日常の風景2:何この可愛い生き物
バスの座席ってものは、まぁ狭いよね。
名だたる観光地とはいえ単なるシャトルバス。並んで座ればさぁ、まぁ密着せざる得ないよね……無理矢理に身体を窓際に寄せでもしなきゃ。
横に座る女の子は不自然なまでに窓際に身体を寄せている。
そうですね。隣の女性からは意地でも接触したくないという強い意志を感じます。
えーっと、横の座席にお座りされているのはボクの恋人という立場に座していらっしゃる『美織さん』です。現在は目一杯に不機嫌でして、こちらの喋るセリフの全てに反論し、こちらの取る全ての行動にいちゃもんを付けてきます。
この『不機嫌の化身』と別れて反対側に座る知らない女の子達とイチャイチャすることを夢想して溜飲を下げるしかないという心境。
あっ、機嫌取らなきゃ。
「悪かったって。そろそろ機嫌を治してよ」
「ふーん!」
地味な昨日の小競り合い。旧知の友人と久々に飲みに行くことになり無理かな? と思いつつも「九時には切り上げるよ」と電話で連絡していた。
「そうなんだ。旅行、すっごく楽しみなんだから遅刻しないでね!」
強めに言われていたのでしっかりと早く切り上げる予定だったが、そこは久しぶりの男友達との飲み会。盛り上がるのは仕方がない。気付けば十時半だった。
ボクは『人と話している時はスマホを見ない派』でして、しっかりとスマホはカバンに放り込んでいたんですよ。急速に嫌な予感がしたのでパッとスマホのロック画面を見てみると、現在進行形でメッセージが連続で送り続けられていた。
青くなるボク。慌てて居酒屋の外に出てメッセージを確認。最初に思ったのは何かアクシデントがあってどうしても連絡が取りたいのか! だった。
しかし、想像とは大分違っていた。
――もう九時ですよー。明日は楽しみ。
――もう九時十五分ですよ。そろそろ切り上げてね。
――もう九時半ですよ。ねぇー、そろそろ終わってね!
――こら、もう九時三十一分です!
――おいっ! 九時三十二分だぞ!
これが十時まで続き、十時からは連続で不機嫌そうなスタンプが秒単位で送られてきていた。
――もう知らない
――もう行かない
――オマエ嫌い
――キライ
――キライ
どう返信するか思案している間にも、どんどん悪化するスマホの画面。
ヤバい! 取り敢えず謝るしかない。
――遅くなってゴメン。明日の旅行は楽しく行こうよ
暫くの沈黙の後、彼女の反撃が始まった。
――うるさい! もう行かない!
――未読のまま放置が一番腹立つ! 許さん!
あぁ、ダメだ。『これは面倒臭いことになった』と思いつつただひたすらに謝ってみる。
――許して
――許さん!
――楽しく旅行行こうよ
――マジ無理!
こんなやり取りを二時間ほど続けると『旅行には行く』とメッセージを返してくれた。それで安心するのが男という単純な生物。
よもやよもや、一晩寝たのに怒りが継続しているとは思わずに会った最初の一言を間違えた。
「おはよー。昨日飲んだ○○だけどさぁ、もう会社変わってたんだぜ」
美織さんも知らない仲ではなかったので報告を兼ねて話題に出した。
すると不機嫌そうに
「あらあら、昨日はよっぽど楽しかったんですね!」
と返してきた。
そこで初めて選択の誤りに気づいた。
停戦協定は唐突に破棄されて突如戦時体制に移行する二人。そこからは再度謝ったり、ソフトクリームを奢ったりと悪戦苦闘。しかし、なかなか機嫌は治らず、冒頭に続くわけですよ。
あっ、ソフトクリームはしっかり食べてたよ。
このバスを降りれば目的地。ムスッとしたこの感じでは着いたら機嫌が治るのを期待するのは難しいかな……あぁ、面倒いなぁ。ランチまでは無言が継続かな。
トボトボとバスから彼女の荷物も持って降りる。
先に降りた美織さんは華麗に振り返ると両手を腰にモデルポーズを決めてから一言叫んだ。
「もうキライっ!」
一人で勝手に小道を突き進む美織さん。
この場合ですが、追いかけても怒られます。しかし追いかけない場合に百倍怒られるのは周知の事実ですよね。
という訳で追いかけます。
林の中に続く小道を抜けると、視界いっぱいに広がる北アルプスの壮大な山麓が目に入った。三千メートル級の稜線が織りなす雄大な風景に思わず言葉を失う。
川面にも映る目にも鮮やかな自然の緑色。
鳥の囀りと川の音だけの世界。
都会の喧騒とは真逆の世界。
「わぁー!」
数メートル前方にいる不機嫌の化身からは歓喜の雄叫びが上がった。全てのイライラがあっさり消えたのか、スカートを翻しながら振り返り天使のように微笑んだ。
ここで思ったのは、『機嫌治ったー』だった。
唯々ほっとする。
すると、再度クルッと回ると突然に走り出す美織さん。
てててっと川に向かって一直線。
何と、スニーカーを脱がずにそのまま川に踏み入れた。
おお、五月とはいえ暑かったかな? 美織さん、思ったよりアグレッシブなんですね。
ぱしゃぱしゃ……くるっ……ぱしゃぱしゃ、とすぐに川から上がり目の前まで来ると、少し困った顔で言った。
「川あったー……靴濡れたー……どーしよー」
えぇー? まさか、嬉しすぎて川に気づかずに入っちゃったの? 何この可愛い生き物!
「あ、あぁ。まず靴脱ごうか。すぐ乾くよ」
優しく呟くのが精一杯。慌てて何か拭くものをリュックから探す。出てきた白いタオルを渡したその瞬間、唐突に全てを理解した。
『美織さんはボクのお嫁さんになる人なんだ』
すべき人じゃない。なる人だ。
全てが腑に落ちた。
「ははは、こりゃ仕方ないよな……」
思わず諦め口調で口に出る終戦宣言。
これからも小さな紛争は勃発するだろう。
だが遂に大勢は決した。
もはや、今、ここに完成した幸せへのロードマップが破綻することはないだろう。
「何よっ! ドジで悪かったわね!」
もう怒った姿が可愛くしか見えない。
あーあ、これが『落ちる』ってことか。
既に周りのセカイも輝いて見える……気がする。
「そうか。そんなもんだよな」
しみじみ呟きながら濡れた靴下を脱ぐのに悪戦苦闘している頭を撫でてやる。
「何すんのよ!」
と、また怒られる。でもただ可愛くしか見えない。
「まぁまぁ。そんなもんだよな、ってこと」
「もう! 意味分かんない!」
おぉ、頬を赤く染めてプンスカし始めた。
さて、楽しい旅行にするよう頑張ることにしましょう。
◇◇
ちなみに、この時、美織さんの方も『あ、もし結婚とかしちゃって子供できたらこんな感じで頭を撫でてやるんだろうな』と唐突に意識してしまったらしい。
End