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渓流沿いに下って行くにつれ道幅は広くなってゆき、やがて馬車が行き来できる程の通り道へと繋がっていった。
ここまでベアトリーチェを馬に乗せていた見知らぬ兵士は道中なにも話さず、テオドアの方もさっさと先頭の方へ駆けて行ってしまったので、長時間馬の背に乗せられていたベアトリーチェは臀部が石のように固まってしまうという文句を誰にもぶつけることができずにいた。
そこから馬車へと移動手段を移されたのだが、幌を被せただけの馬車は宮殿から連れ出された時と同じく、非常に質素な造りをしていた。
いくつか木箱が積まれているだけで、しかもその木箱は底に布が敷かれただけで空の状態である。
いったいなにを運ぶつもりだったのかと中を覗き込んで不思議に思ったが、結局下山するまでの間に判明することはなかった。
「――ふぅー……」
用意された服は生地がごわついて粗く、デザインも古臭い上に地味な色合いでまったくベアトリーチェの趣味ではない。
まさしく平民が普段着で着るようなそれを見た瞬間、まさかこれは自分のために用意されたものなのかと思い切り顔を顰めてしまった。
かといって、あちこち引き裂いてぼろぼろの布きれと化した『かつて服だった物』を再び着るという選択肢も、もはや服ですらないマントを羽織ったままでいるのもごめんである。
バスタブに張られた湯に、ちゃぷんと肩まで浸かったベアトリーチェは詰めていた息を絞り出すように長く吐き出した。
もくもくと霞み立つ湯気を吸い込めば、湯に沈んだ身体がふわりと浮力で軽くなって白い肌が徐々に血色良く染まっていく。
青黒い痣の痕は痛々しく、擦り傷だらけの足裏もぴりぴりと沁みる。けれど、温かい湯のお蔭で指の先から淡い痺れが肌へ広がり、そこからじわぁ……っと熱が浸み出すかのように、緊張していた筋肉が解れていく心地良い感覚の方が強い。
獣の化け物に襲われた際に負った右手の傷も、気付けばもうすっかりかさぶたも綺麗に剥がれて薄っすら痕が残っているだけだった。結構派手に出血していた筈だが、見た目よりもそこまで深い傷ではなかったのかもしれない。傷の治りがやけに早いことに多少の疑問は感じつつも、このまま綺麗に痕も消えてくれるのであればそれに越したことはない。
「……まぁ、消えない傷もあるけれどね」
鏡に映った瘦せこけた自分の姿に、ベアトリーチェはそっと指で首元を撫でた。
白い首を一直線に繋ぐ細い首輪のような痕。それは紛れもなく――断頭台で首を落とされた痕の名残りである。
すりすりと確かめるように指で擦ってみるが、痛みもないし、しっかりと首は繋がっている。……そう、自分は生きているのだと再確認したベアトリーチェは、息を長く吐きながら湯舟へと顔を半分沈めて目を閉じた。
あれから荷馬車に乗せられ、永遠と続く似たような景色を眺めることおよそ半日。
馬車道に着いたのは太陽が中天に差し掛かった頃で、そこから休みを挟むことなくガタガタと乗り心地の悪い馬車を走らせてゆくと、不安定だった山道もやっと人の手で整備された平坦な道路へと変わり、周りの景色もかなり木々が拓けてきた。
やがて、真っ赤に染まった太陽が空を紫色に焼きながら沈みゆく頃、ようやくベアトリーチェ一行は人が行き交う街中へと辿り着いたのだった。
ベアトリーチェにも馴染み深い首都の賑わいとはかけ離れた静かな街並みであったが、神殿が近いためなのか白を基調とした建物が多く、美しい景観である。
そこへ全身黒の鎧姿で現れた兵士たちの登場に、すれ違う人々はあからさまな畏怖を向けて、皆一様にそそくさと足を速めて去っていく。
そして向かった先は、どこかの邸宅のようだった。
普通、身分の高い者が訪れた際はその邸宅の主か、それに等しい人物が出迎えをする。
けれど出迎えに現れたのは管理者と思わしき初老の男と、ずらりと並んでお辞儀をする侍従たちのみで、屋敷の中へ踏み入った後も主らしき者が出てくる気配はなかった。
閣下と呼ばれていたテオドアに対してそのような振る舞いは非常に無礼な行いであるのだが、理由はすぐに判明した。
どうやらこの邸宅自体に主はおらず、こうして神殿に用があって訪れる貴賓らのために用意されているタウンハウスだったらしい。
屋敷内の手入れはしっかりと行き届いていたが、ベアトリーチェの世話のために訪れる者が誰もいないようだ。
屋敷に着いてすぐ、テオドアが命じていた医者が姿を見せたものの、全身に残る打身と擦り傷以外に大きな怪我もないと知って、塗り薬と栄養とたくさん摂って休むようにとだけ言って帰ってしまった。
あまりにおざなり過ぎる診察に、もしもこれが皇医であったらなら、即座に皇族に対しての不敬罪を言い渡していた筈だ。
とんだ藪医者もいいところだと憤慨するベアトリーチェをよそに、何故か部屋の隅の壁に寄りかかりながら医者の診断結果を聞いていたテオドアは「見た目よりは頑丈だな」と、真に不敬なる発言を残して部屋から出て行ったのにも悔しさが募る。
部屋に湯の支度と服が用意されていたことまではよかったが、幼い頃から自分の世話をしたことがないベアトリーチェにとっては、髪を洗う者も、肌を磨き上げる者も、固く強張った足をマッサージする者もいない風呂など初めてのことであった。
「まさか……髪も自分で乾かさなきゃいけないの?」
なんとかびしょびしょに床を水だらけにしながらも、実に数日ぶりとなる入浴を一人でやり遂げたベアトリーチェだったが、その後も待ち構える試練の壁にうんざりと濡れた頭を押さえて嘆いた。
とりあえずタオルを頭から被って水気を拭うが、束になった毛先からはまだぽたぽたと水が垂れるし、ずっと腕を上げていたせいで重たくなってきた。
「はぁ……どうして誰も手伝いに来ないわけ? どうやって着るのよ……」
そもそも用意された服があまりにもお粗末過ぎる。
それとも到底一人では身支度ができないようなドレスではなかったことを、むしろ幸いとするべきなのだろうか。
渋々袖を通すところまではできたものの、背中のボタンがどうしても一人では届かない。なんとかボタンを留めようと鏡の前で奮闘するも、肩甲骨辺りまでのボタンしか留めることができなかった。
用意された部屋も寝具類も、この屋敷の調度品は良質な物が備わっているのに、どうにもおかしい。まるで予定にはない来客に慌てて使用人の服を着替えとして用意したかのような……。
そこまで思い浮かべたところで、ガチャリと扉が開く音が背後から聞こえた。
ようやくベアトリーチェの世話をする使用人が来たのか。
「……ようやく来たの? まったく気が利かないわね。服を着るのを手伝ってちょうだい」
頭にタオルを被ったままだったため、入ってきた使用人の姿はよく見えない。
「――……」
「……? なにをしているの? 早くして」
一瞬、何故かベアトリーチェの命令にぴたりと足を止めた使用人だったが、早くしろと背中を向けて催促をすれば、再び無言でこちらへと近寄る気配がした。
「それが終わったら髪を乾かして。痛んでしまったから毛先までしっかりと手入れをするのよ」
「……」
「? どうしてボタンを外すの? 折角そこまでわたくし一人で着れたのに!」
ベアトリーチェのすぐ真後ろに立った使用人は、返事すらせずに無言のまま手を伸ばし――どういうことか、途中まで留まっていたボタンを一つずつ外し始めたのだ。
鏡を見ながら掛け違えないように、腕が攣りそうになっても折角一人で留めた筈のボタン。もしや馬鹿にしているのかと苛立ちが一気に高まるベアトリーチェだったが、腰辺りまでボタンを外されて肩が露出したところで、背後からの気配がぐっと近くなったのを感じ取る。
じ……っと。
妙に熱の篭った視線が、暴かれた素肌の上を炙るように注がれる。
そういえば女性にしては、やけに背が高い。
それはまるで、長身の者が背を屈めるようにして、ぐっと身を寄せるような仕草のそれだ。
すぐ後ろに感じる体温に、妙な既視感を覚えたベアトリーチェが首を傾ける。
すぅー……っと、深く匂いを吸い込むような呼吸音の後。
「……前後ろを逆に着ているからだ」
「っ!?」
低く掠れた男の吐息が、タオル越しの耳へと囁きかけられた。
ばっ! と、勢いよく首を捻ったお蔭で、ぐきりと嫌な音がする。
後からじんじん疼くような鈍い痛みが広がり、ずれたタオルの隙間から睨む目に生理的な涙が溜まっていく。
そこには、右目から唇の端まで斜めに刻まれた傷痕を晒す褐色の男――テオドアが、眉を寄せながらベアトリーチェを見下ろしていた。
「なっ、な、なんで……!」
「着替えを手伝えと人に命令したのは貴様だろう」
「そ、それは使用人だと……っ」
「あぁ、それと髪も乾かして手入れをしろとも言っていたな?」
「――ッ」
ぱくぱくと声にならない口を動かし、囁かれた耳を片手で押さえながら、ベアトリーチェはやけに近い距離にいるテオドアから素早く身を離す。
その様はまるで毛を逆立てて威嚇する子猫のように俊敏で、テオドアは無意識に持ち上がる口端を手でそっと覆い隠した。
「……なんて無礼なの!?」
「無礼? ここまで世話を焼いてやった俺によくもそんな口が聞けるものだ」
わざとらしく肩を竦めて片眉を跳ね上げる仕草に、ベアトリーチェは湿ったタオルを思い切り男の顔目掛けて投げ付けてやる。生憎とそんな動きは想定内だったのか、やすやすと首を逸らすだけで避けられてしまったので余計に腹立たしさが増した。
「暴れる元気があるなら、さっさと着替えて下へ降りろ」
「誰が暴れてなんかっ、」
「食事がいらないならそれでもいいが……」
「! き、着替えるわよ! わかったから、早く出て行きなさい!」
水は備えていた水筒から補給できたものの、今日はひたすら休みなく移動に費やしていたため他になにも口にしていない。
意識すればぐぅっと鳴りそうになる腹に力を込めると、ベアトリーチェは男の背中をどんどん叩くようにして部屋から追い出した。悔しいことに広い背中をいくら力いっぱい叩いたところで男にはまったく効いてないどころか、叩いたベアトリーチェの拳の方が痺れてしまう始末である。
痺れた手で苦労しながら、今度はワンピースの前後ろを逆に戻してボタンを留め直す。
こんなに生身で硬いのならば、甲冑など装備する必要もないのではないか? と、恨めしく文句を呟きながら。
***
「……はぁ」
ばたん! と締め出された扉の向こうで、テオドアは人知れず顔を手で覆って深い溜息を吐いた。
高慢で、気性も激しい。幼稚で愚かな女だ。
短絡的な上に喧しく、声を聞いているだけでこちらの神経を逆撫でする。
……だというのに、手の届く範囲に居なければ妙に焦れて、余計に腹立たしさが神経を過敏にさせていく。
なるべく側には居たくないと思いつつも、居場所を把握していないと思考が乱れる。気付けば足が勝手にあの女の姿を探しに行ってしまう。
――番とは、なんて厄介な呪いだろうか。
いくら番の儀式について知らずに行ったとはいえ……いくら自分の意識が朦朧としていたとはいえ、だ。
刻まれた本能に抗おうとすればするだけ、反動でより強いその引力へと引き寄せられてしまう。
傷付かぬよう守ってやりたい。
飢えなど感じさせたくない。
抱き締め、震える身体を温めてやりたい。
身の内から溢れ出るような初めての感覚が、絶えずテオドアの本能へと強く訴えかけるのだ。
こんなもの、冗談ではない。いっそ薄ら寒くて自分に吐き気さえ覚える。
それでも苛立つ感情とは裏腹に、どうしたって日に日に強く芽生えていく独占欲に腹の奥が熱くなった。
あれは、俺の物だ。
俺だけの――番なのだ、と。
匂い立つような肌の白さを目の当たりにして、テオドアは自身の喉が鳴らないよう抑えるのに必死だった。
「……くそっ」
熱くなりかけた下腹の熱に、雄の単純さを感じて忌々しく吐き捨てる。
黙っていれば人形のように綺麗な顔をしているが、口を開けばその喧しさで台無しになるような女だ。
よりにもよって、何故あの女なのか。その場で斬り殺されるか、魔塔へ連れられ生きた研究材料とされるか、そのどちらかしかなかった運命が、こうも予想外の方向へ転がるとは。
……そういえば、自分のこの顔に怯えず睨み返してきた女は初めてだったな、と。召喚された時から変わらない生意気な態度を思い出し、テオドアの口元はまた無意識の内に緩みだす。
はたと我に返ったテオドアは、顔を覆っていた手で今度はぐしゃぐしゃと前髪を掻き乱して舌打ちをした。
苦虫を噛み潰したように顔を歪めたテオドアは、そっとベアトリーチェの部屋の前からようやく離れて階下へと向かう。
たとえ獣としての本能が強く訴えかけたとしても。
たとえ番に対する本能が一際強い獣の血を継いでいるとしても。
「……俺は番になど、絶対に屈してやるものか」
一生涯をその伴侶に尽くして添い遂げる、愛情深い獣――狼の血を受け継ぐ男は、未だ鼻腔に甘く残る匂いにくらりと眩暈を覚えていた。