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 まず結論から言おう――仕方がなかったのだ。


 理由は明白。本当にこれしか方法がなかったのだ。

 むしろ他の方法があったのならば教えて欲しいし、そのまま代わりを務めて欲しい。いや、そもそもこんなことは、高貴な立場の皇女であるベアトリーチェがすることではないのだ。

 けれど水場まで続く抜け穴は到底あの男には潜り抜けられぬ狭さであるし、水を汲むような道具もないし、仮にあったとしても抜け道を通るのに文字通り這い潜らねばならぬほどの狭さなのだ。

 当然両手に掬った水を溢さぬように運び持つ術などなく、したがって唯一考えられた水を運ぶ方法とは――……。


 ベアトリーチェの口に含ませた状態で水を運ぶ。

 ……念のためにもう一度言うが、これしかなかったのである。


 言うなれば、これは慈悲と呼ぶ類の行為だろう。

 民衆にとっては贅沢をし、毎日遊び暮らしていただけの悪女として忌み嫌われていたが、気まぐれに貧民街で親を亡くして暮らす孤児院のためにと、貴族たちが集まる茶会で寄付金を募ったことが何度かある。

 結果としてベアトリーチェの行動は偽善的だと批判されたり、集めた資金を横領したなどと虚偽の噂が飛び交った。そんなに言うならばと支援を打ち切って潰れた孤児院も少なからずあったが、世の中、与えられる慈悲にも限りはある。

 差し伸べた手を振り払ったのならば、それは当然の結果とも言えよう。

 そしてその慈悲を、ベアトリーチェは再び差し出してやることにしたのだ。


「…………」


 横で熱にうなされる男の荒い呼吸音があまりに煩わしく、ベアトリーチェの睡眠を邪魔するのが悪い。ならば何故、自分の命を狙うような男の横で寝ようとしたかといえば……単純に寒かったから。それだけだ。

 森の中を必死に逃げ回っていた時はそれどころではなかったが、夜は気温が一段と下がり空気が冷たく凍える。季節的には秋に差し掛かったところだろう。

 洞穴自体が地中にある事と、集めた枯葉のお陰で幾分かは寒さも軽減したが、男の甲冑に縫い止められたマントが暖かいと気付いたベアトリーチェが、これを利用しない手はなかった。

 最初はマントだけを奪おうとも試しみたが、男の重たい身体の下敷きになっているマントを引き抜くのは非常に困難な上に、留め具の外し方が見た事もない形状で上手く外せなかったのだ。そのため、夜の空気で冷えた甲冑に触れないよう、最大限まで引っ張った男のマントを毛布代わりに隣で寝ていただけである。

 そうしてあまりに煩いものだから仕方がなく。ついでに、ベアトリーチェの寛大なる慈悲の心でもって施しを授けてやろうという流れでこうなった。

「……っ、」

 思わず緊張から口いっぱいに含んだ水をごくりと嚥下してしまいそうになり、寸でのところでなんとか堪えた。

 状況だけ見れば、意識なく横たわった夫以外の男の腹辺りに跨いで座るというのは、高貴なる淑女としてあるまじき構図である。

 あらためてベアトリーチェは男に跨ったまま、自身の恰好と体勢をなるべく客観的に見下ろす。

 ここへ来るまでにまた引き裂いて作った裾の切れ端を水で濡らし、汚れていた顔や身体を拭いたお陰で随分とさっぱりできた。まぁ、どうせ抜け穴を潜る時にまた汚れてしまうのだが。そこまではよかったものの、少しばかり勢いよく裂け過ぎてしまったせいで歩く度にちらちらと白い肌が覗き、こうして脚を広げて跨げば脚の付け根まで晒す程の大胆なスリットになってしまった事は誤算である。

 もしもいま、この男が目を覚まそうものならば、二度と陽の光を拝めなくなるようにその目を突いて潰さなくてはならない……。

 そう身構えていたベアトリーチェの不穏な覚悟は、しかし杞憂に終わった。腹に座られても一向に男が目を覚ます気配もなかったからだ。


 起きないのならば都合はいいが、問題はこれから――どうやってこの水を男に飲ませればいいのか。

 行動する前にそこまでの考えへ至らなかったことも、ベアトリーチェの大きな誤算であった。


 口を無理やり抉じ開けてみようかと、指を伸ばす。

 昔は何人もの侍従によって丁寧に手入れされ、爪の先まで美しく磨き抜かれていたのだが、いまはささくれが目立って短く割れた爪の間には土がこびりついている。

 男のがさりと乾燥してひび割れた感触と、右目から唇の端にまで刻まれた傷跡を確かめるように指でなぞれば、僅かに眉がぴくりと反応した。

 ぎくりと、身構えたベアトリーチェが咄嗟に手を引く。

 しかし、横から伸びてきた大きな手に手首を掴まれてしまい、逃亡は呆気なく失敗に終わった。


「っ、!?」


 ベアトリーチェの細い手首は籠手越しからでもわかる男の熱い手によって掴まれ、強引に引き戻される。

 いったいなんだと狼狽えるベアトリーチェの手のひらに触れたのは、熱で火照った男の頬だった。


 男の瞼は相変わらず閉じられたままで、それが男にとっても無意識下の行動だったのだと予想がついた。大方、体温の低いベアトリーチェの冷たい手が心地よく感じたのだろう。

 ひたりと、汗の浮いた男の肌が吸い付くように押し当てられる。ほぅ……っと、薄く開いた唇から漏れた吐息がベアトリーチェの親指を舐めるように掠めた。

 たったのそれだけで。熱くて熱くて、火傷でもしたかのように一瞬で熱が移った。


「ッ……、」


 動揺し過ぎてまたも水を飲み込みそうになったが、もはやそのまま飲み込んでしまえばよかったと後悔する。

 冷たかった水はすでにベアトリーチェの咥内で生温くなり、頬の筋肉がぴくぴくと引き攣ってきて口の中に留めているのが辛い。

 ……もう飲み込んでしまおう。気まぐれに慈悲を与えてやろうなどと考えたのがそもそもの間違いであったのだ。

 ベアトリーチェがひくつく喉をごくんと喘がせようとした時――……。


 伏せた睫毛を震わせながらゆっくりと瞼を持ち上げた男が、潤んだ金の双眸にベアトリーチェを映した。


 思わず飲み込もうと含んでいた水が僅か零れて、男の唇にぽたりと落ちる。

 あ、と思った時には既に遅く――首裏が重しを乗せられたように、がくんと重さで倒れ込む。

 ぶれる視界には、飢えた猛獣が鋭い牙を見せつけるように口を開き。


「ン、ッ……ンむ、……!?」


 がぶり、と。

 血肉を啜る獣のようにベアトリーチェへと噛み付いた。


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