52、馬の災難
ミールの丘、タタール軍の砦では負傷した兵や馬の治療が一段落していた。
指揮官用のテントでは、ライナーとディミトリーが打ち合わせをしている。
「ライナー様、次はどのような作戦にいたしますか」
「うーん、そうだなあ」
ライナーは身を乗り出してテーブルの上に両肘をつく。
「前回は敗戦と判断するしかないが、騎兵の500を失っただけで歩兵隊は無傷だ。それほど被害は大きくない」
ディミトリーはイスを引いて身をテーブルに寄せた。
「その通りです、ライナー様。まだ互角以上に戦うことができるでしょう。敵は馬を標的にして策を講じているようです。タタールの騎馬隊は強力です。それを弱体化させることがトルーナンの狙いでしょう」
「タケルの野郎がぁ……正々堂々と戦えば良いのに、いつもタケルは姑息な手段を使いやがる」
そう言ってライナーは机を叩く。
「まあ、戦争に卑怯も何もないのですが……。次は歩兵を基本として作戦を立てたらどうでしょうか」
騎馬隊による作戦を得意とするディミトリーだが、自分の欲求を殺しての提案だった。
「そうだなあ……トルーナン軍は弱い。歩兵を先に進めて歩兵同士の戦いならばタケルも奇策を使うことはできないか……」
そう言ってライナーは自分自身を納得させるようにうなずく。
「歩兵同士の戦いで有利になったときに騎馬隊を突入させればよろしいでしょう。馬は切り札として考えるのです」
「そうだ、タケルがどのような策を用いてもオーソドックスな戦いならば、つけ込まれる隙もなくなるだろう。よし、それで行こう。早速、準備を頼むぞ、ディミトリー」
「は……い、いや、その」
彼は難しそうな顔でライナーを見る。
「どうした」
「実は馬の様子がおかしいのです。かなり疲れているような感じで……」
「そうか、ずっと連戦していたからなあ。遠征の疲れが出てきたのかも」
「軍馬として訓練してきたので、ちょっとやそっとでは疲労するはずはないのですが」
「そうか……」
ライナーは腕組みをして考える。
「飼料に毒を入れられたとは考えられないか? 飼料はベルナールに用意させている。いじめた仕返しに奴らがやったとか……」
ディミトリーは首を横に振った。
「いえ、それはないと思います。輸送されてきた飼料は犬に毒味させていますが、何ともありません」
「そうか。では、やはり疲れているのだろう。少し休ませてやることにするか」
「そうですね、そうした方がよろしいかと思います」
タタール軍は、しばらく休養することに決定した。
数日後、ライナーと副官のディミトリーはテントの中で暗い顔をつきあわせていた。
「困ったことになりましたね、ライナー様」
そう言ってディミトリーは口を結ぶ。
「よりによって遠征しているときに馬感冒とは……」
ライナーは腕を組んで天井を見上げた。
「かなり、たちが悪い風邪なので戦闘に使うのは無理でしょう」
「そうだな……」
「まあ、死ぬことはないと思いますが、本格的な治療をするには本国に帰らないとダメだと馬医が言っています」
「そうか……」
ライナーは大きなため息をつく。
「今は3500頭のうち1000頭以上が感染しています。この感冒は感染力が高いので、そのうちにすべての馬が倒れてしまうでしょう。病気の馬は放逐するべきだと思います……」
ディミトリーにとって馬は家族のようなもので、それを追い出すことは断腸の思いなのだが、健康な馬を守るには致し方ない。
「仕方がない。感染している馬と感染している疑いのある馬も外に放り出すしかないだろうな……」
「はっ……」
歴戦の強者であるディミトリーでさえも、顔がこわばって泣きそうだった。
その日のうちにディミトリーは、感染した馬の1500頭を放逐した。
ここで言う馬感冒とは馬インフルエンザのことである。
致死性は低いが感染力が高くて症状は重い。それを軍馬として戦闘で使用することは不可能だ。
ただし、人間には感染しないので兵に対する予防は必要がない。
*
タタール軍にとって悪いことが続く。
馬感冒に感染した馬を外に放り出した、その3日後にトルーナン軍が進行してきたのだ。
騎馬隊1000騎を含む1万2000がミールの丘の麓に布陣している。
「よし、ディミトリー、攻撃だ! 歩兵部隊の8000人を出せ」
「はっ」
ディミトリーは急いで戦闘準備を指示したが、心の中に不安の種火がくすぶっていた。
何度もタケルには煮え湯を飲まされている。また、何かあるのではないかという不安。
タタール軍の八千余りの歩兵は砦を出て、丘の下に布陣しているトルーナン軍と戦うべく、緩い坂を下りていく。
弓の射程距離まで近づいたので、先鋒の弓隊が攻撃の準備をする。
するとトルーナン軍は逃げ出した。
唖然とするタタール軍。
「よし、追撃だ! ディミトリー」
タタールが命令する。しかし、ディミトリーは首を振った。
「お待ちください、ライナー司令官。これは何かの罠かと思います。無理をして戦う必要はありません。ここは砦に戻るべきかと」
ディミトリーが馬上のライナーをじっと見る。
「罠だと?」
「はっ、幼稚な示威行動をする敵の意図が分かりません。むやみに戦うべきではないと考えます……」
ディミトリーは上官に意見を言うことは少ない。その指揮権を傷つけることをためらうのだ。しかし、相手がタケルでは自軍を守るために副官として言わざるを得ない。
「そうか……分かった」
騎馬軍団が壊滅状態になっていることもあり、ライナーも弱気になっていた。
タタール軍は砦に引き返す。
翌日、また、トルーナン軍が進行してきた。そして、前と同じ場所に布陣する。
タタール軍が急いで敵に向かうと逃げていく。それを何回か繰り返した。
まるでトルーナンとの共同演習のようなことをやっているときに、ベルナール国からの補給が途絶えたことを知った。




