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「その『番』って、どういう意味なんですか?」
鳥井千枝は皿の上に並べられたビスケットに手を伸ばしつつ、何度見ても見慣れない美貌を持った麗しい男の顔をまじまじと見つめる。
人様の顔をそうジロジロと見ることは世間一般から見て非常識であることはわかっていたが、世間一般から見ても、こんな機会でもなければ到底お目に掛かれないであろう顔面を拝まずしてなにを拝むというのか。
うっすらと血管さえ透けて見えそうな程に白い肌。高い鼻梁に柔らかそうな唇。
指通りの良さそうな白銀色の長髪はサイドに編み込まれ、同じ色の睫毛は頬に影が落ちるほど長い。
白地に細かく銀糸で刺繍が施された衣服は、中性的な雰囲気も相まって神秘的で、更には禁欲的な倒錯感さえも滲み出ている。
スポットライトとレフ板はどこかと探してみたが、なんとこの輝きは自前であるのが驚きだ。これが少女漫画ならば背景に必ず大輪の花を背負って登場しているだろうなと確実に予言できる。
女優やモデルでさえも裸足で逃げ出す美しさの男は、その長い脚を組みながらにっこりと。雪の化身のような存在で、唯一の赤い瞳を細めながら微笑んだ。
「番は番だよ。種を残すために、子を為す伴侶のことさ」
穏やかで優しい、人を落ち着かせる声だ。
もしもこの声帯と顔面で全肯定してくれるならいくらでも課金できる。今月分の手付かずだった入ったばかりのバイト代を全部ブッ込んだとしても悔いはないだろう。
「んっと、それはわかってるんですけど……」
微妙なニュアンスの違いなのか、聞きたかった質問の答えとは少し違った返事にもぐもぐと咀嚼したビスケットを紅茶で流し込む。
見知らぬ異世界へと喚び出されてから数日。
セレブ顔負けのVIP待遇を甘受するハードルは、庶民にとってはあまりにも高い。
千枝が言いたいことなど端からお見通しだったのだろう。ぷ、っと堪え切れずに吹き出して笑う男の美しい顔に目を奪われつつ、からかわれたことに拗ねて頬を膨らました。
「あぁ、ごめん。そんなに怒らないで? 嘘は吐いてないけど僕が少し意地悪だったね」
「……ヨルンさんは、自分の顔面が国宝級だってわかって言ってますよね」
「うん? 僕の顔? さぁ……君はどう思う?」
「ぅっ……ま、眩しい……!」
ずいっとテーブルに上体を乗り出して身を寄せ、さらには上目遣いというダブルコンボを食らった千枝は思わず顔を手で遮って苦しみの声を漏らす。あと数秒でも直視していたら、こちらの目が焼かれて溶け落ちてしまったかもしれない。ちなみに物凄く良い匂いがふわりと漂ってきて気絶するかと戦慄もした。
そんな千枝の反応を面白がるように肩を震わせて笑う男――ヨルン・カルヴァリオスは、ひとしきり笑った後でようやく身を引いて脚を組み直す。
そんななんでもない仕草ですら、バズーカ砲のような一眼レフカメラで数百枚は激写したいと思わせる罪深い男に、千枝はそっと静かに深呼吸をした。この顔に迫られたらどんな悪戯でさえも諸手を上げて許してしまうだろう。
「まぁ、さっきも言ったけど間違ってはいないかな。僕らは獣の本質の方が強く表れているから、どうしたって種を残そうとする意識は高い。とはいえ、もちろん理性はある。その辺りの話は覚えているかい?」
「あ、はい。女神様……えっと、セレスティア様が、理性と慈しむ心を与えてくれたって……」
「うん、その通り」
よくできました、とでも褒める調子で気軽に微笑まれ、千枝の心臓は数十回目の心臓発作を起こしかける。気持ちを少しでも落ち着けるために、ごくりと少し冷めた紅茶で唇を湿らせた。
「だから本能のままだけで振舞わないよう、僕らは番と決めた者だけと子を為す」
確かに、ただ本能のままに繁殖だけを重視するというのは野生染みているし、人であるのならば歪な世界だ。もちろん人間であってもそういった欲に自ら溺れる者もいるだろうが。
「番と定めた者同士は、どちらかが死ぬまで一生を添い遂げると誓約の儀式を交わすんだ」
「なんだかすごく大変そうな儀式ですね……」
聞いているだけでも重苦しい雰囲気が伝わり、現代のような結婚式とはまったく異なる様式を想像してみる。もしかして生贄とかが必要になったりするのだろうか。
「ふふっ、簡単だよ。――キスをすればいい」
そんな千枝の予想に反し、用意された答えはヨルンの言葉と同様に至極簡単なものであった。
キス、と言われて思わず男の唇に目が引き寄せられる。妙な煩悩が生まれそうになり、慌ててうろ覚えのお経を脳内で唱えた。
「神殿で浄化された聖水を一つの器で飲み合い、女神像の下で誓いの証として口付けを交わす……それだけ。簡単だけど、互いの同意と場がなければ成立しないよね?」
「それは……こっちの世界でも同じです」
神前で新郎新婦が三々九度を交わすのと変わりない内容だ。勝手におどろおどろしい妄想をして委縮していた空気を抜くように、ほぅ……っと肩の力を抜く。
「そうかな、本当にそう思う?」
「え?」
けれど、ヨルンの問いに千枝は抜いたばかりの肩に再び力を込めることとなってしまった。
「単なる形式上の儀式に、それだけの拘束力があると思う?
「それは……」
こちらの世界であれば確かに法的な拘束力はあれど、離婚や浮気、不倫が絶えないのと同じように絶対的な拘束力ではない。
「ところが、番という関係は死別以外では簡単には壊せない。番の儀式はね、命の誓約でもあるんだ」
それはどの獣であろうとも、決して逆らえない。
この世界に降り立った女神セレスティアを拒むことができないように、奥底にある本能に刻まれるのだとヨルンは言う。
「でもまぁ、言い換えれば……どちらかが死ねば番は解消されるってのも事実だよ」
「きゅ、急にサスペンスの匂いが……」
価値観の違いや、気持ちのすれ違いで愛情が冷めることは多々あるだろう。それでも簡単に離婚ができない世界とあれば、待っているのは泥沼で陰惨な結末しか見えてこない。
ゾッと身を縮こまらせる千枝の不安を笑い飛ばしながら、ヨルンは組んだ膝の上で頬杖をついた。
「番についての捉え方は種族によっての違いも多少はあるけど……要するに、とっても重たいんだよね。逆らえることはできないから番は作らないと決めている者も多いよ。僕も、番は一人だけというのを窮屈に感じてしまう方だし?」
「ぶっちゃけ過ぎませんか……?」
「僕は博愛主義なんだ」
博愛主義という言い方だが、ヨルン自身の奔放的な一面がかなりぼかされているのを察する。
見た目は完全に清廉潔白な……それも神殿内で枢機卿という、千枝にはいまいちピンとこないが、とにかくとんでもなく偉い立場にある男が、ここまでおおっぴろげな発言をしてもいいのだろうか。
そんな疑惑的な視線など気にも留めず、ヨルンは形のいい唇を持ち上げて笑う。
「安心して。僕らは番になるとね、互いに対して危害を及ぼすことが出来なくなる。自分が守るべき庇護対象へと変化するのさ」
それはまるで、自らの命に、本能に深く刻み付けられる。
重くて重くて――愛おしい鎖なのだと。
「まったく。理性を得たとは言え、僕ら獣は常に本能に縛られている生き物なんだと痛感するね」
先ほど言っていた種族の違いとは、どうやらこの辺りの度合いについてらしい。
「僕はウサギの血を受け継いでるから、番に限らず広く平等に、分け隔てなく愛を惜しまないんだけど」
「…………」
なるほど、物は言いようである。博愛主義と名乗る男がウサギの血を継いでいると聞けば、繁殖本能が強い動物として納得してしまった。
千枝の視線になんらかの含みを感じ取ったのだろう。ヨルンは自分への矛先を変えるように少しばかり強引に舵を切る。
「――とにかく。僕らとって、番とはそういった存在だ。愛に焦がれているから縛り付ける。自分だけの子を孕ませたいと願う」
「げほっ!」
「そうそう。番に対して、特にその庇護本能がより際立つ種族もいるよ」
包み隠すことをしない直接的なヨルンの言葉。うら若き乙女の身である千枝は不意を突かれ、摘んでいたビスケットが喉に引っ掛かり胸元をどんどんと強く叩く。
「君もここへ来てすぐに顔合わせは済ませただろ?」
「み、み……ずっ……!」
「あぁ、すっかり冷めてるね。これはもう下げさせよう」
無情にも伸ばした手はカップへ届く前に、男の白く長い指に阻止されて取り下げられる。
「誰だかわからない? あはは、ほら。居ただろう? 黒くてゴツくてでかい、岩みたいな鎧の」
「〜〜ッ、!」
「あいつの種族はね――……」
愉しげなヨルンの声が霞ゆく意識によって遠くなっていく。
二度目の走馬灯となる千枝の脳裏に映ったのは、容赦のない超絶塩対応をガチ悪女へかましていた、黒い鎧の男であった。