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5.《失恋狩り》

 大雪が降った日の次の日でした。ある古いお屋敷の子供が一日がかりで、大きな雪だるまを作りました。瓦の欠片のつぶらな目。オレンジ色のにんじんの高い鼻。枝を曲げて作られた笑顔の口。箒でできた手を持って、赤いマフラーと銀色のバケツでおしゃれした雪だるまでした。

 オレンジ色に染まった夕日が雪だるまを照らします。

「おや、ぎらぎら輝いてるなぁ。なんだあれ」

 雪だるまは独り言をつぶやきます。やがて太陽は沈み、真ん丸なお月さまが現れました。

「おやおや。ずいぶんと控えめな輝きになってるねぇ。君は一体何者なんだい?」

 雪だるまはそう尋ねます。しかし、空からの返事はありません。

「話しかけても無駄だよ、雪だるま。あれは『月』ってのさ」

 雪だるまの後ろからお屋敷で飼われている犬が、彼に話しかけました。

「そう言うあなたは誰? ぼくは動けないんだよ。見える所まで来てくれないかな」

 話しかけられた犬は、トコトコと雪だるまの前に現れます。

「私は犬さね」

「そう。君は物知りだねぇ。どうやらぼくは何も知らないみたいなんだ。だから、色々と教えてほしいんだ」

「まあ、いいよ。私がヒマなときはね。……今はヒマさ」

 それから犬は一晩中雪だるまの質問に答えてやりました。雪だるまは何にでも興味を持って、犬の話を大変おもしろがるのでした。

 寒い日が続きます。雪だるまが生まれてから数日がたちました。雪だるまは朝日に驚き、雪が降れば感心し、窓からのぞける屋敷の景色に感動します。

 ある日、雪だるまは犬にたずねました。

「ねぇ、君は体の中心が痛むことがあるかい?」

「体の? いや、あんまりないねぇ。どうしてそんな事を思ったんだい? 今も痛むのかい?」

「いや、今は大丈夫なんだけど。お屋敷の中を見るとね。あの人の姿を見ると……体の真ん中が痛むんだ」

「あの人?」

「ああ。ここから見えるだろう? 黒い服を着た人がいるじゃないか」

 犬は窓辺に駆け寄って、部屋の中を覗き込みます。曇りつつある大きな窓から部屋の中が見えました。

「あれは……」

「美しい人だ……ぼくとは違って全身真っ黒だけど、とってもきれいだ。それに時々、お腹のあたりが赤く光るんだよ。それはもう素晴らしい美しさなんだ」

「あれは……ストーブだよ。薪を入れて、暖をとるのさ」

「そうか。あの人はストーブというのか……いい名前だね。会いたいなぁ、彼女に。ぼくは動くのが苦手だからねぇ。それでも、せめてもう少し近くで話したいよ」

「残念だけどね。あんたがストーブに会うのは無理ってもんだよ」

 犬は窓をのぞき込んだまま言いました。

「どうして? ぼくが動けないからかい? なら君が彼女に伝えてくれないか。それとも彼女も動くのが苦手なのかな?」

「いや、まあ、苦手だろうけど……そういう問題じゃなくてね。あんたはストーブの近くによると溶けちまうのさ」

「…………」

「あんたは雪だるま。雪は暖かさに弱いもんだよ。残念だけど、雪ってのは溶けるんだ。ストーブの近くはあんたにとって、暖かすぎるのさ」

「でも、ぼくは太陽の暖かさは好きだよ。ぼくは溶けていないよ」

「それは……今は寒いからさ。何にせよ、やめな。悪いことは言わない、ストーブのことは忘れた方があんたのためさね」

 犬はそう言って雪だるまのそばに戻りました。しかし、雪だるまは部屋の中のストーブを見つめたままです。ストーブは黒くつややかで、パチパチとはぜる薪から明るい炎が見えました。

「ならせめて、ぼくに気づいてくれないかな……」

 ぽつりと呟かれた言葉に、犬は返す言葉がありませんでした。その時から、雪だるまは目に見えて元気がなくなってしまいました。どれだけ犬がしゃべりかけても、生返事しかせずに、じっとストーブを見つめています。

 夜になり、寒さはどんどんひどくなりました。部屋の窓はすっかり曇ってしまい、中の様子をうかがうことができません。雪だるまはそばにいる犬に話しかけました。

「どうしても……彼女のそばに行ってみたいよ」

「やめなって言ってるだろう」

「うん……たぶん、君の言うことは正しいと思うよ。でもね、ぼくはどうしても、彼女に、ストーブに会いたいんだ。今日一日ずっと考えたけど、どうしても会いたいんだ。ぼくは動けないし、そばに行ったら溶けてしまうかもしれない。でも、ぼくはこの痛みの正体を知りたいんだ。どうして彼女を見ると痛むんだい? それはきっと彼女に会えばわかると、思うんだ」

 つたない調子で語られる言葉を聞いて、犬はある決心を固めました。




 

『渦巻くような緑色の光のトンネル。まぶしくはない。トンネルと記したが、垂直の縦穴だった。におい、音は憶えていない。入口の様子、出口の様子も憶えていない。それに付随してどうやって入ったのか、出たのかも記憶にない』

『一晩必死で記憶を探った。いつの間にか寝てしまっていたが、夢で歌を歌っていたような気がする。記憶との因果関係は不明』

『緑色のトンネルについて文献や証言を探る。文献について。特に記述はなく、空振りに終わる。少なくとも《狩人屋》の資料には存在しないようだ。証言について。緑色ではなかったが、不思議な縦穴になら落ちたことがあるという証言を《暴君狩り》から得る。もっと早く尋ねればよかったと思った。しかし、僕の記憶に関係するのかは不明(彼女自身は関係ないだろうと言っていた)』

『追記・彼女が落ちた縦穴の入口はウサギの巣穴だったそうである。記憶をなくす前の僕が、ウサギの巣に落ちるという奇抜体験をしていないことを切に願う』

『紅茶を飲んでいると、急に川のイメージが浮かび上がる。レコとしての記憶にない川だった。妄想、想像の可能性はあるものの、もしかすると故郷の川なのかもしれない。一瞬だったため、具体的な風景は蘇らず。残念だ』

『紅茶をたくさん飲む。しかし、お腹がちゃぷちゃぷになっただけで、記憶の方はさっぱりだった。記憶と紅茶は無関係のようだ。追記・馬鹿みたいな方法だと赤ずきんさんに笑われる』

『相変わらず自分に関しての記憶は蘇らない。気長にいこう』


 僕は記憶を取り戻すために書き始めた紙束をトントンとまとめた。それをこのところ肌身離さず持ち歩いているバッグにしまい込む。このバッグには紙が大量に詰め込まれている。僕自身に関する記録や仕事の下書き、メモなんかを一緒に管理しているのだ。僕にとって記憶のよりどころになる文章が多いので大切に扱いたい。正直言って持ち運びには少し重いが、まだそこまで邪魔になるものでもないし、なんとかなるだろう。

「近頃、記憶を取り戻そうと熱心に調べているようですね」

 オキナさんがいつものように――朝食後の日課――食器を磨きながら言う。

「レコくんは記憶を取り戻すことに、あまり乗り気ではないように見受けていたのですが。何か心境の変化でもあったのですか?」

「変化、というと大げさですが……決意を固めた、というところです。例え、自分がどんな奴であったにしろ、それはまぎれもなく僕であるわけですし。それと向かい合うことは避けては通れないかな、と思いまして」

「そういうことを心境の変化というのでは?」

 オキナさんは苦笑いしつつ、新しいスプーンを手に取った。ピカピカに見えるが給仕係として見逃せない汚れで見つけたのか、彼は丁寧にスプーンを磨く。

「まあ、そうですね。影響を受けたとすれば、気丈な女の子の影響ですかね。強い言葉でした。僕に向けられたわけではありませんが、僕にも当てはまるような言葉でしたので。その子にも笑われないように、記憶喪失ぐらいでガタガタ言ってられないな、と思ったんです」

「ふむ。恐れているより、そういう強い気持ちを持つことは大切ですね。私に手伝えることがあれば言って下さい。できうる限りお手伝いしましょう」

「ありがとうございます。もう十分お手伝いして頂いているのに」

 オキナさんはにっこりとほほ笑んだ。

「いいんですよ。あなたが《狩り》をサポートするのが仕事のように、私は《狩人屋》をサポートするのが仕事なのですから。それに、困っている友人を見過ごすことはできませんからね」

 優しい声でそう言われて、思わず涙ぐみそうになった。

「よう、オキナ。何か残りもんある?」

「おはよう、赤ずきん」

 僕の隣に、真っ赤なずきんをかぶった少女が腰かけた。僕は慌てて涙ぐみそうな気持を飲み込む。涙なんか見られたら、何を言われるか分からない。

「寒空の下、徹夜仕事でさぁ……狼だって話だったから俺様が出張ったのに……相手は化け物だったんだぜ。仕留めんのに一晩かかった」

「怪我はありませんか?」

「ねえよ。俺様が化け物ごときに遅れをとるかよ。でも、とにかく腹減ってんの。何かない? できれば肉が欲しい。骨のついた生みたいなレアのやつ」

 赤ずきんさんはカウンターに突っ伏した。

「適当に作ります。少し待っていて下さい」

「うい……おお、レコじゃん。よーう、記憶はどうだ?」

 赤ずきんさんは突っ伏したまま、こちらにぐるりと首を回した。

「おはようございます。記憶の方はボチボチですよ。赤ずきんさんの方こそ大丈夫ですか」

「フッ……愚問だぜ」

 眼の下に濃いくまを作った少女はニヤリと笑った。どうやらまったく問題ないらしい。そのふてぶてしい態度もいつも通りだ。

「俺様は問題ねえが……んだよ、お前の記憶は相変わらずか。ま、いいじゃん。気長にやれよ」

 そこでオキナさんが湯気をたてる料理を運んできた。たっぷりとバターが塗られた厚切りのパンと、ふかしたジャガイモとコンソメスープ。そして、彼女の注文通り、血の滴る大きな肉。

「簡単で申し訳ありませんね。食べておいてください。私は仕事に戻ります」

「いんや、十分豪華さ。わりぃな、手間かけた」

 赤ずきんさんはそれだけ言って、肉にかぶりついた。彼女はあっという間に食事を平らげてしまう。食事を終えた彼女は物憂げな顔で骨をガリガリと噛んでいる。

「そういや、レコ」

「なんです?」

「その足元の犬はお前の新しい友達か?」

「はい?」

 慌てて下を見る。彼女に言われるまで全く気付かなかったが、確かに僕の足元にはちょこんと犬が座っていた。賢そうな黒い目をした茶色い犬だ。

「いえ、僕は知りませんが……迷いこんだのかな」

 赤ずきんさんは、ぴょんと椅子から飛び降りて、犬の前にしゃがみ込む。

「よう。これ、食う?」

 わしゃわしゃと犬の頭をなで、かじっていた骨のあまりを差し出す少女。

「ありがたいね。もらうよ。走ってきて、ちょうどお腹が減ってたんだ」

 犬は平然とそう言って、差し出された骨をかみ砕いた。ひとしきり咀嚼してから、その犬はもう一度口を開いた。

「ここは《狩人屋(オリオン)》であってるかい?」

「おう。困りごとか? 何でもござれだぜ」

「そうさねぇ、困ってるのは私じゃないがね。どうしても助けてやって欲しい奴がいるのさ」


 僕はいつものようにメリアさんと並んで、犬の話を聞いた。お腹が空いている犬の前には肉の塊と水が置かれている。赤ずきんさんはメリアさんに引き継ぐと、自室へ帰ってしまった。寝るのだという。

「私の名前はプロキオンと言うんだがね。最近知り合った雪だるまが……」

「雪だるま?」

「そうさ。その雪だるまがねぇ……」

 プロキオンの依頼は、ストーブに恋をしてしまった雪だるまを助けてやってほしい、というものだった。

 今回の依頼は、今まで僕が経験してきたものとは少し毛色が違うようだ。これまでの依頼は大抵、何らかの力押しが必要だった。しかし、今回、暴力は役に立ちそうにない。

「なるほど、ふーむ……じゃあ、彼女を紹介しましょう。きっと役立ってくれるわ。呼んでくるから、少し待ってて」

 メリアさんはそう言って立ち上がった。僕はプロキオンさんと二人で取り残された。

「プロキオンさん。おそらく僕も同行することになります。記録係のレコといいます」

「さん付けなんていらないよ。私はさん付けされるようなご立派な身分じゃないからね。プロキオンと呼び捨てにしてくれ。ただ、何にしてもよろしくたのむよ、レコ」

「はい」

「おまたせ」

 メリアさんが一人の少女を連れて戻って来た。僕より少し年上だろう。たゆたうような豊かな赤髪に大きな青い瞳。ほっそりとした体を清楚な白いワンピースに包んでいる。裾から伸びる足は素足だった。はにかんだような笑みを浮かべ、手に持った黒板に白いチョークで何かを書いている。

「紹介するわ。アリエナよ」

 紹介された少女は黒板を僕らに向けた。

『初めまして。《失恋狩り》のアリエナといいます』

「アリエナは言葉を失っているの。会話は筆談になるわ。プロキオン、字は読めるかしら?」

「ああ。完璧とはいかないがね。屋敷の坊ちゃんのお勉強を見てたからね」

『不便かもしれないけれど、ごめんなさい』

「いや、気にしないでおくれ。私はあいつを助けてくれる奴なら大歓迎さね」

 プロキオンはアリエナさんの足元に近づいて、ヒクヒクと鼻を動かした。《狩り》と依頼人の顔合わせという仕事を終えたメリアさんは《失恋狩り》の肩を叩いた。

「じゃあ、アリエナ、お願いね。レコくんも彼女を助けてあげてね」

 アリエナはこくんと頷いた。

 僕達――レコ、プロキオン、アリエナさんは連れだって《狩人屋(オリオン)》を出た。今回はメリアさんが用意してくれた荷物を持っている。何が入っているのかよく分からないが、彼女の助言には従った方が賢明だ。もちろん、荷物持ちは僕。

 僕は《狩人屋(オリオン)》を出てすぐに、ざっとまとめた依頼書をアリエナさんに手渡した。僕ももう初心者ではない。このくらいの効率化ならお手の物だ。

『ありがとう』

 さっと書き出された黒板が僕に向けられる。彼女はさっそく、受け取った紙に目を落とした。数枚しかない依頼書なので、あっという間に読み終える。アリエナさんはチョークを取り出し、カツカツと音をたてながら文字を書き始めた。

『わかりやすかった。でも、話もきいておきたい』

 僕は頷いて、プロキオンに声をかけた。

「プロキオン、もう一度雪だるまの話をしてくれるかい?」

「確認かい? もちろんいいとも」

 プロキオンは僕やメリアさんに語った内容を、もう一度アリエナさんに話した。彼女は歩きながら真剣な表情でそれを聞いている。ちなみにアリエナさんは裸足だ。気温は低め、外にいるにも関わらず、彼女は裸足をつらぬいている。たぶん、彼女の《狩り》としての縛りなのだろう。

 これまで何人も《狩り》を見て来た。そこで思ったことがある。《狩り》達の能力はほとんどの場合、何かを犠牲にしているのだ。着飾れない人。共感できない人。中には『能力』=『呪い』と呼べそうな人もいる(赤ずきんさんなど、その筆頭だ)。だから《狩り》達の奇行、身なりには明確な理由があるのだ。アリエナさんが裸足だからといって、それを軽々しく訊ねることはできない。声を失っている理由もしかりだ。

『話は大体、理解した』

「ま、私が望むのは雪だるまの手助けさね。叶えてくれるんならそれもよし。あきらめるよう説得してくれるんなら、それもよしさ」

 プロキオンは黒板をチラッと見て言った。アリエナさんはくるりと黒板を自分向け、カツカツとチョークを走らせる。

『結果はどうなるかわからない。私は本当に手助けするだけ。結果については雪だるまによる』

 アリエナさんはさっと文字を消し、新しい文字を書きつけた。

『私は選択肢を提示する。それを選ぶのは雪だるま』

『もちろん選んだら全力でサポートする。でもどういう結果になるのか、予測できない』

「かまわないよ。それでいい。向こうについたら雪だるまに説明してやっておくれ」

 アリエナさんは頷いた。彼女はプロキオンから離れ、僕の方へ近づいてくる。

『はじめまして。レコとの仕事は楽しみにしてた』

「そうなんですか? どうして?」

『色んな人から聞いてる。優しくて優秀だって』

 アリエナさんはにっこりと笑った。整った顔立ちの彼女が笑うと、とんでもなく眩しかった。しかし、こうも褒められるとは思いもしなかった。顔が赤くなるのがわかる。

「そんな……過大な評価ですよ。いつもいっぱいいっぱいです」

『今回もいつも通りお願い。それで大丈夫でしょう?』

「そうですね。がんばります」

 僕はそう言った。アリエナさんはまたにっこりと笑った。



 目的地にたどり着くまで一日半かかった。移動手段が徒歩しかなかったので、仕方がないと言えば仕方がないのだが。目的のお屋敷に近づくにつれ、辺りには雪が多くなった。空は赤く染まっており、夕陽がまぶしい。ずっといい天気だったが、緩んできた気温がプロキオンの気がかりになっているようだった。しかし、プロキオンはそわそわしながらもアリエナさんを気遣っている。

「あんた、裸足だけどいいのかい? 太陽は出てるけど、雪が多いから人には辛いと思うよ」

『大丈夫。これが私のスタイルなの。心配してくれてありがとう』

 アリエナさんはしゃがみ込んでプロキオンの頭をなでた。たった一日半でこの二人はずいぶんと仲良くなっている。

 確かに、プロキオンが心配になるのもわかる。アリエナさんの格好はおよそ雪国に滞在する姿ではない。暖かそうな上着を羽織ってはいるものの、上着の裾から伸びる足は素足のままなのだ。

「まあ、あんたがいいなら文句は言わないがね」

 プロキオンに促がされ、もうしばらく進むと、大きなお屋敷がシルエットとして現れた。

「こっちさね。雪だるまは裏庭にいる」

 お屋敷をぐるりと回り、裏庭に辿り着く。屋敷の壁にほど近い場所に、その雪だるまはいた。僕の背丈よりも少し大きい、立派な雪だるまだ。

「雪だるま。今、帰ったよ。調子はどうだい?」

 プロキオンは雪だるまの背中に声をかけた。

「やあ、しばらくぶりだね。調子はいいよ。太陽は暖かいし、のんびりした気分さ。ただ話の相手がいなくて退屈だったよ。退屈すぎてぼんやりしちゃうね。一体、どこに行ってたんだい」

 雪だるまは振り向くことなく、前を見たままそう言った。一瞬だけ「あれ?」と思ったが、何のことはない、彼は振り向けないのだ。

「まあ、私にだって色々と都合はあるさね。ま、今回はあんたに紹介したい人がいてね。連れて来たのさ」

「もしかして……!」

「ストーブではないよ」

 プロキオンはぴしゃりと言い放った。

「ちょっぴり残念」

 雪だるまは言った。もし彼が肩を落とすことができればそうしていただろう。

「でもいいや。君が紹介したい人に会ってみたいね。もういるのかい?」

「ああ。あんたの後ろにいるよ」

 雪だるまの前にちょこんと座ったプロキオンが言う。

「なんと。楽しみだ。君以外としゃべるのは初めてだから、緊張するよ。ねえ、後ろの人、ぼくは身動きが取れないんだ。よければ前に来てくれるかい」

 僕とアリエナさんはゆっくりと雪だるまの前に進み出た。

「こんにちは。ぼくは雪だるま。君達は一体何者?」

 雪だるまの口を形作る木の枝は動かない。しかし、その声ははっきりと雪だるまから聞こえて来た。

「僕の名前はレコ」

『私はアリエナ』

 僕達はそれぞれ名乗った。それに対し、雪だるまは不思議そうな声をあげる。

「レコと……そっちの人はなんていうの?」

『文字が読めない?』

 アリエナさんはプロキオンに黒板を向ける。犬は苦笑いしながら首をかしげた。

「……どうやらそうらしいね。生まれた時からペラペラしゃべっていたから、てっきり文字も読めるもんだと思ってたよ」

『レコ、これから私の言葉を彼に逐一通訳してほしい』

「わかりました」

『私はアリエナ。しゃべれないから文字で会話する』

「雪だるまさん、彼女はアリエナといいます。彼女は言葉が話せません。だから、文字で会話するしかないんです」

「そうなんだ……大変……なのかな?」

『そうでもないわ』

 ここからのアリエナさんの言葉はすべて僕が雪だるまさんに伝えている。

「それで、君達は何をしに来たの?」

『可能性の提示。何をするのかと言えば話をする』

 アリエナさんの言葉はそっけない。しかし、これは筆談での会話時間の短縮のためであって、彼女がそっけない女性だというわけではない。アリエナさんの様子を見ていればわかるが、ころころと表情が変わる感情豊かな人なのだ。

「なるほど……よくわからないけど、おしゃべりは大好きさ」

 雪だるまは楽しげにそう言った。


 アリエナさんと雪だるまさんが二人で話をするために、プロキオンには離れてもらった。僕は記録係兼通訳として、二人のそばに残った。プロキオンは嫌がるそぶりも見せず「少し休む」といって、自分の小屋に戻った。

『では、雪だるまさん。お話しましょう』

「いいとも。何を話すんだい?」

『何かお悩みがあると、プロキオンから聞いています』

「確かに悩みはある。だけど、プロキオンというのは誰?」

 僕もアリエナさんも出鼻をくじかれた気分になった。なぜここでそんな疑問が出てくるのか、理解できない。

『プロキオンが誰かわからない?』

「うん。あ、もしかしてその人も犬の知り合いかい」

 雪だるまは朗らかに問うた。

「その犬の名前が、プロキオンというのですが……本当に知らなかったんですか?」

「え⁉ 犬がプロキオン⁉ 犬の名前は『犬』じゃないのかい⁉ 初めて会った時、本人がそう言ってたよ?」

「それは……プロキオンは名乗らなかったんでしょうか?」

 僕はこっそりとアリエナさんに耳打ちした。彼女は眉毛を寄せて首をかしげる。

『わからない。レコ、名前について説明してくれる? 黒板じゃ時間がかかり過ぎる』

「はい。……えーっと、雪だるまさん、名前というのはですね、その人物だけが持つ名前と、その種類というか、グループを表す名前があるんです」

「ということは、『犬』というのは大くくりの名前で、『プロキオン』というのが、あの犬を表す名前なんだね?」

「そうです」

「そうだったのか……どうして僕に言ってくれなかったんだろう。ん? なら『雪だるま』というのはどうなの?」

「それは……」

『どちらかと言えば、グループ名』

「そんな……じゃあ、僕の名前は?」

 雪だるまは不安そうに言った。快活だった声が僅かに震えだしている。

『誰かに名付けてもらうのがいいんじゃない?』

『レコ、悪いんだけど、プロキオンを呼んで来て。彼女がふさわしいわ』

 僕は言われた通りにプロキオンを呼びに行った。離れておいて、と言った手前申し訳ないが、緊急事態なので許してもらおう。

「ああ、名前か。そうさねぇ……」

 プロキオンが僕らの元へ帰って来て、雪だるまを見上げて息を吐いた。

「犬……じゃないや、プロキオン、ぼくの名前を考えてくれるのかい」

「まあ、あんたがいいならね」

「お願いするよ。ぜひ君に考えて欲しい」

「仕方ないね。なら……シリウスにしよう」

 プロキオンはしばらく考えてからそう言った。

「シリウス……うん、いい響きだ。ぼくはシリウス」

 雪だるまは嬉しそうに言った。

「気にいってもらえたかい、シリウス」

「うん。ありがとう、プロキオン」

 雪だるまがシリウス、シリウスと名前を噛みしめているのを横目に見ながら、プロキオンは小さくアリエナさんに呟いた。

「もう時間がないさね。暖かくてぼんやりする、と言ってただろう? 溶けかけてるのさ。明日からもっと気温が上がる。時間がないよ」


『じゃあ、シリウス。お話しましょう』

「いいとも、アリエナ」

 アリエナさんと僕は雪だるまこと、シリウスに対面して座り、話を聞く体勢を取った。お尻のしたで雪がじんわりと溶ける。アリエナさんはそんな事を気にする様子もなく、さっそくチョークを走らせ始めた。

『シリウスは悩みがあるのでしょう? それを聞いてみたい』

『私の仕事は人の悩みの解決。もしかするとあなたの悩みも解決できるかもしれない』

「へえ……君はすごい人だね。じゃあ、僕も相談してみようかな」

 雪だるまは少しためらいの残る口調で自らのことを語り始めた。

「ぼくはね。時々だけど、体の真ん中が痛むことがあってね。まあ、原因らしきものはわかってるんだ。ほら、あの人が見えるかい? 窓のから屋敷の中が見えるだろう?」

 彼の言う通り、屋敷の窓の奥に、黒いストーブが見えた。中で薪を燃やして暖を取る、ごく普通のストーブだ。

「そこに黒い人がいるだろう。彼女はストーブというんだけど、ぼくは彼女を見ると、体の真ん中が痛くなるんだ」

『シリウスはストーブのことをどう思ってるの?』

「ぼくは……どう思ってる? そうだなぁ……彼女に会いたいと思ってる。話をしてみたいとも思ってる」

 雪だるまの返答は、アリエナさんの意図を少し外しているように思えた。ただ、それがわざとなのか、天然なのかはわからない。

『そう。なら、どうして会いに行って、お話しないの?』

「プロキオンに止められているんだ。プロキオンが言うには、ぼくがストーブに近づくとぼくの体は溶けちゃうんだって。暖かすぎるらしいんだけど、ぼくは暖かいのも好きなんだよ。ここ数日もポカポカで気持ちよかったよ。まあ、彼女に会いに行けない一番の理由はぼくが動けないからなんだけどね」

『そう。じゃあ、ストーブはあなたのことを気づいているの?』

「……わからない。彼女はこちらを振り向いてくれないし、窓の向こうまで声が届いているのかわからない」

『悲しいわね』

「ああ。でも、なにより悲しいのは彼女に会う方法がないってことだよ。そんなの気づいてもらえるはずがない」

 ため息が聞こえてきそうなほど、落ち込んだ声だった。次の瞬間、シリウスの左の眼がぽろりと外れ、雪の上を転がった。シリウスは悲鳴を上げる。

「うわっ! ぼくの眼が!」

 アリエナさんは素早く立ち上がり――立ち上がった時、彼女は一瞬だけ顔をしかめた――黒い石であるシリウスの目を拾い上げ、もう一度、彼の顔にはめ込んだ。

『もう大丈夫』

「あ、ありがとう、アリエナ」

 シリウスは何度か深呼吸をして驚きから立ち直った。

「ふう……びっくりしたよ。ぼくの眼は、はめこまれてるだけだから落ちることはあるって、プロキオンに言われてたけど、初めてだからびっくりした。こんなこともあるんだねぇ。いい経験だったと思うことにするよ。これで次から慌てなくてすむ。これから何回もあるだろうし」

 アリエナさんは何かを書こうとしていた手を止めた。顔をうかがうと、彼女は厳しい表情で唇を噛みしめていた。

「アリエナさん? 大丈夫ですか?」

 彼女は僕の質問に答えることなく、今まで書いていた文字を手で消すと、新しい言葉を殴り書いた。僕はそれをシリウスに伝える。

『シリウス。ストーブのこと、好き?』

「すき……?」

『好きっていうのは、相手のことを大切に思うこと。一緒にいたいって思うこと』

 アリエナさんは猛然とチョークを走らせ始めた。次々に文字を書いては僕に見せ、すぐに新しい言葉を書き連ねる。

『ストーブに会いたい? 話したい? 近くにいたい? ストーブのこと考える?』

『一緒にいたいって思う? 顔を見てみたい? 気づいてほしい? 見ててほしい?』

『どうしても聞きたい言葉はある? どうしても伝えたい思いはある?』

「…………うん」

 シリウスはしばらく押し黙り、そう言った。

『なら、ストーブのそばに行かせてあげる。私にはその手段がある』

「本当に⁉」

『でも、結果がどうなるかわからない。プロキオンの言う通り、溶けるかもしれない』

『うまくいくかもしれない。望んだ結果にならないかもしれない』

『すごく嬉しい思いをするかもしれないし、すごく傷つくかもしれない』

 アリエナさんは勢いよくそこまで伝え、少しためらってから次の言葉を書いた。

『この方法は一人でやらなきゃならない。それに苦しい』

『それでも、やる?』

 最後の一言が書かれた黒板はシリウスの方へ向けられていた。アリエナさんの眼はまっすぐにシリウスを見つめ、声のない言葉を伝えようとしているように見えた。

「彼女は『それでも、やる?』と聞いています」

 シリウスは黙り込んだ。簡単には決断を下せないのだろう。当たり前だ。僕だって、誰だって同じ立場に立てばそう思うに違いない。

『私は最長で二日待つ。ゆっくり考えて』

「……一人で考えさせてくれないか」

 アリエナさんは頷いた。



 僕とアリエナさんは、一人で考え込むシリウスを残し、プロキオンの小屋を訪ねた。

「プロキオン、いる?」

「ああ、いるさ」

 返事は小屋の中からではなかった。プロキオンは何をしていたのか、小屋の後ろから歩いてくる。

「屋敷のご主人さまにあんたらのことを説明してきたところさね。依頼内容の詳しい説明はしてないけど、好きにすればいいとさ。……で、どうなったね」

『彼は私の提案を考えている。結論はまだ。今は待つとき』

 アリエナさんはそう書いて小屋の前に座り込み、寒そうに素足を抱え込む。ずっと湿った雪に触れているアリエナさんの足は真っ赤になっている。見ていて痛々しいほどに。

 辺りが暗くなり始めた。僕は真っ暗になる前にプロキオンの小屋のそばに簡易テントを張った。このテントはメリアさんに持たされた荷物の中に入っていた。道中は重かったが、こうなってみると彼女の先見の明には驚きを通り越して、あきれさえ覚える。

「アリエナさん、テントに入って下さい。足が真っ赤っかで見ていられません」

 彼女は素直にテントに潜り込み、足に毛布を巻き付けた上で、さらに毛布を羽織った。

『ありがとう。やっぱり優しい。レコも入って。寒いでしょ』

 アリエナさんに手を掴まれてテントにひっぱり込まれた。小さなテントなので二人が入るとけっこう窮屈だった。どうしてもアリエナさんに密着する格好になってしまう。恥ずかしさで顔が熱くなるのがわかった。

『レコ、あったかい』

 黒板に書かれた言葉で、更に体が熱くなる。……この熱が彼女の足を温めることになると、前向きに考えよう。

 プロキオンが赤くなっている僕を見て笑った。

 その晩、次の日中も何事もなく時間が流れた。シリウスからの返事はなく、僕たち三人はシリウスの意思を尊重し、彼のそばには行かなかった。アリエナさんはテントから、プロキオンは小屋の中から、離れた場所に見える雪だるまの背中を見つめ続けていた。

 その日、気温は上がり続け、辺りの雪が少しずつ柔らかくなり、水気を含むようになった。プロキオンの言う通り、もう時間がない。僕は焦りを感じながら、これまでの経緯を記録にまとめた。部外者である僕がやきもきしているのだから、プロキオンはもっと焦っていると思ったが、彼女はそんなそぶりをまったく見せなかった。

 事態が動き出したのはその日の夜遅くだった。


 身体を揺すられて飛び起きた。完全に覚醒する間もなく、手を引っ張られ、強引にテントから連れ出された。

「なん……」

『シリウスが決意した。記録』

 目の前に突き出された黒板を見て、一気に眼が覚めた。僕はすぐさま立ち上がり、懐から紙とペンを取り出し、先を行くアリエナさんを追いかける。彼女は今も裸足で、厚手の上着すらも脱ぎ去った白いワンピース姿だ。それでもアリエナさんは震えることもなくシリウスの前に立ち、おだやかに挨拶を交わしている。僕は通訳として彼女の言葉を伝えた。

『こんばんは』

「やあ、アリエナ。夜遅くにごめんよ」

『かまわないわ』

 シリウスは朗らかに声を出そうとしているようだったが、その裏にひそむ緊張は隠せていなかった。しかし、彼は緊張を飲み込むように力強く言い切った。

「色々と悩んだんだけれど、僕は決めた。僕はどうしても彼女に会いたい」

『心の準備はいい?』

「うん」

『これからあなたに不思議なことが起こる。でも大丈夫。私がついているから』

 アリエナさんはゆっくりとシリウスに近づき、さらにゆっくりと両手を彼の頬に向けた。何が起こるのかは分からないが、僕は少し二人から離れた。プロキオンはいない。何を思っているのかは僕の知るところではないが、彼女はこの場に来なかった。

 アリエナさんは瞳を閉じて、シリウスの口元に自分の額を近づける。

 しばらく何も起こらなかった。日中は暖かいとはいえ、やはり夜はまだまだ寒い。ストーブは今夜も働いているのだろう。ストーブがいる部屋の窓から漏れる、ちらつくオレンジ色の光がうっすらと二人を照らし出す。小さく開かれたアリエナさんの唇から白い息がもれる。僕には聞きとれないが、アリエナさんは小さく呪文を唱えているようだ。

 ざわり、と背筋が寒くなった。絶対に気温のせいではない。その不思議な力を証明するように、動かない二人を中心に妖しい紫色の光が立ち昇る。紫色の光は突如として爆発的に広がった。反射的に顔をそむけ、光の本流から身を庇う。

 光は一瞬でおさまった。

「アリエナさん!」

 光がおさまり僕が二人の方へ顔を戻すと、アリエナさんがシリウスの前に倒れ込んでいた。

「アリエナさん! 大丈夫ですか!」

 僕は倒れている彼女を抱き上げた。

「だい……じょうぶ」

「よかっ……え?」

 透き通った美しい声が聞こえた。アリエナさんが喋っている!

 それだけでも驚くべきことだが、何より彼女の見た目には大きな変化があった。

「ア、アリエナさん、あなたは……」

「説明はあと。シリウス、気分はどう?」

 アリエナさんは肘をついて上体を起こし、雪だるまを見上げた。

「よく……わからない」

「あなたはもう歩ける。あとは自分の足で歩いて、ストーブの所へ行けるわ。ここからは前に言った通り、あなた一人でやらなければならないわ。私たちは手伝えない」

「わかった。どうやったのかはわからないけど、ありがとう」

 言うが早いか、シリウスはゆっくりと立ち上がった。

 彼の丸い体の下には雪でできた立派な脚があった。シリウスの体は少しふらついているが、そのできたての脚は彼をしっかりと支えている。シリウスはそろそろと確かめるように足を踏み出した。サクッという微かな音を立て足跡が残る。彼は明るい窓に向ってゆっくりと進んで行く。

 アリエナさんはその後ろ姿を食い入るように見つめている。

 僕はまだ状況を完全に飲み込めてはいないが、うまくいっているように思える。しかし、アリエナさんの表情は晴れない。険しい顔で唇をかみしめている。

「……なにか不安でも?」

「不安しかない、と言えるかもしれない。あの能力なんて、とても不安定なものだし……あれは誇るべき能力というよりは、忌わしい呪いだもの」

「呪い……」

「昔、私にかけられた呪いよ。私は声と引き換えに、人間の足を手に入れた。今のこれが私本来の姿よ」

 アリエナさんはかたわらに立つ僕を見上げてそう言った。彼女の白いワンピースの裾から伸びるのは二本の足ではなく、うすい緑色の鱗に包まれた魚の下半身だ。

「私はかつて人魚一族の姫だった。私はその頃、海の底に住んでいた。十五歳で初めて海面まで行くことが許されて、その時、私は嵐で海に投げ出された人を助けたわ。そして、私はその地上の人に恋をした。激しい初恋。どうしたって手の届かない存在に恋してしまった私は、魔女に頼った。彼のそばに行きたいと。魔女は私の願いを聞き入れて、私に足を与え、人間の体にしてくれた。自慢だった声と、その思い人と添い遂げることができなければ、泡になって死ぬという運命と引き換えに」

「泡に……」

「安心して、私がシリウスに足を与えても、彼の声が出なくなるわけじゃないし、死ぬ運命でもないわ。あくまで一時的なもの。あれは私が負うべき業だもの」

 アリエナさんは微かに笑った。

「足を手に入れた私は、彼のそばに行くことはできた。でも、思いは伝えられなかった。そのころは文字なんて知りもしなかったし、地上の作法に疎かった。結局、彼に私の思いは通じなかった。私は恋心すらも伝えられず、泡となって消えるはずだった。その運命から私を救ってくれたのは姉さんたち。泡となる運命から逃れる方法を、姉さんたちは魔女から――姉さんたちの自慢だった美しい髪と引き換えに――教えてもらったのよ」

「その方法が……」

「そう《失恋狩り》として生きること。二度と海には戻ることなく、独りぼっちの地上で役目を果たすこと。足を得るために受けた呪いを持ったまま、最後まで生きること」

 彼女の言葉に、僕は何も言えなかった。

「だから、これは呪いなのよ。魔法だって言われてたけど――私から言わせてもらえば――どちらも同じこと。私は他の《狩り》のように戦えるわけじゃない。《失恋狩り》を名乗っていても、必ず恋を叶えることができるわけじゃない。私にできるのは手伝うことだけ。背中を押すことだけ。思い人に近づけない者に足を、思いを伝えられない者に声を、貸すだけ。貸すにしたって完全じゃないわ。シリウスは何も言わないけれど、彼は一歩踏み出すたびに、チクチク刺されるような痛みを感じているはずよ。仕方ないのだけれど、足を得るための代償が痛みなの」

「もしかして、それはあなたも……?」

「私は別にいいの。自業自得でしょう。でも、貸す立場になると辛い。こんなにも中途半端な力で、他人の恋の行く末を左右しようだなんて」

「……シリウスはそれも含めて、あなたに頼んだんですよ。どんな犠牲を払っても、彼は思い人に近づきたかった。思いを告げたかった。『好き』という感情をまだまだ理解していなかった彼が、胸が痛む理由を知りたくて、その行く当てのない感情に決着をつけるために、彼自身が選んだ道です。あなたがいなければ、できなかったことです。彼はできない苦しみよりも、できる苦しみを選んだんです……たぶん、あなたと同じように」

「……そうだといい」

 アリエナさんはシリウスを見つめる。ずっと見つめている。シリウスは苦労しながらほうきの手で窓を開け、窓枠で体を削りながら部屋の中へ入って行くところだ。

「レコ、シリウスが何をしているのかは記録しないで。彼とストーブがどうなったかは記録しないで。あれは二人だけの記憶にするべきで、レコや私、プロキオンでさえも立ち入ることはできない。立ち入ってはならないものだと思うから」

「はい。僕の仕事は《狩り》の行動を記録することです。依頼人のプライバシーを記録することじゃありませんから」

「ありがとう。じゃあ、私たちも離れましょう。ここはあの二人の空間よ」


「首尾はどうだい。あいつはどうなったさね?」

 プロキオンはアリエナさんと眼が合うなり、せきを切ったように話しかけて来た。

「彼はストーブの所へ行ったわ。どうなるかは……わからない」

「そうかい」

 プロキオンは安堵なのか、不安なのか、小さくため息をついた。

「……私には何がどうなってるのか、よく分からないんだけどね、あんたら面白いね。そんな格好で帰ってくるとは思わなかったよ」

「そうかしら?」

 アリエナさんは小首を傾げる。

「……アリエナさん、申し訳ないんですが、もう腕が限界です」

 僕はアリエナさんをお姫様抱っこしていた。シリウスの居た場所から離れようとした僕たちだったが、「離れよう」と言い出したアリエナさん本人が歩ける体ではなかった。彼女は這って戻ると言ったのだが、さすがに雪の上を這わせるわけにはいかない。とはいえ、彼女の下半身は人魚のそれなので、おんぶすることはできず、僕は非力な腕を酷使してお姫様抱っこでここまで来たのだ。

「ご苦労さま、レコ」

「いえ、なんてことありませんよ」

 僕は震える腕を隠しながら見栄を張った。

 アリエナさんはプロキオンの隣に座り込む。僕もその隣に座った。ズボンが雪に濡れたが、アリエナさんを運んできた疲労に勝てない。

 空気は冷え、座り込む三人の口から規則的に漂う白い吐息だけが動いている。辺りは静かだ。風もなく、何の音もしない。夜空を見上げれば透き通った空気の向こうに満天の星が見える。

「プロキオン、本当によかったの?」

「何の話さね?」

「シリウスのこと」

「……うまくやってくれればそれでいいさ。うまくいかなけりゃ、あんたらに頼んだ甲斐がないよ」

「…………」

 アリエナさんはチラリとプロキオンに目をやっただけで、何も言わなかった。


 三人で何も語ることなく朝を迎えた。僕は不覚にも何度か、うっつらうっつらしてしまったが、アリエナさんとプロキオンはずっと起きていたようだ。金色の朝日が僕たちを柔らかく照らし出す。今日も暖かくなりそうだ。きっともう直ぐ春が来るのだろう。

「あれはっ……」

 プロキオンがぴょんと立ち上がり、小さく悲鳴のような声をあげた。視線を追えば、屋敷の角から不格好な雪だるまが現れるところだった。朝日を浴びて金色に染まった雪だるまだ。

 シリウスの体はかなり形が崩れていた。ほうきでできていた手は両手ともなくなり、丸々としていた体はかなり細くなっている。かぶっていたバケツもなくなっているし、右目も失っている。彼はフラフラと揺れながらゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。

「シリウス! あんた、一体何やってるんだい⁉」

「何って……君に会いに来たのさ」

 シリウスは小屋の前まで歩いて来ると、そこで力尽きたかのようにガクリと膝をついた。近くで見ると彼の体は、かなりの水分を含んでいるようで、今もあちこちから雫が落ちている。

「なんだって私に会いに来る必要があるんさね! ストーブのことはどうしたんだい!」

「もちろん……彼女としゃべったよ。ぼくの想像通り……素敵な人だった。優しくて、きれいで、楽しいおしゃべりができる人だった。彼女はベテルっていう名前だったよ」

 シリウスは息苦しそうだ。

「彼女もしゃべる相手が欲しかったみたいなんだ。ついつい時間を忘れちゃった。それに、ぼくが『君のことを好きかもしれない』って言ったら、『私もそうなれるかも』って言ってくれたよ。嬉しかった。こうしてベテルと話ができたのも全部、君のおかげさ。君がアリエナやレコを連れて来てくれなかったら、ぼくはこんなこと絶対にできなかった。素晴らしい時間だった」

 彼の声は満足気だった。

「やっぱり、君の言った通りだった。ベテルの隣はぼくにとって、暖かすぎたみたいだ。あちこち溶けちゃった。雪は溶けるとなくなっちゃうんだね……ベテルの部屋で初めて知ったよ。僕は暖かくなると溶けて消えちゃうんだ。……たぶん、もうすぐ消えちゃうんだね」

「だから言っただろうに……」

「でもぼくは後悔してないよ。さっきも言ったけど、素晴らしい時間だったからね」

「……胸の痛みはどうなったね」

「彼女に会うとやわらいだよ。原因はわからないけど、もうそんなことは別にいいよ」

「……楽しかったかい?」

「うん。とても」

「なら、ずっとストーブの……ベテルのそばにいればよかったじゃないか。もう溶けると自分でもわかってるなら、最後までベテルとしゃべってた方がいいだろう」

「そんなわけにはいかないよ。君にお礼も言えてないんだ。ちゃんとお礼を言わなきゃいけないだろう? それに、アリエナの言ったことをよく考えてみたんだ」

「……何をさね?」

「好きってこと。アリエナは相手のことを大切に思うこと、一緒にいたいって思うことだって言ったよ。その人に会いたい、話したい、近くにいたい、その人のこと考えることだって」

「だからなんだい? それがどうしたのさ」

「ぼくは、プロキオン、君にも会いたかったし、君と話したいし、君の近くにいたいし、君のことを考えるんだ。君のことを大切に思ってる。だから、ぼくは君のことも好きなんだよ」

「……なにをバカな」

「バカなことなんてないさ。ありがとう、プロキオン。ぼくとしゃべってくれて、名前をくれて、助けてくれて、ありがとう。プロキオンのこと、好きだ」

 プロキオンは泣きそうな顔で、シリウスの告白を聞いている。

「お礼と一緒に、思いも伝えるべきだと思ったよ。君はどう? ぼくのこと好き?」

「ああ、好きさね。……大好きさ。本当に大好きだよ」

「そうか。うれしいよ。とっても。とても幸せだ」

 表情を作れないはずのシリウスが、僕にはほほ笑んでいるように見えた。

 ジャグ、という音をたて、シリウスの一部が崩れ落ちた。

「おっとっと……もう危ないね」

「……さみしくなるよ、シリウス」

「大丈夫さ。ぼくは溶けても雪はまた降るよ、プロキオン。君が教えてくれたんじゃないか。今、ぼくは溶けるけど、また雪が降ったら体ができる。その時までちょっとのお別れさ。ちょうど、君がアリエナたちを連れに行った感じじゃないかな?」

「……そうさね。きっとそう」

「今度はベテルと三人でおしゃべりしよう。きっと楽しいよ。ぼくも好きな人に囲まれて今より、もっと楽しいと思う」

 ジャグジャグと音が鳴り、シリウスの体が崩れ始める。鼻が転がり落ちて、残っていた右目が落ちた。

「また会おうね、プロキオン」

 その言葉を最後に、木の枝が外れた。彼の顔には何もなくなった。しかし、シリウスはとても満足しているようだった。そう見えた。

「ああ。約束さね」

 次の瞬間、ひときわ大きい音がして、ずいぶん小さくなってしまったシリウスの頭が落ちた。それっきり、雪だるまは何も言わなくなった。

「……ああ、そういうことかい」

 プロキオンは残ったシリウスの体を見て、小さく呟いた。

 溶けかけたシリウスの体から、黒ずんだ棒が突き出ている。手頃な太さで、見える端は平たい造りになっている。

「……火かき棒、ですね。ストーブの……火を調節するための」

 おそらく、シリウスが作られた時に、支えとして埋め込まれていたのだろう。頭と体が離れてしまわないように。だから、シリウスはあんなにもストーブに恋い焦がれたのだ。生まれた時から、ストーブの一部を体に持っていたのだから。

「そりゃ、雪だるまのくせにストーブが気になるはずだねぇ。運命みたいなもんさね。止める方が無理だったかね」

 プロキオンは少しだけ俯いた。

「ねぇ……あいつは本当に幸せだった思うかい?」

「彼はそう言ってたわ。その言葉を……つっ」

 アリエナさんが呻き、彼女の下半身がぶれたかと思うと、二本の足が現れた。その途端に彼女は言葉を失う。アリエナさんは慌てることなく、いつものように黒板を取り出した。

『彼は幸せだと言った。その言葉を信じられない理由はないでしょう?』

 《失恋狩り》は優しくほほ笑んだ。小さな黒板を見つめるプロキオンの頬が少しずつ緩んでいく。

「そうさね。あいつは幸せ者だった。自分でそう思えたんだから間違いないよ。……しかし、あいつは二股かけてる自覚はあったのかねぇ。二人に告白してどうするつもりだったのかね」

 プロキオンはやれやれ、というように首をふった。

『来年の楽しみができたんじゃない? その辺りのこともじっくり教えてあげればいい』

「それは楽しみだよ」

 プロキオンは新しい雪を待ちわびるように空を見上げ、鋭く響き渡る声をあげた。



 僕とアリエナさんは感謝の言葉を述べるプロキオンに見送られ、お屋敷を後にした。日は高く昇り、道に残る雪は少なくなっている。僕は隣を歩く、裸足の少女に話しかけた。

「プロキオンは……シリウスが好きだったんですかね」

『それは気づかないふりをするのが紳士』

 アリエナさんはさっとチョークを走らせる。

『恋は往々にして、自分の望みよりも思い人を優先させてしまうもの』

『それがどういう結果を招くかはわからない。でも、恋ってそういうものでしょう』

「今回はどうでした?」

『その判断は彼らのもの。でも、私見なら悪くない。最高にハッピーではないけど、悪くない』

「僕も……そう思います。アリエナさん、お疲れさまでした」

『レコも』

 アリエナさんはにっこり笑った。彼女は歩くたびに足が痛むはずなのに、僕を気遣う余裕まであるのだ。何か、僕にできることはないのだろうか。

 僕は背負っていた荷物を前にして、アリエナさんの前にしゃがみ込んだ。

「背中をどうぞ。あなたは一睡もしてないでしょう。僕は不覚にも寝てしまいましたし」

 背後にいるアリエナさんの表情はうかがえない。彼女は何も言えないし、どんな様子なのかわからない。もしかすると僕はとんでもなく余計なことをしているのかもしれない。あまりに何も起こらないので、恥ずかしさをこらえてそろそろ立ち上がろうか、と思った時、背中に重みと暖かさが伝わって来た。

「よいしょっと」

 僕はさっと……とはいかなかったが、それなりにスムーズに立ち上がって、ゆっくり歩き出した。アリエナさんは身を乗り出してくると、さっと――本当に避けるヒマがなかった――僕の頬にキスした。

 今のアリエナさんは言葉を持たず、腕も僕の首に回しているのでチョークも使えない。個人的にはかなり照れるが、キスに深い意味はなく、彼女なりの感謝の印だったのだろう。

 もちろん、彼女の本心はわからない。

 でも、キスの理由を感謝だと信じない理由はない。

 しばらくすると規則正しい寝息が聞こえてきた。アリエナさんの吐息が僕の首筋をくすぐる。

 僕は地上で暮らす人魚姫を背負ったまま、彼女の温もりを背中に感じながら、のんびりと《狩人屋(オリオン)》へと向かった。


 

 雪だるま――人魚姫


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