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「……なんで、そんな」
気付けば考えもなく口を開いていたベアトリーチェだったが、その後に続く言葉が見当たらず、続けたところでどうせ相手には通じもしないと中途半端に開いたままの口を閉ざす。
いったいなにを言うつもりだったのか、なにが聞きたかったのか。
自分でもわからない癖にくだらない真似をしたと静かに唇を噛む。訳がわからないのはこんな世界だけで充分なのに、これ以上不確かなものに振り回されたくなどなかった。
男はすぐにはっと正気に戻ったのか、またあの冷たい空気を惑わせながらぎろりと眼光を鋭くさせて不機嫌そうにベアトリーチェを睨む。
先ほどから見ていた限りではまともに立つこともままならなかった様子だ。男の手の届く範囲にさえ近付かなければ、いくら凄まれようが怖くもなんともない。逆に余裕さえ生まれて、ベアトリーチェはふふんっと嘲り笑ってやった。
「その目はなぁに? わたくしを殺せなくて悔しいの? けど、わたくしよりもお前の方が先に死んでしまいそうよ……残念ねぇ?」
「■■■■■!」
「まぁ……酷い訛り。田舎者の言葉はわたくしには通じないみたい」
「……ッ!」
「確かあの女の言う通りなら……獣だなんだと言っていたわね? それなら納得だわ。だって理性のない獣が人の言葉を理解するなんて烏滸がましいこと……あり得ないもの」
くすくすと口元を手で隠しながら目を細めて笑う仕草に、言葉は通じずとも煽られているのは伝わったのだろう。ぎり……っと苛立ちげに歯軋りをする音が聞こえ、ベアトリーチェの機嫌はどんどん上昇していった。
こちらは何度も殺されそうになったのだ、まだまだ蔑み足りないぐらいである。
顔に青筋を浮かせてぎらぎらと攻撃的な光を放つ金の両眼。
怪我を負っていることによって男の獰猛さがさらに増しているのは一目瞭然だが、場の主導権を取ることはベアトリーチェにとっても重要なことである。簡単に引くわけにはいかない。
「…………」
両者はしばらくの間、不自然な距離を空けながら無言で睨み合っていた。
「ッ……!」
凍てつくような睨み合いを先に破ったのは、ガチャンッ! と金属音を立てながらその場に膝を着いた男の方であった。
はぁはぁと息は荒く、血の気のない顔色には汗が浮いている。再び立ち上がろうと力んだ身体はふらふらと頼りなく重心を傾け、遂には気を失ったのか、うつ伏せに倒れ込んでしまった。
「……ちょ、ちょっと……死んだの……?」
油断させてこちらを襲う手立てかもしれないと、警戒は緩めぬまま距離を置いて反応を見る。
試しに小石を背中に向けて投げてみたが、軽い音を立てるだけで特になにもない。
そのまましばらくはベアトリーチェも固唾を飲んで警戒していたが、仕方なくそろそろと近付き足の爪先で肩の辺りを蹴ってみた。……硬い。硬いし、痛い。
「うぅ……こ、の……っ!」
じぃぃん……と響くような痺れる痛みの余韻に腹が立ち、今度は足の裏全体で男の背中を何度も踏み付けてやる。
考えてみれば同じことをされたのだから、こちらもやり返したところで文句など言われる筋合いもない。とはいえ、生身の自分と頑丈な鎧を纏っている男とではやはり前提が違うので、より一層憎らしさが増すばかりではあった。
「はっ、はぁ……重、た……っ」
とりあえず息をしているかどうか確認しようと、岩かと思えるほどに重たい男の身体をひっくり返してみる。意識を失くしているせいでさらにずっしりと重さが増し、なんとか仰向けにするだけでもどっと汗が流れた。
「……すごい熱」
印象的な金色の目は閉じられ、きつく寄せられた眉根には苦悶の表情が刻まれている。
先ほどまで顔面蒼白だった顔色は茹だるように熱を帯びて紅潮し、乾いた唇からは熱く掠れた息が漏れていた。
身体をひっくり返すだけでこんなにも疲労させた腹いせに、顔でも踏み付けてやろうかと思いついたベアトリーチェだったが、浮いた汗がこめかみの乾いた血と混ざって伝い落ちるのを見て、持ち上げかけた右足をそっと降ろす。
恐らく折れた脚を放置していたせいで発熱したのだろう。
領地争いで婚約者を失くしたと言う未亡人の話を思い出した。彼女の婚約者は救援の途絶えた最前線で負傷し、致命傷ではなかったものの治療を受けられず、数日後に高熱を出して敢えなくそのまま帰らぬ人となってしまったらしい。
大きくへこんで潰れた男の右脚に視線を向ける。
脛当てを装着したままなので怪我の具合は確認できなかったが、よく見れば枯れ葉のあちこちに血の跡が点々と散っているのがわかった。土の色が少し濃く滲んでいる箇所もきっと血の垂れた跡だろう。
……こんな状態にもかかわらず、己が失くした剣ではなく、別の〝なにか〟を必死に探していた男。
折れた脚を引き摺って、転んで、結局こんな風に気絶するまで気力を果たして。
あの瞬間、ベアトリーチェを目に留めてようやく安堵に緩めた表情の意味はなんだったのか。
いったいなにを――いや、〝誰〟を探していたのだろうか。
「……そんなの、知らないわよ……」
勝手に死ねばいい。
なんなら男の死体を踏み台にして足場を作るのもいいかもしれない。そうしたら喜んで何度でも足蹴にしてやろう。
「はぁ……お腹が空いたわ」
食べる物もないのに無駄に体力を消耗し過ぎた。
その際たる原因となった男の鼻先を指で弾いてやる。
なんの抵抗もできずに眉間の皺を深めただけの男に、ベアトリーチェは少しだけ気分がよくなった。