白崎アイ、王子様は向こうからやってくる。
『この前の事でお話があります。俺の空いてる時間を添付しておくので、先生の都合の良い日を教えてください』
数週間前に送られてきたメールを見て、私はため息を吐いた。
差出人の名前は白銀あくあ。私の想い人である。
「会いたく……ないな……」
ベランダの手すりにもたれかかった私は、携帯越しに暮れ行くトワイライトの空を見つめる。
こんな薄暮れの中でも綺麗に輝くアルデバランの光のように、彼はその大きな光で多くの人達を惹きつけ、その輝きをさらに増していく。
遠いなぁ……。どこまでも遠い。
もし自分がもう一回り若かったら、何度もそんな事を考えた。
いや、例え若かったとしても、この結果は変わらなかっただろうと思う。
「いい加減、覚悟決めなきゃね」
あのデートの日、私は勢い余って彼に告白した。
それだけならまだ傷は浅かったが、私は断られたくなくて焦った結果、何を思ったのか彼の唇を強引に塞いでしまったのである。ああ……何て事をしてしまったのだろう。青褪めた私は、後で冷静になって彼に謝罪した。
あくあ君は気にしなくていいよと言ったけど、私が男性を襲った事実は変わりがない。
カノンさんにも謝罪のメールを送ったけど、寧ろそれくらいしないとあくあは恋心に気がついてくれないからいいよって、私の行いを赦してくれたのである。
だからこそ余計に苦しくなった。
せっかくあくあ君が世界を変えようとしてるのに、年齢的にもそんな子達を守らなければいけない立場の私がこんな事して良いはずがないって……。
自首しようとも考えたけど、琴乃さんや阿古さん、編集にも先生それだけはと止められた。
「本当、良い歳して私は何をやってるんだろうな」
私は手に持ったビール缶を揺らせた。
少し離れたところから聞こえてくるテレビの音に耳を傾ければ、森川さんとあくあ君の話で盛り上がっている。
お見合いパーティーが終わった後の夕方のニュースでは、全番組でその事とお見合いパーティーについての話で持ちきりだ。
国営放送なんて特別編成で今までの森川さんとあくあ君との共演を振り返るらしい。
そしてインターネット、特に掲示板では琴乃さんとの話で盛り上がっていた。
「いいなぁ……」
おめでとうって文字を打つ時、泣きそうになった。
でも私がした事を思い返せば、私に泣く権利はない。
私はぐいっとビールを飲むと、縁についた泡を見つめた。
この泡みたいに私の恋心も消えてくれたら良いのに……。
「あ……」
ポツリ、ポツリと雨が降り始める。
最初は通り雨かなと思ってたけど、さっきまで晴れていたのが嘘のように大雨が降り始めた。
まるで私の心を映しているみたい。森川さんが晴れ女なら私は雨女かもね。
そんなくだらない事を考えてしまったせいで雨に少し濡れた私は部屋の中へと戻る。
「雨、止まないかな……」
今まで何度も恋を題材にした作品を執筆してきた。
自分が恋をした事がなかったから、恋愛のいいところばかりを見て夢に溺れていたんだと思う。
あくあ君を好きになって、恋をするって事がこんなにも辛い事だって知った。
どうすればこの痛みから解放されるのだろう。
全てを諦めたら、そこで楽になれるのかな?
ううん、想像しただけでも今までとは比べ物にならないくらい心がズキズキと痛んだ。
この痛みを一生抱えて生きないといけないのかと思ったら、それだけでもう耐えられなくなる。
あくあ君の空いてる時間でいいよ。
そこまで打って返信できなかったメール。
お見合いパーティーでカップル成立した人達の笑顔が頭をよぎった。
その一方で、カップルになれなかった女の子達もいる。
彼女達はみんな、涙の痕を見せながら、気丈にも笑顔で前を向いていた。
『自分の気持ちに整理がつきました。ありがとうございます』
『これで終わりじゃない。また次に向けて頑張りたいです』
『誰かを好きになれてよかったと思いました。このような機会をくれた事に感謝したいです』
『挑戦した自分を褒めてあげたいです。だからこそ悔いはありません』
『人を好きになるって事を教えてくれてありがとう。そして幸せになってくださいって伝えたいです』
彼女達を見て凄いなと思った。それと比べて私はどうだろう。
自分もいい加減この中途半端な状況にけりをつけないといけないと思った。
私は送信ボタンの近くへ指先を持っていく。
踏ん切りをつけるために柄にもなくビールなんて飲んでみたけど、全然酔えないや。
ボタンを押そうとする指先が小刻みに震えていた。
ピンポーン!
ボタンを押そうとした直前、インターフォンの音が鳴る。
こんな時間に誰だろう?
もしかしたら心配した編集が来てくれたのかなと思った。
「はい」
私はインターフォンの画面に映った人物を見て固まった。
「先生、お久しぶりです」
え? えっ……?
なんでこんなところにあくあ君が?
確かさっきまでお見合いパーティーの仕事をしてたはずじゃ……。
「急に訪ねてきてすみません。でも……どうしても先生に伝えないといけない事があってここに来ました」
あ……。
私はあくあ君の言葉で全てを悟った。
この関係に区切りを、私の事をちゃんと振りに来てくれたんだね……。
情けないな。自分でもそう思った。
今だって頭の中じゃ半分諦めてるけど、もう半分はどうにかして先延ばしにできないかなんてずるい事を考えている。
そんな時、私はモニター越しにあくあ君の異変に気がつく。
「あくあ君……もしかして雨で濡れてるの?」
「はい。番組が終わった後、知り合いのバイクを借りてここに来ましたから」
ずぶ濡れになったあくあ君をみて私は慌てる。
私は普段高輪の一軒家に住んでるけど、今日は缶詰で作業する時に借りているマンションの方に来ていた。
自宅の方に来てるならそのまま玄関を開ければいいけど、マンションの場合はどうしたらいいんだっけ?
「ま、待って、今開けるからすぐに上がってきて」
えっとえっと……風邪をひいちゃいけないから急いでお風呂の準備しなきゃ。あ、それと着替え、着替えどうしよう!? 私の服じゃサイズ合わないし……あっ! 思い出した! 作品の参考にするために男性用の服とか買ってたっけ。えーと、どこに置いてあったっけ……。
そうこうしている間に、あくあ君が玄関前についたのか再びインターフォンの音が鳴る。
「はいっ!」
私が慌てて玄関を開くと、雨で濡れたあくあ君が立っていた。
うわああああああああああああああああああああああああああああ!
ま、待って! ちょっと待って!!
濡れた前髪、水滴のついた長い睫毛、首筋から鎖骨に滴る雨の雫、どれをとってもかっこ良すぎる。
いやいやいや、普通、そんな事にはならないでしょ!
思わず心の中でツッコミを入れてしまった。
普通はさ、雨に濡れたらぐちゃぐちゃのデロンデロンになるんじゃないの?
それなのにあくあ君の場合は、只の雨粒が白銀あくあの美しさを彩るためのアイテムにしかなってない。
反則、こんなの反則でしょ! 何も喋ってないし、何も動いてなくても、雨に濡れただけで女の子が万単位……いえ、億単位で惚れる事が間違いなしだよ。
エントランスにいた管理人さん大丈夫かな? もし他の住民とすれ違っていたら、みんな今ごろは腰が砕けてるんじゃない? でも、今の私には他人を気にかける余裕はなかった。
「先生……突然訪問してすみません」
「と、とにかく、濡れたままじゃまずいから入って」
私は反転して、あくあ君を家に入るように促す。
その瞬間、前に行こうとした私の体が強い力で抱き寄せられた。
「先生……やっと捕まえた」
最初は何が起こっているのかわからなかった。
私、もしかして今、あくあ君に抱きつかれている?
それを理解したのは隣にあった下駄箱の鏡へと視線を移した時だった。
「もう俺から逃げないで」
うわああああああああああああああ!
待って、待って、待って、急にそんな子犬みたいな表情しちゃダメだって!
胸の奥がきゅーんとする。
「あ、あくあくあくあくん?」
今にも爆発してしまうのじゃないのだろうかと思うくらい心臓がドキドキしていた。
私は改めて鏡に映った自分とあくあ君の状況を再確認する。
すごい……。こんなシチュエーション、どんな妄想や想像の世界だってないよ。
私とあくあ君の間に身長差があるせいか、あくあ君にスッポリと包まれるように抱きつかれた自分の姿を見て体温が上昇していく。
よく見るとただ後ろから抱きしめられているだけなのに、まるで自分が作品の中のヒロインになったみたいだ。
「先生、俺は先生に対して狡い事をしようとしていた」
そして私は甘く抱きしめられている。
月9ドラマのメインテーマソング、Phantom Requiemの中で囁くように歌われた莉奈の台詞が脳裏に浮かぶ。
ドラマの中とはいえ、小雛さんといい月街さんといい、あくあ君に抱きしめられてよく耐えられたなと思った。はなあたのヒロインさんや、ヘブンズソードのチジョー役の人といい、やっぱりプロの女優さんってすごいんだって再確認する。
「カノンを理由にして先生を振るなんて、先生の気持ちに対してすごく失礼な事だなって気付かされたんだ」
「そ、そそそそんな事」
頭がポーッとする。
これはアルコールを飲んだせい? ううん、そうじゃないよね。
今までに感じた事がない感情で自分の心がどうにかなってしまいそうだ。
なんか……なんか! 今日のあくあ君はいつもと違う。
そうだよ。こんな急に抱きしめたりとか、普段のあくあ君じゃ絶対にしない。
私は鏡ごしにあくあ君の顔をじっと見つめる。
さっき子犬の表情なんて言ったけどそんな事はなかった。
そもそも、こんなかっこいい子犬なんているか! どっちかというと明らかに狼でしょ、これ……。
え? え? もしかして私、このまま食べられちゃうの……?
「本当はデートした時、待ち合わせ場所に居た先生の姿を見てすごく綺麗だと思った」
わ、わわわわわ私が綺麗!?
大丈夫あくあ君!? 眼科……そう眼科に行こう! 今から緊急外来で行けるところを探すから、いや、その前に、お風呂、そうお風呂に入って一旦落ち着いてから……。
「それなのに俺は……先生のことを真剣に考えると言って、余計なことばかりを考えていたんだ」
いつもとは明らかに違う大人なあくあ君の顔を見て心がとくんと跳ねる。
それまで煩かった心臓の鼓動が静かになって、いっぱいっぱいになっていた頭の中がクリアになっていく。
ただ一つ理解できるのは、私を抱きしめているあくあ君がかっこいいって事だけだ。
「男として、白銀あくあとして、俺は白龍アイコ先生が……いや、白崎アイが欲しい」
一体何が起こっているのか、何を言われているのか理解ができなかった。
ただ心がふわふわと軽くなって、鏡を通して漂うように自分の姿を俯瞰してみている。
「俺のこの気持ちに応えてくれるなら前向いて、アイ」
あくあ君は私の体を解放すると、そっと髪の毛を手に取って口づけを落とした。
あっ、そっかー、これ夢だ。うん、きっとアルコールを摂取しすぎて夢を見てるんだよね。ビール一杯しか飲んでないけど……。うんうん、いやー、すごいな私! 私もついにここまできちゃったかー。
このシチュエーション、次の作品でやったら多分みんな盛り上がってくれるよねー、うんうん。
「夢なんかじゃないよ」
え? 待って、待って、心の中で呟いたつもりだったのに、もしかして外に向けて呟いていました?
っていうか、これ現実? え? 本当に現実で起こってる事なんですか?
「本物の俺から目を逸らさないで」
うわぁぁああああああああああああああ。
なんなの……ねぇ、なんなのよ、この子……。
もうリアルで小説とかドラマじゃん……。
二次元の中から出てきた男の子だってこんな事言わないよ。
そりゃ掲示板でも、未だに白銀あくあCG説を唱えている人がいるのもおかしくないなと思った。
「あ、あああああ、あの、私、その、おばさんだし、あくあ君より一回り上でその……」
この期に及んで私は一体何を言っているんだろうと思った。
「ほ、他の人と比べてそんなに綺麗じゃないし、その……あくあ君の好きなおっぱいだって、そこまで大きくないし……」
言い訳を並べ立てる私のことを、あくあ君は何も言わずになぜか聞いてくれた。
「はっきり言って自分でも面倒くさいなって自覚してて、それに、それに……」
どうしよう。もうこれ以上、何も言う事がない……。
「アイ、今でも俺の事が好きなら、こっちを向いて」
ずるい……その言い方はずるいよ、あくあ君。
大なり小なりあくあ君の事を好きじゃない女の子なんていないよ。
「本当に……いいの?」
体が震える。素直に後ろを振り向けばいいのに、自分に自信が持てなくてそう聞いてしまった。
なんて贅沢な女なんだろう。
自分でも思うけど、一度失敗した私はそれくらい自分のする事に対して臆病になっていた。
「アイ……俺のせいで不安にさせてしまってごめんな」
あくあ君が謝る必要なんてない。
ううん、そもそも白銀あくあだからじゃなくても、男の子なら誰だって謝る必要なんてないような事だ。
それでも彼は、あくあ君は、私達女の子と、私と、いつだって対等な関係でいてくれようとしている。
「俺はアイのその不安な心ごと全部受け止めてみせるって約束する。だから、アイ……こっちを向けよ。他の余計な事は何も考えなくていい。ただ……俺の事だけを見てろ」
カッコ良すぎでしょ……。
そこまで言われて、貴方の事をみない子なんているわけないじゃない。
私はゆっくりと後ろに振り返る。
顔を上げて、鏡越しじゃないあくあ君の顔を見つめた。
好き……。それ以外の感情なんて何もなかった。
「アイ、こっちを向いてくれてありがとう」
やっぱり今日のあくあ君はちょっと違う。
余裕すら感じられる落ち着いた笑顔が、いつもより大人っぽくてすごくドキドキした。
「ごめんな。俺が抱きしめたせいで、アイまで濡れちゃって」
あ……改めて自分のだらしのない姿を確認した私は顔を赤くした。
普段着の少しよれっとした姿は、誰がどう見ても微塵も色気が感じられない。
少しは可愛い服を普段から着ていれば……そんな事を今更ながらに後悔しても後の祭りである。
そんな私を助けるように、お風呂が入った事を知らせるアラームの音が鳴り響く。
私は現状を誤魔化すようにそちらへと話題を振った。
「あ、そ、そうだ、お風呂! お風呂を沸かしてたんだった! あくあ君、とりあえず先にお風呂に……」
「それじゃあ一緒に入ろうかアイ」
あくあ君は私の体をゆっくりと抱き上げる。
カノンさんにしていたお姫様抱っことは違う。
こ、これは、私がのうりんの中で披露した俵抱きだ!
まさか自分がされる方になるなんて思ってもいなかったからあわあわする。
されてみて初めて気がついたけど、この体勢になったらもはや抵抗する事なんてできない。
それでも私は悪あがきするように声を発した。
「え、あ……でも……」
あくあ君は抵抗する私を抱えてそのまま浴室の方へと向かった。
「ごめんね。本当に面倒臭い女で」
「アイ、面倒臭いは可愛いだよ。だからもっと俺に愛されて」
この人は、あくあ君は、どこまで私を甘やかせばいいんだろう。
きっと他の女の子たちもこうやって甘やかしているんだろうなあと思ったら、少しは嫉妬したけど余計に好きになった。だから私の事も受け止めてくれたんだって理解できたから。
全てが終わった後、私は疲れと安心からうとうとしてしまう。
「おやすみ、アイ」
おでこにじんわりとあくあ君の熱が伝わった気がした。
その温かさが心地よくて、私は……。
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