17
ぶるっと身震いする風の冷たさに目を覚ます。
身体に巻き付けたマントにもぞもぞと鼻先を埋め直すも、地面から直接伝わる冷気によって残念ながら二度寝はできそうになかった。
「……ちょっと」
ぱちぱちと穏やかな音を立てながら夜闇を踊っていた炎が、白く燻った煙を細く上げて消えかけている。
「ねぇ……火が消えかけてるわよ? ……ねぇってば」
焚火の暖かさのお陰で地面の最悪な寝心地でも眠りにつくことができたのに、いまや火の勢いは申し訳程度にちろちろと木くずを舐めるように頼りない。
折角暖まったベアトリーチェの身体もすっかり冷え切ってしまった。
「……?」
なんとかしろと暗に含んだ声に返答する者はおらず、仕方なく冷えて強張った身体を起こせば男の姿が忽然と消えていることに気付く。
うとうとと船を漕ぎ始めていつの間にか眠ってしまったベアトリーチェだったが、起きている間は確かに焚火を挟んだ向かい側で男は片膝を立てて座っていた筈だ。
「ぇ? ど、どこ行ったのよ……?」
辺りはまだ暗く、朝方には程遠い。
このままではいますぐにでも消えてしまいそうな火を見下ろし、きょろきょろと周辺を見渡してみるが、男の姿を見つけることはできなかった。
「……枝! そうだ、枝を入れればいいのよね?」
火を絶やすわけにはいかない! と、傍らに集められていた枝をまとめて投げ入れてみたベアトリーチェだったが、すでに虫の息だった微かな灯火はとどめを刺されてあっけなく力尽きてしまった。
「あぁっ……ど、どうして!? ちょっと! 火が消えちゃったわよ!?」
焦ったベアトリーチェがいくら声を上げても返事はなく、転がった枝で無残な燃え滓をつんつんと意味なく突いては肩を落とした。
水のせせらぎの他に葉がざわめく音と、ほぅほぅとどこかで鳴いている鳥の声。
寝るには煩わしいと思っていた単調なそれらの音が、急におどろおどろしい不協和音となってベアトリーチェの不安を煽り立てる。
「……ひっ!」
がさがさっ! と茂みの方から響く物音に声が裏返って引き攣った。
胸を打つ心臓の音が鼓膜と繋がっているかのように騒がしい。脳裏に浮かんだのは、あの満月の夜に血を啜っていた巨大な獣の姿だった。
「っ……!」
ひゅうっと吸い込んだ息が冷たく肺を満たし、気付けばベアトリーチェの足は縺れるように動き出していた。
あの男はいったいどこへ行ったのだろうか。……まさか、ベアトリーチェを置いて行ってしまったのではないか? と、押し寄せる不安がどくどくと鼓動を刻む毎に重く圧し掛かる。
茂みから距離を置くように沢の反対側まで進むと、大きな岩場の影からちゃぷんっと水が水面を打つ音が聞こえた。
魚が跳ねる音にしてはやけに大きい。色濃く滲む警戒心にごくりと喉を鳴らしながら、恐る恐る岩陰に身を潜ませながら様子を覗き見る。
ぬぅ……っと。黒く伸びる影が水辺から姿を現し、思わず上げそうになった悲鳴をベアトリーチェは咄嗟に喉奥で噛み殺した。
また化け物か……と肝を冷やした直後、その張り詰めた緊張の糸がふっと弛む。
欠け始めた月が水面にゆらゆらと解け落ち、ぱしゃんっと微かな水音を立てて飛沫を煌めかせる。
そこには行方をくらませていた筈の男が、彫刻のように深い影を落とす肢体を惜し気もなく月夜に晒しながら水浴びをしていた。
張り出した厚みのある筋肉には無駄な脂肪がなく、引き締まった腰にかけてのラインは見事なまでの逆三角形を描いている。……と、ついついじっくりと観察をしてしまったが、別に覗きをしに来たわけではない。
沢はちょうど男の腰辺りまでの水位だったので、なにとは言わないが結果的には助かった。
消えてしまった火については、男が火の番もせずに離れたせいだと罪をなすりつけておこう。
それにしても、よくもまぁこの寒さの中で水浴びなどできるものだと、置いて来てしまったマントの温もりを恋しがるように、自らの肩を抱き締めて震えるベアトリーチェ。
ふと、水に濡れた男の身体から僅かに湯気が立ち上っているのに気付いた。
すっかり治ったのかと思っていたが、もしかしたらまだ熱があるのかもしれない。この水浴び自体も身体を清めるというよりは、身体の火照りを鎮めているといった方が近いように見える。
「……!」
はっと我に返ったベアトリーチェは、今度こそ男の身体から引き寄せられる視線を無理矢理引き剥がした。
あんな風に若い男の身体を見る機会など、幼い頃から親子ほど歳の離れた相手との婚約が決まっていたベアトリーチェにある筈もない。だから少し物珍しかっただけだ。
もうここから立ち去ろうと、こっそり踵を返したベアトリーチェだったが。
「……ぁっ、!?」
水辺で濡れた草木とぬかるんだ土に、ずるっと足が滑る。
こんなタイミングで!? と、一瞬のうちに浮かんだのは誰に向けての恨み言なのか。
両腕を振り回して足掻く間もなく、ばしゃんっ! と。
ベアトリーチェは背中から沢の中へと滑り落ちてしまった。
「ぅッ、けほっ! ふは……つ、めた……っ!」
いくら足が着く程度の深さとはいえ、辺りは月明かりしかない暗闇で、さらには水温も昼間よりぐっと下がっている。
水面から慌てて顔を出したベアトリーチェは、肌を突き刺すような水の冷たさにがくがくと凍えながら立ち上がった。全身ぐっしょり水に浸かってしまえば、濡れて張り付いた服が外気で冷えて余計に体温が奪われていく。
「う、うぅっ……寒い……っ」
それだけでも最悪だった状況は、しかし。
すぐ背後からかけられた低い声によって、さらに最悪な展開へと追い込まれてしまった。
「……なにをしている」
それは呆れを多分に含んだ声色だった。
「ッ! み、見てないわよ!? 勘違いしないで! ……火、火が、お前のせいで、だからっ……」
「……」
また妙な疑いをかけられるのはごめんだと、振り返ると同時に自身の無実と濡れ衣を男に着せるべく捲し立てたベアトリーチェだったが、そもそも見ていないと主張をするのならば振り返るべきではなかったと後になって思い知る。
水中が揺らぐ気配はしていたが、思っていた以上に近い距離にある男の身体を目の当たりにしてぎょっとした。
遠目からでは気付かなかったが、男の身体のあちこちに大小さまざまな傷痕がいくつも見える。どれも古い傷痕ではあったが、この男はいままでにいったいどれ程の死戦を生き抜いてきたのだろうか。
そういえば手にも細かい傷痕がたくさんあった。
「だからっ……火が、その……」
この後に及んでもまだ言い訳じみた言葉を口の中でもごつかせる。
ぱしゃっと水面が揺れ、男の身体が更にベアトリーチェとの距離を詰めていく。
……近い。なんだこれは、どうして近付くのだろう。
綺麗ではあるが、いつも冷たいだけの視線を向けられていた金の双眸は、なにかを探るようにじっとりとベアトリーチェの顔や口元、濡れそぼった身体へと順に向けられる。
じりじりと男が近寄る度に、ベアトリーチェの足は水中で縺れそうになった。
「ちょ、……な、なにっ? なんでこっち来るのよ?」
冷たい水の中に滑り落ちたショックでばくばくと騒いでいた心臓は、いまはなんだか別の理由で騒いでいるような気がする。
「だ、だから、なんでって……っ」
水中で少しずつ後退していた足が、とん……と淵に当たって追い詰められる。
あ、と思った時には男の腕が伸びていた。
「ひゃ……ッ!?」
ぴとりと密着する男の素肌が熱い。
発達した硬い筋肉が、濡れた薄い衣服越しの身体に押し付けられる。
驚き息を呑めば、耳朶に熱いものが触れてびくりと肩が跳ねた。
「――はぁ……」
それが身を屈めてベアトリーチェの首筋に顔を埋めた男の吐息だと知って、腰が抜けそうになる。
触れるか、触れないか。
擽るような微妙な距離感で、細い首を柔らかく撫でる男の唇。
ぐぃーっと重たい身体が伸し掛かり、膝の間に男の脚がするりと割り込んだ瞬間。
ベアトリーチェの頭は一気に沸騰した。
「……はっ、はっくしゅんっ!」
正確には、頭の中は沸騰しそうに熱くなっていたが、実際には冷え切った身体が体温の低下を知らすべく発したくしゃみである。
「…………」
「…………」
この空気はなんなのか。
なんとなく怪しい雰囲気だった筈の空気感が、一瞬で居た堪れない類のものへと切り替わる。
……わたくしは悪くない! と、無言の圧に負けじと胸を張ろうとするも、開きかけた口は言葉を発する前に二度目のくしゃみで掻き消されてしまった。
「……どけ。着替える」
「ふ、ぅ……うぅっ……さ、寒い……」
ぐいっと肩を押しやられ身体を退かされる。
ベアトリーチェのすぐ背後に男が脱いだ服が置いてあったのに気付き、もしや先ほどの行動はただ服を取ろうとしただけだったのではないか? と、茹った頭をもう一度水に沈めたい気分になった。
すぐ横で着替える男の様子を視界に収めないようにしつつ、がたがたと全身を震わせながらようやく身体を引き上げる。
末端の指の感覚は冷た過ぎてもげそうに痛い。痛くてとても自力で歩けそうにない。
そんなベアトリーチェを見て、着替え終わった男は軽い舌打ちと共に震える身体を抱えて歩き出した。今度は担ぐのではなく、ちゃんと腕の中で抱き上げて。
多少乱暴な仕草ではあったが、この際どうでもいいと思える程度には緊急事態であった。
「凍死したくないなら濡れた服は脱げ」
すっかり消えた焚き火の跡を見て男は一瞬眉を顰めたが、火のそばを離れた方が悪いのだと、歯をガチガチ鳴らしながら声にならない声で文句を漏らす。
特に反論もなく、男は直ぐさまマントでベアトリーチェの身体を包んで、再び火を起こしてくれた。
オレンジ色の炎が揺らめき、冷え切った肌の表面をじわじわと炙っていく。
男の言葉に従うのも、服を脱げなどと言われて素直に服を脱ぐことにも、冗談じゃない! と、噛み付いてやりたい気持ちは山々であった。
けれど、服が濡れたままではどんどん体温が奪われていくのも身に染みて実感したため、ベアトリーチェはマントの中で濡れた服をもぞもぞと脱ぎ捨てた。
「……貴様は、目を離すと碌なことをしないな」
「ぅうっ……うるさい……、誰のせいでぇ……」
蓑虫のように頭からマントを被って小さく丸まるベアトリーチェを、まるで珍獣でも見るかのような目付きでじろじろと眺める男。
いったい誰のせいでこうなったと思っているのか。
恨めしい気持ちで睨み返せば、予想に反して男はくっと喉を鳴らして目を細めた。
……いま、笑った……?
侮蔑を含んだ嘲笑ではなく、ふいに溢れるような控えめな笑い方だった。
またも心肺速度がばくばくと上がっていき、わけもわからずに顔を背ける。わからないが、あまり見てはいけないものだと本能的に悟った。
「おい」
「……」
反応があからさまだったのだろう。顔を背けたベアトリーチェに対し、いつものように不遜な呼びかけをする男を無視する。
男は濡れて束になった髪を軽く振ってかき上げると、マントに包まったベアトリーチェの身体を抱き寄せて腕の中へ閉じ込め――ごろんとその場で寝転がった。
「きゃっ! ……っ、こ、今度はなに!?」
「このまま寝てろ」
「は、はぁっ? どうしてお前の腕の中なんかで……ちょっ、どこ触って……!?」
「しぃー……」
「っ!?」
抱え込まれた男の腕はきつく、自由に動けない状態のベアトリーチェでは解くことができない。……きっと自由に動けたとしても無理であろうが。
しぃー……っと、顰めた男の吐息がマント越しの耳に吹き込まれる。こんな子供相手にするような仕草など、絶対にするような男ではなかった筈だ。
「いいから」
「……」
なにがいいのか。
なにも、ちっとも、これっぽっちもいい筈がない。
それでも硬くて冷たい地面の上よりかは、男の腕の中の方が暖かいし、意外と弾力があって柔らかいのだと知る。
とくんとくんと伝わる男の心音に耳をそばだてれば、一人でいた時に感じた不安はあっという間に霧散し、代わりにベアトリーチェに訪れたのは抗い難い睡魔であった。
「…………ふんっ」
だからこれは、仕方なくの妥協である。
そうして妥協で選んだ腕の中の寝心地は、謎の黒甲冑を纏った男たちがベアトリーチェを取り囲むまで、ぐっすりと久方ぶりの快眠をもたらした。
「お探しいたしました。ご無事でなによりです――テオドア・リーフェン閣下」
なんとも物々しい雰囲気の男たちにずらりと取り囲まれる。
そんな男たちを跪かせたまま、呑気に欠伸を漏らす男の腕の中で目を覚ましたベアトリーチェの心情としては、過去一番の最低な目覚めではあったが。