7.《魔女狩り》
あるところに二人の兄妹がいました。兄の名前はヘンゼル。妹はグレーテルといいました。二人の家は貧しいながらも、父と三人で仲良く暮らしていました。
そんな中、父に再婚相手ができました。二人にとっては継母になります。
彼女はひどい人間でした。性格は悪く、優しい父を騙して再婚したに違いありません。彼女は貧しい暮らしに耐えられず、父をそそのかして、兄妹二人を森の中に捨てようとしました。
兄は継母の計画を知り、庭先の小石をたくさんポケットに詰め込んで、準備をしました。二人は森の奥まで連れていかれましたが、兄は集めた小石を少しずつ落としながら歩き、家に帰るための道しるべにしていました。二人は落ちた小石を辿り、無事に家に帰りつくことができました。
しかし、継母はあきらめませんでした。またも二人を捨てる計画を立て、今度は兄を家の外に出さないように注意していました。継母の監視があり、兄は小石を集めることができませんでした。それでも兄は知恵を絞り、自分に与えられたパンを密かに隠し持つことにしました。そして小石の代わりに、パンくずを道しるべにして、家に帰ろうとしました。
しかし、今度は、二人とも家に帰ることができませんでした。パンくずの道しるべは森の動物たちに食べられてしまい、すっかり消えていたからです。
二人は深い森の中を何日もさまようことになりました。川の水で喉の渇きを癒し、木の実を食べて飢えをしのいでいましたが、二人ともお腹がぺこぺこでした。
「グレーテル……あれは」
さまよう二人が見つけたのは、森の中の広場にポツンと建つ一軒の小さな家でした。辺りには甘い香りが漂っています。
それもそのはず、その家はすべておかしで出来ていたのです。
「おいしそう……」
お腹がペコペコだった二人はどうしても我慢できずに、おかしの家を食べてしまいました。壁はふわふわのスポンジケーキ。扉は甘いチョコレート。タイルだと思ったのはサクサクのクッキー。ガラスはアメで、屋根にはクリームがかかっています。
二人は甘くておいしいおかしをお腹いっぱい食べました。
「なんてことをしてくれたんだい!」
二人が座り込んでいると、突然、黒い服を着て、杖をもったおばあさんが現れました。
「人の家を食べるとは、とんだ子どもだねぇ!」
「ご、ごめんなさい、おばあさん。ぼくたち、どうしてもお腹がすいてて」
「お腹がすいてたら人の家を食べてもいいのかい?」
「ごめんなさい」
「まあ、いいだろう。そのかわり、あんたら二人には色々と手伝ってもらうよ! 食べたおかしの分は働いてもらう!」
「……わかりました」
おばあさんの提案に二人は頷くしかありませんでした。
「おいで」
おばあさんは後ろを向いて家の中に入っていきます。その顔はとても悪くニヤリと笑っていました。おばあさんは実は悪い魔女だったのです。おかしの家で子どもを呼び込み、太らせてから食べてしまう恐ろしい魔女でした。
その日から、ヘンゼルは閉じ込められ、太るようにとたくさんの食事を与えられています。グレーテルは様々な仕事を言いつけられたので必死に働いていました。
魔女は目が悪く、ヘンゼルが太ったことを確認するために、彼の指で確かめていました。しかし、ヘンゼルは賢かったので、自分の指は檻から出さず、食事の中の鳥の骨を魔女に触らせていました。
「なんてこったい! まるで骨のような指だ! いったい、いつになったら太るんだ!」
魔女は指の代わりの骨を触るたびにそう言いました。
「はやく太るんだね!」
今は魔女を騙すことができていますが、いつバレるかもわかりません。魔女の空腹が限界をむかえたら、太っていなくても食べられてしまうかもしれません。
「グレーテル、何とか、お前だけでも逃げ出すんだ。ぼくは大丈夫だ」
「やだ! お兄ちゃんもいっしょじゃないといや! なんとか、わたしがたすけてみせるから、もうちょっとだけまってて!」
「お兄ちゃんをたすけてください」
その小さな女の子は《狩人屋》に入ってくるなりそう言った。
繕いの跡が多く、あちこち汚れてしまっている服を着て、オレンジがかった金髪も最低限整えられているだけ。可愛らしい顔に緊張と焦りを浮かべて、祈るように手を握っている。
「《狩人屋》へようこそ。こっちで話を聞くね」
僕は偶然、入り口近くにいたところだったので、依頼人の対応に当たることにした。いつものソファに案内して、依頼として記録を書きつける準備をして、話を聞く態勢を整えた。
「僕はレコ」
「わたしはグレーテル。お兄ちゃんをたすけてください!」
「大丈夫だよ。ここの《狩り》たちが何とかしてくれる。だから、お兄ちゃんを何から助ければいいのか教えてくれる?」
「うん……ヘンゼルお兄ちゃんはわるいまじょにつかまってるの」
「魔女?」
僕の脳裏に幾人かの魔女の姿が浮かんだ。今まで出会った魔法使い――魔女は比較的温厚な人が多かったが、中にはとんでもない魔女がいると話は聞いたことがある。
「お兄ちゃんは一人で捕まってるの?」
「うん。お兄ちゃんとわたしはまじょのおうちをたべちゃって、それでつかまったの」
おうちを食べた? この子が? 何をどうやって……? それとも魔女の家は食べられるものなのだろうか?
「それで、わたしは、はたらかされてて、おつかいにいくとちゅうでここにきたの」
家を食べた、という言葉に驚いていると、続けてグレーテルは言った。働かされているという言葉通り、彼女の手には細かな傷がたくさんついてあり、痛々しい限りだった。おそらく家事全般を肩代わりさせられているのだろう。
「まじょはお兄ちゃんをたべるっていってる。だから、お兄ちゃんをはやくたすけないといけないの」
「なっ!」
食べる⁉ それはまずい。すぐに行動に移さないと!
「助けてくれる《狩り》を呼んでくるね。もう少しだけ待ってて」
僕は立ち上がって《狩り》たちが待機している場所へ進んだ。途中で、オキナさんに依頼があったことを伝える。彼は頷いてくれた。オキナさんかメリアさんの知るところになれば、これは完全に《狩人屋》の依頼になったということだ。
「依頼《魔女》です! どなたかいらっしゃいませんか!」
「……あたしだね!」
数名がたむろしている中で、一人の女性がぴょんと立ち上がった。
淡い黄色のドレスに身を包み、足首まである濃く美しい金髪が揺れている。
「この《魔女狩り》髪長姫のノヂシャ娘こと、ラプンツェルにお任せあれ!」
「なんてことだ! それは大変! 大丈夫だよ、グレーテル! あたしがなんとかしてあげる!」
「ありがとう!」
「閉じ込められるってのはキツイからね! 必ず助けるよ!」
「おねがい、お姉ちゃん!」
「よし! なら全速力だ!」
《狩人屋》の前で、僕の書いた依頼書を流し読みして、グレーテルの訴えを聴いたラプンツェルさんは彼女を抱きしめながらそう言った。
「全力で飛ばすぞ! レコもしっかりついてきて!」
そのままグレーテルを抱き上げて、ラプンツェルさんは駆け出した。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
風のような速さだ。長い髪がきれいになびいて、彼女の後を追う。それはいいのだが、僕の足では、とても《狩り》の運動能力にはついていけない。あっという間に引き離されてしまった。
「ちょっとちょっと、レコ何やってるの。急がないと」
またつむじ風のようなスピードで、ラプンツェルさんは僕のそばに帰ってきた。
「あなたの足についていくのは無理です。僕は後から追いかけるので、先に行ってください」
「ちゃんと記録してくれないとだめだから、あたしが抱えて走るよ」
「え、それは流石に悪いですよ」
「大丈夫大丈夫。あたしはそんなにやわじゃないよ。グレーテル、ちょっとごめん」
彼女はグレーテルから片手を離し、長い髪を払った。そしてにっこりと笑う。
「ちょっとくすぐったいかもしれないけど、それは我慢してね!」
ラプンツェルさんのただでさえ長い髪がさらに伸びて、僕に巻き付いてきた。
「うわっ」
髪の毛の量はどんどん増えた。最終的に僕はグルグル巻きにされて、そのまま持ち上げられてしまった。
「すごいですね……」
「大丈夫? 苦しかったりしない?」
「それは、大丈夫です。確かに少しくすぐったいですけど」
不快感はあまりなかった。ラプンツェルさんの髪はとてもさらさらで、ほのかに暖かく、花のような香りが微かに漂っていた。自由に伸ばせるようだし、普通の髪ではないようだ。
「重くないですか?」
「ん? 全然」
ラプンツェルさんは僕を安心させるように、にっこりと笑った。
「じゃあ、本気出すよ~」
そう言った次の瞬間、彼女の豊かな髪が大地を蹴った。
「おわああっ!」
「きゃああっ!」
僕とグレーテルは急な加速に悲鳴を上げた。
と、飛んでる!
正確には髪の毛によるジャンプだが、すさまじい上昇だ。赤ずきんさんのオオカミモードのような加速力。さっきまで背後にあった《狩人屋》は遥か彼方、抜けるような青空をバックに眼下には緑の森が広がっている。
「あ、思いっきり飛び出しちゃったけど、方向わかんないな。グレーテル、魔女の家はどっち?」
「え、い、家?」
「そうだよ~。分かる?」
「あ、分かる……魔女の家は、あっち……」
グレーテルはラプンツェルさんの首にしがみ付きながらおずおずと手を伸ばして、斜め右方向を差した。
「オッケー、あっちね!」
ジャンプの頂点で彼女は進行方向へ顔を向けた。そして、また髪の毛が伸びて、眼下の森の中の大きな木の幹に巻き付いた。伸縮自在の髪の毛が縮み、自由落下よりも速く加速する。
「うわぁああああ!」
「ひゃあああああ!」
「大丈夫大丈夫。心配いらないよ! あたしがついてるからね!」
彼女の表情を確認できないけど、たぶん、にっこりと笑っているんだろう。だからと言って、口から悲鳴が出るのを止められるわけではないんだけれど!
地面が近づいてくる!
ぶつかる、と思ったが、僕たちは幹を支点に振り子の要領でまた空へ飛び出した。
無茶苦茶な移動方法だ。こんな力業移動をする人は初めてだ。
しかし、抵抗は出来ない。ラプンツェルさんの髪にぐるぐる巻きにされているし、この移動方法についていく術はない。
僕は二、三回もすれば慣れてきて、記録をどうしたものか、などと考える余裕もできていた。やれやれ、僕も随分、図太くなったものだ。
しばらく、というには短い時間で空中散歩は唐突に終わりを迎えた。
「ん? っ! 衝撃に備えてっ!」
ラプンツェルさんの叫びと同時に、目の前が真っ暗になった
「どうかしました――」
ガツンッ、と何かに衝突したような音が響く。体に衝撃はない。次の瞬間にはふわりとする落下の感覚があり、すぐにほんの少しの振動を感じた。目の前は変わらず真っ暗だ。
しかし、この感じはラプンツェルさんの髪の毛だろう。僕は巻かれたままだが、そこからさらに髪の毛で覆われているに違いない。
しゅるる、と音がして目の前が開けた。やはり髪の毛だったようだ。
「二人とも大丈夫? 髪でガードしたけど、怪我はない?」
「わたしはだいじょうぶ」
「僕も特に問題はなさそうです。それより何があったんですか?」
「まあね……何かある」
グレーテルを降ろし、僕も髪から降ろされた。ラプンツェルさんは目の前の何もない空間を指でつついている。
「なるほど……結界だね。空中で違和感があったんだけど、これが正体だ」
何もないはずの場所から、こつこつと指をはじく音がする。
「先行させた髪が何かに弾かれる感覚があったんだけど、勢いがついてたからうまく止まれなかった。二人を驚かせちゃったね。ごめん」
「いえ。怪我もありませんし。これはやっぱり魔女の仕業ですか?」
「十中八九そうだろうね。こんなこと普通にできる芸当じゃない。侵入者を拒むものだね。迎撃システムみたいなのは搭載されてないのが救いかな」
「こんなものが……わたししらなかった……」
「どうしましょう?」
「そうだね……グレーテルが普段、魔女のお使いで通っている道を探そうか。もしかしたらそこは結界の穴かもしれない」
「いろんなところをつかってるけど、こんなことおきたことないよ、お姉ちゃん」
グレーテルがおずおずと手を伸ばす。
「あっ」
彼女の小さな手は見えない壁をするりと抜けた。ラプンツェルさんがどうしても進めない場所を何事もないかのように素通りしていく。
「……レコもやってみてくれないかな」
ラプンツェルさんに言われたように僕も見えない壁に手を伸ばした。
僕の手も壁に触れることなく、素通りした。何も抵抗を感じない。ほんの少しだけ、肌に触れられたような感覚があっただけだ。そこに結界があると知っているから、感じられるような些細な感覚。
「僕も通れますね……」
「ふむ。余所者をはじく効果ってわけじゃなさそう。だとすれば……能力の有無……いや、魔女の結界なら同族も弾かれる可能性が高いか……? あたしと二人の違いは……いや、待てよ、年齢だ。それが一番わかりやすい」
「年齢……あ、そうか」
「そう。子供だけを通す結界なんだ。魔女が、自分のテリトリーに子供だけを誘い込むために作った結界なんだと思う」
ラプンツェルさんは腕を組んだ。
「ふーむ。そうなると結界の穴はなさそうだね。仕方ない。力業でいこう。あたしが通れないんじゃ話にならないしね!」
「何か、方法があるんですか?」
「任せなよ! あたしは《魔女狩り》だよ? この手の魔法はちょちょいのちょいさ」
彼女はそう言って、自分の髪を伸ばして、細い三つ編みを編み始めた。するすると美しい三つ編みが編み上げられていく。そして、三メートルほどの長さになった三つ編みを、ラプンツェルさんは指で切った。
「……指で?」
「あ、いや、あたしは自分の髪なら切りたいもので切れるから。指が特殊なわけじゃないよ。髪が特殊なだけ」
彼女は苦笑いで答えた。
ラプンツェルさんはさらに三つ編みの両端を髪の毛で縛って、髪の輪を作った。
「じゃーん!」
「えっと、それをどうするつもりなんですか?」
「入り口にするんだよ。あたしの髪の毛は特殊だからね。魔法を中和するんだ。これで結界に穴をあける。少し離れて見てて」
僕はグレーテルを連れて、結界から離れる。
ラプンツェルさんはそれを確認してから、三つ編みの輪を結界の壁に押し付けた。
ジジッと何かが焼けるような音がして、三つ編みの周りから虹色の火花が散った。
「ほいっと!」
三つ編みの輪に体を滑り込ませるラプンツェルさん。宣言通り、結界を中和しているのだろう。彼女の体は何の抵抗もなく、こちら側に降り立った。
「やったね、大成功!」
三つ編みの輪はしばらく火花を散らしていたが、十秒ぐらい経ったあと、塵となって消えてしまった。
ラプンツェルさんはその様子を見ながら言った。
「……よし、じゃあ、先を急ごうか!」
しばらく普通に歩くと、鬱蒼とした木々が途切れ、開けた場所に出た。
「あそこだよ」
グレーテルは広場を指さした。
彼女が指をさした広場の中心に、奇妙な家が建っていた。
本当にお菓子の家だ。
遠目でもわかる。スポンジに、チョコレート、ホイップクリーム。飴にクッキー、ビスケット。ありとあらゆるお菓子で家が建てられている。そして微かに甘い匂いも漂ってくる。微かに匂うだけなのに、口からよだれがこぼれそうになった。
本当に可笑しな家だ。
「まいったね。こうも遮蔽物がないとうかつに近づけないぞ」
「だいじょうぶよ、お姉ちゃん。わたしがなんとかする」
「何とかって、どうするつもりなの、グレーテル」
「まじょのおつかいからかえってきたふりをする。まじょはいつもわたしがかえってきたら、しょくじをするから……あ、ふつうのしょくじだよ。ふつうのごはんをたべるの」
グレーテルは慌てた様子で手を振りながら言った。
「まじょはごはんのじかんがすきだから、そのうちならいえにちかづけるとおもうの」
「おつかいから帰ったふりはいいけど、何も品物を持ってないじゃないか。危険だよ」
「だいじょうぶ。いままでじゅんびしてたから。いつもおなじものをたのまれるから、おおくとっておいて、かくしてあるの。それをつかう」
賢い子だ。
「……でもグレーテル、君はいつもより、帰りが遅いんじゃないのか? いつもどこに行ってるのかは知らないけど、《狩人屋》より近い場所なんだろう? 食事の時間が好きな魔女が、食事を遅らせることになった君をひどい目に遭わせないのか、それが心配なんだ」
「まじょのそうこは、たしかにちかいばしょだけど……よりみちしてたっていう」
「その言い訳は魔女にきくのかい?」
「……たぶん。でも、やらないと」
彼女は俯きながらスカートの裾を握りしめている。彼女は兄を助けるために恐怖と戦っているに違いない。
「それなら、僕を使いましょう」
「レコ?」
「グレーテルは、おつかいの途中で、行き倒れていた僕を見つけたんです。そして、魔女の家に連れ帰った。そういう筋書きです」
これならおつかいに時間がかかっていてもおかしくはない。
「僕は結界を素通りできましたから。言い換えれば、魔女のターゲットに成り得る資格があるってことですよね。食事の時間が遅れても、新しい獲物が手に入るなら、魔女の機嫌もそんなに悪くならないでしょう」
「…………」
ラプンツェルさんは腕を組んで考えこんでいる。
確かに危ない橋だ。僕は記録係に過ぎず、戦闘能力はまるでない。グレーテルも同じだ。しかし、彼女の兄のヘンゼルはもっと危険な状態だ。早く助けてあげないといけない。
「他にいい案もないか……苦渋だが、仕方ない。じゃあ、二人ともこれを隠しておいて」
ラプンツェルさんは自分の髪を二本引き抜くと、僕とグレーテルに渡してくれた。
「お守りだよ。グレーテル、君が家に帰ったら、どのぐらいで食事が始まるの?」
「さんじゅっぷんくらい」
「よし。じゃあ、それだけ時間が経ったら私は家に突撃する。そして魔女を倒して、みんなを助けるよ」
ラプンツェルさんは僕たちの肩を叩いた。
「くれぐれも気を付けて。この魔女はすごく危険だと思う。何かあったら叫んで。すぐに飛んでいくから!」
「ただいま。おばあさん、いまもどったわ」
グレーテルはチョコレートの扉を押し開けて、お菓子の家へ入った。扉はチョコレートなのにひどく軋んだ。しかし、グレーテルは平然としている。僕もそのあとに続く。
薄暗い部屋だった。外見のカラフルさやファンシーさの欠片もない薄暗く、薄汚れて湿った部屋だ。一面の壁には大きな棚があって、不気味な液体やしなびた薬草、得体の知れない骨が置いてある。その反対側には雑多なキッチンがあり、物騒な包丁や色々なサイズの鍋、人が入れそうなぐらい大きな竈があった。
「グレーテルゥ。随分と遅かったじゃないか、一体なにをしてたんだい?」
奥の暗がりから小柄な老婆が現れた。
あれが魔女。
黒い一色のワンピース。フードを目深にかぶった隙間から灰色の髪が覗く。色の悪い皺だらけの顔に巨大な鉤鼻。不満そうに曲がった唇の間からやけに尖った歯が覗く。ほとんど瞬きをしない目は白く濁っている。節くれ立った枯れ木のような手で、同じように節くれ立った杖を突いている。
「おくれてごめんなさい」
「まったく、お前ときたらいつまで経ってもグズだねぇ。だから捨てられたんだろうねぇ」
「ごめんなさい。でも、みちでたおれてるひとがいたの」
「行き倒れ? なんだい、そいつは」
「あ、助けていて頂いてありがとうございます。森の中で道に迷ってしまって」
「ふん……」
「おなかがすいてそうだったから、つれてきたの。ごめんさない」
「……まあ、いいだろう。グレーテル、お前は早く食事の用意をおし」
魔女はしっしと手を振って、グレーテルをキッチンへ追いやった。彼女は大きな竈の前にしゃがみこみ、マッチをこすっている。
「グレーテル……お前、まだマッチなんて使ってるのかい? 火をつけるぐらいの魔法なんて何度も教えてるだろう、まったく、物覚えが悪いねぇ」
「ごめんなさい。でもまほうなんてつかえないの」
「言い訳ばかりだねぇ。まあ、いいよ、とにかく、早く準備をおし……そこのお前はこっちへおいで」
魔女が僕を手招きする。グレーテルは何か言いたげだったが、諦めたように汚れた台所へ向かった。
震える足がばれませんように、と祈りつつ僕は魔女のそばに寄った。僕の頬に魔女の手が伸びてくる。
「ふむ……」
乾燥しているように見えるのに、触れた感触はぬるりと冷たい。探るように頬を撫でられる。全身が怖気だった。
「あ、あの、何か?」
「ふむ……名前は?」
「え?」
「名前を聞いてるんだよ。ぼさっとしないで答えな」
「あ、クリス……です」
レコ、というわけにはいかない。とっさに適当な名前をでっちあげる。
「クリスねぇ……ちょっと育ち過ぎではあるが、まあ、許容できるねぇ」
頬を撫で終えた魔女の手が、僕の指をいじる。反射的に引っ込めそうになったが、寸のところで堪えた。
「なんてこったい! 細いね! ちゃんと食べてるのかい⁉」
「しばらく森の中を彷徨っていたので、あまり食べていません」
「いけないねぇ。そりゃいけないよぅ。子供はちゃんと食べないとねぇ。ウチでしばらく食べてきな」
「いいんですか?」
「食べてきな、と言っただろう。ぼさっとするんじゃないよ」
魔女は不機嫌そうに踵を返した。
とりあえず、追い出されることはなさそうだ。僕は魔女のお眼鏡にかなったらしい。太らせれば食べてもいいと判断されたのだ。
自分が瘦せぽっちだったことに、これほど感謝したことはない。仮に食べごろな太さだったら、すぐにでも喰われてしまったかもしれないのだから。
魔女が離れていき、ほっと一息ついた。辺りを見回しても、グレーテルの兄、ヘンゼルらしき姿は見えない。
しまった。彼がどこにいるのか、グレーテルから聞いておけばよかった。
グレーテルはヘンゼルが捕まっていると言っていた。ということは、どこかに捕らわれているのだろう。この家には捕らえた子供を閉じ込めておく場所があるはずだ。
そこまでは推測できるが、今、僕が好き勝手に動いて調べることはできない。魔女に不信感を与えてはいけないし、何より、一人にならない方がいい。せっかく助けに来たのに、僕まで捕らわれるわけにはいかない。
「ところで、クリス。お前、どうして森で倒れてたんだい?」
いつの間にか、そばに戻ってきた魔女が言う。見えていないであろう白い目が何かを探るようにこちらを見つめている。
「家を追い出されたんです」
僕はうなだれる振りをしていった。
おそらく魔女は僕の背景を探るつもりだろう。行方不明になってもいい子供なのか。探そうとする家族はいないのか。仮に家族が必死になって探すような本物の迷子なら、魔女も太るのを待つなんて選択しは取れないだろう。もしかすると捕らえすに帰すかもしれない。ぐすぐすしていれば誰か――《狩り》が来るかもしてないからだ。何しろ、ここは巧妙に隠れているとはいえ《狩人屋》からあまり離れていないはずだから。とんでもない移動方法だったので、体感距離はわかりにくいが、グレーテルが助けを求められる距離だと考えていいだろう。
しかし、《狩人屋》の近くに自らのテリトリーを構えているという点は警戒した方がいい。灯台下暗しとは言うが、敵のそばに根城を構えられる度胸と実力があると思って行動するべきだ。
僕はさらに小さくつぶやいた。
「兄弟の中で僕が一番役立たずだったから」
「それは可哀想にねぇ、しばらくここにいるといいよぉ」
「あ、ありがとうございます」
僕の返答に満足したのか、魔女はにんまりと笑った。
「グレーテル! 食事の準備はまだなのかい! クリスは腹を空かせてるよ!」
「もうすぐできるわ!」
「まったく、お前は何か月もいるのに、ちっとも上達しないねぇ。食事の準備も、簡単な魔法もテンでだめだものねぇ。どんくさいよ、まったく」
ぶつぶつと魔女は文句を垂れる。
「おばあさん、できたわ」
「やっとかい。ほら、クリスもこっちにおいで!」
小さなテーブルの前に三人で座った。湿っていて汚れている。
「クリスはたくさん食べるんだよぉ」
僕の目の前に置かれた皿は巨大なものだった。得体の知れない根菜がゴロゴロ入ったスープに、やや紫がかった大きなチキン。大きいだけのしぼんだパン。
「…………」
こ、これ、口に入れても大丈夫なのかな?
「どうしたんだい、早くお食べ。お腹がすいているだろう?」
魔女はしきりに僕に食べさせようとする。魔女の目的からすれば当然だろうが。
グレーテルが微かに頷いている。
「いただきます」
彼女はそう言って、謎のスープを一口すすった。食べられる、ということなのだろう。
「い、いただきます」
意を決して口にスープを運んだ。
「うぅん、ぐ」
美味しくない……。やけに苦くて、舌触りが悪い。一体、何の野菜だろう?
「……お、おいしいです」
「そうかい、そうかい。たくさん食べるんだよぉ」
魔女は嬉しそうに笑った。そして、自分も食べ始めた。
「料理の腕も進歩しないねぇ。今日は特に変な味じゃないかい?」
「ごめんなさい」
僕たちは黙々と食事を続けた。こんなに食欲の働かない食事もそうはないだろう。
食事が終わり、魔女はグレーテルに向き直る。
「グレーテル、いつもの準備をしな。私が持っていくからね。ちゃんと確かめないといけないからねぇ」
「だいじょうぶよ、おばあさん。じゅんびはできてるわ」
グレーテルは大きなお盆を準備していた。その上には、今日の献立が山のように積まれている。魔女はそのお盆を片手で抱え、部屋の奥の壁の前で、何やら指を動かしている。次の瞬間、壁が扉のように開いた。
隠し扉! よく見ても扉だとは気づけない。
あれは……
「グレーテル、ヘンゼルはあの部屋の奥?」
「うん。お兄ちゃんは、あのおくにとらわれてる」
「魔女は、ヘンゼルに食事を与えに行ったんだね」
「そう。まじょはいつもお兄ちゃんが太ったかをたしかめる。いつまでだませるかわからない」
「助けるよ、大丈夫」
「うん」
グレーテルが緊張した面持ちで頷いたとき、きい、と微かに入り口の扉が開く音がした。
唇に人差し指を当てたラプンツェルさんだ。
『まどからみてたよ、こっそりね』
彼女の背後で髪の毛が文字を形作る。グレーテルに当てた言葉と、僕に当てた言葉を。
『あんしんして、ぜったいたすける』
『お守りから声も聞こえてた。状況は把握している』
わさわさと髪の毛が忙しなく揺れる。
『レコのいうことをよくきいて』
『魔女が帰ってきたら、不意打ちで強襲するから、部屋の隅へ。頼んだよ、レコ』
彼女はそれだけ伝えると、隠し扉の上の天井に髪の毛を使って張り付いた。物音ひとつしない。こちらを安心させるようにウィンクして、真剣な表情になって眼下の扉を注視する。
僕らが行動するのはラプンツェルさんの一撃の後だ。今から隅っこへ移動していたら、帰ってきた魔女に怪しまれる。
緊張しながらしばらく待っていると、音もなく隠し扉が開いた。不満げな魔女が顔をのぞかせる。
「まったく、あのガキはいつになったら太るんだろうねぇ。あれだけ食べておきながらあんなに細い指とはおかしな話だよ」
絶対に視線を上に向けてはいけない。
「おや、クリス。全然食べてないじゃない――」
魔女がこちらに向いた瞬間、金色の塊が魔女を横から薙ぎ払った。僕はグレーテルに手を伸ばしたが、彼女はそれよりも早く僕の方へ飛び込んでくる。僕はグレーテルを抱えたまま、部屋の隅、ラプンツェルさんと反対側に走った。
魔女は悲鳴すら上げられずに家の壁をぶち破って外へ飛び出した。天井からなめらかに着地した《魔女狩り》が素早く追いかける。
「早く!」
グレーテルが僕の手を引いて、穴の開いた壁に駆け寄った。
「なんなんだい?」
魔女はゆっくりと起き上がるところだった。叩きつけられたはずの地面はスポンジケーキに変わっている。
「お前、なんだい?」
魔女は目の前で仁王立ちしているラプンツェルさんに問いかける。彼女は余裕の表情で答えた。
「《魔女狩り》だよ」
「《魔女狩り》⁉ ああ《狩人屋》かい! 全く面倒だねぇ!」
魔女は吐き捨てる。
「私が狙いかい? なるほど、少し前に結界を破ったのもお前だね。まったく面倒ごとを持ってきてくれるねぇ……グレーテル‼」
壁の穴から覗いていたグレーテルがびくっと震えた。
「お前だねぇ? せっかく助けてやったのに、なんとまあ、噓つきの裏切者ときた。なんて恩知らずなガキなんだ」
見えないはずの白い目がこちらの鋭くにらみつける。その視線でグレーテルは震えている。僕は少しでも彼女をかばうように前にでた。ラプンツェルさんも魔女の視線を遮るように間に割って入る。
「はいはい、あんたの相手はあたしだよ。あんたの悪行は今日でお終いだ」
「《狩り》ごときがずいぶんと大きな口を叩くねぇ! 『呪い』と『贖罪』で生きてるような奴らが本気で勝てると思ってるのかい⁉」
「ははっ、そうやってでかい口を叩いた魔女はたくさんいたよ。今じゃ、みんな口を閉ざしてる」
「やってみなぁ」
魔女の足元が震え、黄金色をした粘度の高い液体へ変化する。
あれは、飴だろうか。
溶けだした飴は鋭く形を変えながら、槍のごとくラプンツェルさんに襲い掛かった。《魔女狩り》は軽やかに身を翻して避ける。カチカチに固まった飴の槍は数舜前までラプンツェルさんがいた地面をえぐる。
ラプンツェルさんが首を振ると伸びた髪の毛が拳となって魔女に迫った。しかし、魔女は飴でコーティングされたスポンジの盾で攻撃を防ぐ。
クッキーやキャンディが縦横無尽に飛び回り、髪の毛がそれをことごとく打ち払っていく。
「見えていないとは思えない動きだ……」
「たぶん、まじょはしかくじゃなくて、まりょくでせかいをみてるとおもう」
僕のつぶやきにグレーテルが答えた。
「まじょはすごくけいかいしんがつよいの。いつもまりょくのレーダーをはってる。だからああやってこうげきもよけられる」
腰が曲がり、杖をついている魔女の動きは速くない。年相応の運動能力に見える。しかし、グレーテルのいう魔力レーダーのおかげなのか、常に攻撃の一歩先で行動している。そして、無尽蔵に生み出し続ける凶器としてのお菓子。威力は十分で、手数も多い。
しかし、ラプンツェルさんも負けてはない。髪をフルに使った高速移動と、増やした髪の毛の物量と手数で攻撃、防御ともに隙がない。
実力は拮抗しているように見えた。お互いに決定打を与えられていないが、どちらの表情もまだ余裕があり、状況は膠着するかに思えた。
「なんだぁ……?」
突然、魔女の動きが鈍る。
「ぐうっ」
腹を押さえ、口からは灰緑色の液体があふれ出している。
悶える魔女に強烈な髪の一撃が決まる。魔女は吹っ飛び、地面に叩きつけられる直前で、またスポンジのクッションを出した。着地ダメージは軽減されているようだが、殴られた衝撃はあるようで、ふらふらと立ち上がった、
「これは……マンドラゴラか! グレーテル‼ お前だね‼」
だらだらと汚らしい液体を口からこぼしながら魔女が吠えた。杖を投げ捨て、四つん這いに近い体勢でこちらに駆けてくる。
あれのどこが年相応の運動能力だ? 人間離れもはなはだしいじゃないか!
「私の食事に毒草を混ぜるとはいい度胸だ! いったいぜんたい何様のつもりだい⁉」
ラプンツェルさんには目もくれず、恐ろしい形相で魔女はこちらに飛び掛かってくる。僕はグレーテルを抱え上げて部屋の奥へ逃げ込んだ。
一瞬前まで僕らがいた場所に魔女の飴爪が突き刺さった。
「待て待て! お前の相手はあたしだよ!」
それからまた一瞬遅れで、ラプンツェルさんが穴から家に滑り込んできた。そう広くない部屋の中、爆発的に増えた髪の毛が網のように広がった。僕とグレーテルを守るように包み込み、魔女を締め上げる。
「《魔女狩り》……!」
髪の毛に縛られた魔女は忌々しげにラプンツェルさんを睨みつける。
「邪魔を……」
魔女の全身から飴が噴き出し、ずるりと拘束から抜け出す。
「なっ!」
「……するんじゃない!」
飴の刃が四方八方に飛び、髪の切り裂く。そして、粘度の高いホイップクリームがラプンツェルさんの美しい髪にまとわりついた。
「く、重っ!」
ラプンツェルさんの呻きと共に髪の操作性が落ちる。僕とグレーテルはラプンツェルさんの髪に守られて無事だったが、本人は飴の刃が掠ったようで、あちこち血が滲んでいた。クリームにまとわりつかれてふらついている。
「ラプンツェルさん!」
「かまうな! グレーテルを守れ!」
「やかましいよ!」
ふらつくラプンツェルさんにクッキーとキャンディの散弾が降り注ぐ。
「ぐっ!」
ラプンツェルさんは壁の穴から外へ吹き飛ばされた。心配だが、僕はグレーテルを守らなければならない。 ラプンツェルさんが戻ってくるまで!
「っ! グレーテル、こっちに!」
「逃がすと思ってるのかい⁉」
グレーテルの手を引いて駆け出そうとしたが、僕とグレーテルの間にスポンジの壁が出現し、僕は彼女の手を握っていられずに弾き飛ばされた。
「うわあ!」
「きゃあ!」
僕は不気味な収集品が詰まった棚にぶつかった。棚から空のガラス瓶が落ちてきて、額にあたり、血が流れるのがわかった。
しかし、今はどうでもいい! グレーテルは⁉
痛む頭を振って辺りを見ると、グレーテルが反対側のキッチンの方へ転がされているのが見えた。
「おイタが過ぎたねぇ、グレーテルゥ」
「グレーテル!」
僕は叫んだが、体がクリームに包まれ、身動きが取れなくなった。口も封じられ、しゃべることもできない。
「お前はじっとしてな、あとで食べてやるから」
魔女は僕に背を向けたまま、吐き捨てた。
「魔女に毒草を食わそうとはとんだクソガキだよ。食事がいつもより不味かったのはマンドラゴラのせいだね? お前のせいで、あの《魔女狩り》ごときに殴られる羽目になったじゃないか。グズのくせに、何を企んだんだか。もしかしてあれかい、《魔女狩り》の手助けでもするつもりだったのかい?」
魔女はゆっくりとグレーテルに近づいていく。グレーテルは怯えた表情で後ずさったが、背後にはキッチン台があって逃げられない。
「考えが浅いねぇ、グレーテル。マンドラゴラの毒なんて、私のような魔女には一時的な効果しかないよ。それもせいぜい吐くぐらいだ」
魔女はグレーテルに顔を近づける。
「お前には教えたはずだけどねぇ? 初めて見たときは見込みがあるように見えたんだけどねぇ、本当に何か月たっても何も憶えやしない。使えないガキだよ、これが終わったら兄ともども食ってしまおうか?」
魔女の骨ばんだ指がグレーテルの頬を掴む。グレーテルは気丈に、泣きもせずに魔女を睨み返している。
「反抗的だね。まったく、《狩人屋》なんて余計な希望にすがるからこんな風になっちまうんだろうね」
「余計な希望なわけがないだろう!」
怒鳴り声が聞こえる。壁を乗り越えて、長い長い三つ編みを携えた《魔女狩り》が仁王立ちで、魔女を睨んでいる。
「グレーテルから手を離せ」
ラプンツェルさんの服はボロボロだ。あちこち傷だらけで、腕の傷から今も血が流れ出ている。
「まだいたのかい、お前は。とっととくたばりな」
魔女はグレーテルから手を離し、呆れたようにラプンツェルさんに向き直った。
「生憎とあたしはしつこいんだ。グレーテルの『希望』だからね」
「ハッ。立ってるだけで精一杯じゃないのかい? いいだろう、そんなに言うなら、希望が擦り潰れるところを見せてやるとしようか! グレーテルゥ! よぉく見ておくんだよ、お前がすがった奴がどうしようもなく私に敗れるさまをね!」
魔女は嫌らしく笑いながらグレーテルを振り返った。彼女はいつの間にか、魔女のすぐそばに立っている。
「あん? なんだい、おま――」
グレーテルが両手で魔女を押した。グレーテルの手のひらから閃光が走り、魔女がよろめく。よろめいた魔女をグレーテルが更に突き飛ばした。魔女は大鍋をひっくり返しながら竈に突っ込んだ。
「なんっ――」
竈の中で四つん這いになる魔女を見下ろすグレーテル。
「ありがとう、おばあさん。わたしに色々教えてくれて」
グレーテルが右手の指を弾いた。
パチンッ!
指を弾く音と共に、竈から激しい炎が吹き上がった。
「ちゃんと全部覚えてるよ」
「ぎゃあああああああああ‼」
耳をつんざくような絶叫が響き渡る。
「あああっ! 熱いっ!」
火だるまになった魔女が竈から転がり出てくる。
「グレェエエエテルゥウウウ!」
魔女の怒声がグレーテルを襲う。未だ消えない炎をまとった手が伸ばされる。しかし、二人の間に《魔女狩り》が割り込んだ。
「お前の相手はあたしだって言ってるだろ!」
ラプンツェルさんは魔女を蹴り飛ばした。
「ぐう!」
長い三つ編みが鞭のようにしなり、獲物に巻き付く蛇のように魔女を締め上げた。
「『魔法拘束』」
バシッ、という音がして、三つ編みが魔女を拘束してしまう。その瞬間、魔女の体を覆っていた炎が消えた。
同時に僕を捕まえていたクリームも消えて、やっと体を動かせるようになった。
「なんだい、これは……力が入らない」
あちこち火傷をおった魔女が弱々しくつぶやいた。
「抵抗はあきらめろ。お前の魔力を封じた。あたしは《魔女狩り》だからな」
ラプンツェルさんはこちらに向き直って、言った。
「二人とも、生きててよかった。ごめん、もう大丈夫。グレーテル、お兄ちゃんを助けに行こう」
「うん」
グレーテルは隠し扉に駆け寄って、指で複雑な文様を描いた。隠し扉が開かれる。彼女は扉が開ききるよりまえに、隙間に体をねじ込んで、暗がりへ消えてしまった。僕とラプンツェルさんも後を追った。
螺旋階段が続いていた。ところどころ苔が生え、奇妙な臭いが漂う。
「レコ、急ごう」
ラプンツェルさんに促され、足早に螺旋階段を下りていく。
階段を降りきると、薄暗い、石造りの部屋があり、部屋の奥には頑丈な牢があった。その中に、ボロボロの服を着た小柄な少年が座り込んでいる。
「お兄ちゃん!」
グレーテルが叫びながら、牢に近づいて格子を握りしめる。
「お兄ちゃん!」
「グレーテル……?」
声に反応して、少年が顔を上げた。
グレーテルによく似た可愛らしい顔立ちだが、表情は疲れ、鮮やかだったであろう茶髪もぐちゃぐちゃに乱れている。
「グレーテル、どうしてここに……? 魔女に見つかる前に逃げるんだ!」
「大丈夫よ! 助けに来たの! もう大丈夫なの!」
「初めまして、ヘンゼル。あたしはラプンツェル。《狩人屋》の《魔女狩り》だよ。少し下がってて」
ラプンツェルさんが髪を鋭く二振りすると、鉄の格子はあっけなく破壊された。
グレーテルはヘンゼルに飛びついて、力強く兄を抱きしめた。
ヘンゼルに状況を説明し、僕たちは薄暗い地下牢から出た。彼は疲れた様子ではあるが、怪我はなく、病気などの問題はなさそうだった。閉じ込められていたとはいえ、魔女の目的からすればヘンゼルを乱雑に扱うわけにはいかなかったのだろう。
「ありがとうございます、ラプンツェルさん」
「いいんだ。あたしは仕事をしただけだし、むしろ、グレーテルを危ない目に遭わせたことを謝りたい」
ラプンツェルさんは片膝をついて、グレーテルに視線を合わせた。そして、頭を下げる。
「ごめん、グレーテル。君を危険な目に遭わせた。あたしの失態だ」
「いいえ。大丈夫です。結果的にみんな無事でしたから」
グレーテルはにこやかに笑った。
「お兄ちゃんを助けられたのは、二人のおかげですから」
グレーテルはヘンゼルの手をぎゅっと握って、兄を見上げる。ヘンゼルもほほ笑んで、妹を見ている。
「……大人っぽくなったね、グレーテル」
「そう?」
「うん。なんだか、すごく成長したみたい」
「お兄ちゃんにそう言われると、うれしい」
グレーテルは楽しそうにはしゃいでいる。
「二人とも、少しだけ待っていて。ちょっと後片付けをしてくるから」
ラプンツェルさんそう言って、髪の毛で縛られたままの魔女に近寄った。
魔女は力なく地面に転がされている。しかし、白く濁った眼にはまだ闘志の赤い炎がちらついているように見えた。
「やあ、《おかしの魔女》。聞きたいことがある」
「ふん。してやれたよ、《魔女狩り》」
「……お前の噂は聞いてたよ。強い魔女だって話を」
「それで?」
「お前は確かに強かったよ」
「お褒めに預かり光栄だねぇ、それで?」
「《ノヂシャと塔の魔女》について知っていることはあるか?」
「……はん。お前、あいつの娘かい……? いや、違うねぇ。そうじゃない、弟子かい?」
「関係はどうでもいいよ。その口ぶりだと何かは知ってるんだろう?」
「通称と姿形くらいしか知らないよ。今どこで何をしているのかなんて、知りたくもないね」
魔女は口の端を歪めて笑った。
「……そうか。ならいい」
ラプンツェルさんはしばらく黙って魔女を見下ろしていたが、最終的にそう呟いた。そして、これからの処遇を魔女に告げる。
「……お前は『魔女裁判』に送られるだろう」
「ハッ! あのアホどもの巣窟にかい? いっそ殺してくれたほうがいいねぇ」
「悪いが、殺しはやってない」
「甘ちゃんだね」
魔女は鼻で嗤った。
後々、聞いたところによれば『魔女裁判』とは、様々な魔女や魔法使いが集まって組織される、魔女の罪を裁く機関らしい。
「くそったれめ……下手こいたよ、全部、あのクソガキのせいだ……」
「素敵な姿ね、おばあさん」
グレーテルが僕らの後ろから一人で歩いてきて、静かに魔女に話しかけた。魔女は彼女の姿を見た途端、気色ばんだ。
「グレーテル! お前っ! 騙してたね! この私を!」
「バカにしていた子供にしてやれた気分はどう」
「……最悪の気分だねぇ! 『魔力剥がしの閃光』に『獄炎の魔法』ときた! 私に向けたことに目を瞑れば、高度な魔法の連撃……素晴らしい攻撃だったねぇ。しかし、はやり私の目に狂いはなかった。お前は私を欺けるほどに、魔女の才能に溢れている」
「おばあさんに会わなければ、自分でも気づかなかったでしょうね」
「いっちょ前の口をきくねぇ! あのバカみたいな子供しゃべりはもう卒業かい?」
「隠す必要がないから。もう幼い子供のふりをする必要はないでしょう? あなたを欺くために、何もできない子供だと周りに思わせるためにやってたのよ。子供だったけど、あなたにしごかれて嫌でも大人になったわ」
「魔女としての覚醒だよ、それは。『知性の――」
「――膨張』でしょう?」
「……よく覚えているじゃないか」
魔女はニタリと笑った。
その時、ボン、と音がして、僕たちのそばに奇妙な二人組が現れた。カエルの面かぶった女性と三角帽子を目深にかぶった女性だ。
「こんにちは。《魔女狩り》ですね。《おかしの魔女》を引き取りに伺いました」
しわがれた声が聞こえた。どちらがしゃべっているのか分からない。
「よろしく頼むよ」
「はい」
二人組は魔女に近寄って、その体に手を置いた。
グレーテルが一歩進み出て、魔女に告げる。
「もう会うことはないでしょうし、どこに連れていかれるのかも知らないけど、ぜひ苦しんでね」
「……お前も、いい魔女になりなよぉ、グレーテルゥ」
笑いを含んだ魔女の最後の言葉を残して、三人の魔女は消えた。
魔女の縄張りだった森の広場で僕たちは向かい合っている。魔女が消えたせいなのか、おかしの家はすっかり消えてしまい、古ぼけた廃屋同然の小屋だけがぽつんと広場に残っている。木々のない広場には暖かな日差しが降り注いでいる。もうここには邪悪な力は残っていないように思えた。
僕は頭の傷にラプンツェルさんの髪の毛を包帯替わりに巻き付けられていた。なにやら癒しの力があるらしい。確かに痛みはなくなり、出血もすぐに止まってしまった。
万能の髪だ。
「本当にありがとうございました」
グレーテルは僕たちに向かって頭を下げた。僕は殴り書きの記録の手を止めてグレーテルの方を向く。ラプンツェルさんは両手を顔の前で振っていた。
「いいよ、いいよ。二人が無事でよかった。でも、本当に二人だけでいいの? 送ってくよ?」
ラプンツェルさんは二人の家を探し出して、送って行くつもりだったらしいのだが、グレーテルがそれを断った。
「いえ、大丈夫です。兄を助けるって依頼を果たしてもらったので、もう大丈夫です」
グレーテルはそう言って、愛おしそうに膝の上で眠るヘンゼルを見つめた。ヘンゼルは緊張の糸が切れたのか、さっきからぐっすりと眠っている。
「ちゃんと道を思い出したので。お兄ちゃんと二人で家に帰ります」
「そっか。グレーテルがそう言うなら、それでいいよ。あの魔女が居なくなった今、この森にはそんなに危険はないだろうから」
「はい。ありがとうございます」
グレーテルは微笑んだ。そこにはあの慌てて《狩人屋》に来ていた女の子はいなかった。小さな女の子の面影は薄れ、余裕をもった女の子に見える。本当に幼い子供の演技をしていたのだろう。いや、本当に幼い子供の年齢なのだが、精神的な成長がすごい。
それがいいのか、悪いのか、僕には判断できない部分ではあるけれど。
ラプンツェルさんはそんなグレーテルの様子を見て、一瞬だけ目を伏せた後、真剣な眼差しでグレーテルを見つめた。
「……グレーテル」
「どうかしましたか?」
「……これはまあ、アドバイスの一種だと思ってくれ。君と同じく魔女に育てられてしまった先輩からのアドバイスだよ」
グレーテルは不思議そうな顔で小首をかしげた。
「グレーテル。君はすごい力を秘めている。それを正しく理解しないといけないよ。力に溺れちゃだめだ」
「もちろんです。わたしは魔女になりたいわけじゃないので」
グレーテルはこちらを安心させるように優しく微笑んだ。
ラプンツェルさんもしばらくその笑みを見つめてから、同じく笑い、立ち上がった。
「ごめん、説教臭くなっちゃったね。じゃあ、これでお別れだ。元気でね、グレーテル」
「さようなら、グレーテル」
「はい。ラプンツェルさんもレコさんも。お元気で。さようなら」
「また何か困りごとがあったら、いつでも《狩人屋》に来てくれ。あたしじゃなくても、誰かが必ず助けてくれる」
《魔女狩り》が強く言い切った。
「じゃあ、レコ。《狩人屋》に帰ろうか」
ラプンツェルさんとレコさんはまたあのとんでもない移動方法で、飛んで帰ってしまった。あっという間に空のかなたで、小さな点になってしまった二人を目で追いかける。
「…………」
あれには驚いた。たぶん、あの時は演技が崩れていたような気がする。
……あの二人には申し訳ないことをしてしまった。絶対に魔女にばれるわけにはいかなかったので、二人の前でも何もできない子供を装うしかなかった。結果的に騙したようなものだ。できれば隠しきりたいところだったけど、おばあさんに一矢報いる千載一遇のチャンスに抗うことができなかった。
「でも、まあ、終わったことよね……」
上げていた顔を下げて、膝の上で安らかに眠っている兄を見つめる。
「お兄ちゃん……」
お兄ちゃんが無事で本当によかった。
お兄ちゃんが無事なら何もいらないってレベルで心配だったのよ?
わたしのお兄ちゃん。
わたしの大好きなお兄ちゃん。
ちゃんと家に帰ろうね。お父さんが待ってるから。道なんかいくらでも見つけられるよ。その方法はちゃんと学んだからね。
あの胸糞悪い継母の事も心配ないよ。もう二度とわたしたちの邪魔なんてさせないから。
その方法もちゃんと学んだから。
「だいじょうぶだよ、お兄ちゃん。何も心配いらないから」
そっと額にキスをする。
ぜんぶ、わたしに任せてくれたらいいからね、お兄ちゃん。
ヘンゼルとグレーテル――ラプンツェル(髪長姫)