深雪ヘリオドール結、トラウマを克服する。
私の名前は、深雪・ヘリオドール・結。
今は国家機密局、衛生保安課で白銀あくあ様の担当官として働いています。
つい最近まで不幸だと思っていた私の人生は、あくあ様と出会うことで大きく変わっていきました。
「貴女なんて産まなければ良かった!!」
目の前の血縁上は母に当たる女性は、そう言って私の頬を強くぶちました。
ヒリヒリとした頬、痛みは感じますが私の表情筋はピクリと動きません。
それを見た母は、私をみて相変わらず気持ち悪いと呟いてどこかに行ってしまいました。
これが私の知る限り母との最後の接触だったと思います。
母は私を産んでから徐々におかしくなっていきました。
華族と呼ばれる上流階級の家に生まれた美しく才能があった私の母。
しかし母が生まれて直ぐの時に、祖母が事業に失敗してしまいした。
家格こそ剥奪されなかったものの、栄枯盛衰、私の家の生活は一転して苦しくなったそうです。
そういったこともあって、私の母は結婚適齢期までに男性に選ばれる事はありませんでした。
男性の出生数が落ちた事で女性同士でも交配する事は可能になりましたが、それでも男性と交配を行うことは上流階級としての一種のステータスです。
プライドのあった祖母と母が選んだのは、冷凍保存された生殖細胞を利用した人工授精でした。
冷凍保存された生殖細胞を使った妊娠は珍しい事ではなく、女性であれば誰にでも与えられた権利の一つです。
しかし生殖細胞の中でも特に優秀な男性の方のものはとても貴重で、そう易々とは手に入るものではありませんでした。故に私の母は、年齢のこともあり焦って違法な業者を頼ってしまったのです。
それが全ての失敗の始まりでした。
提供されたものは優秀なこの国の男性の生殖細胞のはずでした。
しかしそれは業者によって偽証されたものだったのです。
実際に産まれた私の遺伝子の半分は、よく分からないどこかの外国の男の生殖細胞でした。
ハーフやクォーター、国家間で生殖細胞の取引が盛んな昨今において、どこかの血が混ざっている事は特に珍しい事ではありません。しかし民族の血を尊ぶ前時代的な祖母は、それを良しとは思わない人でした。
祖母は私や母の事を侮蔑の孕んだ目で見下し、精神を病んだ母は徐々におかしくなっていく。
「なんでこんなことができないの!」
「貴女がちゃんとしないと、また私が叱られるじゃない!」
「また間違って! 何度いえば理解してくれるのよ!!」
母の言葉は、私から感情というものを徐々に奪っていきました。
泣いても笑っても私の頬を叩き、怒ることも悲しむことも許されません。
そんな私に許されるのは無表情であることと、機械のように、はい、お母様と答える事だけでした。
怒られないためには優秀でなければいけない。幸いにも私はそれなりに優秀だったらしく、勉学を進めていくうちに自然と母の怒りを買う機会は減っていきました。
やっと穏やかな日々が過ごせる。
そんな私に待ち受けていたのは思春期による体の変化でした。
今になって思えば、おそらく私は早熟だったのでしょう。
身長が伸びるのと同時に体つきは女性らしく、あどけなかった顔も大人びていきました。
成績が優秀だった私は、そんな思春期の真っ只中で男性のいる中学校へと進学します。
この選択が再び私の人生に大きな影を落とす事になりました。
「おい、デカ女。お前の胸すげー気持ち悪いから2度と俺の視界に入るなよ!」
中学に通っていた唯一の男子、上級生だったその男子は私を見るなりにそう言いました。
その時の私を人間とも思わぬ蔑んだような顔は今でも忘れられません。
祖母が私を見る時と同じ侮蔑を孕んだ目、私の中に刻まれた記憶が重なって私の心に重くのしかかってくる。
人より発育の良かった私は、中学に入学した段階で身長は男子より高く女性らしい体つきをしていました。
その後も成長していく私の体。それに伴って男性とお付き合いしたいという女性として当然の欲求も高まっていく。しかし初対面の男性との事がトラウマとなって、私は男性に対して行動を起こすことに対して忌避感を抱くようになりました。
そんな自分を変えたい。
誰からも必要とされてなかった私。
そんな私が誰かに愛されたら、それはどれだけ幸せな事なんだろう。
高校、そして大学と、男性のいるところを選択しましたが、男性を前にすると足が一歩も前に出ませんでした。それどころか、男性を避けて視界に入らないような行動をとってしまう。もう嫌だ、そんな自分を変えたいと思った私は一大決心をしました。
「深雪さん、おめでとう。貴方の担当男性が決定しました」
男性と関わりたい、トラウマを克服したいと思った私は、意を決して男性に携わる職業を選択しました。特定の男性の担当官になれるこのお仕事の倍率は高かったですが、幸いにも成績が優秀だった私は簡単に合格する事ができたのです。
「白銀あくあ……様」
上司である局長に手渡されたデータに視線を落とすと、私好みの少年の姿がありました。綺麗に整った顔、そしてどこか優しそうな眼差しに胸が締め付けられる。中学の時に私を罵倒した男性が上級生だったために、私の好みは自然と年下の男性が好みになっていきました。
基本的に女性担当官は、年下の男性があてがわれるのでこうなることは分かりきっていましたが、実際に写真を見るだけで胸がドキドキします。準備していたし身構えていたはずなのに、そんな事は全くの無駄でした。
それほどまでにあくあ様は、私が想定していたレベルよりも遥かにカッコよく私好みの年下男子だったからです。
「白銀様はつい最近まで怪我で入院していました。その後遺症で記憶喪失になってしまったと報告を受けています。とてもデリケートな案件ですが、優秀な貴女であれば問題ないでしょう」
私が就職した国家機密局、衛生保安課は男性の生殖細胞を管理する重要な部門だ。その中でも優秀な成績の者には、専属の担当男性があてがわれ一生そのお方のお世話をすることができるのです。ただ男性側には、担当官を罷免する権利が与えられているため、そこには注意をしなければなりません。
何故なら一度罷免された女性担当官は、他の男性の担当官にはなれないからです。
男性は性に奔放な女性を嫌う傾向があり、男性担当官には高度な性教育が行われる一方で清らかな体でなければらない。暗黙の了解として秘密裏に定められたルールであるのは、ここの職場に勤務している女性であれば全員が知っていることです。
嫌われたくない、クビにされたくない。ほんの1分1秒でいいから、あくあ様のお側にいたい。
故に私はこの気持ちに蓋をして、ただひたすらに無表情で事務的に仕事を行おうとそう心に決めました。
それなのにっ……!
「白銀あくあです。こちらこそよろしくお願いします」
彼は私に怯えたり恫喝することもなく、私如きに笑顔で握手を求めてきました。 その瞬間、私の頭の中には天使が舞い飛び、教会の鐘が鳴り響いたのです。
あくあ様は写真で見るよりも遥かに素敵で、私は彼よりも一回り近くも年上なのに少女のようにときめいてしまいました。しかもあくあ様は、ただ見た目が王子様みたいでかっこいいだけの男性ではなかったのです。
「今日はお世話になります。お仕事頑張ってくださいね」
この機関で働いている女性たちは、普段から男性と接触する機会が多いですから、一般の女性と比べても男性に対する免疫は強いです。そんな彼女たちですら、あくあ様の笑顔の前では全てが無駄でした。あくあ様の笑顔と優しさは、職員達が作っていた鉄面皮すらも一瞬で剥がしてしまったのです。
長くここで働いている彼女たちも私同様、男性から優しい言葉をかけられたのは人生で初めての事だったのでしょう。もちろん中には人当たりのいい人はいますが、それでもこのようにお礼の言葉を述べて、笑顔をむけてくれる方など普通はいません。
「白銀様、こちらへどうぞ」
私は気を取り直して、あくあ様を応接室へと案内しました。
「それでは、こちらのお部屋にお入りください」
扉を開けた私の目の前を通り過ぎるあくあ様。
その時にほのかに香る爽やかな匂い。しかしほんの少しだけ入り混じる男のオス臭い香り。
くっ……男の人がこんな良い匂いするなんて聞いていません!
それともあくあ様だから特別なのでしょうか。
私は平静さを装い説明を進める。そして……。
密室で過ごした、あくあ様との2人きりの夢のような時間。あくあ様の体は、教本や映像で見た他の男性とは全く違いました。今までに経験したことのない幸せな時間。でもそれだけでは終わりません。施術後にお部屋の掃除をしていた私は、スマートフォンに入った通知を見て固まりました。
『おめでとうございます! 白銀あくあ様が、貴女のデータを使用いたしました』
あの器具は特別な器具で、実際の女性のデータを用いることで生殖細胞の採取のサポートをすることができます。そして、その使用されたデータの女性の元には後から通知がくるような仕組みになっています。
それは男性側には秘密にされていますが、女性であれば誰もが知っている事でした。
「まさかとは思いましたが……」
私は自分の体にぶら下がった二つの大きな塊を見下ろす。
あの時、男子に罵られた私の気持ち悪い胸は、中学、高校と大きく膨らみ続けました。
この胸に嫌悪的な視線を向けてきた男性は私の事を気持ち悪いと言ったあの男性だけではない。
しかしあくあ様は私のものを見て嫌悪する訳でもなく、むしろ今までに感じたことのない視線を向けてきたのです。
「こ、こんな私の肉の塊を見て興奮するなんて、あくあ様はどうかしてます」
信じられなくて自然と声が震える。私のような無愛想な女が、あくあ様のような素敵な男性に女性として見られるなんて考えてもいない事でした。
データの中には最適解と呼ばれるその男性に見合ったデータがインプットされています。広くデータを公開している女性の中には、有名なアイドルや女優だっている。それなのに……それなのに! あくあ様は、何を思ったのか、私如きのデータを使ってくれました。
あまりにも現実離れした出来事に頭が混乱しそうになる。そして行き場の無くした私の感情が、言葉となって外へと溢れ出ていく。
「わ、私なんかでいいのなら、こんな機械じゃなくて言ってくださればよかったのに……」
機械なんかに嫉妬するなんて自分でもどうかしていると思う。
「あくあ様……」
私の閉ざしていた心が、殺したはずの感情が熱い雫となって目からこぼれ落ちていく。
「男の人から求められるということが、これほどまでに幸せな事だったなんて……」
母からも、祖母からも、そして初めて会った男の人にも、私は人生において誰にも必要とされてきませんでした。
でも……でも……あくあ様は、あくあ様だけは、私の事を……。冷え切っていた心が熱くなる。いえ、一眼拝見した時から、もう私の心臓の鼓動は高鳴っていたのかもしれません。
「あくあ様の赤ちゃんが欲しい」
結婚なんてできなくてもいい、そんな高望みはしません。
ただの一度きり、そう、たったの一夜の過ちでいいから、私をただの一人の女の子にして欲しい。
その思い出さえあれば、私は残りの人生をきっと1人で生きて行くことができる。
結婚して赤ちゃんを産む、そんな絵に描いたようなハッピーエンドじゃなくていいから、誰かに……ううん、自分のことを女の子として見てくれたあくあ様だからこそ添い遂げたい。そのためには、私もあくあ様に好きになってもらわなきゃいけません。
覚悟の決まった私は鏡の前に座ると自らの指先で両端の口角を持ち上げた。
「むむ……」
試しに笑顔の練習をしてみたが上手くいきませんでした。
しかしここで諦めてはダメです。もしかしたあくあ様は私のような無表情な女が好きかもしれませんが、もしかしたら表情が豊かな女性の方がもっと喜んでくれるかもしれません。
いつの日か、この夢が叶うその時を信じて、私はこの日からこっそりと笑顔の特訓を始めました。
これがギリギリかな? どうだろう? もっとマイルドの方が良い?