白銀あくあ、二人っきりの夜。
本日は2度更新、次回更新は21時です。
マスク・ド・ドライバーの撮影は順調に進んでいった。
その一方で月9、優等生な私のお兄様の撮影はついに行き詰まってしまう。
「に、兄様!?」
俺が演じる佐田一也の妹、佐田沙雪を演じる小雛ゆかりさんは、俺が手を伸ばすと、その小さな体を、怯えた小動物のようにびくんと震わせた。俺はそのまま小雛さんの髪に触れると、妹のらぴすを甘やかすように、ゆっくりと頭を撫でる。ほんの少し上気した顔を見せた小雛さんは、見上げるような姿勢で蕩けた瞳の表面を潤ませて、ナチュラルピンクの薄い唇をほんの少し開く。
「沙雪は頑張りすぎちゃうから、あまり無茶しちゃだめだよ」
俺は優しげな表情で沙雪に対して笑みを見せる。
やってしまった……この時点でダメだと俺は自分で気がつく。
「カット!!」
撮影スタッフの人の声が、部屋の中に鳴り響く。
「すみません。さっきのシーン、一也にしては優しすぎたと思います」
自ら失敗に気がついた俺は、自分のダメだったところを監督と話し合う。
一也はすごく大人びたキャラで、落ち着いたところと包容力の高さが魅力的なキャラだ。
妹の沙雪に対してもちゃんとしたレディを扱うような対応をする一也だが。俺は普段らぴすと接する時のイメージで、ついつい子供に話しかけるみたいになってしまうときがある。
そういったことから、俺自身、思ったように一也を演じることができなくて、苛立ちというよりも焦りの方が強くなった。まだほんの少しスケジュール的な余裕があるとはいえ、このまま行ってもこれ以上に素晴らしい演技ができる気がしない。
比較的若手が多く勢いでどうにかなるドライバーの現場と違って、若くても経験豊富な女優陣や、教師陣など熟練のベテラン女優さんのいる月9の撮影では一切の誤魔化しが効かないから、多少の演技の歪みが大きな違和感となって映像の中に現れてしまう。
「早いけど今日の撮影はここまでにしておきましょうか。白銀くんも疲れているだろうし、無理させるよりこの後はゆっくり休んでもらって、明日、リフレッシュした状態でもう一度やってみましょう」
「はい、わかりました。すみません、自分のせいで……」
俺はスッとみんなに向けて頭を下げる。
自分の至らなさで足を引っ張って、みんなに迷惑をかけてしまった。
ここにいる人たちにだって他に仕事があって、スケジュールが押してしまうと、その分他の現場に迷惑がかかってしまう。だから謝るのは当然のことだと思った。
「気にしなくていいわよ。ここまで順調だったんだから」
「そうよ。私なんて同じシーン撮るのに1週間かかって、監督キレさせた事があるんだから大丈夫大丈夫」
「どんどんよくなってるし、明日またリフレッシュすればいい演技できると思うわ」
スタッフさんたちや女優さんたちは、そんな俺に対して優しい言葉を投げかけてくれた。みんなの気遣いが余計に辛くなって、余裕のない俺を追い詰めていく。
どうすればいいんだろう? それを考えると余計に一也のことがわからなくなった。
考えれば考えるほどに、ぬかるみに足を絡みとられて、泥沼に沈んでいく感覚に頭を悩ませる。
「ふっふっふっ、若者よ、苦労しているようだね」
バイクを止めている場所へと向かう途中で、待ち伏せしていた小雛さんに声をかけられた。
撮影が進んでいくほどに、小雛さんには役者としてのレベルの違いや、経験値の違いを何度も見せつけられる。
「あらためて一緒にやってみて思ったけど、あくあ君ってさ……歪だよね」
全てを見透かすような目で、小雛さんは俺のことを見つめる。
俺は小雛さんが時たま見せるこういう凄みに、何度も圧を感じて冷や汗を出した。
「ずーっと君のことを観察してたけど、やっぱり最後のところがちょーっとわからないんだよね」
小雛さんはゆっくりと俺の方へと近づいてくる。
最初は小雛さんの言っていることがわからなくて、俺はその場に固まってしまった。
「あくあ君は、どこで演技を習ったの? 君の演技は、ちゃんと誰かに指導してもらっているものだよね? おかしいよね。事務所に所属したのは最近のはずだし……阿古っちからは、そういう指導をつけてないって聞いてるし。それに、あくあ君からは女の子に対する怯えとかをあんまり感じないんだよね。そこが影響しているのかなぁ? 演技の部分でも、男性は女性に触れるときに多少なりとも忌避感を感じるのが普通なのに、あくあ君にはそれがないよね?」
小雛さんは、いきなり俺の核心をついてくると、一つずつ一つずつ俺の秘密へと迫ってくる。小さな体に似つかわしくないその凄まじい圧力に、俺は思わず後ろに一歩分後退りした。
「あくあ君って、今までずっと女の子から隔離されてきた? でもご家族だっているし……あっ! あー、確か記憶喪失だっけ? うーん、でも記憶喪失だからって、体に刻まれたトラウマだけは消えないはずなんだけどなぁ。なんていうかあくあ君ってさ、急にこの世界に現れたみたいな違和感があるんだよね。ねぇ、あくあ君ってさ……本当にこの世界の人間?」
バレた、誤魔化せない、どうしよう。ただでさえ今日の撮影で追い詰められた心に余裕がなくなって、俺は表情さえ取り繕うことさえできなくなった。すると小雛さんは、そんな俺の顔を見て、パッと笑顔に切り替えてさっきまでの圧を解く。
「なーんちゃって、流石に考えすぎだよね! もー、あくあ君ってば、漫画の読みすぎですよ、ゆかりん先輩ってちゃんと突っ込んでくれないとダメじゃなーい!」
小雛先輩は俺の背中をぽんぽんと叩く。
バレてない……? いや、それともこれはバレていて見逃されたのか?
小雛さんの表情を見るが、演技力で劣る俺にはそれすらもわからなかった。
「す、すみません」
俺は一歩遅れて言葉を返す。
「んー? それってツッコミできなかったこと? それとも五日前から私との共演シーンばかりやたらとリテイク出しまくってること?」
「……両方です」
小雛さんは俺の顔を覗き込むように見つめると、ニコッと笑った。
「仕方ないよ〜、だって、あくあ君ってばまだ誰ともお付き合いしたことないんだもん」
「は?」
俺は追い詰められていたのか少しイラついて、思わず声を出してしまった。
目の前の小雛さんの顔を見ると、口に手を当ててニシシと悪い笑みを見せる。
「んー、今の反応いいね。おかげでゆかりさんも、大事な友達の大事な後輩君のことが、ほんのちょっぴり理解できた気がするよ」
俺は思わず口に手を当てる。自分でもまずい反応をしてしまったのではないかと後悔した。
「あ……なんならこの後、お互いに時間空いてるしデートする? 可愛い後輩のために、お姉さんがデートをエスコートしてあげてもいいんだよ」
「なっ!?」
小雛さんは、そっと俺の胸の上に手を置く。さっきまでの子供のような雰囲気から、一気に大人びた女性の色香を覗かせてくる。
「ほら、余裕がなくなった」
「あ……」
俺は小雛さんに揶揄われたことに気がつく。
小雛さんはクスリと余裕のある笑みを見せると、恋人に囁くようなトーンで俺に話しかける。
「ねぇ、あくあくんは、女の子のことをちゃんと考えたことがある? 頭を撫でるときだって、つむじを触られるのが好きな子もいれば、指先で髪をすかして耳の後ろに触れるような撫で方をされるのが好きな女の子だっているんだよ? あくあ君は、そこまで考えて演技したことある?」
小雛さんの言葉に、俺は何も言い返せなかった。
さっきのダメだったシーンを思い出す。
俺はただ単に、いつもらぴすにやっているように沙雪の髪を撫でただけで、小雛さんが演じる妹の沙雪がどこを撫でたら嬉しいかを考えたことなんてなかった。一也はかなりのシスコンで妹至上主義なのに、俺の演技のせいで、妹の沙雪のことを何も分かっていないただの独りよがりな兄にしてしまったのである。
「うん、つまりそういうことなんだよね」
小雛さんは腕を伸ばすと、俺の胸をトンと押す。
そして長い髪に指を絡ませると自らの耳にかけて優しい笑みを見せる。
「ちなみに私は耳が弱いかな。沙雪ちゃんはお兄ちゃんにどこを撫でられたら嬉しいんだろうね? はい、それが明日までの宿題ね」
俺は小雛さんの言葉に声を詰まらせると、ほんの少し下を俯く。
今までのシーン、脚本、設定、全部を思い出して妹の沙雪のことを考察する。
「うんうん、なんとなくきっかけは掴んだみたいだね。それじゃあ、私は先に帰るから……あっ! それとも本気でデートする? 私はいいよ? やっぱり実際にやってみる方が、女の子の事を手っ取り早く理解できるだろうしね」
流石の俺も今回は揶揄われている事に気がついているので、剣呑な目で小雛さんを見つめ返す。
「ぶーぶー、少しはノってくれてもいいじゃん。あくあ君のケチー。まぁいいけどさ。それに、どうせこの後も二人で演技の練習するんでしょ?」
小雛さんは俺から視線を逸らすと、近くの曲がり角へと視線を向ける。
すると俺たちのこのやりとりを聞いていたのか、顔を赤らめた月街さんがゆっくりと出てきた。
「はい、そういうわけだから、アヤナちゃん、後はよろしくねー!!」
小雛さんはいつものように、言いたい事を言ってやりたい事をやってサーっと何処かへと行ってしまった。
残された俺と月街さんの間に、ほんの少し気まずい空気が流れる。すると月街さんがコホンと小さく咳をした。
「それじゃあ、今日もいつものところで……」
「あ、うん……」
俺はバイクの後ろに月街さんを乗せると、近くにある自然公園へと向かう。
優等生な私のお兄様の教室の中のシーンなどは、山の中にある最近廃校になった校舎の一部を改装して使って撮影している。俺たちがいつも練習に使っている自然公園は、夜も深くなると夜景を見ようとカップルが少しはきたりするらしいけど、この時間帯にはまず人がいない。だから練習するにはうってつけの場所だ。
「それじゃあ今日もよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」
俺たちの練習はいつも挨拶から始める。
練習は至ってシンプルだ。例えば俺が主軸で小雛さん演じる沙雪と絡むシーンでは、月街さんが沙雪を演じてくれる。もちろんお互いが絡むシーンでは、俺が一也、月街さんが莉奈を演じて、その上で絡んでくる第三者は基本的に月街さんが演じてくれた。
監督からは帰ってリフレッシュしたらどうかと言われたが、さっきの小雛さんのアドバイスで、何かが掴めそうな気がする。俺は月街さんに付き合ってもらって、さっきのシーンの練習を何度も繰り返す。
「まだ学校に残っていたのか沙雪」
最初のくだりとなる台詞から演技の練習に入る。
行き詰まっているシーンに差し掛かると、俺は月街さん演じる沙雪へとそっと手を伸ばす。
まずは最初に、月街さんの耳のそばの方へと手を持っていくと、指先でそっと髪の毛に触れる。すると月街さんは警戒した猫のように表情を硬らせて体を硬直させた。
なるほど……月街さんが演じる沙雪はこういう触られかたは嫌なんだな。
今度は自分の手のひらをスッと頭のてっぺんへと持っていく。すると月街さんは一瞬、怯えたような表情を見せる。
うん……難しいな。それ以外の触り方って何があるんだ?
まぁいいか、練習だし、色々と試してみよう。
しかし、このシーンの練習を繰り返すこと10数回、月街さん演じる沙雪はどういう触り方をしてもダメだった。それ以上に俺の方がしっくりとこない。一也らしい沙雪の頭の触り方、たったそれだけのことですらつまづく。
うーん、やっぱり言葉に出すだけなら簡単だが、やるとなると難しいな。
俺は一旦このシーンの練習を諦めると、次は月街さんの練習に付き合った。
それを繰り返すこと数度、いつもより周囲が少し暗くなっている事に俺たちは気がつく。
「今日はここまでにしておきましょうか?」
「天気も怪しいですし、そうしましょう」
なんだか嫌な予感がしたので、俺たちは練習を切り上げる。
俺はバイクの後ろに月街さんを乗せると、ゆっくりと走り出した。
「あ……」
ぽつり、ぽつりと、小さな雨が降り出す。運転をやっていればわかるが、雨が降り出した時の路面が一番危険だ。道が舗装されているとはいえここは山の中で、斜面はまっすぐではない。俺はゆっくりと安全を第一に心がける。しかし、さっきまで快晴だった山の天気は急激に変化していく。最初はポツリポツリと降っていた雨が、豪雨となって降り注いで目の前の視界を遮る。天気予報では晴れだったが、やはり自然の力は侮れないな。
「月街さん。少し引き返すことになるけど、撮影現場に戻って雨宿りしよう。誰か残ってるかもしれないし」
「ええ、そうね」
幸いにも自然公園がある方向と、帰り道は逆だったために、途中には撮影に使った廃校がある。あそこはいつも誰かがいるし、最悪でも月街さんだけは誰かの車に乗せて送ってもらうことはできるだろう。俺は廃校のある方へとバイクのハンドルを切った。
「ふぅ、なんとか着いた……」
俺はなんとか事故をすることなく、撮影現場の廃校へと戻ってくることができた。
でも豪雨に晒されたせいで、靴の中までぐっしょりとしていて気持ちが悪い。
「すごい土砂降りだったわね。白銀君、運転お疲れ様」
月街さんの方へと視線を向けた俺は、ギョッとする。
ずぶ濡れになった月街さんのシャツがうっすらと透けていた。
俺は見てはいけないと、月街さんからスッと視線を逸らす。
月街さんも俺の方を見て気がついたのか、手で胸を隠して直ぐに視線を逸らしていた。
「残ってる人がいないか探そう。それとこのままじゃお互いに風邪をひいちゃうから着替えも……」
「うん……」
しかし廃校の中からは珍しく人の気配がしない。
撮影機材は残ったままだが、今日に限って誰も残っていなかった。
俺たちは置きっぱなしにしてあった衣装に、適当に着替える。
携帯電話で家族に連絡すると、阿古さんから直ぐに電話がかかってきた。
「あ……はい……わかりました。こっちは大丈夫です。はい……はい……すみません、ご迷惑をお掛けして、はい、ありがとうございます」
俺は阿古さんからの電話を切ると、月街さんの方へと顔を向ける。
「どうやら下は雨で通行止めになってるらしい。でも、廃校の付近には土砂崩れしそうな斜面もないし、もう夜だから、今日一晩、雨宿りしたら明日朝イチに迎えにきてくれるって……」
「そう、わかったわ。ありがとう。私も事務所に連絡したけど、そこは安全だからここで待ってた方がいいって言われたわ。幸いにも食べるものも置いてあったし、今晩一晩だけなら大丈夫そうね」
最初は二人でたわいのない会話をして時間を潰していたが、食事を取った後は徐々に無言になる。
冷えた体を温めるためにつけた薪ストーブの、バチバチと薪が爆ぜる音だけが部屋の中に響いた。
何か、何か、会話をしないといけない。そう考えると余計に何を喋っていいのかわからなくなる。
会話をする糸口を探そうと、視線を振れば、乾かすために干していた月街さんの下着が無造作に干されていて、そういうつもりじゃないのに余計に意識してしまう。
『やっぱり実際に触ってみる方が、女の子の事を手っ取り早く理解できるだろうしね』
くっ……さっきの小雛さんとの会話が頭の中にちらつく。
俺が煩悩に頭を抱えていると、月街さんはその場に、スッと立ち上がった。
「ねぇ……さっきのあのシーン、まだうまくできてないよね」
「あ、あぁ、うん、そうだね。ごめん、あんなに練習に付き合ってもらったのに……」
結局、今日ダメだったシーン、小雛さんのアドバイスで何かが掴めそうだったが俺は何かを掴むことはできなかった。そんなことを考えていると、月街さんは小さな声で呟く。
「小雛さんの言ったことって本当なのかな?」
「えっ?」
月街さんは、セーラー服のリボンを解くと、ゆっくりと俺の方へと近づいてくる。そして、俺の胸に手を当てて、ゆっくりとしなだれるように、前屈みになって俺の体を押し倒していく。俺の心臓の鼓動が早まって、薪ストーブの音をかき消す。
「ねぇ、試してみない?」
薪ストーブの灯りに照らされた月街さんの色っぽい表情に、俺はドキッとさせられる。これまでにも、この世界に来てドキドキとさせられたことがあったが、それとは違う感覚に胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
月街さんは俺の手を取ると、自らの頬へと手のひらを持っていく。
「私の体でよかったら、貴方の好きなように触っていいよ」
ひんやりと濡れた月街さんの髪の毛に触れた自分の手が熱くなっていく。
暗くなった教室の窓に叩きつける雨風、カタカタと軋む音が一段と激しくなった気がした。




