桐花琴乃、決意と覚悟。
私とあくあさんは、クリスマスイベント最後のプレゼントを渡すために名古屋にある老舗の洋菓子店に来ていた。
「いらっしゃいませ〜」
「……えっ?」
なんの警戒心もなくお店に入ってきたお客さんは、カウンターにいるあくあさんを見て固まりました。
うん、普通はそうなるよね。普通の女の子なら前準備とかなく、気の抜けてた時に出てこないでって思うのが普通です。だって、せっかくならおしゃれしてる時とか、気合い入れてる時に会いたいもん。
「今日限定でバイトに入ってる白銀あくあです。ご注文が決まりましたら遠慮なくお申し付けくださいね」
ここの洋菓子店を経営している2人の女性は結婚していて、40年間、ここで仲良くお店を切り盛りしてきたと聞いています。今回お手紙をくれたのはそのうちの1人でした。
【私はパートナーのパティシエと一緒に、40年間、洋菓子店を営んできました。彼女のケーキ作りはすごく丁寧で、味も優しく、そんな彼女だからこそ私は恋に落ちたのです。そばにいる内に私はそんな彼女を近くで支えたいと思うようになりました。それから長い月日が経ち、歳をとった私たちは2人の時間を楽しむために12月25日にお店を畳む事にしたのです。そこで……長年、このお店を愛してくれたお客さん達に何かお返しできる事はないのかと思うようになりました。そんな時、目についたのがベリルさんが企画されたこのクリスマスキャンペーンでした。もし来ていただけるのなら、最後の日にお客様達にあくあさんの笑顔をプレゼントできればと思っています】
スタッフが選んだこの手紙を見たあくあさんは、ここを最後にしようと言いました。
「ほっ、本物!?」
「はい。本物です。もしかしてご予約のお客様ですか?」
「あっ……はい! そうです。予約していた吉田です」
「吉田さんですね。少々お待ちください」
あくあさんは手慣れた手つきでケーキの入ったボックスをショーケースから取り出すと、それを広げてお客さんに中身の確認を求めました。
前々からずっと不思議に思っていたのですが、あくあさんってバイトの経験なんてないはずなのに、何をやってもすごく手慣れているんですよね。どうしてでしょう?
「吉田さんは……と、確か5人家族でしたね?」
「あ、はい! 子供が3人居て、今は5人で暮らしてます」
「わかりました。はい、これでっと……すみません。お待たせしました」
「え?」
あくあさんはケーキボックスの入った紙袋と一緒に、プレゼントの入った小さな袋5個をベリルの紙袋に入れてお客さんに手渡した。
「これは俺からの個人的なプレゼント。よかったら持って帰ってくれると嬉しいな。あ……荷物増やしてごめんね」
「え、あ、う……あ、ありがとうございます。家宝にしますね!」
「はは、ありがとう」
あくあさんは、お客さんに求められて握手をしたり一緒の写真撮影に応じる。
ちなみにサインは時間を短縮するため、移動の最中にあらかじめ用意しておいたベリルの紙袋にちょっとずつサインをしていた。
「長らく当店をご愛顧してくださり、本当にありがとうございました!」
「こちらこそ。いつも美味しいケーキをありがとうございました。無くなっちゃうのは寂しいけど、どうかお元気でとお伝えください」
「はい! 必ず伝えますね」
あくあさんがお客さんをお見送りすると、また直ぐに新しいお客さんがやってくる。
「うわぁっ!!」
お姉さんはわかりやすくびっくりすると、壁に張り付くように驚いた。
その反応わかります。お店に入ったらいるんだから普通にびっくりしますよね〜。
「いらっしゃいませ。ご予約のお客様ですか?」
「あ、いえ、その……今日最後だって聞いたから、商品が残ってたら買って帰ろうかなって……」
「そっか、いつも来てくれてありがとう。どれにしましょうか?」
あくあさんはそのままお客さんの隣に立つと、彼女の顔を見つめながら優しく声をかける。
もう、それ、店員とかじゃなくて一緒にケーキ買いに来た恋人じゃないですか……。
「あっ、えっと……ここのチョコレートケーキが好きなんです。オレンジのソースが入っててビター目なんだけど、ちゃんと甘さもあって美味しいんですよ」
「わかりました。それじゃあすぐに準備しますね。あっ……すみません。テイクアウトかイートインか聞くの忘れてました。どっちがいいですか?」
「あっ、じゃあイートインで」
「OK、ちょっと待っててね!」
あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!
これですよこれ!
トマリギ時代のあくあさんを思い出して、悶えそうになります。
最初は丁寧なのに、気がついた時には距離を詰めてくるんですよ。
もうそうなったら最後、私達のような初心な女性達はこの底なしのあくあ沼から抜け出す事なんてできません。
しかも今になって気がつきましたが、途中のテイクアウトかイートイン聞くの忘れてましたって、あれ絶対にわざとじゃないですか……。当時はコロっと普通に騙されましたが、初めての場所でこんなにも迷いなく動いてる人が、そんな初歩的な事を忘れるわけないんですよ!!
「はい、チョコレートケーキとアールグレイティーのセットです。よかったらこれ、お店からのサービス」
「あ……クッキー、ありがとうございます」
感極まったのか女性がポロポロと涙をこぼしてしまう。
わかります。前準備もなくこんな事されたら、そうなっちゃいますよね。
「大丈夫?」
「すみません。なんか、その……家族が居た頃を思い出しちゃって……」
あっ……この人、私と同じなんだ。
私も家族がいなくなった時期があるから、その気持ちが痛いほどわかります。
あくあさんはそっと女性に近づくと優しく背中をさする。
「そっか。ゆっくりでいいからね」
「はっ……はい!」
女性が笑顔になったのを見たあくあさんはその場にしゃがむと、女性の顔を見上げるように話しかける。
「そうだ。俺が笑顔になる魔法をかけてあげよう」
「えっ? あ……」
あくあさんはフォークを手に取るとケーキの先っちょを上手にカットして女性の口の近くへと持っていく。
な、何をやっているんですか!? って、思わず突っ込みそうになる。
女性もびっくりしすぎたのか、出ていた涙が一瞬で引っ込みました。
「ほら、口を開けて。この魔法のケーキを食べたら、楽しい事を思い出して笑顔になれるから、ね?」
「え、あ、う……ひゃい……」
なんでしょう。
あっ、やっぱり本物ってすごいんだなぁって、定期的に分からせてくる感じ。
国民全員が強制的に白銀あくあのサブスクに入らせられているというかなんというか……。ベリルのマネージャーになって、あくあさんのお側にいるようになって、そして結ばれて、近くにいるようになればなるほどに、この人は特別なんだって気付かされる。
とあちゃんも、黛さんも、天我さんもすごいけど、それ以上に……ああ、だから同じ男性達もあくあさんに憧れるのですね。聖あくあ教、認めたくはないですが、そんなふざけた宗教が生まれてくるのも心の中では理解できてしまいます。
「ほら、笑顔になった」
「は、はい」
こんな店員いてたまるかって思わずツッコミそうになる。
あくあさんはその後も入れ替わり立ち替わり入ってくるお客さん達に、変わらない極甘なサービスを提供していく。
あくあさん……。
私は胸の上に置いた手をぎゅっと握り締める。
あくあさんは、一体どこまで行ってしまうんだろう。
サーキットで私の前を駆け抜けていったあくあさんの姿を見た時、私はすごく不安な気持ちになった。
単純に危険だからってのもあるけど、理由はそれだけじゃない。
あくあさんはいつか私を置いて、どこか遠くにいっちゃうんじゃないかって思った。
『俺は証明したいんだ。男だからとかじゃねぇ。天我や猫山が作った曲で、黛が書いた歌詞で、俺がプロデュースした作品で、白銀あくあっていう1人のアーティストが世界と対等に渡り合う瞬間を……。これは俺個人のわがままだってことはわかる。それでもあいつなら世界に通用するんじゃねぇかって、そう思っちまうんだ』
『あくあ君は華があるわぁ。カメラに収めた瞬間わかるの。男の子だからじゃない。スタァなの、生まれながらのね。写真家としては、この国に限らずいろんなロケーションであの子の魅力をもっともっと引き出してあげたいって思っちゃうのよねぇ』
『私はあと何回、あくあ君と同じ作品が作れるかな? 今まで特撮にしか興味なかった私が、主演があくあ君なら、特撮じゃない作品を撮ってみたいなって初めて思ったの。ははっ、なるほど、これが恋って感情なのかな? 今、なんとなくわかった気がするよ』
『私の今の目標はね。いつか自分が書いた作品であくあ君が主演を務めてくれたらって……でも、もうそんなに猶予はないと思うの。だから頑張らなきゃいけないって思った。もっと仕事をしようって』
『僕はあくあがいつか世界に打って出なきゃいけない時が来ると思ってる。だから頑張らなきゃ。僕は置いていかれたくないから。琴乃お姉ちゃんと違って、それだけが僕があくあの側にいれる唯一の理由だから』
『あくぽんたんの才能を世界が放っておくとは思えないわ。だからその日がいつ来てもいいように……あんたも覚悟決めといた方がいいわよ、阿古。少なくとも私はもう後に引けない。だって、そのために今日、世界のトップレベルでやるためにも、絶対に倒さなきゃいけない奴にケンカを売って来たばかりですもの。え? なんでそんな事するのかって? そんなの決まってるじゃない。私はね、ずっとあいつの前に立っててニヤニヤしてやるのよ。そしたらあくぽんたんも私の事を絶対に無視できないでしょ!』
モジャさん、ノブさん、本郷監督、白龍先生、そしてとあちゃん、小雛ゆかりさん。
ベリルに入って、阿古さんの側で働く事が増えてからそういう話が耳に入るようになってきた。
小雛ゆかりさんが誰に喧嘩を売ったのかまではわからなかったけど、あの顔は確実に本気だったと思う。
「本当にありがとうございました」
「いえ、こちらこそありがとうございました」
夜18時過ぎ、あくあさんはお店にあった商品を全て売り切った。
本当ならここで終わりだけど、私だってここで終わりじゃない事はわかっています。
あくあさんは自分の持ってきたバッグの中から一通の封筒を取り出した。
「今まで長い間、本当にお疲れ様でした。お手紙を読ませてもらった時から、新しい門出を迎えるお2人を応援できたらなって思ってて、よかったらこのプレゼントを受け取ってくださいませんか?」
依頼主のお2人はあくあさんから受け取った封筒をゆっくりと開封する。
一体、何が入っているのだろうと見ていると、2枚組のチケットが封筒の中から出てきました。
「これは……クルーズ船のチケットかしら?」
「はい! 実は藤百貨店さんとのディナーショーをクルーズ船の中でやる予定なんです。日付はまだちょっと先なんですが、お2人の新しい船出にぴったりなんじゃないかなって思って、特別に早めにチケットを作ってもらったんです」
あ、藤百貨店とのディナーショー、そんな事になってたんですね。
そういえば前に企画を立案したらしい楓さんが第2回も楽しみにしててねって言ってたっけ。
第1回の時は楓さんが担当だったから呑気な顔をしていましたが、果たして大丈夫なのでしょうか? あくまでも白銀あくあトークショーなので、インタビュワーが変更になる可能性だってあるのに、気がついてない気がします。
「私達にまで、こんな素敵なプレゼントを……本当にありがとう!」
「あくあ君のおかげで、常連さん達がみんな笑顔だった。本当にありがとうございます」
「こちらこそ、今日はお世話になりました。それじゃあ次はトークショーでお会いしましょう!」
あくあ君は手を振ってお店を後にする。
お店の外に出ると、噂になっていたのか凄い人だかりができていた。
「はい。そういうわけでね。ベリルのクリスマスキャンペーン、白銀あくあ愛知編はこれにて終わりとなります。いやあ、楽しかったのでまた来たいですね。なんかめちゃくちゃ量が出る山みたいな名前の喫茶があると聞いたので、ベリルのメンバーで来たいなって思ったし、アヤナとも次に名古屋に来たらあんかけスパゲッティ食べに行こうって約束したんで、そっちでもまた来れたらなって思います。それじゃあみんな、また来年のクリスマスで!!」
あくあさんはカメラに向かって手を振る。
そこで番組の撮影は終了だ。これがまた編集されてのちに放送される予定になっている。
「愛知の皆さん。今日はありがとうございました!!」
あくあさんは撮影が終わった後に、集まってきてた人達に向かって頭を下げる。
そんな事しなくていいよってファンの皆さんも言ってるけど、こういう事をするのがあくあさんなんですよね。
「これ以上はちょっと人が集まりすぎると危険だという事なので……みんな、俺の事を見にきてくれたのに、何もしてあげられなくてごめんね」
あくあさんはそれだけ言うと、申し訳ないと手で合図を送りながらロケバスの中に乗り込んだ。
周りのファン達もうまく統率がとれているのか、私が周囲を見渡すとみなさん一定の距離を空けてくれます。
発進のための安全が確保されたのを確認してから、私達スタッフもあくあさんの後に続いてロケバスに乗り込む。
「運転手さん。悪いけど、この場所まで行ってくれますか?」
「わかりました!」
ロケバスに乗って十数分、名古屋駅の側にあるホテルに到着しました。
晩御飯を食べる所は、あくあさんがあらかじめ予約してくれていたみたいですが、安全性を考慮してホテルのレストランを選んだのかもしれません。
「白銀様、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
私達がホテル内のレストランに入ると食事していたお客さん達がびっくりした表情を見せる。あくあさんが、すぐにごめんね、打ち上げなんだっていうと、みんな理解してくれたのか静かに頷いてくれました。いい人たちばかりで、本当にありがたい限りです。
あくあさんは個室を2つ予約してくれていたみたいで、私達2人はスタッフさんと分かれて食事をする事になりました。
「あ、な、なんかちょっと、デートみたいですね」
「デートだよ琴乃。だから、ここからは仕事じゃなくて、プライベートね」
あっ、ずるいって思いました。
そうやってすぐに表情を切り替えて、もう……! 私の方が年上だからしっかりしないといけないのに、あくあさんと一緒にいると私の方ばかり甘やかされます。
「琴乃は明日からも仕事だっけ」
「はい。みなさんがお休みしてる間に、溜まってる事をやっておこうかなと思いまして」
「……無理してない?」
「確かにここ1週間はちょっと忙しかったけど、その前は十分お休みをもらいましたし、26日から30日までの4日間も働き詰めってわけじゃないので、ゆっくりと他のマネージャーさん達とお話ししながらのんびりとやる予定にしていますから」
「そっか。それでもキツくなったら言ってね。琴乃が倒れたらカノンやとあも心配するだろうし、何よりも俺が心配するから、そこだけは覚えておいて」
「あ……はい」
あくあさんが私を心配……とあちゃんやカノンさんが心配してくれるのも嬉しいけど、それとはまた違う感覚で嬉しくなります。
「って、プライベートなんて言っておいて、仕事の話しちゃってるし、ほんとごめん」
「いえいえ。私にとってもうこの仕事は生活の一部というか、天職だったというか、仕事してるっていうより毎日が好きな事をしてるって感覚しかないんです。毎日遊んでるって言ったら語弊があるかもしれませんが、自分の趣味に没頭してる時間ってすごく楽しいじゃないですか」
「あ、うん。確かに……じゃあ、俺がアイドルやってるのと同じ感じ?」
「はい、そうです! あくあさんが楽しんでアイドルやってるのと同じ理由です」
「そっか! それでもまぁ、体調にだけは気をつけてね」
「ふふっ、そこはお互い様ですよ」
「確かに! 俺はもうすでに倒れた事があるから強く言えないや」
そういえばカノンさんから、私が入社する前にあくあさんが倒れた事があると聞きました。
確かその時は、雨に打たれて月街さんと山奥の廃校で一晩過ごしたとか……。
お昼にあくあさんと一緒に食事をしていた月街さんは、間違いなくあくあさんに好意のある表情をしていました。
なるほど……2人のデュエット曲、月街さんの歌詞が意味深なのも今考えれば、その時にお2人の間で何かあったのかもしれませんね。
「ん……手羽先うっま!」
「美味しい! まさかホテルのレストランで手羽先を食べられるとは……」
さっきお手洗いに行く時にこっそり聞いた話では、なんでもあくあさんが予めホテルの人にお願いして、せっかくだからと私やスタッフの皆さんにと愛知の名物が堪能できるフルコースをお願いしていたそうです。
それもあって今日はこのレストランには、近隣の名店から腕利きの料理人が集結しているのだとか……。
「名古屋コーチンもうめえ!」
「味噌カツもおすすめですよ。お一つどうぞ」
私とあくあさんはお腹が空いてた事もあって、運ばれてくる料理のあれが美味しいこれが美味しいと語らいながら胃袋を満たしていきました。
「締めの天むすうますぎ……」
「きしめんも美味しいですよ」
うっ、流石にちょっと食べすぎちゃったかも……。
最初はあくあさんと一緒だからあんまりガツガツしないようにって思ってたのに、美味しそうに食事をするあくあさんの表情を見てると食欲が湧いてきて我慢できませんでした。
「ご馳走様でした。今日は俺の無理な注文に応えてくれてありがとうございます。是非とも皆さんに心ばかりのプレゼントをさせてください」
あくあさんは皆さんにプレゼントを渡すと、スタッフの人達をそのまま残して2人で少し話そうと言ってくれました。一体どこへ向かうというのでしょう?
私はあくあさんと一緒にホテルコンシェルジュの後ろについていくと、そのホテルのスィートルームに案内されました。
「おいで、琴乃」
「は、はい……」
夜景がよく見えるソファに腰掛けたあくあさんの隣に私はちょこんと座る。
うっ、こんな事なら、さっき匂いの濃いものばかり食べるんじゃなかった……。
「ごめん、琴乃。色々と気を遣わせちゃって」
「え……?」
「結婚の事とか、色々と後回しになっちゃって」
「あっ……はい。それは大丈夫です。年末年始は私も仕事に集中したかったし、これは仕方のない事ですよ」
「確かにそうかもしれないけど……いや、そうだったとしても、琴乃の事を考えたら不安じゃないわけないよなって思ったんだ」
あくあさん、ちゃんと私の事も考えてくれてるんだ。それだけで心の中がほんわかとした気持ちになる。
ネットじゃカノンさんが色々言われてるけど、多分……ううん、私の方が確実にもっとチョロいと思います。
「あくあさん……。私はそうやって、あくあさんが少しでも私の事を考えてくれているんだって、その事がわかっただけで十分に嬉しいです」
「ありがとう琴乃。でも、そうやって琴乃に甘え続けてるのはダメだって思ったんだ」
あくあさんはポケットから小さな箱を取り出すと、私の目の前でその小さな箱を開いた。
私はその中に入っていたものを見て言葉に詰まる。
「だから、琴乃の指に誓いを果たすよって証をつけてもいいかな?」
「あ……あ……」
「って、流石にそれはカッコつけすぎかな。本音はさ……」
本音? 私が呆けた顔をしていると、あくあさんが私に顔を近づけてそっと耳元で囁く。
「琴乃は俺のだから誰もちょっかいかけるなよって牽制してるんだよ」
琴乃は俺の……。
琴乃は俺の……。
琴乃は俺の……。
その言葉が何度も私の頭の中に繰り返される。
キャパオーバーした私は顔を真っ赤にした。
「そっ、そんな事しなくても、あくあさん以外で私の事を好きになる人なんて……」
「そうかな? みんな本当の琴乃の事を知らないからそう思うだけで、俺は琴乃がすごく素敵な女性だって事を知ってる。だからみんな琴乃の事を知ったら好きになる男の人は多いよ。それくらい琴乃が魅力的な女性だって事は俺が保証する。ま、俺は内面だけじゃなくて、琴乃の外見にも凄く魅力を感じてるけどね」
それって私の外見も中身も全部好きって事じゃないですか!!
こんな私を全肯定したところで、あくあさんが好きなこの大きな膨らみを押し付ける事しかできませんよ!
あ、いや、こういう時はギュッと押し付ければいいのか……って、そうじゃない! 明らかにそんな雰囲気じゃないでしょ。貴女が捗るさんや楓さんと同じレート帯になったら誰が真面目にやるんですか! しっかりしなさい、桐花琴乃! と、心の中で自分の頬を往復ビンタしまくって気合を入れ直した。
「あくあさん……」
あっ、だめ。やっぱりギュッて欲しいかも……。
胸の奥がキュンキュンします。
「いいよ。おいで、琴乃」
あくあさんは私の気持ちを汲み取ってくれたのか、それに応えるように私を抱きしめてくれた。
不安な気持ちが吹き飛ぶくらい私の中があくあさんで満たされていく。
あ……ダメ、なんか安心したら、眠たくなってきちゃったかも。
「大丈夫。琴乃はこのまま寝てていいから」
耳元で囁くあくあさんの優しい声色に包まれるように、私の意識がゆっくりと深く沈んでいく。
「おやすみ、琴乃」
せっかくなら幸せな夢が見たかったな。
でも私が思い出したのは、何故か小雛ゆかりさんとの記憶でした。
『桐花マネって見た目と違って、待つタイプでしょ?』
この記憶は確か……阿古さんが少し遅れていた事もあって、小雛ゆかりさんと2人きりで少しお話をした時の事ですね。
『小雛さんは待たないんですか?』
『私は逆ね。絶対に先に行くの。先に行って階段4段くらい登ってから、ソイツの事を見下ろしながら、遅かったじゃない、良く来たわねって言ってやるの』
『ふふっ』
小雛ゆかりさんらしい答えだなと思ったら自然と笑みが溢れました。
『ほら、私って身長低いでしょ。その点、桐花マネはいいわよね。私と違って身長が高いから階段に登らなくていいし、前にさえ進めばいいだけなのよ』
『小雛さん……?』
小雛さんはソファから立ち上がって、私の横を通り過ぎる。
私がそれを目で追いかけるように身体を小雛さんの方へと向けると、こちらを振り返った小雛さんが私の顔をビシッと指さした。
『置いてかれる女より、追いかける女より、待ってあげる女の方が楽よ。今選ばれてる4人の中じゃ、あんたが1番苦労しそうだから先に言っておくわ』
ああ……なるほど、小雛さんはこうなる事がわかってて、あの時、私にそう言ったんですね。
目が覚めた私は、1人のベッドで左の薬指につけられた婚約指輪を優しくなぞる。
ベッドの上には、ごめん、カノンとの約束のために先に帰るけど、琴乃はゆっくり寝てていいからねと書かれたあくあさんの書き置きが残されていた。
「置いていかれるより……追いかけるより……待ってあげる女の方が楽……か」
私はベッドから起きると、天鳥社長に電話をかける。
「おはようございます。天鳥社長、朝早くからすみません」
「もしもし。琴乃さん、おはよう。どうかした?」
私はぎゅっと左手を握りしめる。
「実は天鳥社長にお願いがあって電話をかけました」
「何かな?」
「一度断っておいて申し訳ありませんが……例のお話をお受けしようと思います」
「……どうして、そう思ったの?」
私は軽く息を吸うと、決意を新たにして阿古さんに、ううん、自分の心に宣言する。
「後ろからのサポートだけだとダメだって思ったからです。みんながどんな道を選択しても進めるように、私がみんなの進む未来を切り拓いていきたい。そのためにも、この私に会社を背負う責任と立場、彼らを本気で守る力をくださいませんか?」
「……いいでしょう。それでは来年3月末日を以って、桐花琴乃統括マネージャーをマネージャー部門から外し、来年4月から新しくなるベリルエンターテイメントの新取締役として迎え入れる事をここに了承します。琴乃さん……改めてよろしく。これからも一緒に頑張りましょう」
「はい……! ありがとうございました!」
私は電話を切ると、ベッドの上にストンと腰を落とした。
これでもう後には引けない。
取締役になれば、大きな仕事で失敗したとき解任される事だってある。
そうなったら大好きなこの仕事がもう続けられなくなってしまう。
例えそうだとしても、もうこの選択に後悔はない。
私だって言ってやるんだ。小雛ゆかりさんみたいに、あくあさんより先に行って、遅かったですねって!
「遅かったわね。悪ノリし過ぎたこいつらなら、上から下まで全員とっちめて再教育しておいたわよ」
「あ……はい」
その日の午後、乙女ゲーがどうなっているのかを確認するために私はゲーム会社を訪れました。
到着した私が会社の中に足を踏み入れると、目の前で社員を全員土下座させてる小雛ゆかりさんが私を見てそう言ったのです。
私は表情を引き攣らせながら、この人より先に行くのは無理そうだなと確信しました。うん……。あくあさんは色々と大変だろうけど、頑張ってください……。私は野良の小雛ゆかりには空のペットボトルを投げつけても、本物の小雛ゆかりさんにだけは逆らわないようにしようとこの時、心に決めました。
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