醜い心
ととと、と小刻みな音が障子戸の向こうから近付いてくる。
元綱の足の裏が自分の体から剥がれたので、まほろは静かに起き上がり、ずきずきと痛むのを耐えて姿勢を正してゆっくりと額づいた。
「お父様、お父様、見てくださいな。唯華のお花、みんなに褒めて頂いたのよ」
信じられないことに、それは言葉を言い終わるよりも早くに障子戸を開け放った。
もちろん元綱が許可を出す暇もない。
「どれどれ、おや、これは美しい。唯華は才に恵まれているな」
「えへへ、では、お父様のお部屋に飾ってくださる?」
「おお、貰っていいのか? ありがとう唯華。よし、いつでも見られるよう、文机に飾っておこうか」
まほろは額を床に向けたまま、自分には向けられたことのない優しい声に眉を寄せる。醜い心とまほろは自分を叱咤するが、可愛がられて育った唯華にひどく嫉妬していた。
「あら? お化けかと思ったらまほろ姉様。こんな所で何をしてらっしゃるの?」
「……まほろ、気は済んだだろう。帰りなさい」
「……はい」
たしかに、気は済んでいた。わがままに罪を重ねそうになった自分を、父が叱ってくれたのだ。無視をされるよりずっと良い。
「まほろ姉様、何の用だったのです?」
「何でも無かったようだ」
「うふふ、面白い。まほろ姉様って変わってるのね」
「……失礼します」
顔を上げ、もう帰ろうと立ち上がろうとした時、行商と共に来る見世物小屋の、何か面白いものを見たように笑っていた唯華の顔から血の気が引いていった。
「やだ、まほろ姉様、ほっぺたが腫れているわ。どうかされたの?」
父どころか、誰からも暴力を受けたことの無い唯華には、まさかすぐそこにいる元綱が義姉の顔を叩いたなんて想像もつかないのだろう。
駆け寄ってくる唯華の視線から逃れるために、まほろは袖で顔を隠した。奥にいる元綱の顔がまた嫌悪に蝕まれていくのも怖かった。
「ぶつけてしまって、それで、お父様に心配して頂いて……お恥ずかしい話です」
「まあ、お顔をぶつけるなんて、お姉様ったらおっちょこちょいなのね。そうだわ、お姉様、後でお部屋にお薬を持って行って差し上げる。今のお部屋はどこなの? 唯華、まほろ姉様のお部屋だけ知らないの」
息が詰まった。何と答えれば良いのかわからず、まほろは鬼のような元綱の顔を見つめて口を鯉のようにはくはくと開けた。
「唯華は鈴姉様のお部屋を貰ったのよ。とっても広くて、素敵なお部屋なのよ。まほろ姉様は?」
「そ、その、私は……お部屋は……まだ」
「まだ?」
「部屋はまだこれから新しく決める所なのだ。だが唯華と違ってああだこうだと我儘を言うのでな……まほろ、お前の言っていた部屋をやろう。鍵を持っていきなさい」
まほろに余計な事を言わせぬようにと、元綱が文机にあった鍵の一つを放り投げた。
「まあ、鍵があるなんて、離れを一つ貰うのかしら? 良かったわね、姉様。でも唯華は今のお部屋で我慢するね。後でお薬持って行くとき、お部屋を見せてね」
「唯華、あまり姉を困らすな。わざわざ離れの部屋なのだ。一人で手習いに励みたいということだろう。薬は俺が渡しておく」
「あ、そっか。ごめんなさい。唯華、お姉様のお気持ちがよくわからなくて……」
「い、いえ……お部屋を頂き、ありがとうございました。それでは、私はこれで」
まほろは鍵を握りしめ、また来た道を急いで立ち去る。
鍵を貰えたのは嬉しいが、とても悲しかった。我慢して使うくらいなら、まほろが欲しかった部屋だ。あの部屋には、まほろの持っていないものが全て揃っている。
――だめ、だめ、私は罪人だから、贅沢を望んではだめ。もし、あのお部屋を唯華さんが使わなかったとしても、私には入る権利すらない。
貰った鍵は、たしかに母屋とは違う。だが、唯華の考えている離れとも違う。古くて錆びた鍵を見れば一目瞭然だった。
鍵と紐で繋がった木の札には、納屋の番号が書かれている。客人を招くための離れに、まほろが住めるはずがない。
その納屋は、幾つかある納屋の中では一番小さくて古いが、しっかりと屋根と壁がある。
洗い場からも近く、洗濯には困らない。食事はこれまでどおり、厨で余ったものを分けてもらえそうだし、母屋から少し離れているので必要以上に家族とも会わずに済みそうだ。
まほろは厩舎から藁を貰い、納屋へと向かう。
幸い雨もりの痕もなく木製の壁に大きな穴もない。
まずはいたる所に積もった埃をはたき落とし、拭き掃除をする。
土を固めた床に柔らかい藁の山を作り、古くてチクチクした筵、さらにその上に古い布を敷いて寝床を作った。
外と環境が近くはあるものの、思っていたよりもとても快適そうだ。蔵のように寒くも無い。
日が暮れる前に引っ越しが済んで良かった。
ようやく落ち着いて、清潔に洗った水瓶の中の透明な水を椀にすくって乾飯をふやかしていると、忙しさに忘れていた痛みがまほろを襲った。
誰もいない納屋は夜になると真っ暗になり、虫の蠢く音に何度か驚いて起きててしまう。それでも、すぐにきっと慣れるだろう。身が焦れるような寂しさなど、今に始まったことではないのだから。