白銀あくあ、ハジメテのCM撮影。
「初めまして、ベリルエンターテイメントからやってきた白銀あくあです。今日はよろしくお願いします!」
「よろしくお願いしまーす」
ついにきました! アイドルとしての初めてのお仕事です。
とは言ってもアイドルのデビューとしては良くあるライブ出演などではなく、前に雑誌で撮影した森長さんのメリービスケットのCM撮影だ。
阿古さんが前の会社を辞める時に、上司の人からどうしてもこの仕事だけは受けてくれと懇願されたらしい。
俺としても、森長さんが繋いでくれたご縁のおかげで今があるので、こちらこそ是非にと二つ返事で了承した。
「ごめんね白銀くん」
「いえ、むしろ直ぐに仕事をとってきてくれて嬉しいです」
前回はとあちゃんと一緒だったが今日の撮影は俺一人だ。
初めてのCM撮影に俺も少し緊張している。
「ありがとう、白銀くん。その衣装、とっても似合ってるよ」
俺は鏡に映った自分の姿を改めて確認した。
清潔感のある半袖の白シャツは夏を強く感じさせるし、シンプルな装いはさっぱりとした清涼感が表せている。
CMが流れる時期や売りたいコンセプトをうまく意識したスタイリングだった。
「CMの放送日、確か夏前でしたっけ?」
「ええ、今回はCMの他にもHPで使う画像やキャンペーン用紙に使う写真なども一緒に撮るから、その予定でお願いね」
俺はよく知らなかったけど、夏は口の中がモサモサするクッキーとかビスケットの売上が結構落ちるらしい。
森長さんは、夏でも定番商品のビスケットを売るために、口の中がもったりモソモソとしないような軽めの食感にしたりと色々と工夫したそうだ。
そうした商品開発部の人たちが頑張った結果、新たにリニューアルされたのがこの森長メリービスケットである。
特徴的な真っ赤の箱は可愛らしく、イメージキャラクターの羊のメリーさんは俺好みの可愛いデザインだった。
「白銀さん、撮影を開始しますが大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です!」
俺はググッと背筋を伸ばす。
「疲れたら直ぐに言ってね。休憩の時間もちゃんと取ってあるから」
「ありがとうございます、行ってきます!」
初めてのCM撮影、緊張するかと思ったけど、それ以上に楽しかった。
人間、楽しいことをしていれば時間が過ぎていくのも早い。
お昼後にスタジオ入りしたのに、撮影が終わった頃には外はもう夕暮れ時になっていた。
「メリーさん、今日はありがとうね」
俺は今日、一緒に撮影を頑張ったメリーさんの着ぐるみに感謝の気持ちを伝えようとギュッと抱きついた。
メリーさんのモコモコの手触りがすごく柔らかくて、俺はだらしのない表情になる。
「ふへっ!?」
あれ? なんか着ぐるみの中から間の抜けたような声が聞こえたような……?
俺はメリーさんの事をジッと見つめる。
「メェ〜」
うん、やっぱり俺の空耳か。
俺はメリーさんに手を振って別れを告げると、撮影のスタッフさんたち一人一人に今日はありがとうございましたと感謝の気持ちを伝えていく。何せ俺は新人、新人にとって挨拶回りとはとても重要なことなのだ。
「今日はありがとうございました! お先に失礼します!!」
「こちらこそありがとう! 思っていた以上の作品ができたわ。良かったらこの後も白銀くんには、うちのメリーさんと継続的にこの商品のイメージキャラクターを務めてくれると嬉しいのだけど……」
取引先のお菓子メーカー、森長の偉いお姉さんが俺の隣にいた阿古さんの方へと視線を流す。
「ありがとうございます。大変ありがたい話なので、改めて正式にお話を伺えればと思っております」
「そうね。白銀くんも今日は疲れたでしょうし、また後日ゆっくりとお話ししましょうか」
阿古さんと森長のお姉さんはガッチリと握手を交わす。
俺は事前に阿古さんから継続をお願いされた場合はどうした方がいいか相談を受けた。
阿古さんからはありがたいことに、会社のことよりも俺がやりたい仕事をやって欲しいと言われている。
俺としても最初のご縁である森長さんとの関係は大事にしたいと思っているし、何よりも最初はお仕事を軌道に乗せるためにもあまり選り好みはしたくなかったので、できれば継続の方向でと事前に話し合っていた。
阿古さんが俺のことを一番に考えてくれているように、俺もまたサポートをしてくれる阿古さんの事を大事にしてあげたいと思っている。だからこういう大手との継続的な取引は、きっと事務所を運営する上でとても助けになるはずだ。アイドルが言うことじゃないけど、やっぱり何かをしていく上でお金ってすごく大事だしね……。
「それじゃあ、いこっか」
「はい!」
俺たちはすれ違う人たち一人一人に、先ほどと同じように今日はありがとうございましたと感謝の言葉を伝えていく。そういえば最初にここにきた時も、同じような事をしたら驚いていた人が多かったけど、みんな2回目は普通に対応してくれた。
「あっ……」
「どうしたの?」
地下の駐車場にいく前のエレベーターホールの前で、急にもよおしてきた俺はトイレに行きたくなる。やはり少しは緊張していたのだろうか。一度おしっこがしたいと思ったら、我慢できそうになかった。
「すみません、トイレ行きたくなっちゃったんですけど……」
「わ、わかったわ」
阿古さんはなぜか動揺したそぶりを見せる。
そして何やらボソボソと小さな声で呟いた。
「そ、そっか……白銀くんだって、おトイレくらいするよね……」
「?」
俺が首を傾けると、阿古さんは両手をぶんぶん振ってなんでもないよとアピールする。
「あっ、ううん、なんでもないの。それじゃあ私、先に下に行ってるから。白銀くんのご家族の人にも電話しておくからね」
「はい! ありがとうございます」
俺は阿古さんと別れると、男性用のトイレが設置された場所へと向かう。
前世では男性用のトイレと女性用のトイレは基本的に隣り合って設置されていたが、この世界では男性用のトイレは離れた区画に設置されている。
なんでも男性を守るための処置らしい。でも、男性自体がほとんど外に出ないから、こういった施設内の男性トイレはあまり利用されていないそうだ。
「ちょっと! 何か言いなさいよ!!」
俺は突然の怒鳴り声にびっくりした。
えっ? もしかして……俺?
周囲をキョロキョロと確認するが誰もいない。どうやらこの怒りの声は、俺にぶつけられた言葉ではないみたいだ。
「……先輩、ここ男性専用フロアですよ。いいんですか?」
話し声は俺が向かう先の男性用トイレがある曲がり角の先から聞こえてきた。
ははーん、男性用のトイレがあまり利用されてないのを良いことに、呼び出した後輩をいびっている先輩がいるのかな?
それにしても……さっきの怒鳴られている側の声、どこかで聞き覚えがあるような気がするのは俺の気のせいだろうか。
俺は足音を立てないように曲がり角に近づくと、様子を窺うように覗き込んだ。
「っ! 最近ちょっと売れてきてるからって、調子に乗るんじゃないわよブス!!」
俺より少し年上くらいに見える女性が顔を真っ赤にしてキレていた。
怒られている側の人物を確認しようと、俺はさらに顔を前に突き出して覗き込む。
「……別に調子に乗ってませんけど。はぁ……私、次の仕事があるんで、もう帰っていいですか?」
声の主を見て俺は驚く。見覚えのある整った容姿と艶のある綺麗な黒髪、先輩らしき女性に怒られていた女性は、正統派美少女こと俺の隣の席の月街アヤナさんだった。
この撮影スタジオの入っているビルは、基本的に芸能関係、タレントや女優、アイドルや歌手が利用する場所だと聞いている。アヤナさんの年齢や容姿を考えると、スタッフや社員というよりも、おそらくはそっち側の人物だろうという事は安易に予想できた。
やけに美少女だと思ってたけど、まさか同じ芸能人だったとは……。しかし、芸能人であるならばあの優れた容姿にも納得できる。
同級生の月街さんの様子を窺うと、怒鳴り声の主以外にも他に2人、合計3人の先輩と思わしき年上の女性に囲まれていた。
「だからっ! あんたそういう態度が生意気だって言ってんのよ!!」
先輩と思わしき人物は、頭の高さより高く手を振り上げる。それに対して月街さんは、微動だにせず先輩の方をジッと見つめていた。
まさかとは思ったが、月街さんはあえて殴られる事で早く終わりにしようとしているのかもしれない。
しかし俺は、殴られそうになっている女性を前にして、じっとしている事なんてできなかった。
「ねぇ、君たち、ここでどうしたのかな?」
俺はわざとらしく足音を立てて、偶然にも今通りかかった風にその場に現れた。
「えっ……? エ!?」
女性たちは俺の存在にびっくりしたのか、動揺した素振りを見せる。
「う……そ、この人って、あの雑誌の……」
「な、なんでこんなところにいるの?」
俺は月街さんを守るように間に入ると、振り上げられた先輩の右手を諌めるために、自らの両手でギュッと握りしめた。
「何があったのかはわかりませんが、そんなことをしたら貴女の手が傷つくだけじゃないですか。もっと自分の体を大事にしてあげてください。それに相手の女の子だって傷ついてしまう。ね? だからこんな愚かな事は、止めにしませんか?」
俺が手を握った女性は呆然とした表情をしていた。
すらりとした体型と、細い腕、そして自信があるのかおでこを出して自らの顔を前面に見せている。
さっきまでの強気な表情といい、おそらく彼女はモデルさんじゃないだろうかと思う。
「理由がわからないのに、俺みたいな第三者が間に入ってしまったことは申し訳なく思いますが……それにしたって暴力はダメです。ね?」
女性は口を半開きにして無言でコクリと頷く。大丈夫かな? 本当にわかってる?
俺は彼女が二度とこういう行動にでない様にするために、彼女の耳元に顔を近づけてさらに念入りに注意しておく。
「俺と約束、してもらえますか?」
俺が彼女の耳元で改めてお願いすると、わかってくれたのか今度は声に出して応えてくれた。
「ふぁ、ふぁぃ」
良かった……最初はどうなるかと思ったけど、やっぱり人間、しっかりと向き合って、口に出してお願いすれば相手に通じるもんなんだなと思った。
その後、急に足元がおぼつかなくなった彼女を、後ろにいた女子二人が背中を支えて運んでいく。
大丈夫かな? もしかして体調が悪くてイライラしてたのだとしたら、申し訳なかったかなぁ、なんて考えていたら、俺の後ろ方から月街さんの声が聞こえてきた。
「……ありがとう。助けてくれた事には本当に感謝するわ」
月街さんは、申し訳なさと困惑が入り混じった表情を浮かべていた。
あぁ……もしかしてさっきの光景を見られたくなかったのかな?
大事にしたくなかったりとかしたのなら、第三者の俺が間に入ったのは愚策だったかもしれない。
「あ……いや、こっちこそ状況がよくわからないのに、自分勝手な正義感で勝手に首を突っ込んでごめん……。でも月街さんが誰かに殴られるくらいなら俺はまた同じ様な事をするつもりだから」
月街さんは目を伏せ、自らの腕をもう片方の手で押さえるようにギュッと握りしめる。
「ううん……今回は、面倒くさがってわざと殴られようとした私が、結果的に貴方に迷惑をかけちゃったことだから、貴方が私に謝ることなんて何一つないのよ。それよりも寧ろ私の方が面倒をかけちゃってごめんなさい」
月街さんは俺に向かって頭を下げる。
俺はいいよいいよ気にしないでと、両手を左右に振って、すぐに月街さんに頭を上げるようにお願いした。
「えっと……それじゃ、私、もう次の仕事が押してるから」
月街さんは再度、俺にお礼を述べると、次の現場へと向かった。
ほんの少しだけ距離が縮まったかな? そう思ったけど、月街さんは翌日も同じようにお昼は1人でどこかにいったりと相変わらずの壁を感じた。




