縺薙s縺ォ縺。縺ッ
「あの、どこに向かっているのでしょう……」
まほろには一切何も知らされないまま、披露目の儀当日の朝が訪れた。
披露目の儀とは、あの穴に娘を連れて行き、龍神と村民に新たな贄姫の存在を知らせるためのものだ。
「……振り袖、なんて」
初めて触れるような上質な反物の感触。振り袖など、まほろは人生で着ることなど無いと思っていた。淡い藤色のそれは、亡き母、琴代が着たものだ。既婚者となった鈴がそのまま置いて行った物の一つである。
着付けをする下女たちも、まさか部屋を間借りしていた貧相な女に、このような立派な物を着せる日が来るなど思ってもみなかったようだが、身なりを整えたまほろは、つい数年前までこの村一番の美人と評判で縁談が断えず、遥々山の向こうの大きな街からも声がかかった鈴とよく似ていた。
雅びやかな流し目の美しく艶やかな鈴よりも、まほろは少しだけ目が大きく幼げな印象がややある。
危うげな儚い泡沫のようなまほろ。
それまで自分から声をかけたりなどしなかった下女も、口を揃えてまほろを称賛し始める。長くこの屋敷にいる者の中には、琴代の名を出す者もいた。
まほろは以前、鈴が振り袖を着ていた日を思い出す。
その日は遠くの街から数人侍従を連れて、ある男が訪ねてきた。温和そうな笑顔の素敵なその紳士は、その後鈴の夫となり、彼女を連れて村を出て行った。
もちろん、まほろは挙式に招かれず、父や継母、兄のいない屋敷で束の間の安息を過ごした。
――私に縁談なんて来るはずがない。
鈴は村では評判の美人だった。たまに街へ行って、西洋文化を取り入れた茶屋で、変わった飲み物や煙管を使わない紙巻煙草を嗜んでいたらしい。夫と知り合ったのも、その茶屋だそうだ。
一方、勉学はおろか花嫁らしい料理もせず、みすぼらしい着物と履物で外にはほとんど出ないまほろを見初める者がいるはずもない。もしも見合いがあるのならば、しっかりと花嫁修業をした唯華がするはずである。
どこへ出しても恥にしかならない、不束者という言葉にすら満たないまほろは、一体なぜ振り袖を着せられているのか理解ができなかった。
屋敷では昼間だというのに、かれこれもう長らく宴会が行なわれている。茶会にしてはあまりにも賑やかで、酒樽を下男が次々運び入れているので、村中の男が集まっているのではないかとさえ思った。
威かで、どちらかと言えば静かに執り行われた鈴とその夫の縁組の話し合いでは、このようにはならなかった。
やがて屋敷の外から鈴と太鼓の音が響き始めた。今日、祭りがあるだなんてまほろは知らない。何より、祭りは神社で行われるもので、この屋敷の中で人々が賑わうなど、これまでの人生を振り返っても正月くらいだ。
一体この騒ぎは何なのか。得も言われぬ恐怖のようなものが、ぞわぞわと足から虫のように這い上がってきて、まほろは血の気の引いた蒼い顔を畳に向ける。
薄々と、この祭りの重要な役割を自分が担っているのだと気付き始め、まほろは逃げ出したくなっていた。
これまで、まほろは何も習わせてもらえなかった。何も知らぬと言うのに、人前に出ることはとてつもなく怖いのだ。
それでも何にも逆らえないまほろは、まるで引きずり出されるようにして人前に晒され、列の中で並ぶように……というよりも、人々に囲まれて見張られた中を歩かされた。
人の顔を見ることが怖い。
まほろは鏡を見る度、自分が死ぬべきだったと言わされるので、己の顔を見ることも怖い。だから、どれほど皆がまほろの外見を褒め称えてもよくわからない。鏡の中自分が死ねと言ってくるのに、どうしたら綺麗だと思えるのだろう。
太鼓の音が心臓まで振動している。それに吐き気を感じながら、数え切れないほどの鳥居をくぐって霞の中へ足を踏み入れていく。
屋敷の敷地外に出ることを、心の中であれほど夢見て、望んでいたというのに、歩けば歩くほどに体が重たくなっていき、吐き気と共に頭痛まで感じ始めた。
木々の間から漂う湿った空気、土のにおい。全て心地良さそうでいて、とても禍禍しく思えてしまう。今のまほろにとっては全てが毒のように感じられた。
太鼓のせいだとわかっているのに、まるで何者かに心の臓をがっしりと掴まれているようだ。
これ以上歩いてはならない。この先に何かがいて、まほろを待っている。まほろをじっと見ている。そう、頭の中でけたたましく警鐘が鳴っている。生存本能に後ろ髪を引かれているとも言うべきか。
――どこに行くの。何をするの。私はどうなるの。
血の気の引いた顔も、白粉で塗り潰されていて誰にも心が伝わることはない。
木の葉の落ちた山道は、本来なら野生動物が集まっているに違いない。だが、やたらと肌寒い今日、まほろは虫の一匹すら見ていない。
向こうからまほろを見ている何かが、まるで関係のない生き物を寄せ付けまいとしているようだ。
あれはまほろだけを待っている。まほろを見定めるように、じっと、ただただ見続けている。
「あ、あ、の」
辛うじて喉から出た声に反応する者がいない。
規則正しい太鼓と鈴の音。足音。それから、轟々と何か呻くような嫌な音が耳に届き始めた。
嗚呼、それは死の音だ。死がまほろを呼んでいる。
目に見えない何かが、お前もこちらにおいでと手招いているような気がして、悪寒と恐怖に眼球がぎょろぎょろと彷徨って一点を注視することも叶わない。
「畏み畏みも申す。此度は、龍神様の伴侶となります娘のお披露目へ参上仕りましてございまする」
老夫の言葉に風が強く吹く。大きな虫のブブブという羽音のような妙な音がまほろの鼓膜を震わせて返事をした。
聞かれている。老夫の言葉は確かにその龍神に届いており、まほろの存在に気付いて返事をしたのだ。
体は重たいのに、腕を引かれたのか、ただそう錯覚しただけなのか、蹣跚めくようにして前へ数歩出る。その先に大きな洞穴のようなものがあった。洞窟と言うには、なぜか井戸のように地面の下に向かって続いている。
そこから届く無数の呻き声に嫌な汗が背中を伝った。
闇が手を伸ばすようにして、側までやって来た気がした。まほろはそれが、自分を捕まえようとしているのだと確信し、慌てて一歩後ずさる。
だが下がったところに、同じ気配をやけに近く、触れるような距離に感じた。
背後で何かひんやりとしたものがまほろの耳元で音を発している。
「■■■■■」
雑音の方がが大きく、聞き取れる言葉ではない。何より、聞いてはならないと感じた。
ボソボソと繰り返すそれに命を狙われている恐怖で、汗が滝のように吹き出す。
「■■■■■」
聞いてはいけない。理解してはならない。見てもならないだろうし、見られてもいけなかった。
老夫の言う龍神の伴侶というものが何なのか、流石にまほろにも理解が出来た。
数十年に一度ある儀式で、この大穴の底に住む龍の神へ生贄を奉げるのだと聞いたことがある。村に産まれた者は自然とそれを知る。幼児でも龍神を知っている。
それが今年で、自分が選ばれてしまったのだ。
だが、家族にも愛されない罪人のまほろが神に愛されるだろうか?
むしろ、災いを呼んでしまう気がしてならず、罪悪感にまつ毛を震わせる。
――私なんかを嫁にだなんて、龍神様がお可哀想。でも、村で死んで構わないのは私だけだから……こんな私でも、お許し頂けるの? そんなはずない。
「■■■■■」
音が近付いた。まるで耳の中で何かが喋っているようだ。
あまりの恐ろしさに歯をガチガチと鳴らして、まほろは心の中で懺悔する。
龍神に奉げられるにしては余りにも身窄らしいまほろを見て、誰かが怒っているのだろうか。
ごめんなさい、私でごめんなさいと繰り返して震えているうちに、何時の間にか披露目の儀式は終わってしまっていた。
これから占いで定められた日数の経過した後に、まほろは白無垢に身を包み、自らの足であの穴へ飛び込むのだ。
――きっと龍神様もお怒りになる……私は何もできないし、お母様の命を奪って産まれてきたんだもの。
屋敷に戻るとすぐに振り袖を脱がされた。下女たちの手で素早く美しいものを全て取り払われ、罪だけがまほろに残る。
元綱の手で再び追い出され、放り込まれた納屋の中で地べたに転げたまほろは、耐えきれずに涙を溢す。
自分との別れを悲しむもの、死を悼むものは誰もいない。死ぬべきであるとわかっていても、やはり死は恐ろしかった。