1.《狼狩り》
童話モチーフのファンタジーです。連作ですが、基本的に一話完結型です。
話の最後に元ネタの童話名が載っています。
ある森のちかくに、ヤギの親子がすんでいました。七匹の兄弟姉妹とおかあさんヤギです。
ある日、おかあさんはひとりで森に食べ物を探しに行くことにしました。
家のなかで、かくれんぼをして遊んでいた子どもたちにむかって、おかあさんヤギはいいました。
「おかあさんはこれから森へ行ってくるけれど、オオカミに気をつけるのよ。オオカミはがらがらの声で、まっくろな手をしているから、ここの小窓から確認してね。それを見たらぜったいにカギを開けてはだめよ」
「はーい。わかったよ、おかあさん」
七匹の子ヤギたちは元気よくへんじをしました。それをきいて安心したおかあさんヤギはすぐにかえってくるからね、といって森へとでかけて行きました。
子ヤギたちはかくれんぼをつづけます。
しばらくすると、だれかがドアをドンドンとたたきました。
「だれ? おかあさん?」
子ヤギたちは問いかけます。
「そう。おかあさんよ」
と、とてもガラガラ声のへんじがきこえてきます。
「おかあさんはもっときれいな声をしているよ。おまえはオオカミだろう!」
一番ちいさな子ヤギはすぐにその声の主がオオカミだとみやぶりました。
オオカミはおかあさんヤギが森へでかけたのを見ていて、そのうちに子ヤギたちをおそってしまおうとかんがえていたのでした。しかし、あっさりと正体がばれてしまいました。
けれど、オオカミはあきらめません。声をきれいにするためにチョークをかじって、またも子ヤギたちの家へとむかいます。
「子どもたち。おかあさんだよ。ドアを開けておくれ」
オオカミはチョークを食べたきれいな声でそういいました。
「あ! この声はおかあさんだ!」
子ヤギたちはすぐにドアへかけよりました。しかし、そこでおかあさんヤギの注意を思いだしたひとりの子ヤギがいいます。
「おかあさんなら、手を見せて!」
そういわれたオオカミはしぶしぶと、窓から手をだしました。
もちろん、その手はまっくろです。
「おかあさんの手はもっと白いよ! おまえはオオカミだろう!」
一番ちいさな子ヤギは真っ先にそういいました。他の子ヤギたちもそうだ、と言いました。
オオカミはしかたなく、家からはなれました。けれど、それでもオオカミはまだあきらめませんでした。
小麦小屋へしのびこんで、まっ白な小麦粉をたっぷりとじぶんの手にまぶします。
そしてまた子ヤギたちの家をめざします。
ドアがノックされました。
「だれ?」
「子どもたち。おかあさんだよ」
「おかあさんの声だよ!」
「まだだめよ! 手を見せて!」
オオカミはたっぷりと小麦粉のついたまっ白な手を見せました。
「あ! おかあさんだ! おかえりなさい!」
子ヤギたちはよろこんでドアのカギを開けました。
そのとき。
オオカミはドアをらんぼうに開けると、こういいました。
「おまえたちを食べてやる!」
子ヤギたちはひめいをあげて、へやの中をにげまわり、オオカミから身をかくします。
けれど、オオカミはかくれてしまった子ヤギたちをかんたんに、ひとり、またひとりと見つけては、つかまえていきます。
オオカミは子ヤギたちをつかまえると、そのままかえって行きました。
オオカミにあらされたへやの中から、すすり泣く声がきこえました。
一番ちいさな子ヤギです。かれは体がちいさかったので、うまくかくれたかれをオオカミはみつけることができませんでした。
「みんなつれていかれちゃった……」
子ヤギはあらされた家にひとりで、とりのこされてしまいました。
がやがやと、賑やか喧騒が辺りを包んでいる。
簡素だが、清潔に保たれたテーブルの周りやパチパチと音をたてる暖炉を囲むように、数十名の人物達が談笑している声が聞こえてくる。僕はカウンター席の一番隅に陣取り、目玉焼きをつつきながらその声を聞くともなしに聞いていた。
ここは《狩人屋》。
ありとあらゆる問題を解決する何でも屋で、そのためのエキスパート達が集まっている。
僕の名前はレコーダー。記録係である。
僕がここに来て丸三日。すなわち、行き倒れていたところを助けてもらってから丸三日ということだ。僕は拾われたのだ。
発見者によれば、僕は森の中で意識を失っていたらしい。目が覚めたとき、すでにこの場所に運びこまれていて、あろうことかほぼ全て記憶を失っていた。生活に必要な知識は残っていたものの、自分に関する記憶――どこから来てどこに行こうとしていたのかも、これまで何をやっていたのかも、家族の顔はもちろん、自分の年齢も名前すら憶えていなかった。唯一憶えてたことは妖しい光を放つトンネルのような場所のことだけ。それがどこなのか、どういう意味を持つのかはさっぱりわからない……と言うか、意味が思い出せないだけなのだろうか?
もちろん、レコーダーという名前も仮のものだ。名前がないと不便だが、あんまりにも凝った名前だと後々困ることがあるかもしれないので、記号的な名前になっている。
それはそうとして、行く当てもない僕はここで働くことになったのだった。ちょうど記録係が足りなかったらしい。
働くことに関して僕としても異論はない。助けてもらったのだし、記憶を失っている今、一人でできることなど限りがある。そもそも、何が目的で森をうろついていたのかわからない。ならば、記憶が戻るまでの間でも、助けてもらった恩は返しておくべきだろう。時間はある。
記憶を失ったからといって、じっとしているよりは動いている方がいい。きっとその方が記憶の戻りも早いだろう。
「ぼーっとしているようですね。まだ、本調子ではありませんか?」
「あ、いえ……そういうわけでは」
カウンターの奥からしなびた――言い方は悪いがそうとしか表現できない――おじいさんが
声をかけてきた。オキナと呼ばれている紳士である。彼はこの《狩人屋》の食事の準備
を一身で担当している。この三日、僕の面倒をみていてくれた人で随分とお世話になったものだ。というか、現在進行形でお世話になっている。
「初仕事なもので、少し緊張を……」
「初仕事と言えど、依頼がなければ動けません。ですから、今日から働くとはかぎりませんよ」
「それは、そうですが……」
快活そうに笑うオキナさんだが、僕はそう大きく構えていられない。
記録係とはエキスパート達――《狩り》と呼ばれる人々――が問題解決のために現場に出動したとき、一緒に付いて行きその活動内容を克明に記録する人のことだ。場合によっては助手のような立ち位置になることもある。
簡単に言ってしまえば、仕事内容はそれだけだ。
しかし、依頼内容によっては危険な場所に赴いたり、戦闘に巻き込まれる場合があるという。
僕は小柄だし、ヒョロヒョロだ。たぶん、年齢は――記憶喪失なので確かな事は言えないが、十四、五歳ぐらいだと思う。下手するともう少し若いかもしれない。
僕が緊張してしまう理由もわかっていただけるかと思う。自分に秘めたる荒事の才能があるとは到底思えない。
「ま、緊張するのはわからないでもありませんが、しっかり食べておくことですよ、レコーダー君。空腹だと、いざというとき力が出ませんからね」
「そうですね……わかりました」
僕はオキナさんに言われるままに、目玉焼きをパクついた。
食事を終え、歴代の記録係の手記を見本として眺めながら、予習に励んでいると、入口のスイングドアが派手な音をたてた。思わずそちらを見てみると、小さな白い生き物が駆け込んでくるところだった。
ヤギの少年だ。
「た、たす、たすけて! 助けてください! おねがい、しま……」
涙でグシャグシャになった顔で泣き叫びながら受付にもたれかかっている。
ふむ。どうにもああいうのを見ると、違和感が拭えない……一体何が気にかかるのだろう? まさか、ヤギが歩いたり喋ったりするのがめずらしいのか? ここではほとんどの動物が同じような行動をすることが当然なのに?
ただ、もちろん普通の動物だっている。
ん? ……普通? 何が普通なんだ? 喋らない事とかか?
……頭がこんがらがりそうだったので考えることはやめた。つくづく記憶喪失とは厄介な代物だと思う。
もしかすると僕はここ――メーアヒェン国の出身ではなく、どこか遠い異国からの旅人なのかもしれない。
ヤギの少年はさめざめと涙をこぼしながら、受付のお姉さんを困らせている。慌てているせいで話が要領を得ないらしい。
「どうやら……君にも仕事がめぐって来たようですね。このままいけば、記録係として出動することになるでしょう」
オキナさんがグラスを拭く手を止めて、受付を見る。
「では、僕も受付に行った方がいいですか?」
「そうですね。《何狩り》に頼む事になるかはわかりませんが、依頼者を《狩り》に引き合わせるのも記録係の仕事ですからね」
僕は読んでいた資料を素早く片付け、自分の鞄をチェックした。羽ペン、インク壺、紙の束と少々の雑貨品。準備万端だ。鞄を肩に引っ掛けて、オキナさんに挨拶する。
「いってきます」
「いってらっしゃい、気をつけて」
オキナさんの笑顔に見送られ、僕は受付へ向けて歩き出した。
どうやら、ヤギの少年はなんとか落ち着きを取り戻したらしく、たどたどしいながらも受付のお姉さんに状況を説明しているようだった。近づくにつれて彼の声が聞こえてくる。
「……それで兄さんや姉さんは、みんな連れて行かれてしまったんだ……」
「成程、わかったわ」
「メリアさん」
子ヤギの言葉にフムフムと頷くお姉さんに声をかけた。
「あ、レコーダー君。いいところに来たわね。ちょうど依頼を聞き終えたところよ。すぐに出発してちょうだい。依頼は『オオカミ』よ。暖炉の方にいたと思うわ。声をかけて現場へ急行。
依頼は一応まとめておいたけれど、道中にでもしっかりと聞いておくように彼女に伝えてもらえるかしら?」
「わかりました」
メリアさんから依頼書を受け取りながら僕は言った。
「では、こちらにどうぞ」
依頼主である子ヤギ君を促して、僕は暖炉の方へと足を向けた。暖炉前でたむろしている集団の手前で立ち止まり、声をかける。
「依頼『狼』です。どなたかいらっしゃいますか?」
集まっていた人々の視線が僕を一瞥した後、そろってある人物を捉えた。
巨大な体を横たえた真っ白なオオカミの腹に背を預けて座り込んでいる、少女。俯いていたその少女はゆっくりと顔を上げて僕を見ると、ニヤリと笑った。
十二歳ぐらいだろう。小柄で華奢な体格をしている。しかし、見た目とは裏腹に好戦的な光を宿した左目。右目は無残な傷跡が三本走り、固く閉じられたままだ。
傷跡があるとしても十分に可憐な少女。
彼女は気だるげに右手を上げた。
「よーう。《狼狩り》をご所望かい? だったら、俺様だな」
何の変哲もない茶色いブーツに、チェック柄の短いスカートと無地の黒いシャツ。それから……、
真っ赤な頭巾をかぶった可憐な少女は似合わないガサツな言葉使いで言う。
「俺様が《狼狩り》。……赤ずきんだ」
「記録係のレコーダー? まんまじゃねぇか。レコでいいだろ? で、ヤギ少年、お前は?」
「……アルカイドです」
僕とヤギ少年――アルカイドというらしい――赤ずきんと彼女の相棒である巨大なオオカミ
は揃って《狩人屋》を出た。建物を囲む森を抜けて、小高い丘を登る。
僕が自己紹介すると、彼女は「ああ、例の謎の記憶喪失野郎か」と言って、僕のレコーダーという名を勝手に省略した。
「ん」
「え?」
彼女はいきなり僕の方へ手を突き出す。
「メリアから依頼書、貰ってんだろ。よこせ」
僕はあたふたと鞄から依頼書を取り出して、いささかみっともなく手渡した。彼女は僕から依頼書をひったくるようにして奪い取ると、すぐさま紙束に目を落とした。隣を歩くオオカミが、慌てた僕を見て鼻で笑ったような気がした。
「あの、えーと……赤ずきんちゃん?」
「俺様のことは赤ずきんさんと呼べ。何なら、赤ずきん様と呼んでもいいぞ」
彼女は、いや、赤ずきんさんは乱雑に依頼書をめくりながらそう言った。
「君は……あなたは……《狼狩り》なんですよね? じゃあ、なんで……」
僕は近くを歩くオオカミを見ながら言う。この純白のオオカミは本当に大きく、普通に立っているだけで、僕の胸のあたりまで体高がある。
「オオカミを相棒にしてるのか、か? こいつは特別だからだ。優秀な俺様の相棒、名前はフェンリル。失礼の無いようにしろよ、下手こくと手首噛み千切られるぞ」
彼女の言葉を証明するようにオオカミがこちらを向いて、牙をむき出しにした。
……恐ろしい。
「ちっ! よくわかんねぇな……おい、アルカイド、もう一回口で説明してくれ」
赤ずきんさんはせっかくの依頼書をグシャグシャに丸めると、ポイッと捨てた。僕はそれを拾いつつ彼女の後を追った。
「あの……はい。わかりました」
たどたどしい口調でアルカイド君は説明を開始した。
彼の説明を要約するとこうなる。
母親が出て行っている間にオオカミが家にやって来て、母親のふりをして子ヤギたちを食べようとした。何回かは正体を見破ったものの、巧妙なオオカミに騙されドアを開けてしまったという。それから逃げまどい、必死で隠れたものの、アルカイド君以外の兄弟姉妹達はみんなオオカミに連れて行かれてしまったらしい。一人取り残された彼は母親の帰りを待つことなく、
大慌てで近くにあった《狩人屋》に駆け込んだのだ。
「大変だったね……」
僕は記録係として彼の話を書きつけながら、震える彼を慰めた。これぐらいしか僕に出来ることはない。
「ふーん……大体わかったぜ。要はオオカミを見つけ出して、とっちめればいいわけだ。わかりやすい。実に俺様好みだ」
赤ずきんさんは舌舐めずりしながらニタリと笑った。
「たーだな、ヤギ少年よぉ……俺様は常に全力を尽くすが、全てが丸く収まるとは限らねぇ。最悪の場合もありうる。それだけは肝に銘じてろ」
真剣な表情になって、冷徹な瞳をアルカイド君に向ける赤ずきんさん。
「ちょっと、何てことを言うんです! 彼はいっぱいいっぱいなのに、追いこむことないでしょう!」
僕は赤ずきんさんに顔を近づけて言った。
「黙れ。世の中は常に厳しいんだ」
僕には一瞥のくれることなく、前を向いたまま彼女は吐き捨てた。
「……わかりました」
アルカイド君は暗い表情だったが、しっかりと頷いた。
「なァに、とは言っても、最悪の事態はそうそう起きやしねぇわ……なんせ、俺様は優秀な《狼狩り》だからな」
心配させたいのか安心させたいのか、赤ずきんさんはそう言ってクハハハと豪快に笑った。
アルカイド君の案内で彼の家に到着した。赤ずきんさんは無造作にドアを開けるとためらいなく中に踏みこんだ。散らかった部屋だ。いや、オオカミによって散らかされた部屋だ。テーブルとベッドがひっくり返り、棚は引き倒されて、暖炉から灰が掻きだされ、台所の床に鍋と洗い物用のタライが転がっている。
母親はまだ帰っていないようだった。これを見たら卒倒するかもしれない。
「フェンリル、外を見てくれ。臭いを嗅ぎつけてくれると助かる」
赤ずきんさんは相棒の耳を掻いて外へと送り出し、自分は部屋の中をうろつき始める。ベッドや机の下を覗きこみ、床に顔をくっつけるようにして辺りを見まわす。かと思えば窓際に並んだ花瓶や重そうなタンスをしげしげと眺め、台所の収納庫を開け、中を覗きこんでまた元のようにしっかり閉める。
「あの、こんな悠長なことやってていいんですか?」
僕は赤ずきんさんの行動を逐一メモする。
「闇雲に探し回っていいことなんてあるかよ。着実が一番の近道だ。フェンリルが臭いを辿れればそれが一番いいが、俺様はそれがダメだった場合のヒントを探してるんだ。素人は引っ込んでろ。黙って記録だけ書き留めとけ」
彼女はプロなのだろうけれど、こちらとしては気が急いてしまう。いかんぞ、彼女を信用せねば。赤ずきんさんの態度がどれ程大きくても、僕は彼女のアシスタントなのだ。
「お前は、この時計の中に隠れてたんだっけ?」
台所から戻ってきた彼女は唐突にそう問いかけた。赤ずきんさんの前には、大きな振り子時計が鎮座している。上部に文字盤があり、下部を占めるのはガラス張りの扉に収められた真鍮製らしき長い振り子。
「は、はい。目を閉じていたので、何が起こっているのかは見えませんでした」
ふーん、と言いながら赤ずきんさんはガラス張りの時計を開けて、振り子に気をつけながら頭を突っ込んだ。
その時、外からオオカミの吠え声が聞こえてきた。時計から頭を抜いた彼女は窓の外に目をやって嬉しそうに呟いた。
「見つけたらしいな」
赤ずきんさんに促がされ、家を出るとすでに玄関前でフェンリルが待ち構えていた。その巨大なオオカミに赤ずきんさんはヒラリと跨った。
「よし、ここからは急ぐ。乗れ、記録係」
乗れって? 何に?
「ま、まさか、彼に? フェンリルに乗れって言うんですか?」
「彼女、だ。フェンリルは女だ。ごちゃごちゃ言ってねぇでさっさと乗れ。アルカイドはここに残れ、母親の帰りを待ってろ。こっから先はお子様には危険だ」
「お願いです! 僕も連れて行って下さい!」
「……嫌なモン見ちまうかもしんねーぞ。辛い経験になるかもしれねぇ。それでもいいのか?」
はい、と必死な面持ちで頷くアルカイド君を、オオカミの背からじっと見下ろす。
「俺様は忠告した。ここから先は、俺様が安全だと言うまで、何が起こっても俺様の言う通りにしろ。約束できるか?」
「約束します」
「よし、いいだろう。だが、約束を破った場合は俺様とフェンリルが直々にアルカイド――お前を八つ裂きにするからな」
赤ずきんさんは笑いながらそう言って、不意に屈んで彼に手を差し伸べた。
「来い」
グッと彼女の手を握ったアルカイド君を片手で引っぱり上げ、自分の後ろに座らせる。
「で、てめぇは何をぐずぐずしてやがる。さっさと乗れ! 八つ裂きにするぞ」
傷のない左眼で見下ろしてくる彼女の眼力があまりに恐ろしく、僕は慌ててフェンリルの背によじ登り、おっかなびっくりで跨った。
それにしても、赤ずきんさんはなんて怖い少女なのだろう。
「しっかり掴まってろ!」
「ど、どこに――」
「ゴー! フェンリル!」
僕の言葉を無視して出された合図で、フェンリルは物凄いスピードを出しながら疾走した。体が後ろに持って行かれそうになり、僕は必死でフェンリルの背に掴まった。
周りを見る余裕はなかったが、深い森に入ったことは感覚でわかった。木々の陰で暗くなったのは目を閉じていてもわかるし、茂みをかき分けるガサガサという音が聞こえる。
犯人のオオカミを追って森を進んでいるのだろう。吹きつける風を感じながら、僕はうっすらと目を開いた。記録係としてずっと目を閉じたままでいるのは、あまりにも情けない。
ありとあらゆる緑色が飛ぶように後ろに流れて行く。道なき森の中を、密集する木々にぶつかることなく、フェンリルは素晴らしい速さで進んで行った。僕のすぐ前に見える赤い頭巾は揺れに合わせて動く以外は、余計な事は一切していない。きっと心の底から相棒を信頼しているに違いない。
なんてすごいのだろう。……僕にはとても真似できない。
そんな事を思っていると、いきなり視界が開けた。緑一色だった視界が抜けるような青色に変化した。晴れ渡った空が見える。
「え?」
そんな馬鹿な⁉ まさか、崖から跳んだのか⁉
僕の前にいるアルカイド君の体も硬直しているじゃないか! 思わず悲鳴が口をついいた。
「うわぁああああああああああ!」
「やかましい!! 敵は近い! 黙ってろ! あ、あと口閉じろ、舌噛むぞ!」
胃がでんぐり返るような浮遊感の後、すぐさま落下が始まった。
口から胃が飛び出そうだ!
ものの数秒でドシンという音と、拍子抜けする程僅かな振動を感じただけで、僕らは無事に地面に着地していた。
「さて、到着だ。ご苦労、フェンリル」
赤ずきんさんはそう言って、颯爽と地面に降り立った。僕とアルカイド君は足が震えてまともに立ち上がることができず、フラフラとへたりこむ。
「悪行はそこまでだ。駄犬野郎」
彼女は胸を張って指を突き付けた。その先には大きな袋を担いだオオカミがいた。
「おいコラ、ブサイク野郎! その荷物は置いて行きな! ヤギどもはこちらに渡してもらおうか。てめぇがヤギを誘拐したのはわかってるぜ」
「ぬぁに者だ? お嬢さん?」
黒いオオカミはこちらを見て、鋭い牙をむき出しにして笑った。二足歩行で身長はおそらく二メートルに近い。しなやかな筋肉が全身を覆い、手足には湾曲した爪が生えている。
「赤ずきんだよ。困った子ヤギに請われて、てめぇを叩き潰しにきた、ただの女の子さ」
オオカミは担いでいた袋を地面に置くと、爪をパキパキ鳴らしながら楽しげに言った。
「ククク……いいデザートが手に入りそうだ。ヤギもいい収穫だったが、今日はツイてる」
「いいか、アルカイドとレコはそのままじっとしてろ。すぐ終わる」
赤ずきんさんは散歩に行くかのようなのんびりとした足取りで、オオカミに近づいて行った。少女とオオカミは至近距離で睨み合う。僕より小柄な彼女と二メートルもあるオオカミでは体格差は明確だ。とても勝ち目があるようには見えない……というか、赤ずきんさんはどうやってオオカミを止めるつもりなんだ? 武器らしい武器は持っていないし、隠しているようにも見えない。ハラハラする僕を尻目に彼女は実にのんびりと訊いた。
「おい、オオカミよ、てめぇはどうしてそんなにデッカイ目をしてるんだ?」
「お前の動きをしっかりと見るためさ、お嬢さん」
「どうしてそんなに大きな手をしてるんだ?」
「お前をしっかりと掴むためさ」
「どうしてそんなに大きな口をしてるんだ?」
「お前を……丸飲みにするためさ!」
オオカミはガバッと口を開けて、電光石火で彼女の首を狙った。
「赤ずきんさん――!」
喰われてしまう寸前で彼女の体が、霞んだ。小柄な彼女がくるりと回転して大きく開いた足が勢いよく旋回し、オオカミの横っ面を捉えた。
「ぎゃぶ!」
オオカミは吹っ飛び、木の幹に叩きつけられる。
「てめぇは、どうしてそんなに大きな体をしてるんだ?」
彼女は蹲るオオカミを見ながら自分で答えた。
「それは、俺様の攻撃を受けやすいようにだ!」
眼に怒りをたぎらせながら、睨んでくるオオカミをさらに挑発するように彼女は中指を立てて突きつける。
「俺様が《狼狩り》だ! かかって来い、チンピラ野郎!」
かかって来い、と言いながら彼女は自らオオカミに突っ込んでいった。人間離れしたスピードだ。小さな拳と足が嵐のように突き出される。
しかし、オオカミも流石の反射神経だった。連続して繰り出される攻撃を危なげなく避けている。最初の一撃が当たったのは、奴が油断していたからなのかもしれない。
しばらく経ってからオオカミの反撃が始まった。
赤ずきんさんのものより遥かに大きな拳が彼女に襲いかかる。ひょいひょいと避けていた彼女だったが、ついにオオカミの一撃が顔面にヒットした。ぶっ飛ばされて来た赤ずきんさんをフェンリルが腹で受け止める。
「大丈夫ですか!」
僕は慌てて彼女に駆け寄る。赤ずきんさんは口の中を切ったらしく、血の混じった唾を吐きながら言った。
「ペッ! あん? 大丈夫に決まってんだろ。このままでイケるかと思ったが、あいつは結構出来るタイプらしい。……ったく、服がボロボロになるから嫌いなんだけどな」
彼女は口から流れ出る血を拭って立ち上がる。
「俺を狩るとかなんとか、聞こえたが、随分お粗末な腕しか持っていないようだな?」
「好きに言ってろ……今のうちに喋ってればいいさ。すぐに口も利けなくしてやる」
赤ずきんさんは腰を落として身構えた。彼女の体が小刻みに震え始める。
独白が始まった。
「むかーし昔、あるところに小さな女の子がおりました。その子はある日、病気のお祖母さんのお見舞いに行こうと、一人で家を出てお祖母さんのお家に向かいました。道の途中でオオカミと出会い、女の子はそのオオカミにいいように丸めこまれ、お祖母さんのために花を摘んで行きました。オオカミはその隙にお祖母さんの家へ向かい、お祖母さんを一飲みにして、自らお祖母さんに変装し、哀れな女の子を待ち伏せしました。何も知らない女の子はお祖母さんを訪ねて来て、無邪気にこう言います。『お祖母さんの口はどうしてそんなに大きいの?』『それは、お前を食べるためさ!』お祖母さんに化けたオオカミはガバッと身を起して女の子に襲いかかりました。命からがら逃げ出した女の子ですが、右目をオオカミの爪に引き裂かれ、見るも無残な傷跡が残ってしまいました。それからというもの、とある異変が女の子を襲ったのです。女の子は時々、怪物に変身してしまうようになりました。オオカミに襲われ、その後遺症として女の子は人狼と成り果てたのです。……人狼少女は自らを傷つけたオオカミを探して、《狼狩り》になり、今もどこかで因縁のオオカミを探し続けているのでした」
赤ずきんさんの身長が伸び始め、服がブチブチと音をたてる。腕も足も太くなり、灰色の毛に覆われていく。ブーツを突き破った爪は鋭く光り、手の爪は長く伸びた。
顔つきも変わっていく。鼻面が伸びて、フサフサの毛が生えた耳が立つ。顔にも毛が生え始め、歪んだ口の間からはギザギザに並んだ牙が見えた。
僕の隣でアルカイド君が音もなく腰を抜かしたのがわかった。しかし、僕には彼を心配する心の余裕がない。視線を赤ずきんさんから離せない。
「と、まぁ、そういう伝説があるんだがな。レコは新人だからなァ……一応説明しといてやろう。ああ、別に俺様がそうだとは言わないぜ」
すっかり変身を終えた赤ずきんさんがニカッリと笑った。牙が覗いて恐ろしいことこの上ない。
「さてさて、チンピラ野郎……第二ラウンドといこうか」
意外すぎる展開に、流石のオオカミも怯んだようだった。口を開けて赤ずきんさんを凝視している。
「おいおい、ボケッとするな。言っとくが今までの俺様とは比べ物にならんぜ」
それを証明するかのように、彼女は爪の生えた腕をすくい上げるように振るった。
赤ずきんさんの足元から四本の線が真っ直ぐ走る。線に沿って地面が抉れ、オオカミの真横を通り過ぎて背後の木にぶつかったかと思うと、次の瞬間木が縦に斬られた。
「あれ? 久しぶりだったから、外しちまった」
四つに斬られた木が倒れる音に紛れて彼女が言った。
オオカミの姿は見物だった。尻尾は力なく垂れ下がり、足は震え、眼は泳いでいる。
「どーしたァ……来ないならこっちから行かせてもらうぜ!」
赤ずきんさんが足に力を込めた瞬間、オオカミは踵を返して、脱兎のごとく逃げ出した。
「無駄!」
赤ずきんさんの足元がクレーター状に陥没し、衝撃波が僕を襲った。一瞬で彼女の姿はかき消え、瞬きする間もなく、逃げ出したオオカミの上に出現する。彼女は握った拳を相手の脳天に叩きこんだ。地面にメリ込むオオカミの頭部。
どすん、と着地して赤ずきんさんは無造作にオオカミの頭を掴んで、ぐいっと持ち上げた。
「ケッ! もう気絶してやがる……。他愛ねぇなァ……まぁ、俺様が強すぎるから仕方ねぇけど……おい、レコ! こっち来い!」
赤ずきんさんが手招きするので、僕は震える足が気付かれませんようにと祈りながら彼女に近づいた。半分オオカミと化した赤ずきんさんは僕よりも大きい。とんでもない威圧感を感じる。
「やれやれ、そうビビんなよ、なっさけねぇ。あれだ、ジャケット貸してくれ」
「え?」
「上着を貸せって言ってんだよ。あの袋から子ヤギを助け出すんだが、目が覚めた時、目の前にこの顔があったら大変な事になんだろ。元に戻りたいんだが、なんせ服がな」
彼女は体に張り付いた衣服の残骸をごつい手で摘まんだ。
確かに、赤ずきんさんの服はボロボロで、唯一無事に残っているのはトレードマークの赤い頭巾だけだ。
僕は慌てて上着を脱いで彼女に手渡した。
「お、サンキューな」
手持無沙汰になってその場に佇んでいると、ジロリと睨まれてしまった。
「こっち見んな。向こう向くか、どっかに行け」
「え?」
「バカ! 元に戻るって言ってんだよ! ガン見か、コラ! 何だ、てめぇ! 少女の裸体の興味津津か、変態め! あっち向いてろ!」
う! そうだった! 今の状態では僕の服すら着られない。ちゃんと戻ってから着る必要があるんだ。その過程で、どうしても裸をさらしてしまうだろう。
僕はサッと後ろを向く。というか、赤ずきんさんに少女らしい恥じらいがあったとは……。意外だ。……いや、これって失礼な考え方かも。
いたたまれない思いで立ち竦んでいると、後ろから声をかけられた。
「もういいぞ。ついて来い、子ヤギ達を助け出す」
ブカブカな僕の上着を羽織った彼女は地面に転がった袋に近づいて行く。僕はその後を追った。
袋の口を固く縛っていたロープは、フェンリルの一噛みであっけなく解けた。赤ずきんさんは袋に手を突っ込んで、ひょいひょいと次々に子ヤギ達を引っ張り出していく。
「一人、二人、三、四、五……六人、っと、全員無事みたいだな。よかったよかった」
おざなりにも聞こえるような口調で、彼女はそう言った。
「アルカイド! こっち来い! 兄弟はみんな無事だぞ!」
僅かな間の後、アルカイド君は猛烈な勢いでこちらに走って来ると、寝かされた兄弟たちに飛びついた。
「兄さん! みんな、無事だったんだね、よかった! 本当によかったよ!」
歓喜の涙を流す彼を見て、僕も思わず涙を流しそうになった。
「よかったですね」
僕はペンを走らせながら、赤ずきんさんに言った。彼女は気絶したままのオオカミを、拾ってきた蔦でグルグル巻きにして、その上にドスンと腰を降ろした。浮かない顔をしている。
「どうかしました?」
僕は書きつけながら、この記録は後で清書しなければならないな、と思っていた。外で慌てて書いているため、あちこちインクが滲んでいるし、文字もガタガタだ。
「……いや……どうだろうな」
「何が…って! その座り方はやめて下さい! 今の自分の格好を自覚して下さい!」
彼女は今、膝を立てて足が全開になっているのだ。僕の上着しか着ていない状況でそんな格好をするなんて……。
不審げな顔で自分の姿を見下ろして、うおっ、と叫んで膝を閉じる赤ずきんさん。
「さっさと言えよ、馬鹿!」
「僕に言われても困ります!」
「ああ、クソ! 帰るぞ! ヤギどもを起こせ!」
恥ずかしかったのか(でも、僕は天地神明に誓って何も見ていない)微かに頬を赤くしながら、赤ずきんさんは普段の二割増しでぶっきらぼうに言った。
……もしかすると、彼女は強がっているだけで、普通の女の子なのかもしれない。
僕達は六人の子ヤギ達を順番に起こしていき、現在の状況を説明した。見知らぬ僕らに――特にオオカミ丸出しのフェンリルに――とまどう子もいたが、助けに来た事を伝え、アルカイド君の口添えもあり、僕らはすぐに信用してもらうことができた。
今では子ヤギ達はフェンリルとじゃれ合っている始末だ。
「そこまでだ、ガキども。帰るぞ。……フェンリル、七人運べるか?」
フェンリルは軽く頷いた。彼女との遊びを邪魔された子ヤギ達はぶーぶー文句を言うが、それに取り合うことなく赤ずきんさんは子ヤギ達をオオカミの背に乗せていく。
「森の出口で落ち合おう。行ってくれ!」
フェンリルの耳をカリカリと掻いた後、彼女は肩をポンと叩いて、オオカミを先にと促した。
キャーという子ヤギ達の歓喜の悲鳴を響かせながら、巨大なオオカミは瞬く間に僕の視界から消えた。
「よし、俺様達も行くぞ」
「行くぞって……オオカミはどうするんです?」
「ああ、転がしとけ。《狩人屋》の別動隊がどっかにブチ込んでくれっから。俺様の仕事は捕縛
なんだ。緊急時はやむなく始末することもあるがな」
ケラケラと彼女は笑った。
「それは分かりましたけど……どうやって帰るんです? 歩いて帰るつもりですか?」
「当然だ。……ちょっと、あっち向いてろ」
何だかよく分からないが、言われた通り適当な方向を向いた。しばらく、というには短い時間が経った後、僕は急に襟首を掴まれて、誰かに摘み上げられた。
「うひゃ!」
「情けない悲鳴上げるんじゃねぇよ」
目の前に人狼化した赤ずきんさんの顔があった。呆然とする僕は、そのまま彼女の背中に運ばれて、がっちりと背負われる。
「まさか、僕を運んで行くつもりですか?」
「あ? 当然だろーが」
「疲れるんじゃありませんか? 大丈夫ですか?」
僕は心配したというのに、赤ずきんさんはキョトンとした顔を見せた。人狼状態だけど、よく見ればちゃんと表情がある事に気がついた。
「俺様の心配してんのか?」
「え? そうですけど……」
何がおかしかったのか、赤ずきんさんはクックックッと笑い出した。次第に笑い声は大きくなり、ついには上を向いて哄笑し始める。
「アーハッハッハッハ! 俺様に背負われて一番最初にする心配がそれか? くくく、面白い奴だな、お前。大抵の奴は俺様の姿にビビるもんだがな。ははっ!」
「まぁ、恐ろしげな姿である事は確かですけど、それでも貴女は貴女でしょう? 強きをくじく《狼狩り》じゃないですか」
僕は背負われたままだったので、赤ずきんさんの後頭部に語りかけた。
「……ふん。……しっかり掴まってろよ、飛ばすぞ!」
言うが早いか、彼女はダッと駆け出す。僕は振り落とされないように、しっかりと肩に掴まった。フェンリルにも負けない速さで、赤ずきんさんは森の中を疾走した。僕はただ流れていく緑を眺めていればよかった。
楽チンな分、ちょっとだけ、申し訳ない気分になった。
森を出る直前で赤ずきんさんは立ち止まり、変身を解いた。子ヤギ達を怖がらせないようにという配慮からだろう。ふむ。やはり、彼女はガサツに見えて細かい気配りのできる人なのだ。
ブカブカな上着を着た赤ずきんさんと僕は並んで、森を出た。森の出口では子ヤギ達とフェンリルがまたじゃれ合っていた。一人だけ、アルカイド君だけが疲れた表情で座り込んでいたけれど。まぁ、仕方ないと言えば仕方ないと思う。色々と心配しただろうし、今は安堵でいっぱいだろうから。
赤ずきんさんは駆け寄ってくる子ヤギ達をあしらいながら、ぶっきらぼうに言う。
「急いで帰るぞ、クソガキども。母親が心配してるかもしんねーだろ」
僕達はぞろぞろと連れだって進んだ。僕はカリカリと記録を書き付けながら歩いた。空き時間を使って少しづつ記録は取ってあったが、赤ずきんさんが戦っている時や彼女に運ばれている時は書いていなかったので、それなりに書くことが溜まっている。
僕の隣を歩く赤ずきんさんは浮かない顔で、何かを考え込んでいるようだった。
そんなこんなで、しばらく歩くと子ヤギ達の家が見えてくる。
家の前でオロオロと歩き回っている人影が見えた。その人影を見つけた子ヤギ達は一斉に駈け出した。
「おかーさーん!」
人影は母ヤギのらしい。駆け寄って来る子供達を見つけると、腕を大きく広げて叫んだ。
「ドゥーベ! メクラ! フェクタ! メグレズ! アリオト! ミザール! アルカイド! あなた達、一体どこへ……心配したのよ!」
それは心配するだろう。帰って来たら部屋がぐちゃぐちゃに荒らされていたんだから。抱き合って再開を喜ぶヤギの親子に、近寄って赤ずきんさんは頭を下げる。
「お初にお目にかかります。《狩人屋》の《狼狩り》、赤ずきんといいます」
その辺で堅苦しい敬語が嫌になったらしく、元のざっくばらんな言葉使いに戻り、今までの経緯を流暢に説明する。
「――というわけで、俺様はあんたの子供を助け、ここに戻って来たわけだな」
「それは……ありがとうございました」
母ヤギは丁寧に頭を下げる。赤ずきんさんは鷹揚に頷いた。
「……さぁ、みんなお家を中を片付けましょうか」
母の言葉に素直な返事をして、子ヤギ達は家に入って行く。
「……アルカイド、ちょっと話がある」
赤ずきんさんは一番小さな子ヤギを引きとめる。そのまま、連れだって家から少し離れた場所まで歩いてクルリと振り向いた。
「あの……何でしょうか?」
赤ずきんさんは凍てついた左目で子ヤギを見つめる。
「犯人はお前だな。アルカイド」
「な、何を?」
慌てるアルカイド君。そりゃ当然だ。一体、赤ずきんさんは何を言ってるんだ? 犯人? 何の?
「お前がオオカミを手引きしたんだな……最初に現場を見たときから変だと思ってたんだ。散らかり方がきれいすぎた。隠れた子ヤギを見つけ出すのに、六ヶ所――机、テーブル、暖炉、棚。鍋とタライ。これだけがひっくり返されていた。その他は無事だ。タンスは開けられていなかったし、花瓶も倒れていなかった。どう考えても、家探しされた家じゃない。お前はガラス張りの時計の中から兄弟達がどこに隠れたか、オオカミに指示していたんだろう? それにオオカミが家に入る前、声やら手の色やらを指摘するフリをして、化けるヒントを与えていたんだろう? 兄弟姉妹を亡き者にするために」
「そんな、馬鹿な! ありえませんよ、ねぇ、アルカイド君?」
しかし、アルカイド君は何も言わない。仕方なく僕が問いかけた。
「……それなら、何だって助けてくれと頼みに来たんですか?」
「協力者であるオオカミを俺様が殺してしまえば、こいつの悪辣な企みは絶対に表にでないからだ。ま、オオカミが子ヤギ達をその場で喰わずに持って帰ったり、俺様が止めをささずに捕縛しただけだったりで、計画は狂っただろうがな」
「どうしてそんなことを……」
アルカイド君はずっと黙ったままだ。口を一文字に結んで何も言わない。
「さぁな。ただ単に邪魔だったのか、それとも止むにやまれぬ事情があったのか……何にせよ、こいつのやったことは許されることじゃない」
「……それで、僕をどうするつもりですか?」
やっと口を開いたアルカイド君はそう言った。それはほぼ自白とも言える言葉だった。
「どうもしねぇよ。ただ、約束してもらう。二度とこんな事はしない、ってな」
「……それを約束したとして、僕が守るとでも?」
「俺様はまだ言ってないぞ」
赤ずきんさんは突如、脈絡のない言葉を口にした。僕とアルカイド君はポカンとするだけだ。そして彼女は真剣な表情で続ける。
「約束したはずだな? 俺様が『安全だ』と言うまで、何が起こっても俺様の言う通りにすると。そう約束したな? 約束を破ると俺様とフェンリルで八つ裂きにするというオマケ付きで。……そういうわけだ、アルカイド君。二度としないと誓ってもらおう」
赤ずきんさんはパキパキと指を鳴らしながら、彼に一歩近づいて睨みを利かせる。アルカイド君は青い顔で頷いた。頷くしかないだろう。
「ふむ、大いに結構。『安全だ』。おう、話はこれだけだ。もう帰っていいぜ」
そう言って赤ずきんさんは今までの険しい表情が嘘だったかのように、ニッコリと笑った。
逃げ去るように走って行くアルカイド君の背中に、赤ずきんさんは大声で叫ぶ。
「もし! もしもだ! 本当にお前が困っているのならば! 本当に家族が耐えられないのならば! こんな自分の魂を汚すような事はするな! 真正面から向き合え! それがどうしても怖ろしいのならば! その時は私を頼れ! 今度こそ、お前を助けよう! その時こそ、お前の依頼を完遂しよう! 《狼狩り》赤ずきんの名において!」
アルカイド君の動きが一瞬だけ止まったように見えた。もしかすると僕の錯覚だったのかもしれない。しかし、それが確かであったと信じたい。
彼女の言葉が彼に届いたと、彼の救いになる可能性があると、信じたい。
「しかし……あの幸せそうな家庭に彼の居場所は……本当にないんですか?」
「……あると思うぞ。あの家は暖かかったからな。あんなマネしたのは、あいつにとって、何か腹に据えかねることがあったのか……何にせよ、若気の至りだったんだろうぜ。安心しろよ、あいつは大丈夫さ。兄弟を解放した時の嬉しさは演技じゃなかったぜ」
赤ずきんさんがそう言うのなら、きっとそうだったのだろう。僕もそれを信じよう。
「レコ、今の話は記録すんなよ。ただの雑談だからな。蛇足だ。余計な一言だ。言わなくたって困らない事柄だった。全く後味の悪い事件だぜ。それでも、私はあれを言うべきだと思った。だから言った。それだけだ。ったく……世の中ってのは理不尽で厳しいな。何が起こるかわからないよ。いたいけな顔の裏にトンデモナイ悪巧みが隠れてたり……それの理由はもしかすると、悪逆な扱いの所為かも知れないし……私の……」
そこで言葉を切り、微笑む赤ずきんさんの横顔は赤い頭巾に隠れていたけれど、どこか悲しそうだった。
『私の、なんですか?』とは聞けなかった。彼女が人狼になった事だって理不尽な出来事だっただろう。それでも、彼女は立派にやっている。
赤ずきんさんは強い。僕が口出しする事でなないのだ。だから、僕は代わりに言った。
「わかりました。……余計な事を記録したら、僕が怒られますからね」
フェンリルが赤ずきんさんにすり寄って、顔をペロペロと舐めた。相棒の頭を撫でながら彼女はいつもの口調に戻って言った。
「さて、俺様達も帰るとするか」
こちらを向いた赤ずきんさんの笑顔は、いつものように豪快で眩しかった。
「腹減ったなァ……」
フェンリルの背に揺られ、赤ずきんさんはそうぼやいた。
「帰ったら、オキナさんがおいしいものを作ってくれますよ」
「つーかよ、レコ。初仕事だったけ?」
「あ、はい」
「ふーん……一切役には立ってねぇけど、悪くない働きだったぜ。相棒的役割とはいえ、記録係は最低限邪魔しなけりゃ、それで完璧だからな」
「それは……褒められてるんでしょうか? 貶されてるんでしょうか?」
「褒めてんだよ。感謝しろよ? 俺様が人を褒めるのは珍しいんだぜ。レアだレア」
レアと言えば、ステーキだなァ……と赤ずきんさんは涎を拭いた。
「赤ずきんは貴方の事、信用したみたいよ。ホント珍しいこと」
「おい! 余計な事くっちゃベってんじゃねぇや!」
ペシッと相棒の頭を叩く赤ずきんさん。
僕が褒められたような気がするのだが、驚きのあまりよく聞こえなかった。
「フェンリル、さん、喋れたんですね……」
オオカミは牙をむき出しにして微笑み、いたずらっぽくウィンクしてくる。
なんだか、ドッと疲れが出てきた……。
「あ、そうそう、一つ言い忘れてたぜ。大切な事だ。おい、レコ」
「何ですか?」
赤ずきんさんは《狩人屋》が見えてきた辺りで唐突に言った。
「記録は後でしっかり清書しろよ」
「わかってます」
「そんでな、ここからが本題だが、清書するときな……」
赤ずきんさんはフェンリルから身を乗りだして声を潜めた。僕も緊張しながら耳を傾ける。
あのな……と赤ずきんさんは続けた。
「清書するとき、俺様のこと……カッコよくかつ、可愛く書いとけよ。後で読んだとき、この子、カッコいいし、カワイイって思われるようにな。重要なのは可愛くってとこだ」
何だ、それ……。
彼女の『大切な事』を聞いて、僕は脱力すると共にこう思った。
やっぱり、赤ずきんさんは普通の女の子なのだ、と。
一仕事終えた僕達を《狩人屋》の賑やかな喧騒が出迎えてくれた。
狼と七匹の子ヤギ――赤ずきん