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まほろ

 あの男がずっといるのだと思うと、まほろは夜も眠れなかった。いずれ納屋へと入ってくるのではないか。窓の外にいたらどうしよう。こうしている間も、まだどこからか視線を感じるような、ずっと見張られているような気さえする。


 暁方まで震え、浅い睡眠を数回とったのち、人の声がするくらいの時間になった。

 まほろは少しだけ戸を開けて外を見る。あの男の姿は、少なくとも近くにはなかった。

 まほろは納屋を飛び出し、急いで再び母屋へ向かう。まほろは誰かに今のこの状況を変えてもらおうだとかまでは思っていない。ただ、いつこの生活が終わるのかを教えて欲しかった。

 贄の張本人はまほろなのだから、聞けば教えて貰えるだろう。恐らく、また懲りずに母屋にいることを元綱に咎められるだろうが、近々また村民らに顔を見せることとなるまほろに、目に見えるほどの傷をつけるような暴力は振るわないだろう。少なくとも顔には。


 下駄を脱ぎ、壺の影にそっと隠す。これも最後だと良い。

 さっと裾を直し、踵を返すとまほろは思わず、

「あ」と声を漏らした。


 腕を組んでまほろを見下ろしている美丈夫。この屋敷の娘たちはきっと誰もが一度、彼に胸をときめかせるのだろう。

 整った目鼻立ちは琴代から受け継いだもので、まほろともよく似ている。まほろにはそれが純粋に恐ろしく、整っているかどうかはわからない。


「お、お兄様、あ、あの、こ、此度は大変、良いお日和で」


 兄、元久は父よりもまほろに厳しい。五歳差と、父親よりも年齢が近いからか、容赦というものを知らずに幼い頃からまほろを虐げる。

 まほろ以外の者にはいつも温和で、下女にも気さくに声をかける親しみやすい男なのだが、母が恋しい頃に亡くなってしまったので、その原因を深く憎んでいるのだ。


「誰の許可があってここにいる」

「きょ、許可は頂いておりませんが、その……贄の儀の、今後の日取りを確認したく……」

「なぜお前に逐一報告をしなくてはいけない? 死ねと言われたらその日に死ぬんだよ。お前は母さんに死んでくれとしっかり伝えたのか?」

「あ……」


 みるみるうちに血の気が引いていく。まほろには、母の腹にいた頃の記憶が無い。自分の母親を殺しておいて、その罪を覚えていない。

 赤子だったからといって許されるわけがないと、昔から何度もよく言われているのに思い出すことができない。

 物心がついた時、まほろは物陰で下女たちに育てられていた。憫れんでここまで育ててくれた彼女たちもそれぞれ結婚をし、既に出ていってしまったので過去のことを聞くこともできない。


「最悪だ。俺はこれから好きでもなんでもない女と見合いをさせられるのに、その前に母親の仇に会うなんて」

「す、すぐに、ここから消えます」

「違う! まずは謝れ! そこに跪くんだよ」


 まほろは慌ててその場で姿勢を正そうとするが、額づくよりも早く元久の平手が空を切る。

 パン、と乾いた音が顔の肉と鼓膜を震わす。叩かれた頬の内側に歯が当たって切れ、口内に鉄のような味の液体が漏れだした。

 心の臓がドクドクと痛むほど鳴って、息が上手く吸えない。


 ――顔に怪我をしたら、お父様にも怒られる……!


「お、お許しください……どうか、お兄様、私は」

「なんだと! 俺に指図をしようって言うのか!」


 手の次にまほろに痛みを与えるのは足だ。蹲って頭を庇い、全身痣だらけになって更に叱られることを想像して嗚咽を漏らす。同時に咳き込んで、噎び、涙を流して時間が過ぎていくのをただ待っていた。

 肉体と心が切り離せたら、どれだけ良かっただろう。


 やがて満足したとでも言うように、元久はぐったりと横たわるまほろを玄関の外に引きずり出し、道の邪魔にならぬよう植木の影に放った。

 土と鉄、それから塩を混ぜたような不快な味が口に充満する。

 わずかに湿った柔らかい土がほんのり冷たく痣を冷してくれる。砂利道に捨てられるよりもよっぽどましだと思わされた。


 しばらくそのままでいたが、そろそろここを退かねばと体を起こそうとする。そこでまほろは足が上手く動かず、自分の力だけでは立ち上がれなさそうことに気が付いた。

 明日急に死ねと言われても、あの穴まで自力で歩けないかもしれない。

 全身が酷く痛む。息を吸っただけで胸の辺りがズキンと刺すように痛んで、生きているだけで苦しい。


「う、うぅ……っ」


 肋にひびでも入ったのだろう。なるべく咳をしないよう、浅くゆっくりと呼吸を整えながら、一人になれる納屋の方角へ這いずっていると、まほろの視界に真っ白な足が入った。それは肌ではなく足袋の色だが、漂う異様な空気で、つい先刻まで恐ろしくて堪らなかった男の霊と気付く。


 よく考えてみれば、まほろは幽霊など怖くないと思った。この幽霊は、今のところは父や兄のように暴力を振るっては来ない。

 恐ろしさよりも、母を死なせた罪悪感よりも、誰かに縋り付きたくなるような心細さが勝って、まほろは何とか顔を上げてみる。だが、見えるのは着物の柄くらいだ。

 まほろの気持ちを察してか、霊がゆっくりと屈んでまたボソボソと聞き慣れない言葉を口にする。

 嗚呼、この人は自分を踏んづけて蹴飛ばしたりもせず、見て見ぬ振りもしないのだと思い、まほろは鼻をすんと鳴らした。


「■■■■■」


 かけられた言葉は理解できないが、優しい声だと思った。

 いつも彼がかけてくる声よりも、悲しいというような感情を感じる。


「た、たす、け……」


 言いかけたところで、はっとして口を閉ざす。


 ――だめ、私は、助けて貰ったりして良いような人じゃない


「■マ■■、■ヲ」

「……え……?」

「オ、マエ、ノ」

「わ、わた、し、の……」

「ナ、ヲ」


 名を聞かれている。まほろは、なんとなく、確証はないが名を教えてはいけないと思った。本能的に、彼のような存在に名を教える事が禁忌であると理解している。

 それでも、まほろは誰かにこうして興味を持たれて、話しかけて貰えたことを嬉しいと思ってしまう。寂しくて堪らなかった心に、なぜかはわからないが彼はいとも容易く入り込んできて、まほろは不思議と癒やされるような、懐かしいような気持ちを抱いた。


「まほろと、言います」

「マ、ホ、ロ……まほろ」


 急に風が吹きだして、聞こえなかったはずの男の衣擦れ、紙がひらひらと揺れる音が耳に届き始めた。


「まほろ、まほろ、可哀想に、痛むのか?」

「……あ、き、聞こえる」

「ああ、お前が答えてくれたから……誰だか分かったから、こうして話せる。まほろ、ちゃんと願え。怪我を治せと」


 やはり亡霊だからか、言葉がわかっても言っている事がよく理解できない。

 願ったたところで傷は癒えないし、まほろは誰かに助けて貰っても良いような身分では無い。

 だが、亡霊の出す言葉は全てまほろを気遣う優しいもので、触れられないのに、熱く痛む頬に手を沿えて冷やしてくれているようだった。それが今は何より嬉しくて、彼の言うとおりにすることにした。


「願うだけでいい。まほろ、怪我を治せ、だ。できるか?」

「……怪我が、な、治りますよう、に……?」

「良い子だな、まほろ。偉いぞ。だがここは治りますように、ではない。治せ、だ」

「怪我を、なお……治して、ください」

「よくできたな、まほろ。よしよし、お前はお利口さんだな。覚えておけ、困った時は神頼みだ」


 実体のない、よくわからない男に頭を撫でられるような動作をされる。本当に何もかもが全てよくわからないが、ただ純粋に幸せな気分になる。

 頭を撫でられると、いつか誰かにも同じようにして貰ったような気がして、怖いことにも辛いことにも目を背けられる気がする。

 ぼんやりと目の前にの確かにいる亡霊を眺めていると、不思議と痛みを忘れていた。


「……あれ?」


 起き上がって自分の腕を見ると、元久に力いっぱい握られたことで出来た痣が薄れている。息をしても胸は痛くないし、足は流石にまだ痛むが、皮膚の表面の痣だけがじんじんと疼くくらいだった。

 自分が生贄だからだろうか。龍神が、願いを聞き届けてくれたのだろうか。 


「幽霊さん、怪我、治りました……」

「それならば良かった。もう帰れ。ここにいると、またお前が傷付けられないか心配だ」

「はい……あの、ありがとうございました、幽霊さん」


 ぴら、と紙を揺らして幽霊が頭を傾げる。こうして見てみると、本当に何も恐ろしい所などない。むしろずっと会いたくて堪らなかったというような感覚に胸が熱くなる。


「その、怖いと思い込んで避けたり、無視をしてしまって……本当に申し訳ございませんでした」

「構わぬ。幽霊は怖いものだ。俺もお前を怖がらせたようで、すまない」


 幽霊は何も謝ることなどない。何もかも自分が悪い。そう思ったが、彼の優しさに甘えて、まほろは深々とお辞儀をしてから納屋へと戻った。

 一緒に来てくれるだろうかと思って振り返ると、そこには何もいなかった。


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