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 村長の娘であるまほろには母がいない。まほろを産んだせいで亡くなったと皆が言う。

 母、琴代ことよは美しくて優しい、素晴らしい女性だったらしい。

 家の後継ぎである兄も、山のずっと向こうにある大きな街に嫁いでいった姉も、皆、愛していた母親を奪われたとまほろを憎んでいた。

 それはきっと、命を奪われた本人である琴代も同じに違いない。


 まほろは幾度となく、死ぬのならば自分が良かったのだと言わされた。

 会う度にまほろを睥睨し、面罵する父親、元綱もとつなの言葉は、幼い頃から聞き続けて全て正しい事のようにも思っていた。

 鏡と向き合い、死ねば良かったのは自分だ。幻のように消えてしまえと言葉にする。

言葉の意味がわかっていくうち、辛いと思う事もあったが、もう何もおかしいとは思わなくなっていた。まほろと言う名も、幻のように消えて、妻に戻ってきて欲しいと願う元綱に付けられたものだ。


 まほろはまともな着物を持っていない。着ているものはどれも一度誰かの手で捨てられたものだ。まほろを哀れんだ下女が時々与えてくれる古い着物を、大切に何度も何度も繕って着ている。


 嫁いでいった姉、すずの部屋は、年齢順で言えばまほろが次に使えるはずだった。

 父に溺愛されていた鈴の部屋には、琴代が生前使っていた桐箪笥や化粧台がある。箪笥の中には、まほろがこれまで手にしたことのない美しい反物が幾重にも積まれて、綺麗な状態のまま、二度と持ち主に袖を通されず、ずっと保管され続けるのだろう。


 鈴が着ていたものはいつも美しかった。

 今箪笥に残されているものが、例え彼女の置いて行った不要な物であったとしても、箪笥に入れておくだけの価値がある。それに、顔の似ている妹のまほろにも、決して似合わなくはないはずだ。


 ごく当前のことだが、下女の部屋を借りて生活していたまほろに、その部屋が与えられることは無かった。屋敷で三番目に大きく立派な部屋は、継母の娘である義理の妹、唯華ゆいかに与えられた。


 まほろはそのまま、他所から奉公に来た下女たちの雑魚寝する部屋の隅に寝泊まりをしていた。

 だが、数日前に下女がまた一人増えたことで、まほろはそこを出ることにした。ただでさえ狭いのに、居候のまほろが居続けられるわけがない。


 一日目は蔵で眠ったが、日が当たらず一日中寒いのに、さらに冷える夜は体が震えてまともに眠ることなどできなかった。壁にかけてあった古い蓑にくるまって、かろうじて風邪をひかずに済んだが、さすがにもうここで過ごす気にはなれない。


 まほろは渋々、元綱にどこか部屋が余っていないかを聞きに行くことにした。

 自分から話しかけたりなどして、更に寝泊まりする部屋を要求などしたら機嫌を悪くさせるに決まっている。それでも、流石にこの村一番の屋敷の玄関先、目立つ場所で許可なく眠っていたら、更に父の怒りを買うに違いない。


 元綱の部屋の場所を、まほろは知っている。

 何度も鏡に向かって、自分がどんな存在かを学んだ場所だ。


 まほろは玄関の端にすっかり履き潰して歯の削れた下駄を一度置いたが、少し悩んで、番傘の立ててある壺の影に隠した。

 以前履いていた下駄をゴミと間違えられ、捨てられてしまったことを思い出したのだ。


 藁を編んだ草履で歩いているところを兄、元久もとひさに見られ、みすぼらしい格好で家をうろつくなと叩かれた恐怖が蘇る。

 あの日の夜、腫れた頬の痛みに涙を堪えながら、下女に頭を下げ続けた。どうか余っていて捨てる予定のもので構わないから、下駄を譲って貰えないか、見つけたら教えてくれないかと頼み込んだ。

 困った顔をして、わざわざ実家にあったお古の下駄を持って来てくれた下女のおかげで事なきを得たが、もう、あの時のように怖い思いをしたくない。

 新しい下駄を手に入れるまで、運良く譲ってもらえたこの下駄を無くすわけにはいかない。


 ――どうか、無くなりませんように……。


 するすると滑るように廊下を進む。まほろは花嫁修業などさせて貰えず、生きることに精一杯で毎日を過ごしているが、唯華は村に女学校が無いため、華道の講師と村に住む友人らを呼んで授業を受けている。

 障子越しに講師と少女たちが唯華の生けた花を絶賛する声がした。楽しそうなその声に、まほろはつい一瞬だけ足を止めた。


 羨ましくないはずがない。だが、同時にまほろは今さら華道などやれと言われても、無知を曝け出して講師を困らせてしまうだろうと思った。楽しい時間に水を差してしまう情景しか思い浮かばない。だから、特に華道を学びたいとは思わないのだ。


 なるべく音をたてないように、逃げるように、急いで奥へ進んでいく。

 荷物を置けて、夜に眠れる部屋が無いなどあまりにも惨めで、義妹の唯華にはできれば聞かれたくない。


「お、お父様、まほろでございます。お忙しいところ、申し訳ございません。お父様にご相談したいことがあって……」


 障子の前から声をかける。部屋に元綱がいる事は気配でわかる。ドス、と座布団に腰を降ろした音がして、まほろは唾を飲み込む。


「俺がいつ、入って良いと言った」

「……え、お、お父様、申し訳ございません」


 まほろは元綱の部屋に入るどころか、まだ戸を開けてすらいない。それでも謝るしかない。


「いつ入って良いと言ったのかを聞いている!」

「お、おと、お父様、わ、私は……」


 まず、拳が床に叩きつけられる音。それから先程座ったばかりと言うのに、音をたてて立ち上がる元綱に驚いているうちに、まほろは乱暴に開けられた障子戸の向こうへ引きずり込まれた。


「あ、お、お父様っ……も、申し訳ございません」

「勝手に俺の家に入りやがって! 沙耶さやと唯華まで俺から奪う心算か」


 沙耶とは唯華の母親で、琴代が無くなるまで妾であった女性だ。今は琴代に代わり、この家の女主人となっている。

 とうとう家にまで入ってはいけなくなったのかと、あまりにも酷な父親の言葉にまほろは唇を噛む。これでは、例え物置でも、家の中にいること自体を咎められてしまう。やはりあの寒い蔵で眠るしかないのだろうか。


 ――でも、お母様は私より辛い思いをして亡くなったのだから、当然かもしれない。


 馬鹿なことをしてしまったと、今さら後悔する。

 振り上げられた元綱のてのひらを一度こめかみの付近に受け、床にうつ伏せに倒れたまほろは、本能的に自らの命を守ろうと頭を両手で庇って蹲った。


「うっ、ううっ、申し訳、ございません」


 容赦なく踏みつけられ、踵をねじ込まれた背が痛む。

 贅沢をしようと、自分の部屋を望んだことが罪だった。自業自得だ。


 肺から無理矢理に出てきた空気が咳となる。一度や二度では止まらず、何度も火筒のように音が出てしまう。

 ゴホゴホと咳込むまほろを睥睨する元綱の瞳は、蔵の空気などましに思えるほど冷たかった。

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