18
「あぁ、見つかったんだ?」
執務室で部下からの報告を受けたヨルンは、ぎしっと革張りの椅子を軋ませながら長い足を組んだ。
執務室といっても枢機卿という立場のヨルンがやるべきこと務仕ことなどはないし、極まれに中央神殿にて催される祭ことや各領主との謁見行こと等はあるにはあるが、そういったもの以外の雑務はすべて補佐役の者へ押し付けている。
ならば、日がな一日彼がなにをして過ごしているかというと、美味しいお茶を堪能したり、昼寝をしたり、読書に耽ってみたり……とにかく疲れることはなにもしないというのが彼の日常であった。
そしてこの日常につい最近加わったのが、数百年ぶりに召喚された女神の依代である少女との、他愛もないお茶会である。
今日はまだ依代の少女とは朝食を共にしただけで、それ以降は顔を合わせていない。
依代として召喚された者は、この世界にとってはまさしく女神と同様に尊い存在であるため、色々と準備や煩雑な決まりことが山積みで忙しく、今日も朝食の後は他の神官に連れられ授業を受けていた。
「よかったね。発見があまり遅すぎても魔塔の連中がうるさかっただろうし」
ぽとん、ぽとん……と、入れる角砂糖の数は三つ。
三つ縦に並んで積み重なった角砂糖は注がれた紅茶の表面から浮き出ており、じわじわと色を染めながらゆっくり溶けていく。
「元帥閣下の消息が絶たれて四日目でしたから、捜索隊の補助に当たっていた神官たちには既に帰還命令を下しております」
「そ。ご苦労様って伝えておいてね」
女神の依代を召喚する儀式には、得てしてイレギュラーな事象が発生しやすい。
器となる魂の選別、それを手繰り寄せる高次元への干渉とで生じた些細なズレを、まるで天秤にかけて相殺するかのように。
過去には折角喚び出した女神の依代を、同時に喚び出された魔獣によって殺されてしまうという悲惨な事案もあったらしい。
そのため、そういった不測の事態に陥った場合の有効な対策――仮に魔獣が現れようとも即座に処理できるよう、軍の最高権力者であり、大陸最強としても名高いテオドア・リーフェン元帥を同席させていた。
「それで、欠損具合はどうだった? 魔塔へは足の一本でも持って行けば文句もないだろう。これで少しは恩も売れた筈だ」
結果として今回の召喚にも、イレギュラーな招かれざる客が紛れ込んでしまった。
しかし過去に召喚された強大な魔獣と違い、危険視するような存在でもなかったため、〝研究材料〟として魔塔へ引き渡す途中で起こったのが更なるイレギュラーな事象……魔獣による同時襲撃事件であった。
本来魔獣は単体で行動をする。
気性が激しく縄張り意識も強いため、群れで現れるという事例は滅多にない。
〝研究材料〟を輸送する馬車を後方から指揮を執っていたテオドアが、魔獣たちの襲撃にいち早く気付いてその処理に当たったのだが、追いついた後方部隊が襲撃現場へ辿り着いた頃には、既にその姿はなく。
辺りはおびただしい血の海と化しており、食い散らかされた肉片が木々を鮮烈な赤に染めながらぶら下がっていたりと、酷い状況だったらしい。そのすぐ近くでは、ほぼ即死だったと推察される二体の魔獣の死骸。半壊した馬車はもぬけの殻だった。
魔獣はテオドアが処理したのだろう。けれど輸送していた〝研究材料〟と共に、彼の姿はその夜からぱったりと消息を絶っていたのだ。
テオドアの乗っていた馬と〝研究材料〟の足首を戒めていた鎖の欠片が発見されるも、それ以上の手掛かりは掴めず、捜索の範囲を拡大した四日目の朝。
ようやくテオドアの行方が判明した。
中央神殿が位置する地形は、もっとも霊脈の集まる場所として他の領地よりも標高が高く、山脈と高原によって天然の要塞となっている。
いままで神殿周囲で魔獣が出没したことはなかったのだが、今後は周辺の警備体制を見直す必要があるようだ。
「いえ。栄養失調と過労で数日の療養が必要ですが、それ以外に目立った怪我はないそうです」
「あはは。誰もあいつの具合なんか心配していないよ、刺されたって死なないんだから」
これはものの例えではなく、実話である。
報告書に視線を落とす部下に、ヨルンは頬杖をつきながら摘んだティースプーンをゆらゆらと揺らす。
「僕が言ったのは〝研究材料〟の方だよ。二人とも見つかったって言ってただろう?」
「はい」
「夏場じゃなかったのが幸いだね。四日もあれば腐敗してしまうだろうし」
「いえ……ですから、五体満足で無事です」
「……うん?」
どうにも話が噛み合わない。
長い睫毛を邪魔そうに瞬かせながら、ヨルンは部下の言わんとする意味を再度訊ねる。
「無事って、もしかして〝研究材料〟の方?」
「はい。発見時は元帥閣下が保護していたようで、療養後は魔塔ではなく、自らの領地へ連れて行くと仰られております」
テオドアは元帥でありながら首都から少し離れた領地を任され、公爵位を受け継いでいる。
爵位を継ぐ前から実力主義の軍で戦果を上げ続け、爵位を継いでからもその勢いは止まることなく、異例の速さでのし上がった男であった。
軍事にはめっぽう強いが社交の場には興味がないらしく、繋がりを持とうと画策する家門も多いのにテオドア自身が一切の隙を見せないため、更に本人の風貌もその要因となって難攻不落の男としても一目置かれていた。
「……ふぅん……」
ヨルンは溶けかけた角砂糖に、弄んでいたティースプーンを垂直に突き立てる。
「……失礼します。猊下、チエ様の授業が終わったようですので、お呼びいたしましょうか?」
ちょうどそのタイミングで控えめなノックの後に入室した部下が、最近加わったルーティーンである依代の少女とのお茶会を準備すべく声を掛けた。
傍にはすでに二人分の焼き菓子や茶器を載せた台車が控えてあり、窺う前から答えは予測されていたようだ。
「ありがとう。でも、急用ができたからお茶は遠慮しておくよ」
「かしこまりました。ではすぐに準備を…………えっ?」
ぐしゃり、と砂のように脆く溶け崩れた砂糖を回し混ぜると一気にカップを傾けて飲み干す。
カップの底で溶け切らずに残った砂糖が、澱のようにどろりと沈む。
「あぁ、焼き菓子だけ包んでくれる? ――お見舞いには甘い物がいいだろうしね」
うんと甘ったるい笑みを浮かべた男が、砂糖でざらついた唇をぺろりと舐め取る。
その舌先はまるで蛇のように細く割れていた。
***
ぽすっと埋めた鼻先。
むにゅっと柔らかくて暖かい弾力が心地良く、ぐりぐりと更に鼻が潰れるぐらい押し付けて堪能すれば、誰かがあやすようにベアトリーチェの髪を優しく梳いてくれた。
水の中へ落ちてから櫛で整えることもできず、そのまま野晒しにされた髪である。きっとさぞや酷い有様であろう。
けれど、髪を梳く指は非常に丁寧で少しの引っ掛かりも感じることなく、覚醒に近付いていたベアトリーチェの意識を再び微睡の中へと引き留めようとする。
しかし、そんな心地の良い時間は長くは続かず、髪を梳き撫でる手がぴたりとなにかを察知したかのように固まり、少しの間を置いて複数の者がこちらへ近付く足音が聞こえ始めた。
うるさい、まだ寝ていたいのに……。
顔を埋めたまま不満を込めて小さく唸れば、周りの空気がやけに凍り付くようなざわりとした気配を感じ取る。
……そういえば、いつもの枕の感触と違う。
半分夢の中に片足を浸していたベアトリーチェが、ほんの僅かな違和感に気付いた瞬間。
ざっ、と複数の足音がベアトリーチェの周りを取り囲んで止まった。
「……お探しいたしました」
そうして、曖昧だった夢と現実との境界にぱっくりと大きな亀裂が入ってから、ようやく目が覚めたのだった。
「……っ!?」
さぁー……っと一瞬にして血の気が引く音。
この柔らかくて暖かい枕だと思っていた感触には覚えがある。もしかしなくとも、間違いなく、昨晩ベアトリーチェを腕の中に抱きしめて寝た男の胸だろう。
だとすれば、先程まで優しく髪を梳いてくれていたのは――……。
顔が上げられない。すっぽりと鼻先まで埋めていた自分の頬を「なんてはしたない!」と叩いてやりたい。……いや、やはり痛いのは嫌なのでやめておく。悪いのは勝手に抱き締めてきた男の方なのだから。
「……」
こんな状況で素直に目を覚ますのも居た堪れないベアトリーチェは、もう少しだけ寝たふりを続けることにした。
「お怪我はございませんか?」
「あぁ」
「ご無事でなによりです。テオドア・リーフェン閣下」
見知らぬ名前を恭しく口にする声。
いったい誰のことだと考え、数秒後にそれがこの男の名前なのだと理解する。
テオドア・リーフェン。
……悪くない名前だ。
取り囲む周りの気配が膝を着く音が響き、ベアトリーチェは気付かれないよう薄っすらと瞼を開いて――そして唖然とした。
黒い甲冑を纏った十数名の兵士らが、敬服を示すように男に対し跪いて頭を垂れている。
対して跪かれた男――テオドアの方はといえば、ベアトリーチェを腕の中へ抱いて寝転がったまま、欠伸を漏らすだけでなんの反応もない。
薄く濁った白い霧が立ち込める中で、兵士たちの物々しい異様な圧迫感を受けたまま寝たふりを続けるのは、いくら人の視線に慣れているベアトリーチェとて流石に厳しくなってきた。
……別に疾しいようなことは、これっぽっちもしてないけれど!
若い男女がこんな風に身を寄せている姿を他人が見れば、到底信じてもらえはしないだろう。やはり、誤解されるような真似をしたこの男がすべて悪いのだ。
自身の人生において、恐らく上位クラスに位置付けられる最悪な目覚めにベアトリーチェが身体をもぞつかせれば、ようやく背中へ回っていた男の腕がふっと軽くなった。
「……おい。朝だ、起きろ」
「…………ふわぁ~……」
さも、いま起きたばかりだというかのように緩慢な仕草で目をごしごしと擦る。
「……えぇっと、この者たちはなんなのかしら?」
こうなれば下手に動揺を見せるよりも、尊大な態度……つまり、普段通りの振る舞いをしている方が相手に隙を与えずに済む。
むくりと身を起こすベアトリーチェに合わせて、男も腕を引いて起き上がる。
男の腕が離れた途端、妙な物寂しさを覚えて胸の辺りが落ち着かなくなったが、単に体温が離れたせいで寒く感じただけだと思うことにした。
「閣下、お召し物を」
「馬は?」
「あちらに」
よく見れば兵士らが身に纏っている黒い甲冑は、男が装備していた物と色は同じだがデザインが異なる。その差違は単純に階級の差であろう。
閣下と呼ばれた男は配下が用意した黒い外套に袖を通すと、たったのそれだけでまた一段と印象が変わって見えた。
それまでは威圧的で粗野な印象しかなかったが、そこへ高貴さが加わった気がする。閣下という敬称ならば、実際に上流階級であるのも間違いないが。
「……ちょっと。質問に答えなさいよ」
しかし、そんなことはいまさらベアトリーチェにとってなんの問題にもならない。
ベアトリーチェの尊大な物言いにぎょっとしたのは、むしろその周りの方であった。
「どこへ行くつもりなの?」
せっかく迎えらしき救助が来たのだ。こんな山奥でベアトリーチェだけ捨て置かれでもしたら堪ったものではない。まさか、ここまで来ておいてそれはないと思うが……絶対的な保証もないし、否定もしきれない。
強がった口調ではあったものの、ベアトリーチェの内心は酷く不安に揺れていた。
もしも邪魔だからと置いて行かれたらどうしよう……。
置いて行かれるだけならまだしも、もしかしたらまた殺そうとしてくるかもしれない。
明確に言葉にすることもできない不安が、足の裏から血が凍り付いていくかのように冷たく広がっていく。
声を出すのは簡単だ。けれど、舌に乗せた瞬間、意味を理解した頭が勝手に口を閉ざしてしまう。
だってそんなの、言えるわけない。
……一緒に連れて行ってなど、自分を殺そうとした男にどうやって縋ればいいのか。
ぎゅっと密かに手をきつく握り締めていたベアトリーチェに、テオドアはちらりと視線を一度寄せただけで返事をせず、側にいた配下に「この女も連れて行け」と低く命じる。
「はっ。では魔塔へ連絡を、」
「誰が魔塔などと言った?」
「はい……? いえ、しかし……」
「まずは医者に診せろ。その後は……」
テオドアは他の配下が手綱を引いて連れてきた馬の首を撫でると、ばさっ! と外套を翼のようにはためかせて騎乗し。
「俺の領地に連れて行く」
そう告げたテオドアの表情は硬く、不服さがたっぷりと滲んでいた。