8.《暴君狩り》
あるところにお城のように大きなお屋敷がありました。とある町の外れにあり、石造りの立派なお屋敷でしたが、あまり飾り気はなく、庭木は枯れたものも多く、どこか不気味な雰囲気がありました。お屋敷の主は領主的な立場にいる大男で、厳めしい形相をしていました。肌は青白く、濃いひげの跡が青く残り、一度見るとしばらくは忘れられそうにないほど恐ろしい風貌でした。男は不愛想で、挨拶もろくにせず、他の住民とは関わろうとしませんでした。
男は近隣の住民から〈青髭〉と呼ばれて恐れられていました。
ある時、そんな青髭のお屋敷に美しい女性が嫁いでくると噂になりました。町の人々は何の冗談だと笑っていましたが、本当に美しい女性が青髭のお屋敷にやってきたのでした。
住民は一体どうしてあんな女性がここに嫁いできたのか、よくわかっていませんでした。しかし、ただでさえ噂の的になる〈青髭〉です。様々な噂話が広がりました。推測とも呼べない、妄想のような噂もたくさんありました。
お金に困った名家のお嬢様が大金で買われたのだ、とか、〈青髭〉がどこからお姫様をさらってきたのだ、なんて噂もありました。
町の住民はお屋敷に好奇の目を向けましたが、噂の女性を見ることはあまりありませんでした。女性は内向的なのか、それとも〈青髭〉に言いつけられているのか、お屋敷の外に姿を現すことは滅多にありませんでした。
そんな生活がしばらく続きました。住民の興味もゆっくりと薄れ、時々姿を見せる女性にも慣れていきました。
しばらくして。
住民の間で〈青髭〉の奥さんになった人を最近見ないな、という話が上がるようになりました。そういえば、俺も見てない、私も、などという話があり、〈青髭〉の屋敷について、にわかに噂話が盛り上がりかけた時、住民の間に驚くべき知らせがありました。
〈青髭〉の妻が行方不明になり、新たに嫁いでくる人がいるという知らせでした。これには住民の噂話も大いに盛り上がりました。もちろん〈青髭〉から詳しい説明はなく、それが住人の好奇心に火を注ぐ形になりました。何が原因で、死んでいるのでは、新しい人はどんな人なのか、数多くの噂話が盛り上がり、尾ひれがついて一体何が事実なのかわからなくなるほどでした。
酔っぱらった誰かが、不謹慎にも新しい奥さんもいなくなったりしてな。なんて話で笑っていましたが、しばらく時間が経つと、その不吉な言葉通り、新しい奥さんも行方不明になってしまいました。
流石に噂好きな住人達も静かになりました。そして驚くべきことに、奥さんが行方不明になってからすぐに、三回目の結婚が発表されたとき、住人はあまりの不気味さに黙って顔を見合わせるだけでした。
誰も何も言いませんでしたが、また同じことが起こるのではないか、と内心思っている人がたくさんいました。
そしてその悪い予感は当たってしまいました。三人目の奥さんも行方が分からなくなり、四人目も五人目も行方が分からなくなりました。次々に結婚が繰り返されましたが、嫁いできた女性たちはみな行方不明になってしまいました。
ここまでくると住民たちは好奇心なんかより恐怖の方が大きくなっていました。住民は誰も噂話はせず、お屋敷に目を向けることすらなくなりました。
六人目の奥さんが行方不明になり、住民たちはもうやめてくれ、と思っていましたが、その願いは叶いませんでした。
〈青髭〉のお屋敷には七人目の奥さんがやってくる予定になっていました。
「はぁ~い、レコ。元気?」
カウンターに座っていた僕に声をかけて来たのは小柄な女の子だった。ゆるふわなウェーブのかかった明るい金髪と白いヘアバンドに水色のエプロンドレス。キラキラを輝く瞳で僕を見つめている。
「元気ですよ。アリスさんは?」
「あたし? あたしはスーパー元気だよ!」
彼女――《狩人屋》の《暴君狩り》アリスはピースサインを決めながら、ニカッと笑った。
「ところで探してた緑色のウサギの巣穴は見つかった?」
「ウサギの巣穴ではないと思うんですけどね」
僕は苦笑いで答える。僕の記憶の中にある緑色のトンネルについて、《狩り》達に情報を聞いて回っていたとき、アリスさんがウサギの巣穴に落ちたことを聞いたのだ。それからしばらく経っているので、アリスさんの中で記憶がごっちゃになっているらしい。
「あれ? そうだっけ?」
「僕が探しているのは緑色に光るトンネルですよ」
「あ、ウサギの巣穴はあたしが言ったんだった。それで見つかったの?」
「まだ見つかってません」
「そっかぁ。残念だね」
「まあ、気長にやります」
「それがいいよ。目標があって、それに向かって進んでいれば、いつか必ずたどり着くから」
アリスさんはそんなことを言いながら、僕の隣の席に腰かけた。それからカウンター裏にいたオキナさんに声をかけた。
「オキナ! 紅茶ちょうだい! すぐに飲めるやつ!」
「はい、アリス」
「さあ、オキナ。あたしが今言った『すぐに飲めるやつ』は『準備の話』か『温度の話』かどっちだと思う?」
「両方では?」
アリスさんのセリフが終わる前に、ほのかに湯気がゆらめく黄金色の紅茶が、トランプマークのティーカップで差し出された。
「流石ね、オキナ」
アリスさんはティーカップをぐいとあおった。
「おいしい!」
オキナさんは静かに目礼する。
アリスさんは紅茶を飲み干すと、カウンターに両手をついて、こちらに顔を向けてきた。
「どうしました?」
「……今日は仕事ある?」
僕の方を覗き込むように首をかしげて問いかけてくる。
「ありません」
「ならよかった。記録係を探してたの。仕事、行きましょ」
彼女はにっこり笑いながらウィンクをくれた。
「レコとの仕事は初めてね。評判はよく聞いてるわ。よろしくね」
「いえ。こちらこそよろしくお願いします。アリスさん」
「チャンスを狙ってたわけ! 誘おうと思ったらいっつもいないんだもん。避けられてるのかと思っちゃう」
「まさか。そんなことはないですよ」
「ならよし。運がなかったわけね」
「にゃはははは!」
アリスさんの肩口にニヤニヤ笑いを浮かべる猫の顔が現れる。彼女の相棒的立ち位置のチェシャ猫だ。濃い紫の地毛に明るい黄色の縞模様という鮮やかすぎる猫である。
「チェス……しばらく見なかったけど、一体どこ行ってたのよ?」
「にゃは。内緒だよ。面白そうなことやってるから戻ったよ」
相棒的役割があるとはいえ、彼は特に何もしないという。神出鬼没なだけで、これといった活躍はせず、常にニヤニヤ笑いを浮かべているだけらしい。この間アリスさんが「役に立たない」とぼやいていた。
彼は文句を言っているときに限って現れるらしく、その時もアリスさんの頭上でニヤニヤ笑っていた。ニヤニヤ笑いでウィンクされたので、アリスさんには伝えられなかったけれど。
「それでアリスさん。依頼内容の確認しておきたいんですけど」
「うん。いいよ。まあ、メリアからの伝聞なんだけどね」
アリスさんはそう言ってポケットの中から紙束を引っ張り出した。メリアさんの依頼書があのドレスのポケットに入るとは思えないのだが、何かしらの『事情』があるのだろう。
「依頼者はとある騎士の一家だよ」
「騎士なんだってさ~にゃは」
「依頼内容は妹の結婚を止めてほしいってことみたい」
「シスコンってことみたいにゃ」
「どうにも結婚相手っていうのが、とんでもないやつらしいのよね」
「『飛んでもない』なら『這っている』のにゃ」
「もう六回も結婚してるらしいんだけど」
「耄碌かい? 結構してるにゃ」
「なんと六人とも行方知れずになってるらしいの!」
「なんとろくでもにゃい」
「チェス!」
「にゃあ!」
「にゃあ、じゃないよ! 変な合いの手入れないで!」
「にゃはは。補足だよ」
「なんの補足にもなってないから!」
アリスさんは怒って両手を振り上げるが、チェシャ猫はにやにや笑いながらすーっと浮かび上がって消えていった。
「また消えた! まったくもう!」
アリスさんはぷりぷり怒っているが、これは日常の風景だ。《狩人屋》のいたることろで、毎日のように繰り広げられている。チェシャ猫はアリスさんをからかうのことを生きがいにしているようなところがある。
「まったくもう! あの猫ときたら本当に……」
肩を落としながらそう言って、彼女は依頼書をこちらに差し出してきた。僕は苦笑いでそれを受け取り、整った字体が書きつけられている依頼書に目を落とした。チェシャ猫の合いの手を差し引いても、おおむねアリスさんが言った内容が書きつけられている。
『青髭』と呼ばれている人物は六度の結婚を繰り返しているが、その妻は全員行方知れずになっている。なぜそうなっているのかはわからない。
「それで、僕たちはどこへ向かってるんです?」
依頼書をカバンにしまい込みながら訊ねる。
「『青髭』のお屋敷だよ。一応、その手前で依頼者と会う予定になってるってさ。メリアが言ってた」
「わかりました。その場所はご存じですか?」
「あったりまえじゃん! あたしについて来て!」
彼女はそう言って満面の笑みを浮かべた。
僕とアリスさんはしばらく歩き続けた。隣を歩くアリスさんの足取りは軽く、ときおりスキップするように跳ね、楽しげな鼻歌が聞こえてきたりした。
こんなに楽しそうな《狩り》を見るのは初めてだ。これまで同行した人たちはどこかしらに影を感じる人が多かった。一番近そうなのは白雪さんだが、白雪さんの超然とした態度とアリスさんの明るさはベクトルが違う。
「あ、あれかな?」
アリスさんは額に手をかざして遠くを見ている。その視線の先には小高い丘があり、丘の上には大きな木が立っていた。
「四人ぐらいいるみたいだね」
「見えるんですか?」
「え、レコ、見えないの?」
アリスさんは驚き顔でこちらを見てくるが、あの丘まではまだまだ距離があって、かろうじて人影のようなものが見えるだけなんだけれど……。
「待たせてるみたいだし、ちょっと急ごっかな!」
彼女はそう言って僕の手を取った。
「ちょっとアリスさん⁉」
引っ張られても《狩り》の速力にはついていけないですよ⁉
「〈不思議の国〉――急がなきゃ急がなきゃ」
アリスさんのつぶやきが聞こえた。次の瞬間、アリスさんの豊かな金髪の間から、白いウサギの耳が飛び出した。白いエプロンが赤いベストに変化し、手には金色の懐中時計が握られている。
「じゃあ、急ぐよ~。急がなきゃ、急がなきゃ」
アリスさんに手を引かれ、軽く走り出したと思ったら、すぐに景色が飛ぶように後ろに流れていく。
「急がなきゃ♪ 急がなきゃ♪」
楽し気なつぶやきが聞こえる。その度に加速度的に景色が後ろに飛んでいく。
これは、アリスさんの能力だろうか。
「そうだにゃ」
疑問が頭に浮かんだと思ったら、僕の隣にチェスのニヤニヤ顔が現れた。どうやら彼も同じスピードで移動しているらしく、ぴったりと僕たちに張り付いている。というか、考えが読まれた?
「チェ、チェスさん」
「チェスでいいとも。記録屋さん」
「レ、レコでいいですよ」
「にゃはwww」
消えゆく彼の笑い声が聞こえた瞬間、流れていた景色が止まった。
「到……着っ!」
両手を真横に広げた楽しそうなアリスさんの声が聞こえる。彼女が両手を広げているせいで、僕も似たような恰好になってしまった。
そして、そんな僕らの前に、驚愕の表情で目をまん丸にしている四人組がいた。女性が一人と男性が三人。女性は意志の強そうな顔立ちで、背が高く、豊かな茶髪が広がっている。男性三人も女性と似た顔立ちで、恵まれた体格を立派な鎧で包んでいた。
この人たちが依頼人なのだろう。
ぽん、という音が鳴って、アリスさんの姿が元のエプロンドレスに戻った。
「こんにちは! あたしは《狩人屋》のアリス!《暴君狩り》だよ! 依頼人だよね!」
「え、あ、はい」
元気いっぱいの挨拶に、目を白黒させている依頼人たち。まあ、急に現れたように見える女の子にこんなことを言われたら誰だって驚くだろう。
「あたしに任せて! 助けに来たよ!」
アリスさんは満面の笑みで依頼人の手を握った。
「んー…ということはアルフェラッツが青髭のところに嫁ぎに行く予定なんだね?」
「そうです」
アリスさんの勢いに押されていた依頼人たちを落ち着かせ、僕たちは彼らの話を聞いていた。ほとんどメリアさんの依頼書の内容の確認のような感じだ。
四人はペガソス家という名家の兄弟妹で、マルカブ、シェアト、アルフェラッツ、アルゲニブというらしい。
「父が勝手に決めた婚姻なのです」
長男だというマルカブさんが言った。
「我々の父親は頑固で、身勝手で、ろくでもない親なのですが……その父がどこからが見つけてきたのが今回の縁談でして」
マルカブさんはため息をついた。
「父は乗り気でしたが、少し調べるととんでもない噂があふれてきたもので、困りました」
「ちなみにお父さんは青髭の噂はご存じなのですか?」
「おそらく知らないでしょう。流石に知っていればこうはならなかったはずです」
「説明はしてないの? そのお父様に」
「しましたが……『騎士たるものが根も葉もない噂に踊らされるな』の一点張りで、取りつく島もありません」
「ふーん。ほんとに頑固なんだ」
「眼光も鋭いんだね、きっと」
「うおっ! なんだこれは⁉ 猫の首⁉」
アリスさんの肩口にチェスが現れる。マルカブさんたちは飛び退って剣の柄に手をかけている。
「こらっチェス‼ びっくりさせちゃダメでしょ!」
「こりゃびっ首させたにゃ」
チェスはニヤニヤ笑っている。
「まったく。この子はいつもこうで」
アリスさんの様子をみて、チェスが敵ではないと分かったのか、マルカブさんたちは警戒を解いたようだった。
「えーと。今回の件はですね……まあ、その、妹の縁談は何度かご破算になっていまして、父が癇癪を起こして勢いで探し出したようなところはあります。だからより意固地になっていますね」
「まあ、今までの縁談はアルフェラッツ姉さんが自らご破算に持って行った節はありますが」
「うるさいよ、アルゲニブ」
微かに頬を赤くしたアルフェラッツさんがアルゲニブさんを小突いた。
「しかし、父の意向がどうであれ、流石にあんなところに妹を嫁ぎに出すわけには行きません。ただ、勝手に結ばれたとは言え、約束は約束。真偽不明の噂だけで反故にするのはあまりに不義理。人様の領土ですから、我らが乗り込んで調査するわけにもいかず、どうしようかと悩んでいたのですが、《狩人屋》なるものがあるとお聞きし、ご依頼させていただいたわけです」
「依頼して正解だね。《狩人屋》は何でも解決できるよ」
アリスさんは腰に手を当てて胸を張る。その得意げな様子を見ていた四兄弟は顔を見合わせて困った表情を浮かべた。
「てっきり、もう少し……なんというか専門家のような方が来るのかと思っていたのですが」
「あたしはこういうことの専門家だよ⁉」
「疑っているわけではないのですよ! しかし、女性が行方不明になる可能性のある場所に、あなたのような可憐なレディを行かせるというのは……」
マルカブさんは必死に言葉を選んでいる。当のアリスさんは『可憐なレディ』という言葉が嬉しいようだった。
「ちょ、チェス! 聞いた⁉『可憐なレディ』だって!」
「そんなに褒められると照れるにゃ~」
「あたしだよ⁉ 可憐なレディはあたし! あなたオスじゃない!」
「『オスじゃない!』なら『メスじゃない?』 にゃはは」
「まったくもう」
「…………」
「心配いらないよ、マルカブ! あたしは確かに可憐なレディだけど、間違いなく《狩人屋》の《暴君狩り》だからね!」
アリスさんの力強いピースサインを見て、余計に気まずそうな笑みを浮かべる依頼者たち。
「そ、そうですか。しかし、レディ・アリス。どのようにこの件を解決するつもりなのですか」
マルカブさんは丁寧に訊ねる。『レディ・アリス』と呼ばれた《暴君狩り》は満面の笑みでチェスの頭をモフモフし、チェスは白目をむいて舌を出している。
「まずは噂が本当か確かめる。まあ、直接乗り込むつもりだよ! それから青髭って人が何も悪くないなら、あなたたちに教えるよ。そしたらアルフェラッツが心置きなく縁談を進められるでしょ」
「それはありがたいのですが、青髭の悪い噂が本当なら? 青髭が原因で六人もの女性が行方不明になっているとしたら? あなたはどうするつもりなのですか?」
「青髭が極悪非道だったら? もちろん、同じ目にあってもらうよ」
アリスさんは笑顔のまま言った。語気も強くならない平坦ないつもの声音で、そう言った。ただ、その返事は重武装の騎士たちの姿勢を正す力があった。
「……なるほど。わかりました。専門家に野暮な質問をしたことを許してください」
「いいよ、全然気にしないにゃ」
「こらっチェス!」
「ん? 気にするのかにゃ?」
「全然気にしないけど! それはあたしのセリフだよ!」
地団太を踏むアリスさんに話を促す。
「それでアリスさん。どのように調査を?」
「いい考えがあるんだ~。アルフェラッツの代わりに嫁ぎに来たってことにする」
「……え?」
「なに? あたしはレディだよ?」
「そのアリスちゃん。流石に私の代わりは難しいんじゃないかな? 年齢が違いすぎるよ」
「え? ああ、違うよ。このままの姿じゃないから!」
アリスさんは慌てて手を振って、小さくつぶやいた。
「〈不思議の国〉――私を食べて」
アリスさんの右手にホールケーキが現れた。真っ白なクリームが塗られ、小さくカラフルなチョコレートが散りばめられ、ケーキの上にはピンク色のクリームで「Eat Me」と書かれている。
「うーん、どのぐらいだろ? このぐらいかな?」
右手を上げてケーキを矯めつ眇めつしていたアリスさんは左手で直接ケーキをむしった。そしてそれを口に放り込む。
彼女が何をしているのか呆気に取られている間に、アリスさんの体がぐんぐん伸び始めた。横にいた僕の背を追い抜いていく。どんどん体形が変わっていく。すらりと手足が伸び、胸が膨らみ、腰つきが変わる。髪も伸びていき、顔つきが少女から淑女へと変わっていく。
「どう?」
そこにいたのは紛れもなく大人の女性だった。
「す、すごいですね」
「これは『大きくなるケーキ』なんだよ。単純に大きくなることもできるけど、これも悪くないでしょ?」
大人アリスさんは変わらない悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「でも、流石にちょっと苦しいね」
アリスさんの視線が体に向けられる。彼女は成長したが、服は大きくなっていない。よく似合っていたエプロンドレスはぱっつぱつになっている。ミニスカートのような丈に、上半身は今にも破れそうだ。
「……アリスちゃん。私の服を貸してあげる。嫁入り道具でいくつか持ってきたからね」
「いいの⁉ ありがとう!」
女性二人が大木の後ろに消えた。
「……あれはいったい」
「彼女は魔女か?」
「《狩り》はああいった不思議な力があります。僕も詳しいことはわかりませんが、魔女とは別の力ですね」
「不思議だ……」
そんなことを言っている間に、着替えを終えたアリスさんとアルフェラッツさんが戻ってきた。アルフェラッツさんは大人になったアリスさんよりも大きいので、若干サイズが合っていなかったが、さっきよりはずっと体に合っている。飾り気は少ないが落ち着いた上品なドレスだ。
「よし、準備万端だね! みんなはここで待ってて!」
アリスさんは着ていたエプロンドレスを自分のカバンに押し込んでいる。
「ではよろしくお願いします」
そう言って、依頼人たちは頭を下げた。
「行こう、レコ!」
大人のアリスさんは僕の手を取ってそういった。
「ここだね」
「そうですね‼」
僕とアリスさんは青髭の屋敷の前にたどり着いた。
「よし、覚悟はいい?」
「はい‼ 大丈夫です‼」
なぜ僕がこんなにも叫んでいるのかというと、今の僕はアリスさんの親指ぐらいのサイズしかないからだ。彼女の肩に必死で掴まっている。小さすぎて最大限に声を張り上げないと、会話できない。
どうしてこう小さくなっているのかと言えば、嫁ぎ先に子供を連れてくるわけには行かないからだった。アリスさんはアルフェラッツさんの振りをしている。彼女は一人でここへ来る約束だったという。かといって、記録係である僕を置いていくわけにもいかず、苦肉の策でこうなっている。
もちろん、こうも縮んだ原因はアリスさんの能力によるものだ。
〈不思議の国〉――私を飲んで。
毒々しい濃い緑色のジュースで、あの大きくなるケーキとは逆に『小さくなるジュース』なのだという。赤ちゃんになるわけではなく、単に体が縮んだだけなんだけれど、不便で仕方ない。服も着られないので、布切れを巻き付けているだけだし、記録をしようにも書きつける術がない。記録係の同行としては本末転倒な気もするけど、これは僕がしっかり記憶しておいて後で記録にまとめればいい話だ。
「ごめんください!」
アリスさんは大きな声で呼びかけながら門扉を叩いた。しばらく待ったが何の反応もない。
「留守?」
「でも、今日来ることは知ってるはずですよね!」
さらに待つこと数分、やっと扉が重苦しい音を立てながら開いた。
「お待たせした」
扉の奥から姿を見せたのは背の高い大男だった。しなやかな筋肉に覆われた長い手足。日を浴びたことがないような青白い肌。黒々とした髪は後ろに撫でつけられている。そして、顔の下半分は髭の剃り跡が色濃く残っていた。
これが『青髭』の由来なんだろう。
僕は見つからないようにアリスさんの髪の中に隠れて青髭を観察した。
「初めまして。ペガソス家のアルフェラッツです。ミスター?」
「ようこそ。ジルシャフと呼んでくれ」
「わかりました。よろしくお願いします、ジルシャフ」
青髭ことジルシャフが扉の奥へと一歩引いた。アリスさんは物怖じせずに歩を進めた。
屋敷の中は薄暗い。石組の壁がむき出しで、飾り気が全くなかった。深紅の絨毯だけが唯一の色彩だった。
「ジルシャフ」
「質問は後にしてくれ」
「はーい……」
青髭はアリスさんの質問をバッサリ切った。その後、彼は言葉を発することなく黙々と歩き、食堂のような場所に着いた。長い石造りのテーブルとたくさんの椅子。燭台もあるが、数は少なく、光量が足りていない。端には大きな暖炉があったが、火は入っておらず、余計に寒々しい印象を与えていた。暖炉の上には交差する剣と斧が飾ってあり、トカゲのような奇妙な動物の首が剝製として僕たちを見ていた。
一人で使うのはあまりにも広すぎる。確か、青髭は一人で住んでいたはずだ。
「長旅で疲れただろう。座ってくれ」
青髭は暖炉近くの上座まで歩き、近くの椅子を引いた。
「ありがとう。でも、疲れはあまりないの。あたしは元気が取り柄だから」
「昼食を用意している」
「そう。ありがとう。一体何が出てくるのか楽しみだわ」
「持って来よう」
青髭が奥の部屋に消えた。あの先がキッチンなのだろう。
「むう……」
アリスさんは不満げに口を尖らせている。
「会話になってるのか、なってないのか分からないね。ちょっとヤな感じ」
青髭はすぐに戻ってきた。湯気の立つスープと硬そうなパンが乗った皿を持っている。
「どうぞ」
「ありがとう。素敵なスープね!」
「召し上がれ」
はやり妙に嚙み合わない。アリスさんへの返答というより、料理を出したから言ったような感じがする。
アリスさんはためらうことなくスープにスプーンを突っ込んで、もぐもぐ食べ始めた。
「根菜がゴロゴロのスープなのね。もしかして育ててる?」
「食べるときはしゃべらない方がいい」
「そう……」
アリスさんは呟いて、黙々とスープをかっ込み始めた。その仕草はあまり良家のお嬢さまの仕草には見えなかったが、青髭は何も言わず、咎めたりしなかった。
無言の食事会はすぐに終わった。青髭はアリスさんが食べ終えていることを確認してから、重々しく口を開いた。
「アルフェラッツ」
「なに?」
「我々は婚姻を結んだ」
「そうね。あなたはあたしの旦那さまってわけね」
「今は私が喋っている。余計なことは言わなくていい」
「はーい……」
「我々は夫婦になった。すなわち、この屋敷は二人の物だ。君はこの瞬間から、この屋敷のすべてを自由に使えるようになった。我々は対等になったといえる。君は屋敷の管理について口を出せるし、どこで何をしても自由だ」
「気前がいいのね」
青髭はアリスさんを見つめている。
「ただし、一つだけ絶対に破ってはいけないルールがある。あそこの扉が見えるか?」
「ええ」
青髭が指さす方向は暖炉の反対側、食堂の入り口の横にある小さな扉だった。
「あれは地下室へ続いている。あの扉を開けると、螺旋階段があり、地下室の扉へと続く。君は決してその扉を開けて、地下室へ入ってはならない」
「わかったわ」
「わかってくれたなら結構だ。何か質問は?」
「二つ」
「何? 二つ? まあ、いいだろう」
青髭は微かにため息をつきながら言った。
「一つ目。あなたは六度の結婚をしているわ。あたしの前の奥さんたちはどうなったの?」
「そんなことを聞いてどうする?」
「知りたいから。あたしはあなたの妻になったのよ? 前の奥さんがどんな人で、どうしていなくなったのか、気になるから」
「君が気にすることではない」
「あなたが決めることじゃないわ。あたしが知りたいの。それとも知られたくない理由があるの? 話したくないほど、悲しい別れだったのかしら?」
「……彼女たちはいなくなった。急にだ。理由はわからない」
「心当たりはないの? 私たちは夫婦よ? 隠し事はなしって約束して?」
「いいだろう。それを踏まえて前妻のことはわからない」
「じゃあ、二つ目。地下室へ入ってはいけない理由はなに?」
「なぜそんなことを気にする?」
「気になったから。どう使ってもいい屋敷の中で唯一入ってはいけない場所なんて、その理由が気になって当然じゃない?」
青髭は今度こそ深いため息をついた。
「ルールだからだ。それ以上はない。君が気にする必要はないことだ」
「そう。わかったわ」
青髭はしばらく無言だった。眉間にしわを寄せ、腕を組んで宙をにらんでいる。
「……仕方あるまい」
小さなつぶやきが聞こえた。
「アルフェラッツ。来たばかりで申し訳ないのだが、私はどうしても今日中に片付かなければならないことがある。屋敷を空けなければならないのだ。夜には戻れると思うのだが」
「そうなの? 大変ね。でも大丈夫よ。必要なことなのでしょう? あたしは大人しく留守番しておくわ。屋敷の中を見て回るわね。もちろん地下室以外を」
「ああ。それ以外なら自由にしてくれ。そして、これをお願いしたい」
青髭は懐から、使い古されて鈍く輝く鍵を取り出した。
「私が家を空ける間、この鍵を預かっていてほしい」
「構わないけれど、これは何の鍵?」
「地下室の扉の鍵だ」
アリスさんに鍵を預けた後、青髭は慌ただしく屋敷を出ていった。
「なぜ、立ち入りを禁じた地下室の鍵を渡してきたんでしょう?」
僕はアリスさんが調節してくれたケーキを食べて、元の大きさに戻っている。青髭がいない間に屋敷を調査するのに、小さいままだと不便すぎるからだ。
「なんでだろうね~。試されてるのかな? はあ~あ……」
アリスさんは鍵の輪っかに指を入れて、くるくると鍵をもてあそんでいる。彼女の姿は大人のままで、物憂げな態度はやけに妖艶だった。
「まあ、調べないわけにはいかないけどね。手間が省けて大助かりなぐらいだよ」
アリスさんは地下へと続く扉を見やる。
「さて。あんまり時間もないし、とっとと行ってみよう」
彼女は椅子からぴょんと立ち上がった。そのまま地下へと続く扉の目の前に立つ。
「この扉には鍵はかかってないみたい」
キィイ、と音を立てて扉は奥へと開いた。暗い螺旋階段が続いている。蠟燭もなく窓もないので、明かりが全くない。
「Twinkle,twinkle,littie,bat!」
アリスさんが耳慣れない歌を歌う。すると彼女の手から小さなコウモリが現れた。コウモリは光りながら螺旋階段を飛んでいく。
「知り合いが作った歌よ。便利でしょ? 彼はこの歌のせいで死刑宣告されたけど」
「な、なるほど?」
アリスさんは笑いながらコウモリについて螺旋階段を下りていく。僕もよくわからない相槌をうちながら後に続いた。何といえば正解だっただろう?
三十段ほど降りただろうところに固く閉ざされた扉があった。堅い木で出来ており、あの鍵と同じ鈍い光沢のある鍵穴が開いている。
「開けるね」
鍵は音もなく差し込まれた。微かにカチャという音が響く。アリスさんが鍵を抜き、そっと扉を押すと、軋むことなく扉は開いた。真っ暗な入り口が襲い掛かるかのように僕らの前に現れる。
「レコ、止まって」
アリスさんが手を挙げて僕を制した。
「ひどいわ」
アリスさんのつぶやきに遅れて、濃密な血生臭さと強烈な腐敗臭が鼻に届いた。
「この臭いは……」
光るコウモリが部屋へと入り、天井付近まで飛んでいく。
やわらかい光に照らされて、部屋の惨状が目に入るようになった。
「こ、これは……」
辺り一面血まみれだ。床も、壁にも血が飛び散っている。乾燥して赤黒くなった血がこびりついている。部屋の真ん中には何か塊のようなものが……
「うっ……」
あれは人だ。
バラバラに切られて、ゴミでも集めるかのようにまとめられている。
気分が悪くなって、部屋の前でへたり込んでしまう。
アリスさんは無言で部屋の中で歩を進めた。バラバラになった遺体の前で立ち止まる。
「かわいそうに……」
下げていた顔を上げて部屋を見回す。
「……そうなのね」
アリスさんはそれだけ言って、踵を返した。その時、チャリン、という音がして、ポケットに入れてあったはずの部屋の鍵が床に落ちた。
「ん?」
アリスさんは鍵を拾い上げてこちらに戻ってくる。
「ア、アリスさん……」
「離れよう、レコ。ここに居るべきじゃないわ」
「あの人は……」
「青髭の前の奥さんだね、たぶん。やっぱり行方不明なんて嘘だったんだ。今までもああして殺されてたんだと思う」
彼女は落ち着いた声でそう言いながら、扉を閉めて鍵をかけた。彼女は力の入らない僕を支えて階段を登り始める。
「間違いなく犯人は青髭だね。ずっと奥さんを殺し続けていたんだ」
「彼はなぜ、こんなことを?」
「それは……本人に聞いてみようか」
「おかえり」
「こんなところにいたのか、アルフェラッツ」
日が沈んだころ、青髭が屋敷に戻ってきた。アリスさんは屋敷で一番広い広間に陣取っていた。たぶん、何らかの催し物を開くことを目的とした広々とした空間に、食堂から引きずってきた椅子を置き、座ってふんぞり返っている。
「こんなところで何をしている?」
「ふんぞり返っているわ。あなたこそ、何をしてきたの?」
「それは君が気にすることではない」
「そう」
「ではアルフェラッツ。預けていた鍵を返してくれ」
「いいわよ。でもごめんなさい。少し汚れてしまっているの。拭いても洗っても汚れは落ちなくて」
アリスさんはポケットから預けられていた鍵を取り出して青髭に向かって放った。そのカギには赤黒い染みが付いている。あの地下室で落とした時についた血の汚れだ。アリスさん曰く、あの部屋で必ず落ちて、汚れが付着するような魔法がかかっている可能性が高いらしい。
「魔法の鍵なの?」
「…………」
鍵をキャッチした青髭は感情がそぎ落とされたように無表情だった。アリスさんの質問は無視された。
「この汚れはどこで付いたものだ?」
「地下室」
「地下室には入ってはいけないと言ったはずだ」
「そうね。ごめんなさい」
「お前はルールを破った。覗いてはいけないといった部屋に入った」
「そうね。あなたも約束を破ったわ。前妻たちのことをわからないなんて、嘘でしょう? 地下室の亡骸はあなたの妻だった人だわ」
「お前には関係ないことだ。彼女たちもルールを破った。地下室にだけは入るなと言ったのに、最初は我慢できても、そのうち好奇心に負けて地下室を覗くやつばかりだ。ルールを破ったからには罰が必要だ」
青髭がそう言って、体の影に隠していた大きな鉈を取り出した。
「罰が必要だ。アルフェラッツ、お前にも」
「用意がいいのね。まるであたしが地下室を覗いたってわかってたみたいじゃない」
「悲しいことだが、お前はそうするだろうと思っていたよ。くだらない質問が多く、好奇心を我慢できない。過ぎたる好奇心は身を滅ぼすというのに」
「いいえ。好奇心は前に進むための原動力よ。彼女たちを滅ぼしたのはあなたの邪悪な意志よ。彼女たちを身勝手なルールで縛り付け、好奇心を刺激し続けて、ルールを破るように仕向ける。何様のつもり? この小さな屋敷の王様気取りなの? あなたにこそ、罰が必要だわ」
アリスさんは懐から小瓶を取り出した。緑色のジュースが入った小瓶だ。
「一応聞いておくけど、罪を認めて償う気はある? 頷いてくれるなら、あたしは最終手段に訴えなくて済む」
「お前にだけ罰が必要だ。私には関係がない」
「そう。忠告はしたわ」
アリスさんは小瓶の中身を飲み干した。予想外の行動に青髭が身構える。大人だったアリスさんはどんどん縮む。ぶかぶかになってしまった服を脱ぎ捨てて現れたのは、元のエプロンドレスの少女だった。
「なんだ……?」
「騙していてごめんなさい。あたしはアルフェラッツじゃないの。改めて、初めまして『青髭さん』。あたしはアリス」
「お前、何者だ?」
「あたしはアリス。《狩人屋》の《暴君狩り》」
「ふふふ。そうか。元より秘密を暴くのが目的だったか。かまわん。誰であれ、ルールを破ったからには罰を受けてもらう」
青髭の巨体がアリスさんに迫る。巨大な鉈が振りかぶられた。
「〈不思議の国〉――モックタートルスープ」
青髭の振り下ろした鉈がアリスさんを真っ二つに切り裂いた。
「アリスさん‼」
思わず隠れ場所から飛び出してしまった。青髭がこちらを向く。
「やぁねぇ、レコ。あたしがやられるわけないでしょ」
のんびりした声が聞こえた。
「もしかして、そんなに信用なかった……?」
鉈によってバラバラに砕かれた椅子のとなりに、カメの甲羅のようなものを背負って、頭に子牛の小さな角、牛のしっぽを揺らしながら肩を落としてアリスさんが立っている。
「これは代用ウミガメって言って、もちろん、このかわいそうな椅子をあたしの代用品にしたわけで、あたしには何のダメージもないんだけど、心配かけちゃった……」
なぜかアリスさんはまくしたてるように言った。呆気に取られていた青髭が再度、鉈を振りかぶった。
「〈不思議の国〉――急がなきゃ急がなきゃ」
カメアリスさんから変化し、前にも見たウサギ耳アリスさんが流れ星のように飛び出した。青髭の鉈は空を切る。そのままアリスさんは飛び跳ねるように青髭の周りを回り始めた。
「急がなきゃ、急がなきゃ。遅刻しちゃう!」
青髭はアリスさんの軌道を読もうと頭を激しく振っているが、あまりの速度に追いつけていないようだ。鉈を振り上げたはいいものの、おろす先を決めかねている。
「とうっ!」
がら空きになった青髭の胴にアリスさんの飛び蹴りが炸裂した。
「うぐっ!」
青髭が呻いてい数歩下がる。あまりダメージはなさそうだ。
アリスさんが着地する隙を狙って、青髭が詰め寄り、鉈を振り下ろした。
「おっと!〈不思議の国〉――時間が言うことを聞かない」
軽やかなステップで鉈を交わしたアリスさん。ウサ耳は消え、代わりにゴテゴテの飾りがついた大きなシルクハットが現れる。手には湯気の立つティーカップを持っている。
「ふ、は、は! あぶない!」
鉈を鼻先でかわしたアリスさんは大声を笑う。鉈が地面を抉り、石のかけらが飛散した。
「はは‼ ようこそ、いかれたお茶会へ‼」
アリスさんは叫びながらティーカップを青髭に突き出した。危険が感じられないせいか、青髭は避けようともしなかった。また鉈を振り上げて、アリスさんを叩き切ろうとしている。全力で振り下ろされた鉈は空を切った。ヒヤリとしたが、アリスさんの余裕が崩れない。すぐそばに鉈が振り下ろされても除けもせずにニヤニヤ笑っている。
そこで気づいた。よける必要がないのだ。
青髭は鉈を振り上げては同じ場所に振り下ろすという行動を狂ったように繰り返していた。
「あはは。なんて無駄なことをしてるんだい? もしかするともしかして、時間を殺してしまおうって? そりゃ大変だ! 時間のヤツはすぐ逃げる!」
青髭は怒りと恐怖がない交ぜになった表情で、同じ動作を繰り返していた。
「は、は、は! 時間のヤツは殺されちゃかなわんと逃げ出したね! 困る困るよ。時間がいなくなると前に進めない。イヤになるほど繰り返さなくちゃいけないの! イヤになる時間もないけど‼」
高笑いするアリスさんはシルクハットを手に取り、優雅に腰を折った。
青髭の青白い肌に汗が流れ始める。
「ふ、は、は……〈不思議の国〉――お前は誰だ?」
シルクハットが消えて、エプロンドレスが深い青色に変化する。
「このっ、貴様……!」
アリスさんの姿が変わり、呪縛から解放された青髭が鉈を握りしめる。
「お前は誰だ?」
アリスさんが「ふわっ」と息を吐くと、煙のような輪っかが飛び出し、青髭の顔にぶつかった。
「ぐっ」
青髭が顔を抑えて後ずさる。
「あ、あ、ああっ」
青髭がぶるぶる震え始めた。
「ふーむ。一体お前は誰なのだろうね?『青髭』? 『ジルシャフ』? この問いの意味が本当に分かるかね?」
アリスさんはゆっくりと青髭に歩み寄る。
「本当の自分とは何者か、ちゃんと考えたことは? ルールが大事で、好奇心が嫌いなのは本当にあなたなの?」
アリスさんはもがき苦しむ青髭を覗き込んで言った。
「あなたは一体誰なの?」
「うるっさいっ‼」
青髭は飛び退って叫んだ。
「私は私だ! 何者かなど、考える必要もない! 私は一人! 私だ! 親がどうだとか、教えだろうが、失敗だろうが! 過去がどうあれ、私を形作るものは、この私の考えただ一つ! ルールを破った者を罰する! この俺が‼」
力強い言葉だったが、青髭の様子は無残なものだった。手足は震え、青白い肌が灰色がかるほどに憔悴している。
血走った目でアリスさんをにらみ、震える手で鉈を持ち上げた。
「罰を‼」
青髭が鉈を突き付ける。
「〈不思議の国〉――首を刎ねておしまい」
アリスさんが呟く。金色の髪が真っ赤に染まる。青いドレスが白くなり、エプロン部分が赤くなる。その形も相まって、エプロンは大きな赤いハートに見えた。
「女王様のおなりよ。彼女の口癖は知ってる?『首を刎ねておしまい‼』よ。ハートの女王は首刎ねが好きなの。あまりうまくいっているところは見たことないんだけどね」
そんなことを言いながらアリスさんはにっこり笑う。毒々しいまでに赤くなった唇がゆっくりと広がった。アリスさんの両手が持ち上がり、顔の前でハートを形作る。
「その点、あたしは結構うまいわ」
ハート形にした両手がすっ、と突き出された。
「『首を刎ねておしまい』」
青髭の首が飛んだ。
音も衝撃も何もなく、血しぶきすら舞わなかった。ただ、青髭の首だけが切断され、宙を舞った。
世界が止まったような気がした。
一瞬の錯覚の後、青髭の首が床に落ちてきた。鉈を構えたままだった体も力なく崩れ落ちる。
「首を刎ねてお終い」
アリスさんが瞑目し、静かに頭を下げた。
「終わったわ!」
アリスさんは元気よく手を振りながら言った。僕たちは丘で待つ依頼者のもとへ戻ってきていた。夜も更けていたが、ペガソス家の四人は焚火を囲み、律義に待ってくれていた。
「よかった、アリスちゃん! 心配したのよ!」
アルフェラッツさんが駆け寄って来て、アリスさんを抱きしめる。
「わぁ、アルフェラッツ! 大丈夫よ、あたしはスーパー元気!」
アリスさんもアルフェラッツを抱き返している。
青髭の屋敷は《狩人屋》の別動隊が処理してくれるらしい。僕は未だに別動隊を見たことがないのだが、記録係とは別部門で、後片付けの専門職なのだろう。
「本当によかった。明日の朝までに戻らなければ突撃しようかと思っていたところです」
「えーっ! あたしは専門家だから大丈夫って言ってたでしょ!」
「疑っていたわけではありませんよ、レディ・アリス」
マルカブさんが慌てて手を振った。その様子を見て、アリスさんは笑っている。
「じゃあ、許してあげる!」
アリスさんはそう言ってから、青髭の屋敷での出来事を説明し始めた。僕は少し離れて記録をまとめる作業に取り掛かった。
「はぁい、レコ」
僕の真横にニヤニヤ笑いを浮かべた猫の顔が現れた。
「チェス? 今まで一体どこに……」
「アリスみたいな口ぶりだね」
「…………」
確かに、彼女とチェスのやり取りにそっくりだった。
「無事かい?」
ニヤニヤ笑いは変わらないが、何となく僕のことを聞いているんだと分かった。
「……壮絶な光景でしたから、少しショックではあります。でも、問題になるほどじゃないですね。アリスさんがきちんと《狩り》の務めを果たしてくれましたから。あの人たちも少しは浮かばれるんじゃないかと、思っています。というか、そう信じます」
「アリスのことは?」
「アリスさんですか? すごいですよね。何人も《狩り》を見てきましたが、誰とも違う能力の持ち主だと思います。明るく、気遣いのできる人ですし。《狩り》みんなそうですけど、アリスさんも確固たる自分がある、と思います」
チェスのニヤニヤ笑いが大きく広がった。
「ふふん。それならそれでいいよ」
チェスの視線がアリスさんの方を向いた。アリスさんは焚火の傍で、大きな身振り手振りでアルフェラッツさんたちに話をしていた。
「アリスは『異邦人』だ」
チェスが言った。
「異邦人? メーアヒェン国の出身ではないということですか?」
「違う。彼女は別の世界の人間だよ」
「別の世界……?」
「にゃあ。この世界とは全く異なる世界で生まれ育ったのさ。アリスは生まれ育った世界で、あるときウサギの巣穴に落っこちて、また別の世界へ――アリスが〈不思議の国〉と呼ぶ世界へ落ちてきた」
「…………」
「アリスは〈不思議の国〉での大冒険の末に、元の世界に帰ることになった。帰る途中で、誰も予想しないことが起きた。アリスから〈不思議の国〉で経験を積んだアリスの人格が剥がれ落ちたんだ。その人格がコピーなのか、完全に分岐した人格なのかは知る由もないけどね」
チェスのニヤニヤ笑いが微かに弱まった。
「剥がれ落ちたアリスはこの世界に落っこちてきた。アリスには『オリジナルアリス』の記憶はほとんどない。アリスに残っているのは〈不思議の国〉での出来事だけだ。当初、この世界にはアリスの知り合いなんてまったくいなかった。僕ら――アリス由来の能力で顕現する〈不思議の国〉の仲間というか、知り合いだけがアリスのすべてだったのさ」
「……チェスも能力?」
「にゃはは。どうだろうにゃ? それは誰にもわからんにゃ。本物か偽物かそこにさしたる違いはないのにゃ。すべては自分次第だにゃ」
チェスはニヤニヤ笑いながらウィンクした。そして言葉を続けた。
「……アリスはこの世界から〈不思議の国〉に戻ることはできないし、オリジナルの世界に行くこともできない。路頭に迷いそうになっていたアリスを助けてくれたのは《狩人屋》だよ」
「そうだったんですね……」
アリスさんたちの方から歓声が聞こえる。話が佳境に入ったのだろう。
「アリスは《狩人屋》で《暴君狩り》になった。確固たる自分を手に入れた」
「……やっぱりアリスさんはすごい人です」
「にゃはは。そう思うんならそれでいいよ。アリスはレコを気にかけているんだよ。あれでも。そこはかとなく似た境遇だからかにゃ?」
「…………」
「だから、レコがアリスを受け入れてくれるなら、それでいい。それが確認したかっただけにゃ」
「もちろん、受け入れますよ。アリスさんには助けられてますから。僕もアリスさんの一助になれればいいと思ってます」
僕はチェスの方を向いて言い切った。チェスのニヤニヤ笑いが今までで一番大きくなった。
「にゃはは! まったくレコときたら! こんな話を簡単に信じるなんてにゃー! ホントのことなんて一つも言ってにゃいかもしれにゃいのに! にゃはははは!」
「なっ! 流石にその言いぐさは無理があるでしょう!」
「にゃははははwww!」
チェスはクルクル回りながらすー、と消えていった。
「レコ―!」
アリスさんが僕を呼んでいる。こちらに駆け寄って来ている。
「依頼完了! 報告終了! 最後に挨拶して《狩人屋》へ帰ろう!」
アリスさんは弾けんばかりの笑顔を浮かべている。
「帰ったらパーッといこうね! オキナに子牛のスープと作ってもらう! そのあとで紅茶を入れて、最後にケーキも食べちゃおう!」
「いいですね。そうしましょう」
「最後のケーキはもちろん、大きくならない、普通のやつでね!」
アリスさんはウィンクしてにっこりと笑った。
青髭――不思議の国のアリス