し尽くしてしまう。
再び朽ちていく世界を嘆いた女神は、人々に啓示を与えた。
――異界の地より飛び立つ魂を引き寄せ、我の依代としなさい。
女神の依代として喚び出した者と番となった獣は理性を取り戻し、そして二人の間に成された子は世界に安寧と繁栄をもたらした。
しかし、その繁栄は長くは続かず、数百年毎に先祖返りが産まれ魔獣に堕ちる者たちが増えてしまうようになった。
女神は存在するだけで獣が持つ狂気を抑えるとされる。
この女神の依代を召喚する儀式は、そうやって何世代にも渡り続けられてきた、この世界にとって重要な救いの儀式であるのだ。
***
「――つまり、その女神の依代として召喚されたのが、私たちって事らしいです……」
自分のみが言語を理解できるという点を理解した女は、困ったように眉を下げつつ、真っ白な男から聞いた話を通訳した。
……馬鹿げているとしか言いようがない。子供向けのお伽話ですら、もう少しまともな内容だろう。
大理石の床では長話をするのに向かないということで、フードを被った者達に案内されたのは貴賓室のようだった。先ほどまでの真っ白い空間とは違い、ベアトリーチェにも馴染み深い上流層向けの室内は調度品のデザインも質も良く、とてもじゃないが異世界だとか、女神だとか、そういった空想の話を大真面目に語っていることが信じられない。
なにより、ベアトリーチェはずっと腹立たしくて仕方がなかった。
割れて汚れた爪、生地の粗い埃と染みだらけの粗末な服、何日間も投獄されていたため薄汚れた身体。
絹のように滑らかで金糸のようだった自慢の髪は、処刑への恐怖により一晩で色が抜け落ち、まるで老婆のような醜い白髪に。腰まで届くほど長かったベアトリーチェの髪は、ばっさりと首の真ん中あたりで短く切られている。……あぁ、さぞ切れ味の良い刃で断髪されたのか。くっ、と自嘲じみた短い息が喉奥を震わせた。
魔獣や女神だのと、くだらないお伽話も、ベアトリーチェにとってはどうでもよかった。ただ、この状況が堪らなく屈辱以外の何物でもないことだけは確かだった。
「召喚……えっと、つまり、この世界へ魂が引き寄せられるのは死んだ瞬間らしいです。だから、私は放課後ユミとカラオケした帰りに……あっ、ユミってのは私の友達で、そしたらトラックが……」
「…………」
言葉は通じるがなにを話しているのか訳のわからない女の言葉など、もうこれ以上聞きたくもない。ふんと鼻白んで顔を背ければ、気まずそうな気配を滲ませながら女は口をようやく閉ざした。
なんて気の利かない愚かな娘だろうか。自分から漂う異臭と肌の痒みを放置されたまま、この部屋へと連れて来られた。言葉が通じぬベアトリーチェの代わりに湯の支度や着替えを頼むでもなく、先ほどから自らの身の上話をべらべらと長ったらしく喋っている女が殺したいぐらい憎たらしい。
「……」
ちら、と足元へ視線を落とす。
痩せて薄汚れた裸足の足首には、じゃらりと身じろぐ度に煩く音を立てる鎖と足枷――罪人の証が映った。
憎まれて、憎まれて、憎まれ尽くした断罪の証だ。
くくっ、と。再び短い笑いが今度は音となって漏れた。
担ぎ上げて、持て囃して、散々ベアトリーチェの側で甘い汁を吸っていた奴等は、全ての罪をベアトリーチェのみに背負わせ素知らぬ振りをした。その結果がこれだ。なんて馬鹿馬鹿しい喜劇だろう。
「……わたくしが生き返ったなどと知れば、どんな顔をするのかしら……」
想像したところで、有象無象に集ってくる虫の顔など覚えてもいない。誰にも聞かれぬようにぽつりと零した言葉だったが、どうせ誰に聞かれたところで通じないのだから意味はないだろう。
「あの……そ、そういえば、お互い自己紹介がまだでしたよね……?」
「……」
この女は馬鹿なのだろうか? 心底あの間抜けた横面を引っ叩いてやりたくなる。
「トリイチエ、十八歳です。歳も近そうですよね?」
「……はぁ? お前、今なんと言ったの?」
反応したくもなかったが咄嗟に耳を疑う。女はベアトリーチェの不機嫌を露わにした反応にびくりと肩を揺らすも、めげずにへらりと間抜けな顔で笑みを浮かべる。
「ち、違ってたらすみません……はは」
「名前」
「へ?」
「……聞こえなかった? もう一度名前を、しっかりと言いなさい」
「ひぇっ……ぁ、えっと……」
じろりとベアトリーチェが睨めば、怯えた女の視線がそわそわと彼女の両端に佇む男達を交互に移動する。……あの白い空間――召喚の儀式が行われた際に居た真っ白い男と、ベアトリーチェを踏み付けた忌々しい黒い鎧の男であった。
白い男の方は長い後ろ髪を一つに結び、不安そうにする女に向けてにこりと優しく微笑んでいる。
髪も肌も、伏せた長い睫毛ですら白く、人でも物でも、常に美しいものたちに囲まれてきたベアトリーチェですら、一瞬息を呑んでしまうような風貌の男だ。血のように赤い瞳だけが、この世の者ではない異質さを孕んでいる。
対する黒い男の方は兜のせいで表情が読めず、女の側から離れない代わりに、テーブルを挟んで一人用の椅子へ座るベアトリーチェへその鋭い眼光を向けて威圧をしてきた。
この部屋へ移動する際も、席へ着いてからも、二人の男は彼女をまさしく女神のようにエスコートし、こうして護衛のように付き従っているのだ。
ベアトリーチェの背後にも先ほどフードを被っていた者達とは別の男が数人控えていたが、その装いからして護衛ではなく、囚人を見張る監視兼懲罰役のようである。
「名前、カンジは読め……ませんよね? 鳥井千枝、トリイチエです。チエ」
もぞもぞとジャケットの胸ポケットから小さな手帳のような物を取り出した女は、やけに精巧な肖像画と見慣れぬ記号を指差す。こんな肖像画を身に持っているという事は、実はそこそこの身分だったりするのだろうか? ふと浮かんだ疑問だったが、いまはそれよりも再び聞く事になった名前の方に不快感が生じた。
「……トリーチェ?」
「ト・リ・イ・チ・エ、です」
「あぁ……」
皇族として染み付いたマナーのお陰で、不愉快さを顔に出すより先に口角が無意識に持ち上がる。
「それで、あなたの名前は?」
それを友好的な反応だと勝手に勘違いした女――トリイ・チエ。
懲りずにまたへらへらとしているその顔を真っ向から見据え、ベアトリーチェはいっそ優雅に口を開いた。
「――ベアトリーチェ」
「え?」
「私の名は、ベアトリーチェ・オーギュスターよ」
ここに紅茶でもあればカップに唇を付けるよりも、頭から被って顔を洗いたい程度にはみすぼらしい身なりではあるものの。
自らの名を口にする時は、皇族としての品格を持ち、威厳と優雅さを示すべく毅然とした振る舞いをしなくてはならない。
それが、十八年間という短い生涯を終えたベアトリーチェのプライドであった。
「……え、え? ベアトリーチェって……も、もしかして、あの、皇女様の……?」
「あら? わたくしのことをご存知?」
「や、やっぱり!? そ、そんなことって……」
この反応は予想外であった。
ベアトリーチェの名前を聞いてから、ぷるぷると興奮したように頬を紅潮させるトリイ・チエの様子に、先ほどまでの溜飲が僅かばかり下がる。
しかし、そんなベアトリーチェのプライドは砂上に立てられた旗のように次の瞬間、さらさらと音を立てて流されてしまった。
「ベアトリーチェ・オーギュスターって……いや、――ガチ悪女じゃん!!」
「……はぁ?」
一つ訂正しよう。
もしこの場に紅茶があるとすれば、無礼にも人差し指を突き付けるこの女の顔に、カップごと投げ付けていただろうと。