天鳥阿古、私の人生を変えた出会い。
「はぁ……今日もまたやらかした」
私の名前は、天鳥阿古。今年で24歳になる、どこにでもいる入社2年目のOLだ。
頑張って大企業の超有名広告代理店に就職したものの、入社してすぐに自分の至らなさを痛感させられる。
もちろん今日も仕事でやらかしてしまった。このままではいずれ遠くない将来、首になっちゃうかもしれない……。
『そろそろクビになりそう? その時は私が個人的にマネージャーとして雇ってあげてもいいわよ』
そう言ってタイミングよくメッセージを送りつけてきたのは、友人で女優をやっている小雛ゆかりだ。今にもクビになりそうな私に対して、そろそろクビになりそうなんて聞くなんて、相変わらずだなぁと笑みが溢れる。でも、ゆかりはゆかりなりに私の事をちゃんと心配してくれているのだろう。こうやってちょくちょくメールが届いたり、生存確認と言って家にやってきたりもする。忙しいはずなのに、そういうところが変わらなくて嬉しくなった。
『大丈夫、まだ頑張れる』
私はそう返信すると、お昼ご飯のために駅前の方へと向かう。
「うげ……」
しかし、不運な事とは続く物である。駅前の店にランチを食べに入ろうとしたら、今日は運が悪くどこもお店が一杯だった。
「ここら辺、住宅街だからお店少ないんだよなぁ……」
ガッツリ系のお店はまだ空いていたが、今日はそういう気分じゃない。
それに今は、どうしようもなく甘い物を食べて癒されたいのだ。
だから軽めのところでデザートがあるところに行きたいと言うのが本音である。
「そういえば、ここから少し行った所に喫茶店があったような」
大学生の時に行ったきりだが、お婆ちゃんが一人で切り盛りしている雰囲気のいいお店だった。
駅前の喫茶店は大繁盛してたが、お婆ちゃんのお店なら大通りから外れてるし空いているだろう。私は一縷の望みを託して、記憶を頼りに昔行ったことがある喫茶店を探す。
「あっ! あった、あった」
見る限りお店は空いてるし、外で待っている人もいない。少しは運気が上向いてきたのかも知れないと思った。
お腹の空いた私は、少し駆け足で喫茶店の扉を開ける。
「いらっしゃいませ」
……。
…………。
………………えっ?
私は間違ったお店に入ったのかも知れないと思って、ゆっくりと後退りして改めて外に出ると、お店の名前を再度確認する。
喫茶 トマリギ。
間違いない。ここは私が大学の時に通っていた喫茶店だ。
「すみません。もしかして常連さんですか? 今、4月までの期間限定で営業してるんです。良かったら中にどうぞ」
そう言って、目の前の高校生くらいの男の子が私ににっこりと微笑みかける。
男子校生、DK……えっ? なんでこんなところに? お婆さんは?
しかもこの男子校生、ただの男の子ではない。
細身で身長はすらっと高いが、決してひょろひょろではなく、よく見ると薄らと筋肉がついている。
それに加えて何よりも恐ろしいのが顔面凶器レベルのルックス。ご尊顔を拝んだ瞬間に成仏してしまいそうになるほど尊く、間違いなく私が今まで見てきたどの男の子よりもカッコよかった。
まぁ、私が見たことのある男の人なんて100人にも満たないんだけどさ……。
そんなイケメン男子が、私のような薄汚いメス風情に、にこやかに笑いかけてくれているのだ。
男の人の笑顔なんて、24年間生きていて数えるほどしか見たことがない。そもそもその笑顔は、私たちのような女に向けられる物ではなく、男同士の会話の最中を勝手に覗き見したものである。私たちはそれを外から見て、今日はよかった、こんな奇跡は滅多にお目にかかれないとかありがたがっていたのだ。
「あの……いくら払えばいいですか?」
気がついた時には、私はバッグの中からお財布を取り出して中に入っていた全財産を差し出していた。
あー、もう、私のバカ、バカ! 今日に限って、なんで手持ちが少ないのよ!
私はこれじゃあ足りないだろうと思って、持っていたクレジットカードと銀行の通帳と印鑑も差し出す。
男子高校生は、困った顔で両手を左右に振る。え……何、その仕草かわいい……。
「あの……えっと、お客様、うちの喫茶、そんなにお金出さなくても、コーヒー一杯450円からですよ?」
はぁ?
この笑顔が450円で眺められて、同じ空間で合法的に匂いが嗅げて酸素を共有できるなんて、何かの間違いですよね? 混乱した私はおぼつかない足取りでふらついた。
「大丈夫ですか?」
「ふぁっ!?」
男の子はふらついた私の体を、そっと支えてくれた……いえ、くださった。
おそらく仕事中に髪が邪魔しないように、ワックスで少し前髪を上げているだろう。そのせいで凶暴性を増した男の子の顔面が私に迫ってくる。
吐息のかかる距離に堪らなくなった私は、心の中でこれってもう実質キスじゃんって叫んだ。
官能小説やエロ本の中でしか見た事のないシチュエーション。それを自分自身が経験している事に、自然と体温が熱くなる。しかしそんな夢のような一時は長続きしなかった。
「あっ、すみません。お客様、失礼しました」
男の子が私の体からゆっくりと離れていく。
どうしよう……私ったら、体を支えてもらった時に胸を押しつけちゃった。きっとそれが嫌だったんだよね? 私、結構大きいし、男の子からすると気持ち悪かったよね。
最近の男の子達は女性の大きすぎる胸があまり好きではないと聞く。
私が男の子の顔を伺うようにチラリと視線を向けると、少し恥ずかしそうに目を背けられてしまった。
えっ? ナニその反応? 可愛すぎて、私の中の女の子の心が生まれて初めてキュンキュンするんですけど。
これってホテル連れ込んで押し倒してもいいってこと? ついに脱処女できるってことでOK? あれ? あれれ? ここって、そういうお店だったっけ?
「顔色が悪そうですが、大丈夫ですか? オーナーに許可をとってきますから、よかったら少し休憩していってください」
ほら、男の子も休憩とか言っているし、そういう事をするお店なんじゃん!!
そういったお店には行ったことないし、男性の風俗なんて現実には存在してなくて、リアルで営業してるのなんて見たことないけどさ……。あったとしても、女の子が男装してやってるだけなんだよね、あれって。
「ふぁい」
私は呂律の回らない言葉で、男の子に促されるままに席に着く。
するとカウンターには見覚えのあるお婆さんが立っていた。
「あら、貴女、何年か前に来てくれたわよね。あの時はまだ大学生だったのに、もう就職されたのね。おめでとう」
「は、はい、ありがとうございます」
知っているお婆さんに出会ったことで、狂っていた私の脳みそが少しずつ正常に働きだした。
「はい、どうぞ」
男の子は近くの水差しからコップに水を注ぐと私の目の前に優しく置いてくれた。
ちょっと待って、やばい、やばいよー。
よく見ると、白シャツにベスト、そして細いリボンタイだ。
男の子を構成する全ての要素が神がかり過ぎてやばい。特に白シャツを捲った手首が私の好みを刺激して辛かった。ただでさえかっこいいのに、こんな姿を見せられて落ちない女の子なんていないよぉ〜。
私が男の子に見惚れていると、お婆さんが小さな声で囁いてくれた。
「ふふっ、びっくりしたでしょ」
「は、はい、あんな男の子、この世に存在してるんですね……」
少し落ち着いた私は、男の子の入れてくれた水を飲むと、お婆さんにオムライスランチを注文する。
周囲を見渡すとどうやらお客さんは私だけのようだ。私は仕事をする男の子をチラチラと見る。
この光景、1秒でも長く脳みそに焼き付けなきゃ……。できれば写真を撮って永久保存したいが、そんな事はマナー違反である。
しばらくそうやって男の子を観察していると、料理ができたのか卵のいい匂いがキッチンの方からしてきた。
「あくあくん、これ、お願い」
「はい!」
あくあくん……名前まで可愛い。しかも私と同じあから始まる言葉だし、結婚の妄想が捗っちゃう、どうしよう。
男の子はお婆さんからオムライスを受け取ると、自ら仕上げのケチャップをかける。
え? それってもうあくあくんの手作りみたいなもんじゃん……。
あくあくんは慣れた手つきで、私の目の前にランチプレートを置いてくれた。
「どうぞ」
私は差し出されたオムライスを見て、目を見開いた。
おつかれさま、おしごとがんばってね!
はわ、はわわわわわ! えっ? えっ!? これってプロポーズかなんかですか?
私はもしかしたら婚約指輪が添えられているのではないのかと、じっくりとプレートの上を確認する。
それらしいものはないみたいだけど……あっ、もしかしたらオムライスの中に隠されているのかな?
じゃあ、食べて中を確認……する前に、しなければいけない事がある。
「あの、写真撮ってもいいですか……? あ、その、オムライスの」
「あっ、いいですよ、インスタですよね? 是非是非、好きなだけ撮っちゃって、お店のこと一杯アピールしてください!!」
正式名称インスタントフォトグラム、略してインスタだ。
私は携帯を取り出すと、最高画質に設定を変更する。
「あら、せっかくだから、あくあくんがオムライスのプレートを手に持ってあげたら、ここじゃ少し影になるからそっちの方がいいかも知れないわ」
お婆さんは私に向かってウィンクする。
確信犯だ……このお婆さん、いえ、お婆さまは、私のような若輩者の考えていることなど全てお見通しだった。
あわわわわ、ありがとうございます! あとで1番高いパフェを注文させてくださいと視線で返す。
「わかりました。これでどうですか?」
あくあくんはランチプレートを手に持って私に微笑みかけてくれた。
この刹那、僅かな時間。その一瞬のシャッターチャンスを見逃すほど私は仕事ができないわけではない。
パシャリと写真を撮ると、流れるように何度もシャッターを切って、スマホのメモリをパンパンにした。
くっ、こんな事なら、ケチらず1番容量の大きいディスクにしておけば良かったと後悔する。
「あ、ありがとうございました」
私はお礼を述べると、全てをやり遂げたような表情でカウンター席に座る。 そして目の前に置かれたオムライスをスプーンで掬ってゆっくりと味わう。一口、それを掬い上げ口に入れただけで、言葉では表現しようのない多幸感が私の口内を潤してくれる。
もう、こんなこと、私の人生で2度とないかもしれない。
たとえこれが夢だったとしても、明日死ぬことになったとしても私は幸せだ。
あくあくんが頑張ってケチャップをかけてくれたオムライスを、一口一口噛み締めて味わう。
どうせならオムライスの卵にケチャップをかけるのじゃなくて、卵に違うものをかけてほしいと最低な事を願ったが、あくあくんに嫌われたくないのでそんなことは言葉に出さない。
ランチを食べ終わった私は、お店で1番高いパフェを注文する。しかし、そんな幸せな時間はそう長く続かなかった。会社の電話が鬼のように鳴り響き、私がシンデレラだった時間は終わりを告げる。
「ありがとうございました、また、来てくださいね」
「……阿古」
男の子の笑顔に、何を血迷ったか、私は自分の名前を呟く。
「えっ?」
「あの……私の名前、天鳥阿古って言います」
ばか、本当にばか! いきなり自分の名前を名乗るなんてどうかしている。
こんなのじゃあくあくんに不審者だと思われちゃうし、嫌われちゃうよー。
「あっ、俺の名前は白銀あくあって言います。数日前からここで働かせてもらっていますので、良かったらまた来てくださいね」
白銀阿古か……いい響き。これだけで明日も明後日も、ううん、数年はお仕事頑張れちゃうかも。
「はい、絶対に、来ます!」
私は決意のこもった力強い言葉を返す。
「はい、それじゃあお待ちしてますね。阿古さんも、お仕事頑張ってくださいね」
――阿古さんも、お仕事頑張ってくださいね。
お店を出た後も、何度もその言葉が私の中で反芻する。
こんなの……こんなのって、もう新婚じゃん!
それから暫くの間、私の生活は日夜を問わずに捗った。
ちなみにあの時に撮ったあくあくんの写真は、大型プリンタを購入して印刷したものを部屋の中の至る所に貼りまくってある。
これが後に、天鳥阿古の……ううん、世界の未来さえも大きく変える大きな出会いだったことを、私たち2人はまだ知らない。