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 最初に感じたのは、乾いて硬く割れた唇の皮が、ざりっと引っ掛かって擦れる小さな痛みだった。

 次いで、ぬるりと熱くて柔らかいものが引き結ばれた唇を強引に抉じ開ける。

 ごくっ、ごくっと、派手に喉を鳴らす音が舌の上から直接伝わってきた。


「んっぐ、ンぅ……ッ!」


 出口を塞がれた声はくぐもった不明瞭な音にしかならず、温くなった水は唾液ごと啜られ飲み干される。

 さらにはもっと寄越せとでも言うかのように、逃げようと引っ込めた舌の根に鋭い歯を立てられ、このまま噛み切られるかもしれないと恐怖から滲んだ唾液すらも、じゅるるる……っと酷く下品な音を立てて吸われてしまった。

 それはまるで奪い尽くすような激しさであった。

 満足に呼吸さえもままならず、熱い舌に翻弄されて頭の芯がくらりと溶ける。

 手足をばたつかせてもがこうとしても、首の根を掴まれているせいで簡単に押さえ込まれ抜け出せない。

 執拗に咥内をまさぐる熱い舌がようやく諦めたのか、最後にぢゅうぅっと強く舌を吸われて。それからやっと物足りなさげに引き抜かれた。

 口端から垂れた唾液が顎にまで、つぅ……と伝って不快感が増す。

 その頃には既に濡れた口元を拭うだけの余力すらも残っておらず、脱力したベアトリーチェは男の上でくったりと身を預けることしかできなかった。


「ふ、っはぁ……はぁっ……」


 口の中の感覚がおかしい。

 まだどこかに男の舌が這っているかのような感触が濃厚に残っていて、背筋から腰にかけて勝手にぶるぶると肌が粟立ち震えた。


 ……不敬にもほどがある!


 ベアトリーチェの顔は羞恥と憤りで真っ赤に茹で上がっていた。

 もしもベアトリーチェの両手に力が残っていたのならば、間違いなく男の首をぎりぎりと絞めていただろう。

 水を運ぶ方法がこれしかないからと口に含んではいたが、こんな風に口移しで水を飲まそうなどとは考えてすらいなかった。

 先ほどまでは適当に口を開かせて上から水を注いでみるかとは考えたが、こうなれば無理にでも起こし、男の手を器代わりに水を吐き出した方がよかったといまさらながらに後悔する。……他人が吐いた水を素直に受け取り飲むかどうかはこの際別としてだが。

 もちろん、ベアトリーチェであれば絶対にお断りさせていただく。冗談じゃない。


 そうして後悔と憤慨と羞恥とで、今すぐその場で暴れだしてやりたい程に感情の制御が利かないベアトリーチェとは異なり、もう一人の当事者であり元凶である男の反応はというと……。


「っ、なんてずうずうしいの……!?」


 驚くべきことに、なんと再び目を閉じて眠りに落ちていたのだ。


 信じられない。

 皇女である自分に無理矢理襲いかかった挙句、あんな風に咥内を好き勝手に貪り喰うなど。

「――ッ! くっ……最悪だわ!」

 まだ鮮明に再現される舌の感触を慌てて頭を振って追い出す。

 一体どれだけ面の皮が厚ければあそこまで無神経に振舞えるのかと、いっそ秘訣でも教えて欲しいものだ。

 忌々しいことに、男の面に関しては文句のつけようがない程に整っているのもまた、ベアトリーチェの腹立たしさを煽る一因となっていたが。

「……重たい! 硬い! 冷たいっ!」

 首裏へ回された男の腕が、ずっしりとベアトリーチェに伸し掛かり重たくて振り解けない。

 耳元でわぁわぁと鼓膜を響かせる程に騒ぎ立ててやるも効果はなく、逆に喉を痛めるだけとなって悔しさで歯を噛み締める。


 最低最悪な心境の中、最低最悪な寝心地のベッドでようやくベアトリーチェが眠りにつけたのは、空が薄く白み始めた明け方に近い時間帯であった。




 ***


 ……眩しい。


 強い光が瞼の裏側まで焼き付き、むずがるように唸りながら眉根をぎゅっと寄せる。

 夜会へ頻繁に参加するベアトリーチェの起床時間に定めはなく、そのため彼女が自然と目を覚ます時間を起床時間としていた。

 それまでは昼だろうが夕方だろうが、絶対にカーテンを開けることも、主の許しなく寝室へ入る事も一切禁止としているのに。

「……んんぅー……」

 にもかかわらず、煩わしい朝の眩さで覚醒を促されたベアトリーチェは、たっぷりと不満を込めた低い呻き声を漏らした。

 いったいどこ侍女が勝手にカーテンを開けたのか。見つけたら罰を与えて懲らしめてやると恨みながら、少しでも陽が差さない場所を探そうとして何度も寝返りを打つ。

「……?」

 ふ、と。そんなベアトリーチェの顔を眩しく照らしていた光がなにかの物影で遮られたのは、通算五度目となる寝返りを打った時であった。

 ようやく誰かがカーテンを閉めたのかと思い、再び微睡みに身を浸そうとするベアトリーチェだったが、ごろごろと寝返りを打ち過ぎたせいで今度は寝心地が定まらなくなってしまった。

 そもそも、このベッドはいったいいつからこんなに硬くなったのだろう?

 滑るようなシルクの生地と最高級の羽毛で作られた筈の枕は、もぞもぞと手探りで探す範囲にはない。

 たっぷりの綿が詰められてふかふかなベッドは何故か肌触りが良くない上に硬いし、湿った土埃の匂いまでする。

 結局それ以上寝続けることができなくなったベアトリーチェは、思い切り顔を顰めながら張り付く瞼を重たそうに開いた。

「――……ん、」

 霞む視界に映ったのは見慣れた天蓋どころか、ぽっかりと切り取られた空だけであった。

 曖昧だった夢との境界線が急激に輪郭を捉え、妙に冷めた気分でベアトリーチェはようやく目を覚ます。それは過去と呼ぶにはまだ真新しい日常の記憶であった。

 ぎしぎしと軋むように凝り固まった酷い身体を起こすと、なにかが膝の上にするりと滑り落ちる。いったいなにかと思えば、男の鎧に装着されていた黒地のマントだった。どう引っ張っても剥がせなかったのに、これはどういうことかと目をぱちぱち瞬かせる。

 と、同時に昨夜の出来事が一気にベアトリーチェの脳内で再生された。

 そうだ、自分はあの男に唇を――……。

「っ!? ……あの獣めっ!」

 かぁぁぁっ! と、寝起きはいつも体温の低いベアトリーチェの身体――主に顔を中心とする――に、熱い血が急激に巡り始める。

 わなわなと肩を喘がせながら口を吐いた罵倒は、どうやら隣の人物の息を呑ませる程度には驚かせることに成功したらしい。

 その気配に顔を上げれば、まるで時間が停止したかのように金の双眸を茫然と見開いた男が、片膝を立ててベアトリーチェを見つめていた。

「! お前、よくも……ッ」

 男が落とす長い影から距離を取るように後退る。先に男が起きていたことに一瞬ひやりと冷たいものが背筋を伝ったが、特になにかをされた形跡もないのを確認する。

 目覚めてから即座に警戒と反抗を現すベアトリーチェに対し、男の表情は見る見るうちに色を失くして険しくなり、遂には酷く恐ろしい形相へと変わっていった。

「……っ、な、なによ……」

 氷のように身が勝手に凍えるような、それでいて烈火の如く燃え盛る激しい怒りを孕んだ眼差しが、ぎろりとベアトリーチェを鋭く睨む。

 派手な傷跡も相まって、殺気さえ滲む男の迫力につい蹴落とされかけたベアトリーチェだったが、男は何故か、チッ! と盛大な舌打ちを打つと自分から顔を背けて、そのまま暫くは無言が続いた。

 この男は最初から現在に至るまで、壊滅的に性に合わない。

 何度も殺されかけた相手だ。当たり前である。

 こんな男に慈悲など与えようとしなければよかった。昨夜の自分の行動を振り返って、ベアトリーチェは恨めしさを募らせる。

「……よくもその浅ましい顔を、このわたくしの前に晒せたものだわ。汚らわしい」

 あんなふざけた真似をしておいて、まるでこちらが悪者のような反応を示すなど勘違いも甚だしい。責められるべきはベアトリーチェではなく、あの男の方だ。

 どうせなにを言っても言葉は通じないのだ。ふん、と同じく顔を背けながら苛立ち紛れに悪態をついてやる。


「そうか」


 けれど、くつりと嘲りを含ませて短く笑う男の声に、ベアトリーチェの思考は一瞬止まった。


「それは奇遇だ」


 聞き慣れない発音。

 意味を持たない音の羅列が、脳内で勝手に変換されるような奇妙な感覚。


「――……なんで、言葉が……」


 振り向いた先、男の切れた唇の動きと合致しない低い声のタイミング。


「俺も貴様の喧しい声を聞いていると……一秒でも早く縊り殺してやりたくなる」


 ざらついた殺意を孕んだその言葉に。

 繋がっている筈の首が、じくりと疼いた気がした。


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