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 整備された道ではないものの獣道と言う程でもなかった平坦な地面が、先を進むにつれて段々と下る傾斜が険しくなってきた。

 そもそもベアトリーチェにとっては山道を歩くという経験など皆無である。

 男の進む速度が多少ゆっくりになったとはいえ、棒のように感じる足を引き摺るようにして着いて行くのでやっとであった。気を抜けば膝からがくりと力が抜け、そのまま転げ落ちてしまうかもしれない。

 苔むした場所を踏んで滑らぬよう、神経を擦り減らしながら自分の足元だけを見つめていたベアトリーチェだったが。

「…………はぁ」

「? なに、――きゃあっ!?」

 足を止めた男は何故か観念したような溜息を吐くと、数歩分あった距離をたったの一歩で詰め――ひょいっと、ベアトリーチェの身体を持ち上げた。……いや。正しくは、担ぎ上げたと言うべきだろう。

 太く逞しい腕が腹に回ったかと思いきや、足が宙を泳ぐように浮いて身体の重心がぐらりと大きく傾く。

 ぐんっ! と広がった視野に映るのは、先ほどまで自分が立っていた地面だった。

「暴れるな。落とすぞ」

「ぅぐ……な、なんでよっ!?」

 地面が遠い。男の肩へ担ぎ上げられた自身の体重が腹に集中し、胃が圧迫されて潰れた声が漏れる。

 崩れたバランスを取ろうと足をばたつかせるベアトリーチェを、男は邪魔臭そうに一喝すると膝裏を片腕で抱え持って平然と歩き始めた。

「ちょっ、ちょっとぉ……っ!」

 ずんずんと歩く振動が腹に直接響き、下がった頭に血が集まりだす。

 ベアトリーチェに対して到底考えられない野蛮な行動をする男だと充分に知ってはいたが、もはやここまでくるとなにか重大な感覚が欠如しているのではないかと疑ってしまう。

 突然許しもなく身体に触れ、丁重に抱き上げるならばまだしも、まるで刈り取った雑穀を運ぶかのように雑な方法で担ぎ上げられたのだ。

 さらには「落ちるぞ」という警告ではなく、「落とすぞ」という明確な脅し文句付きである。

 こんな高い位置から不安定な体勢で落とされでもすれば、顔面から無様に着地するのは必至であろう。今までの経験からして、暴れたら落とすという言葉には真実味がたっぷりと込められている。

「……っ、あぁもうっ!」

 落とされたら堪らないと、ベアトリーチェは慌てて男の首と肩にぎゅうとしがみついた。




 どことなく森に漂う空気の質が変わったと感じたベアトリーチェだったが、どうやらその感想は間違っていなかったらしい。

 草木と土の匂いの他に、涼やかな水の流れる音と澄んだ空気。

 果たして水に匂いなどあるのか興味もないが、吸い込んだ肺がすっきりと心地良く澄み渡って気分が落ち着く。

 あれから男にもっと丁寧に運べと文句を言うも、逆にわざと険しい傾斜の横道を選んで進まれ、危うく舌を噛みそうになってしまった。

 渋々ここまでの道中ベアトリーチェは口を閉ざす他なく、せめてもの仕返しとして揺れに合わせてこっそり男の肩に爪を立ててやったが、見ことなまでに無反応であった。

 湿った地面を下りる男の靴音に砂利が混ざる。開けた木々の間から見えてきたのは流れの穏やかな渓流だった。

 巨大な岩を挟んだ手前側には流れた水が溜まってできた沢もあり、男の肩越しから首を上げて覗き込めば、ちらほらといくつかの魚影も見える。

「降りろ」

「っ、! ……だ、だからっ、もっと丁寧に扱えと何度言えば理解するの!?」

「貴様に命令する権利はない」

 流石に放り落とされるような真似はされなかったが、降ろし方も担ぐ時と同様に雑だったため着地した足がふらつく。

 男はさっさと渓流の方へ進むと膝を降り、大きな手で水を掬って飲んでいる。飲んでもいいものかと少し迷っていたベアトリーチェは、それを見て躓きそうになりながらも慌てて自分も駆け寄り、両手で水を掬ってごくごくと喉を鳴らした。

「んっ、んっく……はぁー……」

 神殿で飲んだ湧水よりは温かったものの、疲れ切った身体には染み渡って生き返る気分だ。ついつい勢いのまま飲み過ぎそうになったが、急激に水を飲んだ時の胃痛を思い出し、ちびちびとゆっくり飲むことにした。

 ばしゃっ、と固まった血を洗い流した男は、濡れた前髪を後ろに撫で付けて立ち上がると「そこに居ろ」と短くベアトリーチェへ告げて、大きな岩場が重なる方へと行ってしまった。

「…………あいつ、なんなのかしら」

 岩の上を簡単に飛び乗り消えていく男の背中をぼんやりと眺めるベアトリーチェは、手頃な大きさの石を見つけて腰を下ろす。ごつりと硬い石の感触に顔を顰めるも、一度座り込んでしまえばもう立ち上がれそうにない。

 未だに素性の知れない男であるし、これまでの仕打ちを決して許したつもりもない。処罰できる機会があれば絶対に罰してやる。……まぁ、数々の非礼を泣いて詫び、ベアトリーチェへ跪いて許しを乞うのならば鞭打ち十回程度で許してやってもいい。

 それと、どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか。なんの目的があって、連れ出したのか。

 トリイチエの中途半端な説明だけでは、なにもかもわからないままだ。

 正直、今のところ信用など一ミリもない男に着いて行くのも得策とは言えないかも知れない。だが、馬車を襲ったような見たこともない巨大な獣の化け物がうろつく世界なのだ。

 本当に悔しいことではあるが、いまのベアトリーチェにとって頼れるのはあの男だけ。

 いつでも不機嫌そうに寄った濃い眉と、目を引く派手な傷跡。そして印象的な鋭い金色の目を思い浮かべる。

「……そういえば、名前も知らないわ……」

 そんな当たり前のことにいまさら気付いたのは、男がこんもりと大量の枝を抱え戻ってきた頃であった。





 ***

 ぱちん、と火花が細かく砕けて弾ける音。

 すっかり陽も落ちてしまえば、水辺はやはり一段と肌寒い。陽の落ちる早さから予測して、季節的にはやはり秋に差し掛かった頃だろう。


 あれから大量の枝を持って来た男は、沢のほとりに次々と枝を並べ始めた。

 一体何をしているのかと眺めていれば、腰元のベルトからしゅるりとなにかを引き抜く。見れば、一本の小型ナイフであった。

 ……武器! まだ持っていたの!?

 下手に挑発し過ぎていれば危うかったかも知れない。

 ナイフで木の皮を器用に剥ぎ取った男はそれを更に割いて落ち葉と共に枝の上に乗せる。次いで、何故か片足を上げたかと思えば、靴の踵――よく見れば薄い金属板のような装飾がある――にナイフを素早く擦り当て、あっという間に火種を起こしていた。

 冬は暖炉に薪を焚べたりと、火は日常にありふれたものであったが、実際に火を着けるところなど初めて目にする。

「わぁ……」

 物珍しそうに目を輝かせながら重たい腰を上げて近付くベアトリーチェに構わず、今度は再び渓流の方へ向かった男は、人の頭より少し大きめな石を片手で拾い上げていた。

 軽そうに見えるが、それはきっと錯覚だ。絶対に重い。

 どうするつもりかと見守っていれば、おもむろに腕を振り上げ……バキッ! と、渓流の浅瀬にある岩に叩き割っていた。

「な、なにをしてるのよ……?」

 流石に奇怪過ぎる行動に戸惑いを見せるベアトリーチェ。けれどその数秒後、ぷかぷかと浮かび流れて来る魚を拾い上げる男を見て密かに感心してしまったのは内緒にしておいた。

「……」

 揺らめき舞う炎を眺めながら取り囲む二人。

 オレンジ色に照らされた男の顔には影が濃く落ち、精悍さがより一層増して見える。

 侮蔑じみた言動さえなければ、やはり顔立ちはとても良く整っている。見た目の良し悪しで言えば、どこの令嬢であってもきっと夢中になるだろう。

 だが、それを補って有り余る程度には性格が悪過ぎる。

 元々あまり喋らない寡黙なタイプなのだろう。その癖、殺意や敵意はだだ漏れで、口を開けば慇懃無礼な言動でもって人をとことん蔑む。

 常に不機嫌そうに顰めている顔も、目立つ傷痕も、威圧感を与える長身も、なにもかもがマイナスに働いてしまうような男だ。

 ベアトリーチェは男から奪ったままのマントを被り、立てた両膝に顎を乗せて男の様子を観察する。


 けれど、男はどこか変わったような気がした。

 例えば……ベアトリーチェを気遣うようになった、ように思える。


 自分でそう思った癖に、あり得なさすぎる考えに心の中で思い切り吐き気を覚えた。

 気遣う? どこが? ……はっ! 馬鹿らしい。

 散々な目に遭っているのは間違いない。悪態をついて鼻で笑い飛ばしたくなった。


 じゅっ……と、時折垂れ落ちた魚の脂が、火の勢いを増して香ばしい匂いを漂わせる。

 内臓を処理するところと、魚の生臭さに最初は鼻を覆っていたベアトリーチェだったが、段々と火に炙られて食欲をそそる香りを立て始めると、火の周りにずらりと並んだ魚から目が離せなくなった。

 ……食べてもいいのだろうか?

 胃がキリキリと絞るような空腹を訴えて、いい加減眩暈すら感じる。ちらりと男の様子を窺いつつ、木の枝に刺さって焼かれている魚へとそぉっと手を伸ばす。

「――おい」

「っ!」

「それはまだ生焼けだ。……こっちを食え」

「……ん」

「舌を火傷するなよ」

「ぅ、うるさいわね……」

 ベアトリーチェを制止する声に、てっきり咎められたのかと焦ったが違うらしい。

 こほん、と控え目に咳払いをしてから尊大な仕草で受け取った。


 ナイフもなければフォークもない、皿にすら乗せられていない魚に恐る恐る直接齧り付く。

 マナーという概念が崩れ落ちる音と引き換えに、頬張った皮の香ばしさと身のじゅわりと脂が滲む淡白な味わいに、ベアトリーチェは眉を顰めて鼻白む。


「まぁ……塩が足りないわね」


 その晩、ベアトリーチェは魚を四匹も平らげた。

 男の口端は微かに持ち上がっているようにも見えたが、きっと気のせいだろう。


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