15
……絶対に、絶対におかしい。
仮に人の皮を被って騙した獲物を喰らう化け物が存在するのだと聞かされても、驚きはしない。むしろ、やっぱり! と強く納得してしまうだろう。
肩に羽織った黒いマントはベアトリーチェの身長には長過ぎて合わず、裾を不格好に結ばなければ歩く度にずるずると引き摺ってしまう。実際そのせいで二度ほど躓いてしまった経験を元に、三度目を回避すべくこんな格好となってしまった。
夜は暖かくて毛布代わりにするには丁度いいと思っていたが、昼に羽織るとなると華奢なベアトリーチェには重たい上に、歩いているだけでじわじわと汗が浮かんでくる。
「……はぁ……」
ここ数日まともな食事どころか、水ですら昨晩飲んだきりだったベアトリーチェにとって、滲み出る汗とともに体力まで削れていくような感覚に陥っていた。
以前、思い付きで宝石付きの鳥かごを装飾品として、頭に飾り立てたヘアスタイルを社交界で流行らせたことがあるベアトリーチェとしては、カナリアの糞が誤って落ちてこない分だけましにも思えたが……やはり重たいものは重たい。
派手な翼や美しい囀りの小鳥を頭の鳥かごで飼うというスタイルを、当時はどの貴族令嬢も競って飾り付けていたが、結局首と肩への負担が大きいため真っ先に辞めたのもベアトリーチェであったことを思い出した。
「……」
てっきりあのまま穴の中へ置いて行かれるものだと思っていたが、何故か戻ってきた男は編んだ蔓を投げてベアトリーチェを引き上げてくれた。
着ていた服は散々引き裂かれて膝も太腿も丸見えだったので、咄嗟に落ちていたマントを拾い羽織ってみたが、そのことに対しても当の本人は未だに無反応である。
ベアトリーチェの数メートル先。こちらに広い背中を不用心に晒しながら歩く男は、穴から抜け出てから数時間は経つものの、あれからずっと無言を貫いている。
正直この男の後を素直に着いて行っていいものか非常に悩ましいところではあったが、最初に出会った頃の殺伐とした空気は鳴りを潜めているし、他に行くような宛てもない。殺すつもりなら、そもそも助けに戻ってなど来ない筈。
そう不安に揺れる自身の勘を必死に裏付けしていきながらも、それでも男から距離を取ることで僅かばかりの予防線を引いていた。
男はこちらを振り返ることもなく進んでいくが、時折なんの前触れもなく地面を靴の底で蹴り払ったり、目印なのか近くの木から枝ごと素手でばきりとへし折ったかと思いきや、雑に葉っぱだけをぶちぶちと引き千切って地面へと捨てている。
残った枝も邪魔そうに遠くに投げ捨てていることから、果たして男の行動に意味があるのかないのか、ベアトリーチェにはさっぱり理解できない。
そうして男が千切って捨てた葉っぱの上を歩いていたベアトリーチェだったが、ふと他の地面よりも柔らかく沈むような感触であることに気付いた。
「……?」
よく見れば、葉っぱが散らばっている箇所は少しだけ湿ってぬかるんでいる気がする。
そのまま歩いていれば裸足のベアトリーチェの足は泥だらけになっていただろう。
とはいえ、いままで森の中を疾走し、地中を歩き回っていたのだ。とうに足の裏は乾いた土がこびり付いて真っ黒に汚れている。……けれど、前に森の中を駆け抜けていた時よりは泥汚れもそこまで酷くはない。
ざっざっ、と再び地面を靴で払う音がして視線を前方へ向ける。
またあの奇妙な行動をする男の足元を、今度はじっと観察してみた。距離があるせいで結局よくわからなかったが、蹴り払っていた場所まで歩みを進めるとようやく男がなにをしていたのかが判明した。
ごつごつと尖って硬そうな小石が、いくつも脇の方へと転がっている。気付かずに踏んでしまえば足の裏を切っていたかもしれない。それまでにできていた細かい擦り傷はまだ痛むが、それ以外に今日はまだどこも怪我などしていなかった。
……まさか、流石にこれは都合の良いように考え過ぎではないか。
確かにそう考えれば男の妙な行動にも符合してしまうが、わざわざそんなことをする意味も、される意味もわからず、ベアトリーチェはそれらの行動をあくまで偶然の産物として片付けることとした。
「あっ」
どこまでも続く変わり映えのない景観に飽き始めたベアトリーチェは、何気なく左右に流していた視線をぴたりと止める。
少し横道に逸れた茂みの先で、なにか点々と小さな赤いものが目に映った。よく見ると、爪の大きさ程の赤く熟した実が、数粒ずつ房になって葉の合間から生えているようだ。
「……食べられるかしら……」
たっぷりのカスタードクリームの上に、鮮やかな彩りで盛られた甘酸っぱいラズベリータルトを思い出す。少し形は違っていたが、ベアトリーチェの知る果実ともよく似ていた。
ちら、と男の背中と木の実を見比べたベアトリーチェは、すぐに追い付ける距離だと確認して小走りで木の元へ向かう。
幸い背伸びすればベアトリーチェの手が届くところにも実はなっており、ぐっと足の爪先に体重を掛けながら片腕を伸ばす。
「んっ、……取れた!」
思ったよりも簡単に実を落とすことができたので、マントを胸の前に広げると受け皿の代わりにして房ごともぎ取る。
水分量が多いのか、指で摘むとぷにぷにと柔らかくて瑞々しい。ごくりと無意識の喉を鳴らしながら、あーんと口を開いたベアトリーチェだったが。
「おい」
突如上から降ってきたなにかに、がしり! と手首が完全に固定されてしまった。
咄嗟に振り返ろうとする隙間もない程に、背中からすっぽりと……まるで胸の中へ抱き留められるかのような距離の近さ。
頭上から響く低い苛立ちの声。
自分以外の体温に、不快ではない雄の匂い。
ベアトリーチェよりも先を歩いていた筈の男であった。
驚いた弾みで、受け皿にしていたマントからもぽろぽろと赤い実が零れ落ちる。
「っ、!? ちょ、ちょっと……離しなさいよ!」
頭が理解するよりも先に、首裏からぞくぞくぅっと走った痺れに背中がむず痒くなって、思わず声が裏返ってしまった。
勢いよく顔を上向けば、ベアトリーチェの後頭部辺りでむにゅっと当たる適度な弾力。……もしかせずとも、十中八九、男の分厚い胸筋であろう。それだけ体格差も身長差もあるのだから仕方がない。
無理矢理割り切ったベアトリーチェは、未だに手首を掴んだままの男に大してじろりと視線を尖らせた。
「いつまで掴んでいるつもり? さっさと離しなさいってば!」
こちらを見下ろす金の目は冷たく、相変わらず苛々とした態度を隠しもしない。いい加減そんな目で見られることに鬱陶しくなり始めたところで、男はようやくベアトリーチェの手首を解放した。
ずき、っと痺れる腕を見ると、男の五指がしっかりとベアトリーチェの白い肌に赤い痕を残している。相変わらずなんて力だ。ぞっとしたが、恐らくあれでも加減はしてくれていたのかもしれない。でなければベアトリーチェの細い腕など、歩く先々で折っていた木の枝のようにぽきりと音を立ててへし折られている筈だ。
「何故、勝手に離れた?」
「……はぁ?」
痛みを紛らわせるために赤くなった手首を摩るベアトリーチェに、男は眉をきつく寄せて舌打ちをした。
「俺の許可なく勝手な行動をするな」
「はっ。許可ですって? どうしてお前の許可がいるのよ?」
「貴様に説明する義務はない」
「だったらわたくしにも従う義理はないわ」
「…………」
「…………」
バチバチッ! と。
見えない火花が両者の視線の先から弾ける音がした。
男は一度も振り返ることなく進んでいたので、まさかこんなに早くベアトリーチェが後ろを着いて来ていないことに気付くとは思わなかった。そもそも果実を摘んだらまた男の後を追うつもりではあったのだが、明確にせずとも行動を共にするという点においては、男の方も同じ認識だったのだろう。……それもやはり意外ではあった。もしかすると、途中でまた置いて行かれるか、着いて来るなと脅されるかもしれないと考えていたからだ。
男はもう一度舌打ちをすると、くしゃりと前髪を邪魔そうにかき上げた。
「……それはリンドの実だ。毒性が強く、食えば全身が痺れて半日は動けなくなるぞ」
「えっ?」
じっ……と、男の視線が赤い実に向けられる。慌ててマントに包んでいた残りの実を投げ捨てた。
確かに、これだけ実が沢山なっているのに、それを食べに来る小動物の姿を一切見掛けない。
実を放り投げたベアトリーチェを確認すると、再び男はくるりと背を向けて歩き始める。少し迷ったものの、数秒遅れてその後をベアトリーチェも追うことにした。
「この先に沢がある。それまで我慢しろ」
「……ゎ、わかったわよ」
正直もう歩きたくなどない。今すぐへたり込みたいが、馬車はないし、食べる物も飲み水さえも見当たらないこの場所へ留まっていても、なにも得るものはないのだ。
「……」
先ほどと同じく、先を歩く男は無言のままこちらを振り返ることなく進み続ける。
けれど先ほどまでと違うのは、男の歩く速さが随分とゆっくりになっていること。お陰で後を追う男との距離は、たったの数歩分にまで縮んでいた。
……絶対におかしい、と。いままでの男の態度と言動を思い返すベアトリーチェ。
いつまた自分を殺そうと豹変するかもわからない、危険な男だ。
あまり男の領域に踏み込みすぎないよう警戒しつつも、とりあえずは一時休戦ということにしておこう。
――と。数時間前までは、そう思っていた。
欠け始めた薄明かりの月が、しっとりと濡れた男の肢体を惜しみなく照らし出す。
太く盛り上がった筋肉の狭間に幾筋もの水が伝い流れ、鴉の羽のように濡れた毛先から垂れた水滴が、ぽたりとベアトリーチェの頬に落ちる。
触れた男の素肌は、水の冷たさが心地よく感じられる程に熱い。
薄く細められた金の双眸は、どこか欲を堪えるような飢餓感を滲ませてベアトリーチェを見つめる。
はぁ……っと、唇を掠めるのは、驚くほど近い距離で漏れた男の熱っぽい吐息だった。
「……ッ、!?」
どうして。
いったいなにがどうなって、こうなったのか。
金槌で頭を殴られたような衝撃に、ベアトリーチェはただただ記憶の糸を手繰り寄せることしかできなかった。