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あれは、ゆうじんか

 まほろは早朝、まだ下女がいないうちに急いで自分の衣類を洗い場に持って行く。

 自分のものは自分で洗う。ごく当然の考え方のようにも感じるが、権力者の娘ならば必ずしもそうではないだろう。鈴も唯華も洗濯などしたことが無く、手は白くてあかぎれなど一つもない。

 しかし、まほろは洗濯が決して嫌いではない。姉妹らのように着飾っていないが、着物自体が好きなのだ。だから、大切に真心を込めて洗う。古く、綻んでは縫ってを繰り返して見栄えの悪いものしかないが、それでも大切に使っている。


 褥に使っている端切れを縫い合わせたものと、やはりあちこち傷み過ぎてそろそろ着れなくなってしまいそうな着物を、納屋に寝泊まりするようになってからはその側に干すようになった。

 まだ人のいない洗い場で洗濯をし、濡れた衣類を抱えて納屋へ駆けると、見かけない人影がまほろの視界の隅でじっとこちらを見ていることに気がついた。


 その重たく、絡みつかれて引きずられてしまいそうな視線に、まほろの心臓がどくんと跳ね上がり、思わず悲鳴を上げてしまいそうになるもなんとか持ちこたえる。

 ソレは人ではない。人にしては薄ぼんやりと色が褪せている。まるで空間に絵を置いたかのように不自然に存在している。太陽の光を浴びていないような、不思議な色なのだ。

 まじまじと見ていないのに、まほろはソレが黒い長髪の女のような背の高い男とはっきりと認識していた。目ではなく、頭がその存在を見たのだ。

 その今にも雨が降り出しそうな空のような、やや青みのある薄灰色の着物の男は、なぜか顔に妙な紙を貼り付けている。遠く昔の時代の人なのか、髪が長い。だが髷を結っていたわけではないようで月代さかやきが無く、胸の辺りまである長い髪を垂らしている。それから……


 ――だ、だめ。見ちゃだめ!


 ぶんぶんと顔を横に振って、竿の代わりに木の幹に結びつけてぴんと張った紐に着物を干す。

 近々死ぬから、この着物とも別れが近い。破れる前に儀式の日が来れば良いのになどと思う余裕はあるが、あの穴の側から連れ帰って来てしまったらしい男の亡霊は怖くて怖くて堪らない。


 見えていないふりをして、まほろは駆け足で残りの衣類も持って来て干し、また駆け足で母屋の玄関へ向かう。

 今日は唯華の侍女から反物を受け取る日だ。孤児や浮浪者の更生施設に寄付する着物を作るのだが、唯華は針仕事が不得意なのだそうだ。

 朝から生花や舞踊、琴などの稽古に励み、手紙のやり取りをする友人の多い唯華に、とてもじゃないがそのようなことをする時間もない。そこで、侍女がまほろに代理で作れないかと声をかけてきたのだ。

 人に声をかけてもらうことがあまりなく、ましてや頼み事をされることがあまりなかったまほろは喜んでそれを引き受けた。

 いつも渡される反物はまほろが普段触れないような高価なもので、その端切れだけでなく侍女から糸や裁縫道具を分けて貰える。裁縫をしている間は自分の犯した罪や孤独を忘れて、黙々と作業ができる。出来上がった着物を誰かが喜んで受け取ってくれるのも嬉しかった。


「まほろ様、この度は……龍神様とのご結婚、心よりご祝福申し上げます」

「あ、ありがとうございます……大変名誉なことで、とても驚いています。精一杯努めさせて頂きます」

「……今日お渡しする反物ですが、ご結婚前ということで大変お忙しいかと思います。もし完成しなくとも、続きはわたくしの方でやらせて頂きますので、どうぞあまりご無理はなさらないでください。良ければまた、近々こちらでお会いしましょうか」


 あえて最後やら生贄やら死ぬという表現を避けた侍女に、まほろはなんとなく優しさのようなものを感じて、少し笑って頷いた。誰かと約束をする喜びを教えてくれたのも、思えばこの侍女だったかもしれない。


「わかりました。では、ここでまたお会いしましょう、えいさん」

「はい。では、また」


 ぺこり、と頭を下げ、まほろは新しい反物を抱いて納屋へと向かう。

 今回は女の子に寄付するものなのか、可愛らしい薄紅色で、桜の花が描かれた華やかな反物だ。見ているだけでも明るい気分になる。

 もうすぐ死ぬと言うのに、こうして温かい気持ちを抱くとは思っていなかった。


 例え榮にとって、まほろがただ便利なお針子だったとしても、それでも気遣う素振りを見せてくれる彼女はとても優しい女性だろう。

 まほろが龍神の元へ行った後、また裁縫のできる者を探すのは骨が折れるだろう。裁縫ができても、その時間を取れるのはまほろくらいなのだ。


 すっかり幽霊の存在を忘れて戻って来たまほろは、視界の隅からじっとこちらを見ている彼に気付いてまた肩を跳ねさせる。


「■■■、■■■■■」


 何か、いつもとは違うことを喋ったような気がして、つい、うっかりと視線をそちらに向けてしまう。

 長い黒髪は手入れがされていないのか、それとも風に吹かれているのかボサボサと乱れている。蒼白い手はあきらかに生者のものではなく、顔に貼られている紙は異様に不気味に見えた。そうして見ているうちに不思議と視線が離せなくなり、体が硬直していく。耳鳴りがして、ようやくまほろは我に返った。


 ――いけない! だめ、見たらだめ!


 動かない体の代わりに目を閉じる。すると、ゆるゆると体の力が抜けて、強張っていた全身がほどけていき、耳鳴りも静かになっていく。

 良かった、と安堵して怖々(おずおず)と目を開けると、まほろの視界いっぱいにあの紙が見えてしまった。

 それまで離れた場所からまほろの方を見ていたはずの男の霊が、ずいっと顔を前へ出すような体勢で、今にも触れそうなほどの近さで立っているのだ。


「っ……」


 危うく叫んでしまうところだった。それすら通り越して気絶してしまいそうだった。

 まほろは息を吸って胸をいっぱいに膨らませて、数秒してから大きく吐き出す。

 そして急いで納屋へ戻って、ガタガタと震えながら反物を抱きしめた。

 作業を始めて気を紛らわせようとしても、手だけでなく足まで震えてしまって、木で出来た長椅子がキシキシと音を立てている。


 あれはまだ外にいて、恐らく、ずっと壁越しにまほろを見ている。


「りゅ、龍神さま……たす、け……」


 果たして、良いのだろうか。いくら生贄として、花嫁として龍神の元へ行くからと言って、これは人間側が勝手に押し付けるのだ。龍神自らがまほろを望んだわけでもないのに、勝手に夫と認識して助けを求めるなど。許されるのだろうか。

 そもそもまほろは母を殺めたのに、自分のことは守って欲しいだなんて、あまりにも身勝手極まりないのではないか。


「申し訳ございません、申し訳ございません、申し訳ございません……」


 また恐怖ばかりで頭がいっぱいになる。

 榮との暖かな時間など薄れて、まほろは自分の罪深さに恐ろしくなって泣いた。


 誰もまほろが良いと言うわけがない。まほろなどいなければ良かった。まほろは消えてしまえば良い。

 本当はずっと、会った事もないのに母に憧れていた。愛する人と夫婦になった父に憧れていた。沢山の縁談を断わって、わざわざ遠い街に通って恋をし、その相手に愛された姉にも、まだ見ぬ夫のために良い妻になろうと自分摩きをする義妹にも憧れていた。

 まほろも、誰かに恋をして、家庭を築いてみたかった。自分が家族に貰えなかった愛情を夫にたくさん貰って、更にたくさんにして返して、産まれてくる赤子にもっともっと大きく積み重ねた愛情を注ぎたかった。


 だが、龍神は違うのだ。無理矢理まほろを押し付けられて、恐らく怒っているだろう。なぜ唯華ではないのかと悲しむかもしれない。


 生きていても、死んでも誰にもまほろは必要とされない、親殺しの悪い人間だ。

 鏡の中の自分すらそう言った。


 ――まほろはいらない子。まほろは幸せになってはいけない。まほろは幻のように消えてしまいなさい。


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