深雪ヘリオドール結、飛んで火に入る夏の虫。
「お疲れ様です」
いつものように仕事を終えた私は、まだ職場に残っている同僚達に声をかける。
「あっ、おつかれさまー!」
「お疲れー」
私の務める国家機密局、衛生保安課の同僚達はみんないい人たちばかりだ。
無愛想な私に対してもにこやかに接してくれますし、困ったときは相談に乗って助けてくれます。
さらにお給料も良く残業も少ない……ああ、私はなんていい職場に就職したのだろうと思いました。
でも今日のように、たまに帰る時間が遅くなる時があります。
みんなと挨拶を交わし職場の外に出るともう空は真っ暗でした。
「どこかで食べて帰りますか……」
いつ、あー様からお声がけをしてもらってもいいように、私は基本的に職場のそばに住んでいます。
私は自宅がある方向とは反対側に踵を返すと、どこか食事の取れるところに入ろうと繁華街のある方向に向かって歩き出した。
先ほど上司とも話し合いましたが、私の帰宅が遅くなる時は、たいてい上司とあー様の生殖細胞についてどう扱うかを議論する時だけです。現状、あー様の生殖細胞は特級生殖細胞として、この国の最も警備が厳重な場所で最高の環境の中で保管されている。あー様が雑誌に掲載されたあたりから、危機感を感じた私たち国家機密局は、すぐにあー様の生殖細胞を守るために動きだしました。
幸いにも首相を中心とした有志議員のグループがすぐに動いてくれたおかげで、事なきをえましたが……少しタイミングが遅ければどうなっていたかはわかりません。現に一部の議員の中には、あー様の生殖細胞を他国との交渉材料にする動きがあるので、私たちも注視しています。
「あー様……」
私達がつかんだ情報によると、我が国に留学中のスターズの王女殿下があー様の事を狙っているそうです。
共通の知り合いの婚約式で王女殿下をエスコートした時のあくあ様は、お互いに浮世離れした美男美女でとってもよくお似合いだったとか……。私は……私はそれを聞いた時、とても胸が苦しくなりました。
この国では一夫多妻が認められていますが、私があー様と結婚できることはないでしょう。
私より立場が上で、容姿に優れた多くの人があー様の事を狙っているのに、あー様が私如きを選んでくれるとは思えないからです。
あー様は私に対して何故か異性として意識してくれてはいるみたいですが、私のような無表情のつまらない女性と付き合ってもすぐに飽きるのではないでしょうか。だから私は、それよりも一歩先に進むことを躊躇っている。
ただ一言、会話できただけでもありがたいと思わなきゃいけないのに、会えば会うほど好きになっていくあー様に、私は欲張りになってしまっているのかもしれません。
「ん……ここは、どこでしょう?」
おっと……私としたことが、あー様の事ばかりを考えていたせいでしょうか。
思っていた場所から少し外れた裏通りに来てしまいました。
夜空を見上げると、月の光が雲に隠されていて今にも雨が降りそうです。
そんな状況で偶然にも私の視界に、雰囲気のあるレストランのネオン看板が目に入る。
たまにはこういうお店に行くのもいいかもしれません。私は看板の下の扉を開けると階段を下って地下へと降りる。
「いらっしゃいませ、テーブル席でもカウンター席でもお好きな席にどうぞ」
80年代風の雰囲気のある店内には、1台のアンティークピアノが置かれていた。
店内はそこそこ賑わっているけど、うるさくはなく穏やかな談笑の声が聞こえる。
私はカウンター席に腰掛けると、先に隣に座っていた人に軽く会釈をした。
「すみません、ここ空いてますか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
目つきの鋭いすらっとした美人さんだったが、挨拶をすると物腰の柔らかそうな感じの人だった。
「ご注文は?」
「そうですね……」
久しぶりに少しお酒でも飲みましょうか。
私はウィスキーのロックと適当な食べ物を注文する。
「仕事帰りですか?」
「はい、そちらもですか?」
「ええ。今日はちょっと久しぶりにお酒が飲みたくなって」
私の隣の席の彼女は手に持ったグラスを少し傾ける。
せっかくなので、私も運ばれてきたグラスを傾けてお互いに乾杯した。
食事が運ばれてくるまでの間、お酒を飲みつつ隣の女性と会話を弾ませる。
「へぇ、深雪さんはこのお店は初めてなんですね」
「ええ、桐花さんはここには良く来られるんですか?」
「うん、たまにね」
隣に座った目つきの鋭いお姉さんこと桐花さんはとっても会話のしやすい人でした。
「こちらご注文のエスカルゴとキノコと茄子のソテーです」
私は運ばれてきた食事をひとつまみすると、ウィスキーを傾ける。
ウィスキーに食事は邪道とも言われていますが、お腹が空いているのですから少しは大目に見てほしいです。
そうこうしていると階段から新しいお客さんが降りてきました。
私は彼女の顔を見て一瞬固まる。
天鳥阿古……あー様の所属する事務所、ベリルエンターテイメントの社長さんです。
彼女は私のこと知らないけど、私は国家機密局の職員として彼女のことを知っていました。
「すみません、ここ空いてますか?」
「あ……はい」
なんと彼女は一人で来店したのか、私の隣のカウンター席に座った。
天鳥さんは飲み物だけを注文すると、音楽に耳を傾けるようにテーブルへと視線を落とす。
このお店には音楽を聴きにきているのでしょうか?
すると私の耳に、ピアノの心地の良い音が入ってくる。
音のした方に視線を向けると、パーカーを目深く被った人が観客席に背中を見せてピアノを弾いていた。一体いつの間にと思ったけど、ピアノのそばに奥へと続く道があった事から私の疑問はすぐに解消される。
最初はクラシックのような重厚なピアノの音が、やがて悲しみと優しさの両面を感じられるような雰囲気のある曲調へと変化していく。お店にいた誰しもがその人物の紡ぎ出す音へと耳を傾けている。
その場にいた全員が音を出さないように細心の注意を払っているかの如く、フォークやスプーン、ナイフの音はおろか、マスターがグラスを拭く音すらも部屋の中から消失したその一瞬、ピアノのそばに置かれたマイクから軽く空気を吸い込む音がした。
その瞬間、まるで気圧が変化したかのように、頬をチリチリとしたものが伝わる。
私の隣に座った桐花さんはもちろんのこと、このお店にいたほぼ全員の視線がその人物へと注目していた。ただ一人、桐花さんとは反対側に座った天鳥さんだけが、口角をあげて笑みを溢す。
っ!?
ピアノを弾いていた人物の歌い出しと同時に、私は大きく目を見開く。
多くの人もその声を聞いて私と同様の反応を見せたがそれは当然のことだろう。
何故ならそのピアノを弾いていた人物が男性だったからです。だけど私が驚いたのはそれだけではありません。
あー……様?
以前、深夜ドラマで放送されていた花さく貴方へ。その時に歌ったカバー曲でもなく、ましてやあの時とうまく声色を変えている上に、歌詞が外国語のせいか歌い方も変えている。
だから気がついたのは私だけなのかもしれない。でも、私には一発で、それを歌っているのがあー様だとわかった。
「あくあ……さん?」
私は天鳥さんとは反対の方から聞こえてきた声にびっくりする。
隣に座った私にしか聞こえないほどの小さな声。先ほどまで私と談笑していた桐花さんはあー様が歌っているのだと気がついたみたいです。
なるほど……どうやら気がついたのは私だけではなかったようですね。
私たちはあー様の歌へと耳を傾ける。
あー様の色気のある歌い方はとてもではないですが、高校生の男の子が歌っているものだとは思えませんでした。
あのカバー曲もよかったですけど、少し大人びた雰囲気のあるあー様には、こういうお歌の方が合うのかもしれません。
聴き込めば聴き込むほどに歌い手であるあー様にドキドキして、胸が張り裂けそうなほどの痛みを感じる。あー様は知ってか知らずか……お店にいた全員が一瞬にしてあー様に恋に落とされてしまう。
たった一つの歌で、こんなにも女性をときめかせてしまうなんて、あー様はとっても罪深い男性です。でも……どうせ振り回されるなら、こういう男性に振り回されてみたい、でも……そう思ってしまう私たち女性は、あー様よりももっと業が深いのかもしれません。
時間にして、ほんの5分ほどだったでしょうか。
1曲を歌い上げたあー様は、スッと立ち上がるとお店の奥へと消えていきました。
お店の中が割れんばかりの拍手に包まれる。みんなうっとりとした顔で、学生時代の頃のように瞳の奥を煌めかせた。あーさまの歌った曲の歌詞を訳すると、貴女はとても魅力的だと大人な言い回しで女性達に訴える曲だったからでしょう。もしかしたら、私たち以外にもあー様に気がついた人はいるかもしれませんが、誰一人としてあー様の名前を出す人はいませんでした。本人が隠しているのですから、そこを詳にするのは野暮というものです。
ちなみに、ハッとした私が後ろを振り向いた時には、隣に座った天鳥さんはいませんでした。きっと裏に回って、あー様と共にお店を後にしたのでしょう。
「良かった……ですね」
「はい……」
私と隣に座った桐花さんは、ポタポタとテーブルに涙の粒を落とした。
先ほどまで笑顔に溢れていたお店の中に、啜り泣くような音と声が聞こえる。
でもこの涙は悲しみによるものではなく、この特別な夜を偶然に分かち合えた者だけが流せる喜びの涙でした。
最後までお店に残った私と桐花さんはお互いの連絡先を交換する。また今度、お互いの休みの日にでも飲みましょうと約束した。
「あー様……」
お店の外に出た私が空を見上げると、さっきまでの曇り空だった夜空にはいくつもの星が瞬いていた。
ふふっ、偶然でしょうけど、天気すらも変えてしまうなんて、あー様は本当にとんでもない人です。
この時、私は何かが吹っ切れたのかもしれません。たとえこの想いが報われなかったとしても、ずっと、ずーっと、あー様の担当官として彼の側で最後まで支えたいと強く思った。
「よしっ、やるぞーっ!」
お酒が入っていたせいでしょうか。私は柄にもなく、拳を空に突き上げ、改めて自らに気合を入れ直す。
次の日、お酒の飲み過ぎで頭が痛かったけど、その痛みは私にとってはとても心地の良いものでした。




