白銀あくあ、喫茶店でバイトを始める。
実家に帰ってきた俺は、鈍っていた体を鍛え直すために、筋トレと朝のランニングを始めた。 何せ引きこもってただけあって、細身ではあるのだがやたらと筋肉がない。こんな状態じゃダンスもできないし、前世で俺を指導してくれたアキオさんにも申し訳が立たなかった。
家族からは外は危険だからと止められたけど、社会復帰には必要な事だからと言って強引に押し切った。
引きこもりから抜け出そうとして、引きこもりなさいと言われるとは……。改めて俺の知っている世界とは違うんだなと再確認させられた気がした。
念のため、この世界では男性への性犯罪や誘拐事件などもあるために、俺も男だとバレないために、外に出る時はパーカーのフードを目深く被るなどの防犯対策はしっかりとしておく。準備のできた俺は家の玄関を出ると、ゆっくりとしたスピードでランニングを開始した。
「はっ、はっ……」
1月の早朝だけあって気温は10度を切っており、吐く息が白い。
周囲を見渡すと人影は少ないものの、俺と同様に早朝ランニングをしている人や、犬を散歩させている人たちの姿が見える。もちろん外を歩いているのは女性ばかりだ。
俺は少し体があったまって来たところでペースを上げ、目標とする折り返し地点へと向かう。
今日は調子がいいから少し距離を伸ばしてみようかな?
「はぁっ、はぁっ……」
俺はいつも折り返していた場所よりも先で立ち止まると、家から持ってきた水筒の中の白湯で喉を潤す。水分を補給しながら周辺の様子を眺めていると、俺は一軒の感じのいい喫茶店を見つけた。
「へぇ……こんな所に喫茶店なんてあったのか」
ランニング中にまだ見ぬ新しいお店を探す事は、前世でもランニングを欠かさなかった俺の楽しみの一つである。
ゆっくりと喫茶店の方に近づいていくと、コーヒーの芳醇な香りが嗅覚に幸福感をもたらしてくれた。
俺は興味本位から窓を覗いて、そっと喫茶店の中を確認する。
わぁ……昭和の頃に流行ったレトロな雰囲気の地中海風内装だ。シックなインテリアがオーナーの品の良さを感じさせる。開店前の準備をしているのだろう、カウンターには優しい顔をしたお婆ちゃんが座っていた。
お、あの人がオーナーさんかな? そんな事を考えていると、向こうもこちらに気がついたのか、俺の方へと視線を向ける
「あ……」
俺と目のあったおばあちゃんはこちらにニコリと微笑むと、カウンター席からゆっくりと立ち上がって、お店の外へと出てきた。
「ごめんなさい。お店はもうやってないの」
「えっ?」
お婆ちゃんは、膝に手を置くとゆっくりとした手つきでその部分をさする。
「足を悪くしてねぇ……常連さんには申し訳なかったんだけど、でも、ちょうど良かったのかも知れないわねぇ」
お婆ちゃんは隣の建物にぶら下がっていた看板に視線を向ける。俺も釣られてその場所へと視線を動かすと、そこには工事の予定が書かれていた。
「4月にはこの辺も取り壊して、マンションになっちゃうの」
周囲を見渡すと喫茶店以外の建物も古い建物が多かった。 どの建物も風情があって、俺は好きな感じだけどこれも時代の流れ仕方のない事なのかもしれない。
「あっ、そうだわ。せっかく来てくれたのだからコーヒーだけでも飲んで行かない?」
そう言うとお婆さんは、俺をお店の中へと招く。
俺はお婆さんのお言葉に甘えてお店の中に入る。すると、さっきよりも濃いコーヒーの匂いが鼻腔をくすぐった。
カウンターの後ろの棚の中に視線を向けると、カップやソーサー、豆や雑貨などが良い雰囲気を醸し出している。
パーカーのフードを被ったままで行儀が悪くて申し訳なく思ったが、一応家族に言われた通りに、席についた後も防犯のために被ったままにしておく。
「はい、どうぞ」
席に着いて周囲をキョロキョロと眺めていると、目の前にホットコーヒーを差し出された。
俺はコーヒーの匂いを嗅いで嗜むと、カップの口にそっと唇を当ててゆっくりと傾けていく。
本当は甘いコーヒーが好きだけど、せっかくいい匂いがしてたから、今回はブラックで豆本来の味を楽しむ事にした。
「ふぅ……」
芳醇な香りと丸みのある柔らかな口当たりが、ランニングで疲れた体をホッとさせてくれる。
俺はコーヒーを堪能すると、美味しかったですと、お婆さんにお礼を述べた。
「ふふっ、ありがとう」
お婆さんは、物悲しそうに目を細める。もしかしたらまだお店に未練があるのかもしれないと思った。
「せめて、3月中までは頑張りたかったんだけどねぇ。バイトも募集したのだけど、短期間なものだから募集に応募してくる人も全然いなくてね。残念だけど仕方のない事なのよ」
よく見ると喫茶店の端っこにバイト募集の紙が貼ってあった。
内容を確認したが時給も悪くないし、年齢も問題ない。期間もちょうど高校が始まるまでの間だけである。
これは、ちょうどいいんじゃないのか? 俺の中で何かがピンときた。
「あの……俺で良かったら、手伝いましょうか?」
「え……俺?」
俺は目深く被っていたパーカーのフードを少し持ち上げると、おばあさんの方へと顔を見せる。そしてずっとフードをかぶっていた事を謝罪した。
「あらあら、貴方、男の子だったのね。ごめんなさい、私ったら無遠慮に話しかけちゃって」
「いえ、そのくらいの事は気にしないでください。こちらも無礼でしたし……それよりも、バイトの件なのですが、よかったらこのお店で働かせてくれませんか?」
これも社会復帰のための一歩。喫茶店のウェイターは立ち仕事も多いから体力も鍛えられるし、お金も稼げるし、俺にとっては明らかにメリットの方が大きい。何よりもこんなにも美味しいコーヒー、常連さんだって、お店がなくなる前にもう一度飲んでみたいと思っている人は多いはずだ。
「私としては有難い話なんだけど……いいのかしら?」
「勿論です。今日は家族に許可を取るので、働けるのは明日からになると思うのですが大丈夫ですか?」
「ええ、ええ! もちろんよ。それにご家族の方が無理だと言ったり、あなたの気が変わったら止めても大丈夫だから、あまり無理しないでね」
家族にはもう決めてきたからと言って押し切ろうと思う。
心配をかけるかも知れないけど、このままだとみんな直ぐに俺を甘やかそうとするし、何よりも4月までずっと家にいるのはどうかと思ったからだ。
「心配しないでください。明日からよろしくお願いします」
「ありがとう、助かるわ。明日からよろしくね……えぇっと」
そこでお互いにまだ自己紹介をしてない事に気がついて、笑みが溢れる。
「初めまして、白銀あくあって言います」
「喫茶、トマリギのオーナーをしている、七間八千代です。よろしくね、白銀くん」
俺とオーナーは改めてお互いに自己紹介を交わすと、その日は握手を交わして解散した。
よーし、明日からバイト、頑張るぞー!!