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暗殺するつもりだったのに溺愛されてるんですけど!

作者: ルーシャオ

過去作漁ってたら未投稿作出てきたので供養

「やあああ!」


 誰もいない薄暗い王城の廊下で、あたしは掛け声とともに黒塗りのナイフを振りかざす。


 ターゲットは目の前にいるエリアス王子。長身で眉目秀麗、廊下の弱々しい蝋燭だって黒いツヤのある髪を照らす、美しい王子だ。この国の次期国王、それゆえに殺される理由なんていくらでもある。金、地位、権力、様々な陰謀渦巻く王城で、身の守りをおろそかにしているから悪いのだ。


 なのに——。


「レモニア、嬉しいよ」


 思いもよらない言葉に、あたしはエリアス王子の顔を見上げた。


 すでにナイフはエリアス王子の胸元を貫かんとしている。なのに、「嬉しいよ」? 困惑しても、手元は狂わない、あたしはしっかりとナイフへ力を込めていた。


 ところが、不意にナイフを握る右手が止まる。気付けば、手首がエリアス王子の大きな手にがっしりと掴まれて、ぐいっと引き寄せられる。十五の小娘と成年間近の男性では、力比べなどできようもない。


 あたしはしくじったと焦ると同時に、違和感が生まれた。ぼすん、とエリアス王子の胸に飛び込む形で、抱き寄せられたのだ。


 エリアス王子の陽気な声が、頭の上から降ってくる。


「んー! この私を殺したいほど愛してくれているなんて、幸せだなぁ!」

「は!?」

「よし決めた! 結婚しよう、レモニア!」


 ぎゅっと強く抱きしめられ、あたしは「ぐえっ」とカエルのような声を上げてしまった。


 その間にもエリアス王子は私のナイフを持った手をするりと開いて、指を絡める。黒塗りのナイフは光も届かない床に落ち、甲高い音が二、三回すればすぐに見えなくなった。


 まるで社交ダンスを踊っているかのように、あたしはエリアス王子とくっついて、さらには振り回された。


「ちょっ、待っ、下ろして」

「ははははは! どうだいレモニア、返事が欲しいんだが?」

「返事って、本気なの!?」

「ああ! 私と結婚して、王妃になってくれ!」


 愉快そうに、場違いなプロポーズの言葉を吐くエリアス王子。


 しかし、あたしの耳元でこうもささやく。


「そうすれば、また暗殺する機会もあるかもしれないよ?」


 あたしはぐっと、口から出そうになっていた悪態の言葉を呑み込んだ。


 そう、たった今、あたしはエリアス王子の暗殺に失敗した。ターゲットを殺せなかった暗殺者は、もはや逃げる道も生きる道はない。このまま警備に突き出されて、拷問されて依頼主の名を吐かされる運命だ。


 なのに、エリアス王子はそれをせず、またチャンスを与えようとばかりに——この場を『偽装』しようとしている。


(暗殺されかけたのに、何でそんなことを? いや、あたしに選択肢はない。暗殺を続けるしかない、逃げる隙を窺うためにも話に乗らないと)


 何にせよ、あたしは暗殺を続けるにも、生きるためにもこの場をやり過ごさなくてはならない。しょうがなく、あたしはエリアス王子の申し出を受け入れるしかなかった。


「い、いいわ。結婚、なんてどうせお遊びだろうけど」


 あたしは強がってみせたのだが、エリアス王子はお構いなしだった。


「お遊び? いいや違うね! 私は君を愛している、君だって私を愛しているだろう?」

「は?」

「照れ隠しかい? 気にすることはない! 私は正直、君になら殺されてもいいと思っているんだ」


 エリアス王子はにっこりと、どんな女でも瞬殺されそうな笑みを浮かべ、あたしを見つめる。


 幸運の星の下に生まれた王子、星空を瞳に宿す王子、そんなふうに称賛される美貌のエリアス王子に顔を近づけられると、とても心臓に悪い。その発言がどれほど意味不明であっても、美の女神に愛されたその容姿で何でも押し切ってしまえそうだ。


「でも、まだ死ぬわけにはいかない。もう少しだけ待ってほしいし、このまま君を帰してしまえば二度と会えなくなるだろう。だから、結婚してくれ、レモニア」


 相変わらず何を言っているのか理解に苦しむことばかりだけど、あたしに選択肢はなく、エリアス王子の望むとおり結婚を受け入れるしかない。少なくとも、今は。


 ちょっとうんざりしているあたしへ、エリアス王子は素っ頓狂なことを言う。


「あ、もし私が死んでも君を愛しているから心配しないでいいよ?」

「……あ、そう」


 ——この王子、見た目と違ってかなり変だ。


 こうして、暗殺者のあたしは、暗殺対象のエリアス王子と結婚することになった。






 今のあたしの名前はレモニア、表向きの肩書きはクレバート子爵家令嬢だ。


 暗殺家業の差配人を通じクレバート子爵の依頼で着慣れないシルクのドレスに、ベロアのコート、そして黒塗りのナイフを持って王城にやってきたら、暗殺のターゲットであるエリアス王子と結婚することになった。まさかの展開だ。


 あたしは王城の一室に留まるよう言い付けられ、自宅よりも広い部屋のソファにポツンと座っていた。刺繍入りのクッションを抱いて、一体全体どうすればいいのかと悩んでいる。


 なぜならば、今朝やってきたエリアス王子がとんでもないことを口にしたからだ。


「おはよう、レモニア! いい知らせがある、さっき婚約破棄をしてきたんだ!」

「は?」

「これで君と結婚できる。すぐに君の実家と話をつけてくるから、もう少し待っていてくれ。昼食は一緒に食べられると思う」


 言うだけ言って、エリアス王子はすぐに飛び出していった。呆気に取られたあたしに、世話係の親切な老婆のメイドが状況を教えてくれた。


「元々、エリアス様はフェイドン公爵令嬢クロエ様との婚約に乗り気ではなかったのですよ。クロエ様も悪い方ではないのですが、エリアス様と反りが合わなかったと申しますか。しかし、国のためにも婚約は維持せざるをえず。それがレモニア様と出会って、ついに婚約破棄を決断できたのでしょう」


 老婆のメイドは仕方ない、とかしょうがない、という物言いではなく、エリアス王子の決断を祝福するような様子だ。


 婚約破棄は王侯貴族にとって大変不名誉で、契約を破った賠償さえしなくてはならないはずなのだが、そんな決断をしたエリアス王子を責める雰囲気ではない。一体なぜだろう、とあたしはつい興味本位で聞いてしまった。


「どうして婚約破棄を決断してしまったのでしょう。だって、婚約者のクロエ様を正妃に迎えて、あた……私などは妾でも十分でしょうに」


 すると、老婆のメイドは微笑ましいとばかりに温かい視線を向けてきた。


「ふふっ、レモニア様はエリアス様にとって、大好きでたまらないお方なのですよ。そんなお方を肩身の狭い妾になどできはしない、そうお考えなのでしょうねぇ」

「えぇ……? だ、だって、あた、私はエリアス様とは昨日会ったばかりで」

「あらあら、じゃあ一目惚れかしら」

「一目惚れ!?」

「あれでエリアス様は、思い立ったら一直線なところがおありなのですよ。もちろん、ちゃんと周囲に配慮して、何もかも完璧に調整してくださるでしょうから、ご心配なく」


 そんな決断をしてしまう王子のほうが心配だ、あたしはそう言いたいのをグッと我慢した。


 今のあたしは、偽の身分でここにいる。だから、クレバート子爵家を調べられたらすぐにレモニアという娘はいないことくらい分かってしまう。そこまで判明したらエリアス王子の熱も冷めて、あたしを追い出すに違いない。


 そう思っていたけど、どうやら的外れだったらしい。


 本当に昼食に間に合わせるように帰ってきたエリアス王子は、外套をポイっと脱ぎ捨ててあたしをまっすぐ抱きしめに来た。あたしは全力で拒否し、両腕に力を入れてエリアス王子を押してくっつかれないよう頑張る。


「レモニア、これでもう心配はいらないよ。昼食は何がいい? 嫌いなものはないかい? 食べたいものがあれば言ってくれ、すぐに作らせよう」


 強引にソファに座るエリアス王子から、ひょいと腰を浮かせて逃げ、あたしは警戒心をあらわにする。


「何が目的なの? あたしをどうする気?」

「結婚する気だよ」

「ふざけないで。あたしのこと、全部調べはついてるんでしょ?」


 あたしの目の前ではエリアス王子はふざけた様子だが、実際この青年は極めて優秀だ。頭脳明晰、文武両道、勇猛果敢で冷静沈着、どこを取っても褒め言葉しか出てこないような理想の王子様。あたしの素性を調べれば、すぐにクレバート子爵家令嬢レモニアは存在しないと分かるだろうし、依頼主だって突き止めているかもしれない。そうなれば、あたしは終わりだ。


 なのに、エリアス王子はまたしてもあたしの想像から明後日の方向に答えた。


「ああ、クレバート子爵家には『レモニアという娘がいる』ことになったから、心配しなくていいよ」

「はい?」

「ちょっと貴族の家系図に手を加えるくらい、造作もないことさ。だから、君の身分はこれで正式なものになった、よかったね! 私は王子、君は貴族、これなら結婚できるよ!」


 朗らかに言っているが、要するに公文書偽造である。国内貴族の家系図はすべて王城の専門機関で管理されている、それに手を加えたと言うのだから、開いた口が塞がらない。どうせすでに貴族たちにも根回しをして、『クレバート子爵家令嬢レモニア』は実在することになっているだろうし、クレバート子爵が暗殺を依頼したことも……どうにかなっているはずだ。


 貴族になってしまったあたしは、もう逆ギレするしかない。


「な、何がよかったものですか! 大体、婚約破棄ってどういうこと? あたしを出汁にして、そっちが本命なの?」

「あぁ、クロエのことはまあ、棚からぼたもち的な? クロエも私と結婚したくなかったようだから、円満に解決できそうだよ。フェイドン公爵はお怒りだが、いくらでも説得材料はある。何も問題はない、大丈夫さ」


 この王子が大丈夫と言えば、本当に大丈夫なのだろう。あっさりと婚約破棄まで円満解決してしまった手腕は、もう恐ろしいとしか言いようがない。


 ——あたしと結婚するために、そこまで?


 そう思うと、怖気が走る。


「狂ってるわ。本気であたしなんかを妃にするつもり? こんな、ちんちくりんの小娘なんか、それも殺そうとしているのに」


 自分で言うのも何だが、あたしは痩せっぽちで、女としての魅力はない。髪はウィッグで誤魔化して、ドレスの中には詰め物をして、それらしく化粧をしたから貴族令嬢のように見えるだけで、薄暗い廊下から日の当たる部屋に出てくればいかに聡明な王子様も目が覚めるだろう——そう思っていたのに、エリアス王子はあたしへずずいと詰め寄ってきた。


「愛というのは、そういうものさ。男は狂っていないと君を愛せないなんて、君は魔性の女なんだね!」

「ふ、ふざけるなぁ! だ、誰が魔性の女よ!」

「ははは、とりあえず昼食にしよう。温かい紅茶が飲みたい」


 あたしがいくらムキになっても、エリアス王子は柳の枝のようにしなやかにかわして、自分のペースに持ち込む。


 どこまで愛しているの言葉が真実か分からない、それにエリアス王子はまだ何か企んでいるに違いない。そう分かっているのに、あたしがほだされるとでも思っているのか。


 腹立たしいが、老婆のメイドが他のメイドとともに昼食を運んできたので、あたしは『クレバート子爵家令嬢レモニア』に徹するしかなかった。


 あと、初めて食べたまんまる鴨肉のステーキは大変美味しかった。







 夕方、あたしの部屋にさる高貴な淑女がやってきた。


 ヴェールで顔を隠し、身元を証明するものを何一つ持たず、アクセサリーさえ付けていない淑女がやってくるなんて、どう考えても怪しい。暗殺の依頼主の連絡役か、とあたしが身構えていると、老婆のメイドがあっさりと正体をバラしてしまった。


「クロエ様、紅茶は砂糖を二つでよろしいでしょうか?」


 咳払いをして、淑女は頭を振る。


「今の私はレディと呼んでちょうだい」

「はいはい、お菓子はこちらにご用意していますよ。カスタードタルトは多めにありますからね」

「だから、私は」

「では、何かあればお呼びくださいまし」


 老婆のメイドはそう言って、スタスタと部屋から出ていってしまった。正直、ここにいて欲しかったが、引き留められるだけの理由もなくあたしは淑女ことフェイドン公爵家令嬢クロエ——身分を隠しているらしいのでレディと呼ぼう——と二人きりでお茶をすることになってしまった。


 思いっきりため息を吐いたレディは、さっそく本題を切り出してきた。


「あなた、エリアス王子を狙う暗殺者らしいわね。まったくもう、あの馬鹿王子ったら暗殺者のためにここまでするなんて」


 レディの言葉は憎たらしいとばかりだが、感情がこもっていない。探りを入れているのだろう、あたしもまた同じことをする。


「あの……あなたはどこまで、何をご存知なのでしょう」

「すべてを教える義理はないわ。表向きは私はあなたのせいで婚約破棄されたのだから」

「も、申し訳ございません」

「いいのよ。私のお父様だけご立腹だけど、そんなことはどうでもいいの。問題は、あの馬鹿王子があなたの依頼主を突き止めて捕まえるまでの間、私にあなたの令嬢としての教育を任せてきたことよ」


 どうやら、レディはもう正体を隠す気はなさそうだ。しかもエリアス王子のことを、あろうことか『馬鹿王子』呼ばわりだし、もっと言えばレディはあたしの教育係を引き受けていた。何もかもがびっくり仰天、あり得ないことばかりであたしはムッとする。


「どうして、そんなことを? あたしにそこまでして、それこそ何の義理があるんですか? あたしは……おもちゃにされるなんてまっぴらごめんです」


 大人たちに暗殺の道具にされていたら、次は王侯貴族のおもちゃだなんて、あんまりな人生だ。


 あたしはドレスのスカートを右拳で握りしめる。


 あたしの左手は握力がない。暗殺の訓練で腱を切ってしまい、ほとんど役に立たなくなった。右手でナイフは扱えても左手はフォークを握ることが精一杯、どれだけ鍛えたってもう元には戻らない。このざまではあのエリアス王子に押し倒されても抵抗はできないし、これ以上馬鹿にされるくらいならいっそのこと、と思い詰めるあたしへ、レディは無情にもエリアス王子と同じように、明後日の方向に答えた。


「好きだからでしょう? あなたのこと、好きなのよ、あの馬鹿王子」


 呆れたように、レディはつらつら語る。


「天は二物を与え、何もかもに恵まれたエリアス王子はね、今まで自分に楯突く人間がいなかったのよ。それが、あなたみたいな少女がナイフ片手に襲ってきた、なんて……あの馬鹿王子はすごく興奮したでしょうね。変態だから」


 本日何度目だろうか、あたしは開いた口が塞がらない。


 この国の誇る王子様は他人に楯突かれて興奮する変態性癖。なんという倒錯具合だろう、この情報は国家機密に指定すべきではないだろうか。


 いやいや、レディが婚約破棄を承諾したのも頷ける。しかし、その、あたしはどうしていいのか分からない。


 困り果て、どう取り繕えばいいのかすらあたしが考えあぐねていると、レディに出し抜かれてしまった。


「ふふふ、後のことはよろしく頼むわね? 私、あんな変態と結婚するなんてどうしようと思っていたから、ちょうどよかったわ!」


 解放感あふれるレディの喜びに満ちたであろう表情は、ヴェール越しでも見て取れる。


 あたしは、本当に、どうすべきなのだろう。


 暗殺を続ければいいのか、それとも失敗したと見做せばいいのか。エリアス王子は、あたしを王妃にしたいだなんてわがままを、本当に叶えてしまうのだろうか。


 何もかもが、あたしの理解の範疇を超えていた。想像だにできない未来を、あたしはただ黙って待つしかなかった。


 あ、それはそうと、レディはとても教え方が上手で、あたしに歩き方からテーブルマナーまでつきっきりで教えてくれた。カスタードタルトも分けてくれたし、紅茶の知識も豊富ですごくためになった。


 レディはいい人だ、エリアス王子から解放されてよかったねとあたしもつい思ってしまった。







 それから、三日後のことだ。


 あたしは大人しく王城の一室で過ごしていた。老婆のメイドもレディも親切で、毎日お茶会や勉強会を開いてくれて、あたしを寂しくさせないよう、気を遣ってくれていることが分かる。それは使命感や義務ではなくて、彼女たちはとてもお節介で、お人よしだからだ。


 だから、お茶会の最中にエリアス王子がやってきて——その背後には騎士たちと、縄で手を縛られ頭に麻袋を被った誰かが連行されてきていることに、レディは怒った。


「エリアス、ここをどこだと思って? 淑女の部屋に、罪人を連れてくるとは何事ですか!」


 確かに、罪人が王城にやってくること自体がおかしい。地下の牢屋ならまだしも、ここは王族の住まう区画だ。レディが怒るのももっともで、老婆のメイドも顔には出さないが不機嫌そうだ。


 だが、エリアス王子は怯まない。


「それはすまないと思っている。しかし、急ぎなんだ。レディ、そこをどいてくれ」

「……何をするおつもり? レモニアに関わることでしょう?」

「ああ。こいつが、レモニアに指示を出した人間だ」


 騎士たちに両脇を掴まれ、手を縛られ麻袋を被った罪人から、エリアス王子が麻袋を剥ぎ取る。


 あたしは、見覚えのある赤ら顔の不潔な中年が猿ぐつわを噛まされて出てきて、思わずその名を口にする。


「あ……差配人」


 あたしに暗殺を仕事として斡旋していた差配人。そいつが今ここに捕まってやってきた、ということは——エリアス王子は、本当に暗殺依頼の背後関係をすべて洗い出したようだった。


「こいつに依頼を出した人物も、すでに兵士が連行しているころだろう。暗躍する貴族たちの一斉検挙だ、そして私がわざわざ連れてきた理由は、最終確認のためだ」


 エリアス王子は、あたしを見た。あたしへ、真実を突きつける。


「レモニア、こいつは君を捨て駒にしたんだよ。報酬を払う気もなく、君が失敗して、教え込まれている偽の依頼主クレバート子爵について吐くよう仕組み、この国と王侯貴族を陥れようとした。反逆罪に問うならば、即刻死罪だ。裁判の必要すらない、余罪はいくらでもある」


 告げられた瞬間、あたしの足元は音を立てて崩れ去っていくようだった。


 あたしは最初から、失敗を前提に送り込まれた暗殺者だった。クレバート子爵に罪を着せるため、令嬢を名乗って、エリアス王子を襲って、捕まって拷問を受けることさえも、差配人の手のひらの上だった。


 あたしがナイフを振るう理由が、すっかり失せた。エリアス王子を殺す理由はもうない。


 差配人が憎悪の視線をあたしへ向ける。あたしが裏切った、とでも思っているのだろう。不快でたまらない。


 あたしは、顔を逸らした。エリアス王子へ懇願する。


「連れていって、ください。もう、見たくない」


 レディがあたしの肩を支え、ソファへと連れていく。まるで今にも足元の床は失われてしまいそうな、ぎこちない足取りでやっとソファに辿り着くと、座って俯くことしかできなかった。


 少し遠くで、エリアス王子が騎士たちへ命令していた。


「こいつを連行しろ」


 ガチャガチャと鎧の部品が当たる金属音が遠ざかっていく。


 レディはあたしに、砂糖たっぷりの温かい紅茶を差し出してくれた。あたしは震えながら、右手でカップを持とうとして、落としそうになった。役に立たない左手は支えることさえできず、ついにあたしは泣き出してしまった。


 ——あたしは、何のために。


 あたしは、もう、生きる理由がなかった。






 レディにベッドまで送られて、あたしは枕を抱きしめて眠っていた。


 あたしに幼い頃の思い出は、ほとんどない。親の顔も憶えていない、掃き溜めのような貧民窟から売られて、あの差配人の小間使になって、暗殺の訓練を受けさせられた。でも、あたしには才能がなくて、左手の腱まで切って、顔だけは並以上だからって使い捨ての暗殺者もどきにされて、あとは死ぬだけだったはずなのに。


 暖かい部屋に、ふかふかのベッドに、清潔なシーツと枕、新品のコットンドレス。あたしにはもったいない、高価なものばかり与えられ、美味しい食事と優しい人たちに囲まれている。


 ——そんなこと、ある? しかも、あのエリアス王子があたしを愛してるだなんて、嘘でしょう?


 あたしにそんな価値があるわけないじゃない。あたしは、人一人さえ殺せなかった暗殺者もどきなんだから。


 ぐるぐる頭の中で、自分を責める言葉ばかりが巡る。すっかり眠気も覚めて、むくりと起き上がったところで、あたしはベッド脇に腰掛けていたエリアス王子を見つけてしまった。サイドチェストのほのかな灯りしかない部屋で、眠っているあたしのベッドの縁で、一体全体何を——と文句を言いかけて、あたしは止まった。


 分かりきっている。エリアス王子は、あたしを心配してそこにいたのだ。


 あたしのほうを向いて、エリアス王子は名前を呼んだ。


「レモニア」


 プイッと、あたしは顔を背けた。


「あんたのせいで、何もかもめちゃくちゃよ」


 それはエリアス王子のせいではないし、お門違いだと分かっていても、口から出てしまった悪態だった。


 エリアス王子は神妙な顔をして、頷く。


「そうだな」


 肯定されて、あたしはカッとなった。


「何がそうだな、よ! あたしは、あんたを殺すために来たのに、何をのうのうと仲良く!」


 あたしは飛び起きて、エリアス王子の首に右手を突きつける。


 しかし、エリアス王子は動じない。あたしを見ている。同情するような、優しい眼差しであたしを見ている。


 ——やめてよ、あたしが悪いのに。


「抵抗してよ」

「いいや、しない。君のことを愛している」

「馬鹿にして! あたしじゃあんたを殺せないってタカを括ってるんでしょ!」

「できないのかい?」

「できるわよ! この、クソ王子!」


 激昂しても、あたしにできるわけがなかった。


 右手にどれほど力を込めても、エリアス王子の首を掴むことで精一杯だ。気管を締めることさえできない。ナイフは手元にないし、あったところであたしにはもう、振るう理由がなかった。


 それに、あたしはレディも、老婆のメイドも、エリアス王子も、ここにいる人たちを誰も殺したくなんてない。


 そう思えば、あたしの目には涙がとめどなく溢れてきた。


「レディが、優しいんだもの。メイドたちだってあたしを慰めてくれる、気遣ってくれる。そんなの、暴力と変わりないじゃない。あたしの意思は、何にも関係ない。ただ黙って言われるままにするだけ」


 あたしは結局、どうしてここにいるんだろう。望まれたから、強いられたから、どちらもあたしの意思ではない。今までだって同じだった、でも、王城の人たちはあたしに優しい。だからこそ、どうしていいのか分からないままだ。


 エリアス王子は、指先であたしの涙を拭った。両目は潤んだままだが、あたしはエリアス王子の顔を数日ぶりに至近距離で見た気がする。


 あたしが首に手をかけたままなのに、エリアス王子はあたしへ愛の告白をする。


「君の目が好きなんだ。殺意でも何でもいい、強い意思のこもったブラウンの瞳。素敵だ」

「……はあ?」

「君は生きている、そう思うだけで嬉しくなる。誰が死のうが生きようがどうでもよかったが、君には生きていてほしいし愛したいんだよ、レモニア」


 あたしにはもう、その言葉を疑うつもりはなかった。


 あたしは右手を下ろし、エリアス王子へこつんと額を当てる。


「愛してよ」

「うん」

「好きなんだったら、あたしを見てよ」

「ああ、そうする」

「殺したいほど憎たらしい、いい返事ばっかり」

「信じられないかい?」


 あたしはあっさり首を縦に振った。あまのじゃくにも、素直に答えたくなかっただけだ。エリアス王子の愛は、行動で示されたのだから、あたしはもうとっくに信じている。


 右手と左手、それぞれ互いに指を絡めて、エリアス王子は恥ずかしげに、満開の花さえも恥じらうほどの笑みを浮かべた。


「レモニア、一つだけ約束してほしいことがある」

「何」

「私を襲ってほしいんだ。いや殺してもいいが、まあそれはさておき、君になら犯されても」

「ちょっと待って、馬鹿なこと口走らないで!」

「いいじゃないか別に」

「嫌よ!!! どうしてあんたの変態性癖に付き合わされるのよ!」

「伴侶は私じゃだめかな? 自慢じゃないが顔も体も性格も恥じるところはない!」

「うるさい! ちょっと黙ってて!」


 この野郎、あたしの領域に一歩踏み込んできたと思ったら、とんでもない歩幅の一歩だった。


 いや、結婚するのならそういうこともしないといけないのだけども、うーん。


 背中をひと押しとばかりに、エリアス王子は誘惑の一言をまたあたしの耳元でつぶやいた。


「美味しいものをたくさん食べさせてあげるよ?」


 子供扱いにもほどがある。ついにあたしはキレた。指を離し、エリアス王子の胸を両手でポカポカ殴る。


「この、馬鹿王子! 変態! 食べ物で釣るな!」

「ははは! 痛くも痒くもない、どちらかというと興奮してきた」

「うるせー!!!!」


 エリアス王子、変態である。優秀なんだけど、ルックスも極上なんだけど、変態である。


 それに、しがない元暗殺者を妃に迎えようだなんて考えるのは、後にも先にもエリアス王子くらいだ。





 あたしは、レモニアという名前で、今生きている。


 王城で、次の国王となることが正式に決まったエリアス王太子に「婚前交渉は一切禁止!」と約束させて、暫定王太子妃の座に就くことになってしまった。


 エリアス王子はあたしをとことん甘やかす。もはや溺愛だ。それを見て、メイドも使用人も騎士も兵士も国王夫妻も、仲が良くて微笑ましいと大変喜んでくれる。あたしにとっては遺憾ながら、そうなのだ。


 何でこうなったんだろう、何度もそう思ったけど、もういいや。


 あたしは、エリアスに愛されているのだから。




おしまい。

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