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「ふぅん? パンがないのなら、マカロンを食べればいいじゃない」
肥大しきった憎悪の塊は、まるで研ぎ澄まされた矢のように、それを発した白い髪の女に容赦なく集中する。
幾重にも雲が重なり暗く淀みきった空は民衆の荒んだ心のように重く轟き、今にも大粒の涙で大地を濡らさんばかりに、肌に纏わり付く空気は湿って嫌な風が吹いていた。
ベアトリーチェ・オーギュスター皇女。
贅を極めて民を踏み躙り、国を傾けさせた稀代の悪女が、今まさに処刑されようと断頭台で発した――最期の言葉であった。
***
ごとん、と。
重く鈍い風切り音が木枠を大袈裟なほどに振動させ、何かにぶつかって止まった。
次いで、ごろごろと果実が転がり落ちる音が確かに聞こえた。……筈だった。
「――っ、は……! はぁっ、はぁっ、ぅ……ッ」
肺が破けそうな痛みに胸元を押さえながら息を必死に吸い込む。吸い込みすぎて今度は気管に詰まり、涙を滲ませながら蹲ったまま数秒もがき苦しんで、なんとか無事に呼吸を整えることができた。
「ふ、はぁ……はぁー……っ」
生理的に浮かんだ涙のせいで視界がぼやけてよく見えない。頭を持ち上げると異様な吐き気にぐらりと身体の重心がずれて、思わず眉間に皺が寄る。と、同時に自らの意思で動く身体にようやく気付いて今度はぴたりと身体が固まった。
「……く、くびっ、わたくしの首っ!」
あの瞬間、重たい"何か"が転がり落ちる鈍い音が、耳にこびりついて離れないのだ。
わなわなと震える指先が触れたのは、醜い切断面ではなく薄い皮膚と確かな体温。
「は……はぁっ、ぁ……ある、首……繋がってる……」
そぉっと触れた手を下ろして見ても、血にまみれた様子もない。
「ぃ……生き、てる……? あはっ……生きてる、生きてるわ……っ!」
ベアトリーチェ・オーギュスター皇女は民衆のクーデターと敵国の侵略により捕らえられ、衆人観衆の見せしめのため、石や唾を吐きかけられて罵倒されながら惨めに処刑された。
そう、この首は確かにあの瞬間、地面に落とされた筈だったのだ。
――生きてる、死んでない、まだ生きてる、わたくしは生きてる……!
興奮と歓喜が一度に胸の内を湧き起こし、渇いた喉からは笑い声が止まらなかった。
「…………あ、あのぉ」
「っ!?」
すぐ背後から遠慮がちに発されたか細い女の声。びくっ! と大きく肩が跳ね、咄嗟に身を引こうとして何かに躓く。
「うっ……」
手のひらと膝を打ち付けた痛みよりも、乱れた髪の隙間から漏れた光に一瞬だけ目が眩む。ぎゅっと瞑った瞼を徐々に開いていけば、ぼやけた照準が段々と合っていくようにその光景の輪郭がはっきりと映っていく。
「…………ここ、は……?」
目映く広い空間だった。
吹き抜けまで続く白い大理石の柱や壁、奥にはなにかの祭壇のような物があり、いくつもの燭台が並んで灯されている。
真っ先に目に付いたのは、遥か遠い天井にまで届く程に巨大な彫像であった。
ゆったりとしたドレープを身に纏っただけの女性の像。足元には彼女を慕うように狼と蛇が絡み付いており、その顔はベールで覆われて口元しか見えない。
その大きさにも驚くところだが、まるですぐにでも動き出しそうなほど細部に至るまで精巧に彫られた彫像は、さぞかし名のある名匠が手掛けた作品であることは十分に伝わる。……しかし、こんな物は今までに見たことがない。
人でも物でも、贅を凝らしたモノであれば必ず手に入れていた。そんな社交界の中心であり君臨者でもあるベアトリーチェですらも、初めて目にする光景であった。
……そもそも、ここはどこなの?
真っ白い空間に目が慣れ始めたベアトリーチェは、警戒を色濃く見せながらゆっくりと上体を起こして周囲を見渡す。そこでようやく気付いたのだが、どうやら自分以外にも数人、見知らぬ者たちが自分を囲むように少し距離を置いて佇んでいた。
全員白い装束に身を包み、頭からフードを被っていて男か女かも区別が付かないが、少なくともここは広場に設置された断頭台でもないし、処刑人とも違う。
無機質で血の匂いなども漂ってこないことに安心をしたかったが、異様な圧迫感に肺の空気がどんどん狭まる気がして冷や汗が伝った。
「えっと、もしもし? あのー……」
「っ、気安く触らないでっ!」
「きゃっ……!」
とんとん、と誰かに肩を小突かれた。
昂った神経のまま、その手を振り払って力一杯叩き落とす。
と、同時に衝撃を覚える間もなくベアトリーチェの身体は、がくん! と、再び地にひれ伏していた。
「くぁ……っ!」
頬に冷たい大理石の感触と、なにかが自分の背中を強く押さえ付ける重み。それがなんなのかは、すぐにわかった。
――足だ。何者かが、ベアトリーチェの背中を踏み付けている。
「……ッ!」
かっ! と血の気が一気に登り詰めて沸騰する感覚がした。
罵ってやりたいのに、ぎりぎりとなおも容赦なく体重を掛けて踏み潰そうとする存在のせいで、肺からは勝手に息がひゅうひゅうと漏れてまともに息も吸えない。
視界の端が黒く狭まっていき、こめかみから浮いた血管がどくどくと強く脈打つのをどこか他人事のように覚えた瞬間――……。
「もう……ゃ、やめてください……っ!」
震えて掠れた声が、どんっとベアトリーチェを踏み付ける足に縋った。
「い、一体なんなんですか!? 死んじゃいます! やめてください!」
怯えて震える声は、それでも果敢にベアトリーチェの背中から足を引き剥がそうとしている。
みしみしっと肋から嫌な音が伝わった頃、ようやくベアトリーチェを押し潰す力が、ふっと引いた。
「っ、げほっ! ごほっ! く……ぅっ」
突然圧迫感から解放された肺が一気に空気を吸い込んだお陰で、喉からは乾いた咳と涙がぼろぼろと勝手に流れ落ちた。
「だ、大丈夫ですかっ!?」
蹲って咽せるベアトリーチェの背中を摩りながら掛けられた声は、先ほどから何度も自分に話し掛けていた声と同じ――少女の声であった。
けれど、少女の憐れむ声も背中に触れる手も、ベアトリーチェにとってはなにもかもが煩わしく、呼吸が落ち着くと共に再びその手を振り払う。
その瞬間、またも背後からぶわりと殺気のような気配が膨れ上がるのを感じ取って肌が粟立つ。
「っ、……!」
それは凄まじい威圧感だった。
肩越しに振り返り、見上げた先。
白く染まった世界で、ただ一人の男だけが黒い影を落としてた。
鈍く光る漆黒の鎧。頭部から足の先まで全身を覆い、長く揺らめく兜の羽飾りも、肩から掛けられたマントまでもが黒い。
見ているだけで重苦しい殺伐とした甲冑姿が、男の存在感を更に引き立てている。
「――……」
兜の隙間から無言でベアトリーチェに向ける侮蔑と殺気を含んだ鋭い眼だけが、今にも喉笛を噛み千切ろうと狙う獣のように煌々とした金色を放っていた。
ぴり……っと、緊張から指先が痺れ始めて知らず知らずのうちに息を呑む。
下手に動けば、またすぐにでも踏み付けられて……いや、次は首の骨でも折られそうな気がした。
……冗談じゃない。
首を刎ねられるのも、折られるのも、絶対に嫌。
じりじりと、短いようで気の遠くなるような睨み合いの時間を破ったのは、黒い男の背後から現れた別の男であった。
「⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️」
さらりと揺れる柔らかそうな白銀の髪。
透き通るような真っ白い肌に、白く長い睫毛に縁取られた際立つ血の色の瞳。
一瞬で目を奪われる程に、美しい青年がベアトリーチェを見下ろしていた。
フードを被った者たちとは違う服装ではあったが、やはり着ているのは白だ。そして、その形の良い唇から発せられた発音は、明らかにベアトリーチェの母国語とも、交流のある他国の言語ともまったく異なっている。
「⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️?」
「……⬛️⬛️⬛️」
二人の男は何事かを話しながら、こちらへ視線をちらちらと向けている。状況とその表情から言って、友好的な内容ではないのは確かだろう。
「……あ、あの、私どうしてここに居るのか、全然わからないんですけど……」
遠慮がちに二人の会話へ割り入ったのは、先ほどベアトリーチェを助けた少女の声であった。
改めてその姿を見て、ベアトリーチェはぎょっとする。
年の頃は自分と同じぐらいだろうか。社交界では見たこともない、スラム街で卑しく身を売る売春婦でさえも着ないであろう、太腿まで露わになった短いドレス。パニエどころか、コルセットすら着けてはいない。
緩くウェーブがかった薄茶色の髪、見慣れない服装に装飾品と呼べそうなのは胸元の赤いチェック柄のリボンだけである。ただの平民の女にしか見えないが、下卑た服装から見るにそれ以下の最下層の人間であることは間違いないだろう。
……こんな子に憐れみを受けたなど、屈辱以外の何物でもない。
およそ品位の欠片も見当たらない女のことなど放っておきたかったベアトリーチェだったが、女が戸惑いがちに零した問い掛けに白い男がまたなにか聞いたことのない言語で返事をする。そして驚くべきことに、女の方はまるで意味を理解しているかの如く白い男の言葉に反応を見せたのだ。
「……え? な、なに言って……は? 召喚?」
「⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️」
「ちょ、ちょっと待ってください! それってつまり、あなた方が私をここへ呼び出したって事ですか?」
混乱しているのか、女はしきりに額に手を当てながら不安げな表情で会話を続けている。その様子の異常さにベアトリーチェだけが唖然としていた。
「そんな……もう帰れないんですか!? 私、だって……あの時、トラックが急に、そんなのって……」
見る見るうちに顔面蒼白となった女はその場に力なくへたり込む。よく見ると肩が小さく震えていた。
「…………ちょっと」
まだ胸が詰まったように息苦しく、出した声は思ったよりも低い。
「ひっく、そんな……お母さん、お父さん……」
「お前……わたくしの質問に、答えて」
遂にほろほろと泣き出した女にベアトリーチェが声を掛けると、男たちの視線が一気に集中するのがわかった。特に黒い鎧の男は、腰に引っ提げていた剣の柄に手を掛けている。
「へ……? ぁ、す、すみません……急な話で、ついていけなくて……」
「さっきから、……いったいなにを話しているの?」
ベアトリーチェの質問の意味が理解出来なかったのか、女は涙に濡れた目をきょとんとさせて数回瞬く。
「だって……召喚とか、もう帰れないとか、あんな事いきなり言われたら誰だって……」
「だから、どうして言葉が通じているのよ」
「え……?」
ベアトリーチェの疑問は、至極真っ当であった。
女の言葉はわかる。何を話しているのかも、最初からずっと通じている。
けれど、どう考えてもおかしいのだ。
女の顔立ちは明らかに異国の者で、ベアトリーチェと同じ言語を使い、何故か男たちと会話が成立している。……ベアトリーチェには通じない言葉を話す彼等とだ。
「……え、えっ? だ、だって、ちゃんとさっきから……」
「⬛️⬛️⬛️……?」
「あ、いえ、だいじょ……ぶ、」
白い男の問い掛けになんなく返答し掛けた女は、言い切らぬ内にその動きを止めた。
「……え……?」
恐らく、男の唇の動きと自身が聞く音にズレがあることに気付いたのだろう。
「もう一度聞くわ。……お前は、さっきから"なにを話しているの"?」
凍り付いたように青褪めた女の名は、鳥井千枝。
女神の依代として異世界へ召喚された存在である彼女の、予期せぬ召喚事故として喚び出された稀代の悪女――ベアトリーチェ・オーギュスター皇女。
人々に憎み尽くされたベアトリーチェが再び目覚めたのは、誰からも歓迎されぬ異界の地であった。