白銀あくあ、ノックを忘れた男の末路。
俺ととあちゃんの写真が掲載された雑誌がかなり売れているらしい。
お菓子メーカーの人も喜んでくれているらしく、阿古さんの話によると、今後も継続して商品の広告をやってくれないかと言う話がきているみたいだ。
その事について、俺は近々、阿古さんと家族を交えて話し合う事になっている。
まさかこんな展開になるなんて、あの時は思っていなかったが、将来的にアイドル活動をしようと思っていた俺にとっては渡りに船のお話だった。ただ、今の俺に事務所の伝手がないんだよなあ。
「阿古さんに相談してみるか……」
阿古さんは藤財閥のグループ会社の一つである超大手の広告代理店に勤めている。広告代理店で勤務している阿古さんなら、そういう芸能事務所の伝手もあるはずだし、この前のお礼をしたいと言っていたから、そのことについて相談してみようと思う。
俺が教室でそんなことを考えていたら、二つ前の席の黛が俺の方へと向かってくる。
「白銀、ちょっといいか?」
「ん? どうした黛?」
黛は猫山の席に腰掛けるとメガネをくいっと持ち上げる。
そして周囲を窺うように小声で俺に話しかけてきた。
「実は部活の事なのだが、どこにするのかもう決めたか?」
あー……そういえば部活もまだ決めてないんだった。
女子達もどこの部活に入るかもう決まっているはずなので、俺たちもそろそろどの部活動をするか決めなければいけない。
俺は体を動かすのが好きだから、せっかくだし運動部のどこかに入ろうかなと考えていた。
しかしこの世界ではご存知の通り男性の数自体が少なく、男子が何かのスポーツを嗜むこと自体が珍しい。
故に運動部に入部しても選手自体の枠がなく、マネージャーとしてしか活動する事ができないのだ。
マネージャーとしての仕事もやりがいはあるのだろうけど、俺としてはそれなら文化部に入るのも面白いのかなと思ってる。
それに運動部のマネージャーをやってたら、きっと体が疼いて自分でもやりたくなっちゃうから辛いと思うんだよね。
「実は今日あたりからいくつかの文化部を回ろうと思ってるんだ。杉田先生にも体験入部を許されてるし、よかったら黛もどう?」
「ありがとう白銀、実は僕も何か部活に入ろうかと思っていたのだが、何分初めての事で決めかねていたところなんだ」
あー、そっか、そういえばこの国の男子は帰宅部がデフォだったっけ。
俺はあくまでも特殊な例だが、部活に入ろうとしてる黛は、この世界ではなかなか珍しいタイプではないのだろうか。だから俺は、黛のチャレンジを後押ししてあげたいと思った。
「ところでどこを回るつもりなのか聞いてもいいだろうか?」
「あー、それなら……」
ふと気配を感じた俺は周囲の様子を窺う。
クラスの女子達は誰一人としてこちらを見る事なく談笑している。
しかしその姿が、あまりにも不自然なのだ。
これは……確実に俺たちの会話を聞き取ろうとしているな。
女子たちが聞き耳を立てている事に気がついた俺は、黛の耳元でコソコソと呟いた。
放課後。
俺たちは、まず一つ目の部活動が行われている教室の扉をノックした。
「失礼します」
挨拶と共に教室の扉を開けると、目の前に着物を着た女性の姿があった。
「あら……白銀くん、いらっしゃい」
着物を着た女性がこちらに振り返る。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花というのは彼女の事を表す言葉なのかもしれない。
俺を出迎えてくれたのは、同級生の黒上うるはさんだった。
同級生の黒上さんは同い年のはずなのに、転生前の俺と比べてもすごく落ち着いていて、会話の途中でよく年上と接しているような気持ちになる。そんな彼女がいつもの制服ではなく着物を着るとますます同級生には見えなかった。
「白銀くん、黛くんも連れてきてくれたのね。嬉しいわ」
黒上さんは俺の腕にそっと触れる。
さりげないボディタッチと、着物でも包み隠せないほどの大きな膨らみ。ちょっと待って! これは高校生の出していい色気じゃないでしょ!? 俺は深呼吸すると改めて黒上さんの顔を見つめる。
すると黒上さんは、男が甘えたくなるほどの包容力のある優しげな笑みを返してくれた。
あれ……おかしいな。確かここはうちの高校の茶道部だったはず、間違えて何処かの銀座のクラブに来ちゃったのかな?
「あ、あはは……今日はよろしく黒上さん」
俺は黒上さんに絡みとられた腕をスッと解く。
危ない危ない……あのままの状態でいたら黒上さんの人妻のような大人の色香に惑わされるところだった。
俺の母も相当な美人だが、あの性格……というか家族に対してだけは、だらしない顔をしているせいで年齢よりも幼く見えちゃうんだよなぁ。
その点、黒上さんはその身に纏うオーラが百戦錬磨そのものだ。一瞬でも隙を見せたら確実に喰われてしまう。
家族から警戒心がないと散々言われている俺だけど、流石に俺でもこれはやばいと感じとった。
「ふふっ……残念」
残念だと言った黒上さんの表情はとても楽しそうに見えた。
黒上さんは黛とも挨拶を交わすと、部室の中に作られた茶室の襖をそっと開ける。
すると茶室の中に居た女生徒たちの視線が一斉にこちらに向く。
「部長、お疲れ様です」
ん? 部長? 黒上さんって確か俺たちと同じ1年生だよね?
あっ、もしかして俺たちの後ろから部長さんがやってきたのかな?
俺はチラッと後ろを振り返るが、後ろにいた黛と視線があっただけだった。
「白銀くん、後ろなんか振り返ってどうしたのかな? 黛くんもびっくりしてるよ」
「あ……いや、今、部長って言ったからその……」
「あぁ、そういえば白銀くんには、まだ言ってなかったわ。ごめんなさいね、実は私、まだ1年生なのに、先輩方のご厚意もあって、この茶道部で部長を務めさせてもらってるの。まだまだ至らない点も多いと思うけど、少し大目に見てくれると嬉しいわ」
えっ? えっ……? 1年で部長とかそんなのあるんですか?
人数がいないとかならまだしも、部室の中には結構な人数の女生徒が居た。
言われてみれば黒上さんだけは何故か和装だけど、他の女生徒は制服を着ている。
もしかしたら1年が部長なんかやってはいけないなんてのが、そもそも俺の居た世界だけの常識だったかもしれないと思い始めた。
「白銀……念のために言っておくがお前の反応は当然だ。普通は1年で部長なんて聞いたことがない」
やっぱりそうだよな! 危うく騙されかけた……。
俺が視線を黒上さんに戻すと、いつもと同じ優しげな笑みを返される。
何故だかそれ以上追及するのが怖くなった俺は、笑って誤魔化してこの件を全力でスルーした。
「ふふっ、そんな事より二人ともせっかく来てくれたのだから上がって」
俺たちは黒上さんに促されて茶室の中に入ると畳の上で正座する。
席に座る時、隣にいた女子と目があったので、お邪魔します、今日はよろしくお願いしますと小さく声をかけた。
「あっ……」
急に俺が話しかけてしまったことでびっくりしたのだろうか、彼女は声を詰まらせた。
ふと彼女の後ろにいた数十人の女の子達の視線に気がつく。どこかソワソワとした雰囲気で俺の事をジッと見つめている。俺は無意識のうちに彼女たちの視線に手を振って応えてしまった。
「あっ、あっ……」
それを見た一人の女生徒が口を両手で覆ってポロポロと涙をこぼし始める。
あっ……しまった! アイドルの練習生だった頃の癖で、視線を送られると無意識のうちに全力で笑顔を返すか、手を振り返しちゃうんだよな。この世界の女の子たちは男と接する事に慣れてないからだろうか、俺が反応するとたまに泣かせてしまう事がある。反省しないといけないなと思っていると、後ろからスッと現れた黒上さんが俺の耳元で囁く。
「あら……うちの可愛い子を泣かせちゃうなんて、白銀さんって思っていたよりも悪い男の人なんですね」
「えっ……あっ……いやっ、その、そういうつもりはなくってですね」
俺が焦った反応を見せると黒上さんはわかってますよと小さく呟いた。
「女性の中には、男性に慣れていない人もいますから……ね」
黒上さんは俺の手の甲の上に自らの掌をそっと重ねると、俺の耳の裏に甘くて蠱惑的な吐息を吹きかける。
「でも私は、そんな白銀さんのお茶目なところもちゃんとお慕いしておりますから」
勝てない……。その日、俺の心の中にこの四文字が強く刻まれた。
1年A組、黒上うるは、1年生なのに何故か茶道部部長を務める少しミステリアスで大人びた同級生。
同級生とは思えないほどの色気と包容力、俺が本当の彼女のことを知るのは、もう少し先のことであった。
「し、失礼しました……」
一通りの説明を受けた後、俺と黛は茶道部の部室を出る。
はっきり言ってもう疲れた。
30分しかいなかったのに、疲労感で頭がぼんやりとする。
黒上さんは俺を掌で転がすように言葉遊びで弄ぶし、女子部員に囲まれた黛は言葉を返すので一杯一杯だった。
まだ茶道部しか行ってないのに、今日はまだ後2件回らないといけない。大丈夫かこれ?
しかし、見るからに疲労感で表情が死んでる黛だって頑張って前を向いている。だから俺だけがここで立ち止まるわけにはいかないのだ。
あくあ、お前はこんなもんじゃないだろ。俺はアイドルになるんだ。そのために生まれ変わったのに、ここで立ち止まったらダメだと俺の心の中のリトルあくあが囁く。俺は両頬を叩き、ぼんやりとした思考をクリアにすると腹の奥から声を絞り出した。
「よしっ、次はここだ!」
同級生の鷲宮リサさんが所属している演劇部の部室の前に到着する。
演劇の勉強はきっとアイドル活動にも役立つだろう。そう考えた俺は、鷲宮さんの見学だけでもという誘いに、こちらこそ是非と応じた。
「白銀、すまないが僕は少しそこで水を買ってくるよ」
「ああ、じゃあ俺、先に入ってるから。あ、疲れてるなら少し遅れてもいいからな!」
黛は苦笑すると自販機のあるところまでふらふらと歩いていった。
やっぱり少し休憩した方がよかったか? いや……休憩が必要だったのはむしろ俺の方だったのかもしれない。
疲れていた俺は、あろうことかノックを忘れて普通に演劇部の部室を開いてしまった。
「失礼します!! ……あっ」
目の前の光景に目を見開く俺。
もし、もしもだ、時間を数秒前に巻き戻せるなら、そんなことを考えてしまうほど、俺はとんでもない事をやらかしてしまった。
「あっ」
「えっ」
「うそっ」
扉の外にいた俺と、扉の中にいた彼女達が一斉に固まってしまう。
それもそのはずだ。彼女達は今まさに、お着替えの真っ最中だったのである。
その中の1人、クラスメイトの鷲宮リサさんと目があった。
「し……白銀様、そんなにまじまじと見つめられると、わたくしも少し恥ずかしいですわ」
顔を赤らめる鷲宮さん。
いや、いやいやいや……俺だってわざとじゃない、わざとじゃないんだ! だから頼む、信じてくれ!!
もうここは謝って、謝って、謝り倒すしかない。
「鷲宮さん、みなさん、裸を見てしまってごめんなさい!! よく確認もせずに扉を開けた俺が悪かったです。本当にすみませんでしたあああああ!!」
俺は演劇部の皆さんに土下座すると、扉を閉めて逃げるようにして演劇部の部室から脱出した。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
周囲をキョロキョロと見渡すが、黛はまだ帰ってきてない。
セ、セーフ! もう既に色々とアウトな気がするが、これはセーフだろう。そういうことにしよう。
はぁ……俺は力尽きたのかその場で崩れ落ちるようにして項垂れた。
「白銀……?」
「あ、あぁ、黛、おっ、おっ、遅かったネ」
不意に黛に声をかけられた俺は、挙動不審になる。
「すぐそこの自販機が故障しててな。白銀には申し訳ないと思ったが、少し遠いところの自販機に行ってたんだ」
「そ、そっかー、良かったね、あはは」
一体何が良かったんだ……。
自分で言ってて意味不明すぎる。
「それより白銀はどうして外に?」
「あっ……あー、えっとですね。まだお着替えの最中だったのでその……」
俺はなんとかその場を誤魔化し、黛が見学してなかったこともあり改めて演劇部に謝罪しに行った。
もちろん今度はちゃんとノックしたから、皆さんちゃんと服を着ていてホッとする。
俺は演劇部を見学した後も、先に黛を外に出して鷲宮さん達に頭を下げて謝った。
鷲宮さん達は気にしなくていい、むしろ私たちの肌なんかを見せてごめんなさいと謝られたのは驚いたな。
やっぱり俺の居た世界とここでは明らかに貞操観念が違うのだと思い知らされた。