13
「いま……なんと言ったの?」
自分の耳を疑うとはまさにこんな気分なのかと、ベアトリーチェは理解が追い付かぬまま声を振り絞る。
そんなベアトリーチェに向けて男は大して面白くもなさそうに、くっと口元だけを歪めて笑う。
「なじられて喜ぶ性質か?」
「なん、ですって……?」
あまりに酷過ぎる物言いに、くらぁ……っと眩暈すら覚えた。
わざと人を小馬鹿にする台詞を選ぶ男に対し、ベアトリーチェは怒りでわなわなと震える拳をきつく握り締める。
「このっ……わたくしを騙したわね!? 言葉が通じないふりをして、よくも……っ!」
なにもかもわからない場所で、命を脅かされながらたった一人で放り出されるという恐怖。それらがすべてが欺瞞の上で演じられた喜劇だったと判明したのだ。
「いったいどういうつもり!? お前のせいで、わたくしがどれだけ酷い目に遭ったと思っているのっ!?」
ヒステリックな声を上げながら激昂するベアトリーチェとは反対に、男は面倒臭そうに溜息を一度だけ吐くと、今度はガチャガチャと自身の纏う甲冑を外し始めてこちらなど見向きもしない。
「ちょっとっ! 聞こえているの!?」
手際良く甲冑を外し終えた男は、ぐっと凝り固まった背筋を伸ばすように立ち上がって軽く肩を回す。
「黙ってろ」
「なっ、!?」
言うにこと欠いて黙れとは何様なのか。
あと百回は文句を叫んでやると決めたベアトリーチェだったが、雑に髪をかき上げ、ふぅ……っと小さく息を吐いた男の姿に、つい自然と視線を奪われてしまった。
首元まで覆うハイネックの黒い長袖に、腰から繋がった革のベルトで吊り下げた黒の脚衣。
数十キロはする甲冑を装着するため、インナーは機動力を重視したタイトな造りなのだろう。ぴったりと身体の線に沿った衣服は、男の広い肩幅や分厚い胸筋、割れた腹筋の隆起までがわかる程くっきりと濃い陰影を落としている。
物々しく無骨な甲冑を脱いだ男の体躯は、極限に無駄を削いで鍛え抜かれた野生動物のように、しなやかで強く美しく在った。
「――……、っ!」
ぼーっと無意識に見惚れてしまっていたことに気付いたベアトリーチェは、すぐさま己の髪をばさばさと振り乱すように頭を横に振る。
一瞬でも焼き付いてしまった男の姿を脳裏から引き剥がそうとするも、勢いが良過ぎたせいで目が回ってしまった。
「おい」
すたすたと長い尺で一歩を踏み出す男が、ベアトリーチェが見つけた廃神殿へと続く抜け穴の前でぴたりと止まる。
「! っ、な、なに!? 別に、お前なんて見てなんかっ、」
「この穴の先で見たものを答えろ」
「…………」
ぴきっと、ベアトリーチェのこめかみに青筋が浮かぶ音がした。
この男はつい先ほど「黙ってろ」と横暴な命令を一方的に下したばかりではなかったか?
ベアトリーチェばかりが振り回されている状況も気に食わないのに、誰が素直に教えてなどやるものか!
ふん! と、腕を組んで唇を引き結ぶベアトリーチェだったが、ふと妙なことに気が付く。……この男、確か足が折れていたのではないか? と。
もちろん実際に確認したわけでもないが、昨夜は立つことすらもままならずに顔を苦痛で歪ませていたのだ。それがたったの一晩で立ち上がることも、歩行すらもなんの問題もなくこなせるほど回復するものだろうか。
それによく考えれば、あんなに高熱を出していたのに、病み上がりだとは到底思えないような行動をしている。
「……」
ベアトリーチェの戸惑うような視線が自らの右足に向けられるのに気付いたのか、短く「お陰様でな」と、鼻で笑いながら嫌味じみた台詞を吐かれた。
いったいなにがお陰様なのか不明ではあったが、それは非常に刺々しく不愉快な物言いであった。もっとも、そう告げた男の方もベアトリーチェに負けず劣らず不快げに眉を寄せて冷たい眼をしていたが。
「いいからさっさと答えろ」
「……しつこいわね! 壊れた神殿があっただけよ! 最初に見たのと同じ!」
ベアトリーチェもそうだが男はさらに堪え性がないようだ。答えなければそのうち実力行使にでも出そうな威圧感に押され、渋々答えてやった。
「……水はそこで手に入れたのか?」
先ほどからなにが聞きたいのかと疑問だったが、これで合点がいく。水のありかを問い詰めていたのだろう。それを察してベアトリーチェは勝ち誇ったように口端をにやりと吊り上げた。
「えぇ、そうよ。湧き水があったの。……でも、その図体じゃこの穴は潜れないわねぇ?」
「……あぁ、くそ……」
その返答に男は片手で目元を覆うように俯き、ゆっくりと、そして重く響くような溜息を吐き出した。
もしまた水が欲しいと言われても、もう絶対に与えてなどやるものか。自分一人で独占してやる!
そんな小さな優越感に浸っていたベアトリーチェだったが、再び顔を上げた男の射抜くような視線に思わずびくりと肩が跳ねた。
「……土まみれになるのが趣味なら勝手にしろ」
「は、はぁっ? そんなわけないでしょ! 誰のせいでこんな所にっ、」
最後まで聞かずに男は背を向けると、空いた穴の方へ向かって軽く膝を曲げて地面を踏み込み――とんっ、と。
「…………え?」
まるで飛び立つような軽さで穴の端から垂れた木の根を掴み、勢いで振り子のように揺れた身体の反動を利用すると、雨のようにぱらぱらと土を降らせながら身体をぐるんと翻す。
ぶちぶちっと木の根が数本引き千切れる音はしたが、そのまま穴の向こうへと飛び込むのに成功したようだった。
「え……ちょっと、嘘……」
一人取り残されたベアトリーチェは、その一部始終をただ茫然と見送ることしかできなかった。
穴までの高さは少なくとも五、六メートルはある。木の根だってジャンプしたところで到底手が届かない高さであったのに、男の体躯からは想像がつかない程いとも簡単に跳躍をしたことさえ信じられない。
「……ねぇっ! まさかわたくしを置いていく気!?」
慌てて穴の真下から声を張り上げるが既に辺りに人の気配はなく、宙に舞う砂埃で叫んだ喉がざらつくだけに終わった。
……本当に置いていかれたのだ。
そのこと実が、ずしんと重しとなって伸し掛かるようにベアトリーチェの身体を沈める。
とはいえ、別に大したことではない。元々男が死んでいたとしても、一人で生き残るつもりではあったのだ。だとすれば、自分の命を脅かすような存在が近くに居ないというだけでもありがたいぐらいだ。
水もあるし、数日間はなんとかなる。その間に当初の予定通り土を固めて足場にし、穴から脱出をすればいい。そしたら、それから――……。
「――っ、」
……それから、どうすればいい?
胸の内をぐちゃぐちゃと掻き毟りたくなるような焦燥感に、心臓がうるさいほど爆音を立てて息が乱れた。
あんな化け物がうろついている世界で、いったいどう生き残れと言うのか。
どこへ行けばいい? 言葉は? 本当に通じるのか?
……いや、きっと通じる。あの男が騙していただけなのだ。森をなんとか抜けて、人を探して助けてもらおう。
自分の不安を振り切るように胸元を強く押さえて、ぎゅっと両手を握り締めるベアトリーチェ。大丈夫、大丈夫だ、と自身に必死に言い聞かせると、その場にゆっくりとしゃがみ込んだ。
まずは足場となる土を集めよう。男が外した鎧の部品が使えそうだ。
転がっていた膝当てを手にしたベアトリーチェは、ざくっ、ざくっ……と、少しずつ土を掘り始める。
「……髪は、もっと艶があって、長くて……」
土を掘りながら、ぽつりと思い出すかのように独り言が漏れた。
こんな老婆のように色が抜け落ちた白髪なんかではなかった。
肌には若々しい瑞々しさと張りがあり、薔薇色に染まった唇で「あれが欲しい」とさえ言えば、なんでも手に入れられた。
今は爪だってぼろぼろで、あちこち酷い痣だらけで、痩せこけた身体は肋すら浮いて貧相でしかない。
そんな皇女という気高い立場であった時ですら、周りの人間は誰一人として手を差し伸べてくれなかったのに。
いったい誰が、こんなみすぼらしく汚い自分を助けてなどくれるのだろう?
「……ッ、!」
涙など絶対に流してやるものかと、死ぬ間際まで笑って見せたのだ。
こんなことで泣くわけがない。泣くには勿体なさ過ぎる。
そう唇を噛み締めたベアトリーチェの足元に、しゅるっとなにかが垂れ落ちた。
なんだろうと向けた視線の先、細長いなにかがゆらりと動いて思わず尻餅をついて叫んだ。
「ヒィッ……いやぁッ!」
数歩分尻餅をつきながら慌てて後退る。
はぁはぁと大きく肩を上下させて息を吐くベアトリーチェだったが、てっきり蛇が降ってきたかと思ったその細長い物の正体は、数本ずつ束ねて結んだだけの蔓であった。
「はっ、はぁっ、な、なに……っ?」
まだ激しく動揺している胸を落ち着かせるために、土臭い空気を何度もゆっくり吸っては吐き出す。
ようやく落ち着きかけた頃、空いた穴の上から声が聞こえた。
「――まさか本気で土遊びが趣味なのか?」
はっと、声のした方へ顔を持ち上げる。
黒い髪の先が太陽の陽射しに透かされ、薄く光っているように揺れている。
逆光で表情は薄暗く、それでも顔に大きく残る傷跡と、二つの金色だけは捉えることができた。
尻餅をついて唖然と口を開けながら見上げるベアトリーチェを、立ち去った筈の男が呆れたように頬杖をつきながら見下ろしていた。