第2話 バカと馬鹿
顔を洗い、制服に着替え、朝食を食べて歯を磨く。
通学バッグを持って玄関のドアを勢いよく開けば、「遅い」と美咲が不機嫌そうに頬を膨らませた。
この光景は中学生の時と何も変わっていない。
きっとあれは、あの「好き」は夢だった。
それか寝惚けて美咲の声を聴き間違えたか。
どちらにせよ朝陽は寝起きの一件を心の奥底に仕舞った。
美咲に言ったら絶対にからかわれる、そう思ったからだ。
「私達、同じクラスだといいねー」
「そうか? 美咲と一緒のクラスだと一気に新鮮味がなくなりそう」
「なによ、私と一緒のクラスが嫌だって言うの?」
「いいえ、滅相もありません。是非とも同じクラスに……」
「よろしい」
片道十五分の通学路は、自然と高校生活への期待を込めた話で盛り上がった。
互いに冗談を言って笑い合う。
時々、すれ違う手と手が触れ合った。
ほんの一瞬だが、美咲の肌の感触が手の甲を通じて伝わってくる。
「別に普通だな」
「ん? 何の話?」
「こっちの話」
「そっ、じゃあ私も私の話をしよっと」
美咲は本当に自分の話をし始めた。
部活を続ける気は無いだとか、担任の先生は女性が良いだとか、高校から給食が無くなって面倒だとか。
休むことなく饒舌にペラペラと話し続ける美咲に適当に相槌を打ちつつ、横目でその姿を覗き見る。
焦げ茶色のナチュラルボブは太陽に光を浴びて光沢を放ち、ぱっちり二重の瞳はキラキラと輝いている。
顔立ちは贔屓目に見ずとも整ってると言えるだろう。
それでもやっぱり普通だった。
美咲を見て胸がドキドキしたり、顔が熱くなったりはしない。
「ちょっと、ちゃんと話聞いてる?」
「聞いてる聞いてる。高校楽しみって話でしょ?」
「ざっくり総括すな。聞いてないのバレバレ。制服よ制服! どう、似合ってる?」
朝っぱらからどこにそんな元気があるのか、軽い足取りで駆け出した美咲は少し先で立ち止まって一回転して見せた。
女子高生らしく膝上まで裾上げされた短いスカートがふわり、と舞い上がって花を咲かせる。
少しだけだがヒラヒラのレースがついている純白の下着が見えた。
健全な男子高校生ならパンツがどうだとか、生足が何だとか色々と思うところがあるのかもしれないが。
朝陽としてはやっぱり普通の一言だった。
幼馴染のパンツなどもう見飽きたし、今更スカートでドキドキしたりしない。
強いて言えば、足については少し思うところがあった。
別に朝陽のフェチが足と言うわけでは無く、理由は別にあるのだが。
制服姿に対して何と感想を言えばいいか考えていると、立ち止まっていた美咲に追いついてしまった。
女子の平均より少し背丈が高い美咲と丁度男子の平均程度の朝陽の目線が真正面からぶつかる。
早く感想を言え、美咲は目でそう語っていた。
とは言え、普通と正直に言えば文句を言われそうだし、足の話をすると不機嫌になりそうだ。
そして素直に褒めてやるもの美咲が調子に乗りそうで癪だ。
私のこと可愛いと思ってるんでしょ、と一週間は絶対にからかわれるのが目に見えている。
何か気の利いたユーモアのある返答が無いかと考えて、最高の回答が一つ思い浮かんだ。
「随分、大人っぽい下着履いてるね。お気に入りのくまさんパンツはどうしたのさ」
美咲がよく履いていた可愛らしい子供用のくまさんパンツ。
最後に見たのは中3の夏、勉強合宿とか称して結局ゲームしかしなかったお泊り会の時か。
あの時は風呂上り、夏の暑さに耐えられなかった美咲がズボンを脱いで過ごしていた。
きっと美咲はこの野郎と言った感じでツッコんでくる。
それか何か同じようなネタで弄り返してくるか。
長い付き合いの幼馴染なら絶対にそのどちらだと確信があった。
「……バカ」
だから、顔を赤く染めてぷいっとそっぽを向いてしまった美咲に激しく驚き、困惑した。
美咲のこんな反応は生まれて初めて見たかもしれない。
上手く言い表せないが、どこか女の子らしいというか……美咲は元より女性なのだが、今まで全くと言っていいほど意識してなかったからこそむず痒いものがあった。
「私、先行くから」
そう言って、通学路を一直線に駆け出してしまった美咲の背中を朝陽は茫然と見送った。
やっぱり少し走り方がぎこちなく、スピードも遅い。
そんな風に幼馴染のちょっとした違いを見つけるのと同じく、自分の中に生じた明確な変化も朝陽は感じ取っていた。
「一瞬、胸がドキッとしたような……」
馬鹿なんて小学生らしい貶し文句は美咲からもう数えられないほど言われて来た。
それに対して馬鹿って言った方が馬鹿なんだと、同じく小学生の様に返したことが何度あったか。
でも、ついさっき美咲から言われたバカは何かが違う気がした。
いつもの美咲らしくもなく、顔を赤くして弱弱しく呟かれたバカにどんな意味が含まれているのだろう。
「いつもみたいに容赦なく殴ってこいよ馬鹿」
また理由も分からず勝手に高鳴る胸の鼓動を沈めつつ、朝陽は一人歩いて入学式へと向かった。