白銀あくあ、家族を説得する。
喫茶店で働き始めてからはや2ヶ月。
最初は少なかったお客さんも増えて、今では店の外に大行列ができるほどになった。
もしかしたら自分と同じ男性のお客さんが来ないかなと少しは期待していたけど、店に来るお客様は相変わらず女の人ばかりである。うーん、残念。
あ……でもこの前、店の近くで具合を悪そうにしていた女性に対して、やたらと高圧的な態度をとっていた男がいたな。なんか危なそうな雰囲気だったから間に入って止めたけど、ああいう男のお客さんなら来なくていいわ。他のお客さんやオーナーの迷惑なっちゃうからね。
そんなわけで、最初は家族に危険だと猛反対されていたバイトだけど、お店に来るお姉さんはみんな優しくて、直接俺に対して何かをしてくる人はいなかった。
母さんの言うように拉致されたりとか、しとりお姉ちゃんの言うように痴漢されたりとか、らぴすの言うように監禁されたりなんて状況にはならなかったし、この世界の女性達はそんなに危険じゃないと思うんだけどなぁ。
遠巻きにチラチラとみられたりとかはするけど、それは男の数が少なくて珍しいからだろう。
あっ! それとお店が再開してから良いこともあった。
喫茶トマリギが再開したことに奮起したのか、周りの空き店舗も次々と営業を再開し閑古鳥の鳴いていた一画は賑わいを取り戻していったのである。嬉しいニュースはそれだけではない。なんと建て替えの工事計画自体が中止になったそうだ。
オーナーから聞いた話によると、どこかの大きな企業が建て替えの話を出していた企業を買収したらしい。この喫茶店の入っている建物にもなんか価値があるとかで、今の状態のまま営業を継続していいと認められたと聞いている。だから4月以降も買収した企業が人材を派遣して、俺のバイト期間が終わった後もお婆さんをサポートしてくれるそうだ。
ちなみに俺は、学校が始まった後も暇な時はバイトに入ってもいいという許可をもらっているから、偶には時間を見つけて顔を出そうと思う。せっかくできたご縁だし大事にしないとね!
それはそうとて時はもう3月、俺は新たなる問題に直面していた。
「あくあちゃん……学校に行くなんて本当? 外の世界なんて辛い事ばかりなんだからずっと引きこもっててもいいのよ。お金の事なんて心配しなくても、お母さんがちゃんと養ってあげるから、ね? ね?」
母さんはこの世に絶望したのじゃないのかと思うくらい顔を青褪めていた。
あれ? コレって喜ぶところじゃないの?
一人息子が引きこもりを卒業して学校に行こうとしているのに、なんだが自分が間違った事をしようとしているような気分になってしまう。
しかしここで意見を翻してはダメだ。俺は心を鬼にして、母さんに語りかけるように説得を試みる。
「ごめん母さん。今まで散々迷惑かけたみたいだけど、高校にはちゃんと行きたいんだ」
俺には目指すべきものがある。
それは前世で果たせなかったかった俺の夢、アイドルになるという夢だ。
せっかく与えられた2度目のチャンス。俺は今度こそアイドルになるという夢を叶えたい。とはいえ今の俺は、まだオーディションも受けていないただの引きこもりだ。世間の常識とか流行はもちろんのこと、同年代の子達がどんな感じなのかも知らない。
俺が目指すアイドルは、みんなに元気を与えて笑顔にしてあげられるアイドルだ。
そのためにはもっともっといろんな事を知らなければいけない。だからまずは色々と知るために学校に行く。そこからだと思った。
「そう……あくあちゃんがどうしても高校に行きたいならお母さんは止めないわ。でも、そうなると問題は進学先ね。セキュリティのしっかりとした所か、いっそ男子校に……」
「それなんだけど母さん。実は行きたい所も決めてあって、もう願書の方もネットで提出しちゃったんだ」
「えぇっ!?」
母さんは驚いた顔を見せた。
もう1月も過ぎているのに大丈夫なのだろうかと思ったが、この世界の高校は、男子の入学に関してのみ365日24時間受け付けている。
バイトの時に家族の説得で苦労した俺は、申し訳ないと思いつつも、この交渉を押し切るために勝手に願書を提出した。なお学校に男子が願書を送るイコール合格なので、もうその学校に俺が入学するのは決定事項である。
それくらい学校に通っている男子は少ないらしい。
「そんな……」
俺はふらついた母さんの体を抱き止める。母さんより先に俺から高校に行くと聞かされたしとりお姉ちゃんは既に近くで泣き崩れ、同じくそれを聞かされたらぴすは放心状態で固まっていた。
「母さん……勝手に願書を出した事は謝るよ。でも、このまま理由もなく引きこもってちゃ俺は本当にダメになる。だから俺の大事な家族である母さんやしとりお姉ちゃん、らぴすには応援してもらいたいんだ」
俺は母さんの背中に手を回すとぎゅっと抱きしめる。
「あ、あくあちゃん!?」
最近は筋トレやランニングのおかげもあって、ようやく体つきの方も男らしくなってきたところだ。そのせいもあってか、ただでさえ細い母さんの体がより小さく感じられる。だから今にも折れてしまいそうなこんな線の細い人を殴りつけていた今世の俺に、どうしようもなく怒りが湧いてきた。
今日まで不安だった日がなかったわけじゃない。
朝起きたらやっぱり俺は死んでて、これは夢か幻なんじゃないのかと不安に思って眠れない夜を何度も過ごした。
そんな夜を過ごした翌朝に限って母さんは、朝、俺に笑顔でおはようって言ってくれて、暖かな食事を用意してくれる。涙を流しそうになったことは一度や二度ではない。母の温もりを知らなかった俺は、今世で初めて母の温もりを知ることはできた。
だからこそ俺は、母さんを大事にしたい。この人に笑顔でいて欲しいと思う。そのために今は心を鬼にしても、ちゃんとした立派な大人になって母さんを安心させたかった。
「もしかしたら……いや、きっと母さんには、これからもいっぱい心配かける事になるけど、俺がちゃんとした大人になるために、少し距離を置いて見守っていて欲しいんだ」
「う……うん」
そしてこれを機に適切な親子の関係というか、距離感を作りたいと思ってる。贅沢を言うなと言われるかもしれないが、はっきり言って母さんは過保護だ。
例えばお風呂に入ってたら、一人で体洗えるのかなと突撃してくるのはまだいい方で、トイレに行こうとしたら一人でちゃんとできる? お母さんが手伝ってあげようかと言ってきたのは、驚きを通り越えて固まってしまったほどである。
俺は本当の母親というものを知らないけど、明らかに様子がおかしい。それともこの世界ではこれが普通なのだろうか? 流石に今の状態が続くのは良くないと感じた俺は、この状況も含めて少しでも改善できればと思っている。
「しとりお姉ちゃん、本当にごめん。らぴすも、今まで内緒にしていてごめんな」
俺は母さんから離れると、二人の体を抱き上げて母さんと同じ様にぎゅっと抱きしめた。
こんな美人な姉妹を床に膝をつかせて泣かせていたままにしておくのは、俺の精神状況的にも良くない。それこそ、何かとてつもなく悪い事をしたみたいで心がズキズキと傷んだ。
前の俺はらぴすの髪を掴んで引っ張ったり、しとりお姉ちゃんを壁に突き飛ばしたりしてたらしいが、こんなかよわそうな2人によくそんなことができたなと思う。
「あーちゃん……あーちゃんっ」
うわ言のように俺の名前を繰り返し呟いたしとりお姉ちゃんは、俺の背中に手を回してギューッと抱き返してきた。正直、俺からすればしとりお姉ちゃんは、実の姉というよりも近所の綺麗なお姉さんの方が近い。
俺だって男の子だ。姉というよりも綺麗なお姉さんに抱きつかれてなんとも思わなくない。だから、その、あまり強く抱き付かないでほしい……。
「あくあ兄様……らぴすも、もっとギュッてして」
それを見たらぴすも俺の体にぎゅーっと抱きついてきた。
こっちはまだ育ちきっていないから大丈夫だろう。ええ、そんなことを思っていた時期が自分にもありましたよ。
よりにもよってなんでそんな胸元が緩い服を着ているんだ。見ちゃいけないところを見てしまいそうになるだろう。
らぴすから視線を逸らした俺は既に二人から手を離しているが、体に引っ付いた二人を無理矢理ひき剥がすわけにもいかず、救いを求めるように母さんの方へと視線を向けた。
「あっ、あっ……あくあちゃん、お母さんも!」
「んぐっ!?」
飛びついてきた母さんを、俺は顔面で抱き止めた。嘘だろ……。ただでさえがんじがらめになっていた自分の体が、ますますどうしようも動かせなくなる。
もはやこうなってはどうしようもない。俺は全てを諦め、3人が満足するまで抱き枕になり続けた。
3人は俺が学校に行くだけでこれなのに、もしアイドルになりたいと言ったらどうなるのだろうか。
しかしバイトに学校と順調に家族の過保護のボーダーを下げるステップは踏んでいる、ここにあともう一つ、何かクッションを挟む事ができたらアイドルとして活動する事も叶うかもしれない。
そのためにも俺は学校に行こうとそう心に決めた。