仇討ち
この村の奥には大穴がある。らしい。
崖と言うには幅が小さく、底が無いのか、見下ろす先には暗闇ばかりが続いている。井戸と言うには大きく、あまりの深さに水が湧いているかもわからない。
昔は下に水が溜まっていたのかもしれないが、轟々と聞こえてくる風のような音は、言い伝えどおり冥界に繋がっていそうだ。
海の向こうからやって来た西洋人の持ち込んだ服を着て、馬に車を引かせる都会の人々には聞き慣れないことかもしれないが、この村では五十年に一度、この大穴に年頃の生娘を生贄として奉げる風習がある。
穴の下には冥土へ続く道があり、そのすぐ手前、村と冥土の境界に守り神である龍が棲んでいる。それを昔からこの村では龍神と呼んでいるのだが、その龍神が村を守る見返りに、嫁となる女を要求するのだ。
これを怠れば祟りが村を襲い、龍の息吹で雨雲が散ってカンカン照りが続き、飢饉が起こる。あるいは豪雨が続いて川が龍のように暴れて家々を飲み込むとされている。
神社に代々保管されている神主の日誌によれば、二百年前の贄姫が薙刀を手に飛び込んだことで神の怒りを買い、祟りによって多くの者が命を落としたそうだ。
その次からは、もう刃物を贄姫に持たせることは禁ずることとなった。だが、贄姫らは死に損なった時のために、こっそりと身内に懐刀を持たされた。暗闇の中、怪我を負い飢餓に苦しみ死ぬよりも、懐刀で胸、喉を斬って死んでしまった方が良いと考えたのだろう。
毒を持たされた贄姫もいるようだが、元綱にそんな気はない。どのみち死ぬのだから、無駄な物を持たせる必要はない。ただ、良い着物は着せるべきだ。多くの者が目にするのだから。
「今年は例の年。巫女も年々減っておりますゆえ、贄姫は村民の中から出して頂ければと思うておりますが、いかがでしょう」
「うちは娘が一人しかいないんだ。もう嫁入り先も決まっているしなぁ」
「あの家の娘さんは醜女と評判で、神の怒りを買うに違いない。うちは男しかいなくてな」
「それを言ったらうちのも妻に似て、姉妹揃ってあの顔さ。先祖代々、醜女ばかりのうちからは選んで貰えなくて、非常に残念だ」
贄姫を出す家は、大切な子の命を奉げるため村中からの信頼や名声を得る。口減らしのために娘の命を奉げたいと言うほど、今この村には貧しい者がいない。それは前回の贄姫が大層な美人で、神に気に入られたからこそのご加護かもしれないと老人たちは口を揃えて言うが、元綱は神が本当にあんな穴の奥にいるとは到底思えなかった。
神は空にいるものだ。もし、いるとすればだが。
「なら、うちの娘を奉げよう。こう言ってはなんだが、うちのはそこそこ美人だからな」
村長である元綱の言葉に一同が賛辞の拍手を送る。
だがこの話は昔から決まっていたことだ。公にすると、贄姫に選ばれた娘が、贄になることを拒んで逃げ出したり、生娘という条件を失うために愚挙たる考えに走る。
「おや、唯華さんかい? あの娘はあんまりにも可愛らしくて、別れが惜しいが」
そんなわけがあるか。
唯華は元綱にとって、何よりも大切な娘だ。妻を喪った後に後妻が産んだ娘だ。
元綱の孤独を埋めるような、天真爛漫な笑顔が可愛い娘だ。そんな唯華を無駄死になどさせてたまるか。
「いいや、唯華は鈴のように嫁入り先があるから生娘とは言い難い。その姉のまほろだ。病弱であまり外に出ないが、物静かで聞き分けの良い娘だ。龍神様もきっとお気に召すだろう」
「まほろさんか、名は聞いているが、儂はお会いしたことがないな」
「琴代さんの娘さんだったか。そりゃあ、もう美人なんだろうな」
「ああ。大変名誉なことだ。本人も喜ぶに違いない。琴代も喜んでいるだろう」
元綱は懐紙でそっと目元を押さえ、にやつく顔をしっかりと隠す。
元綱は田舎者のように神やら妖怪などこれっぽっちも興味が無いし、正直なところどうでもいい。だが、どうにかしてでも妻を奪ったあの性悪娘を片付けたかったし、贄姫を出した家は村中から英雄のように扱われる。
琴代を喪ってからずっと考え続けていた。
まほろは愛想笑いも薄っぺらく、まるで元綱を化け物を見るような目で見る。その顔も憎くてたまらない。
ようやく仇を討てるのだと腹を抱えて笑いたいが、あたかも大切な娘を差し出す人望のある男を演ずる。
こんな田舎に産まれて村の長として生かされる男は、これくらいの辛抱はしなければならないのだ。
まほろさえいなければ、琴代のことを思い出して気が沈むことも、その顔を今の妻に見られて文句を言われることもない。
「別れは惜しいが、最後の晴れ舞台。望むままに着飾らせてやらねば」
披露目と、本番の二度、あの穴の側でまほろを多くの村民に見られるので、身なりは良くしたほうが良い。
少しでも高価なものを用意して貧乏人との格の違いを見せつけたい。
元綱は可笑しくて可笑しくて堪らない。
昔は子供を間引くなどよくあったというのに、今の時代では罪とされる。
だというのに生贄として殺すのは正義と言うのだ。
村のための犠牲は美談となるのだ。それも純真無垢で、美しければ美しいほどに。
まほろの顔は琴代とよく似て整ってはいる。
村のために差し出すのに、あれほど良い条件を持つ者はいない。
まほろはようやく元綱の役に立つ。娘としても光栄に違いない。
まほろがいなくなった後、そろそろ元久にも妻を娶らせよう。隠居して、沙耶、唯華と三人で列車に乗って温泉旅行をするのでも良い。
鈴は達者でやっているだろうか。
孫にも一目会いたい。鈴は産むのが上手く、しっかりと男児を産んだ。きっと可愛いに違いない。
元綱は田舎に縛られていることを不幸と思い続けてきたが、まほろの死によって、ようやく人並みの幸せを得られるように思って安堵の息をついた。
男児を産むことを「上手く」と表現するのは我ながら不快なのですが、元綱の考えをしっかり反映するために、そう表記させて頂きました。筆者も大変不快に思った旨をここに記載させて頂きます。