カルネヴァーレ(モニカ)
享楽的な街。それは、ヴェネチアを語るに相応しい言葉。この街に暮らす人々は、貪欲に楽しむ時間が必然だと悟っている。マスケラ(仮面)に現実を封印し、カルネヴァーレ(カーニバル)に一歩足を踏み出せば、ひと時違った人生を味わう事が出来る。淑女が娼婦に、コンドラ漕ぎが大貴族に。家柄も爵位も、平民か貴族かの境界線すら曖昧になる。年齢も、時には性別さえも無意味な存在となる。
ベッドの上に並べた服を眺めながら、込み上げる笑いを噛み締める。真珠色のマスケラは、色とりどりの飾り模様で縁取られている。
“カルロ様は私を探し出して下さるのかしら”
問い掛けた瞬間のあの男の顔といったら……何故、自分が?と言いたげな疑問符を眉間の辺りに張り付かせていた。だかそれは、ほんの一瞬。次の瞬間には、耳障りの良い甘い言葉で本音を覆い隠してみせる。
“ガーネットの瞳を探し出してみせます”
カルロが女だったなら、さぞかし売れっ子のコルティジャーナとなるであろう。不思議な男。何故か自分と重なる部分を感じる。あんな男のどこが? 感情に振り回されず、常に周囲を見渡す抜かりの無さ。笑顔の下に忍ばせた冷淡な素顔。飼い慣らしてしまった孤独を宿した瞳。頭の中で並べた共通点に、苦笑いが込み上げる。
何を……同じものか。あの男の苦悩など、地獄を覗いた自分の絶望に比べたらどれ程のものだというのだろう。飢えを知るはずもない。愛する者をはぎ取られる喪失感や、見知らぬ男に身体を差し出す屈辱など、貴族の男になど縁もゆかりも無い事。まして男爵を叔父に持つなど、貴族の中でもより高貴な身分ではないか。質の悪い男。馬鹿な方がまだ可愛げがあるというものだ。
だけど、どうしてだろう。あの深碧の瞳に何もかも見透かされているようで、必要以上に意識してしまう。
“ガーネットの瞳を探し出してみせます”
カルネヴァーレに繰り出す頃はもう陽が暮れているだろう。赤味を帯びたブラウンの瞳は闇に紛れてしまうはずだ。
ひと捻りした髪を頭の上にまとめると、控えめな羽飾りのついたビロードのベレー帽をかぶる。ふくらみを持たせた肩に入ったスラッシュ(切れ目)から、異なる色のシャツを覗かせるダブレット(上着)を着る。藍色のダブレットのくびれた胴回りに巻きつけられた金色の紐は、優美なデザインを引き立てていた。白いホーズ(タイツ)には少し戸惑ったが、履いてみれば暖かく癖になりそうな温もりを味わえる。そしてそっと手にした付け髭を、鼻の下に乗せてみた。
わかるものか。この装いで悠然とカルロのそばをすり抜けたら、どんなに愉快だろう。ネタばらしは、誰か顔馴染の貴族にでもそっと吹き込んで、今宵の相手にすればよい。無償のひと晩は、金の卵となるだろう。
全ての身支度を整え、鏡の前に立つ。見知らぬ若い男がそこに映っていた。上向きに曲がった口髭を、そっと真っ直ぐに整える。大袈裟に眉を片側だけ上げ、様々な角度で身なりを点検する。
準備万端だ。鏡に向かって微笑むと鏡の中の男も満足げに口元を緩めてみせた。
闇に染まり始めた街は、独特の空気に包まれている。ゴンドラには乗らず、迷路のような裏道を抜けていく。着飾った娘達はマスケラから覗く瞳を輝かせ、より大胆に思わせ振りな眼差しを男達に投げ掛ける。仮染めの恋に溺れる男女の影が、小さな橋の上で人目もはばからずに絡み合う。
なんて妖艶でふしだらな夜。
かかとの低い靴は軽やかに歩幅を広げる。男の装いをしていると歩き方まで大胆になるようだ。小さな井戸のある広場に出たところで、不意に手首を捕まれた。
「随分、細っこい腕だわね。こんなで女を抱けるのかい?」
振り払う事も出来たが、立ち止まり声の主を振り返る。乳房を露にする程に胸ぐりの開いたドレスを着た娼婦だった。道端に立つ売春婦達の競争相手は、女装した男娼だ。自らの女性らしさを強調する為に彼女達は客引きする時に豊かな膨らみをさらけ出す事さえいとわない。
「安くしとくからさ、天国を見せてあげるよ……ふふっ」
思わせ振りな含み笑いの後、おもむろに女は掴んだ手首を自分の胸に引き寄せた。その柔らかく甘美な感触。男が女を求める訳が、少しわかった気さえする。
チラリと女の様子に視線を流す。手入れの行き届いた髪。水仕事など縁もゆかりも無い滑らかな指。マスケラの奥では予想外に必死な眼差しが泳いでいる。はすっぱな真似をしてみたところで、およそ道端で客を引く境遇とは縁遠い身分だと伺える。裕福な貿易商の奥方か、もしくは普段は貞淑という衣を纏った貴婦人か……
「貴女との天国も魅惑的だが、カルネヴァーレは始まったばかりだ」
低い声色でそっと囁くと、マスケラをずらし、女の手にそっと別れの口づけを落とす。女の落胆する空気が伝わってきた。
大丈夫、周りを見回してごらん。男達が自分の出番はあるのかと、貴女を盗み見ているじゃないの。カルネヴァーレの闇に紛れ、女であることを堪能する夜。それが封印された願いなのだろうか。
女の脇をするりと抜け出し、再び歩き始める。海風にあおられ、肩にかけた黒いマントが蝶のようにひらひらとはためいた。
宮殿では舞踏会が催されていた。艶やかな衣装を着た人々が、マスケラをかぶり踊る様は幻想的でさえある。何百と置かれた燭台が、ゆらゆらと儚い夜を照らし出す。無礼講だ。普段足を踏み入れることすら許されない人々も貴族と肩を並べ祝盃を傾ける。
あぁ、そうだ。喉が渇いた。壁際のテーブルに並べられたワイングラスに手を伸ばす。
「……と、失礼」
脇から伸びてきたもうひとつの指とぶつかる。ついと、隣のグラスに狙いを変え、譲る仕草を見せると「グラツィエ(ありがとう)」と呟く男の声がした。立派な身なりだ。服の仕立てを見れば庶民ではないと伺える。一夜漬けでは身に付けられない貫禄。おもむろにマスケラを取ると、一気に男はグラスをあおった。あの男爵家のサロンでカルロに連れられ挨拶にきた建築家・エンツォだった。グラスを飲み干すと、きょろきょろとせわしなく、広間の女達に視線を流している。
「探し人見つからずですか?」
声色を作り、唐突に話しかけてみる。建築家は驚いた顔でこちらを振り向いた。
「いや、まいったな。そんな風に見えるかね」
私はゆっくり頷くと、自分のマスケラを外した。すぐにバレてしまうのではという戸惑いはあったが、ゲームを楽しむにはスリルが必要だ。
コトリ。外したマスケラをテーブルに置くと、秘密のベールをはぎ取る音が小さく響いた。さりげなく口元に手をやり、髭を確認し、帽子を目深に整えるそして軽く息を吸い込み、建築家に笑いかけてみた。
「ご覧なさい、貴方のような立派な殿方に見初められたい娘達がここには溢れている。一人の女に執着するなどもったいない事」
広間の正面を見据え、諭すよう口にすると、建築家の視線を横顔に感じた。
「いや、他の娘が霞むほどの価値のある女性でね…見過ごしたら生涯後悔する事だろう」
再びマスケラを被ると、建築家はダンスをする人々の群れの中に消えていった。
じらせばじらす程、恋の熱は高まるというものだ。もう少し間をおいて、建築家のもとを訪れよう。ネタばらしをすれば、この粋な演出に、彼は称賛の眼差しを向けるに違いない。
消えたと思っていた建築家の後ろ姿が、ダンスをする人々の隙間から見え隠れする。誰かと立ち話をしている様子だ。女の姿も混じっている。見事なブロンドの髪。遠目に見ても可憐な雰囲気を纏い、はっとするほどの華を持つ年若い女だった。顔はマスケラで隠されてはいたが、横顔から覗く綺麗な顎のラインだけで、美しい顔立ちが滲み出ていた。
女が腕を絡め寄り添う連れは意外な男だった。頭ひとつ皆より飛び出す長身。偽りの人生など不要だと言いたげに素顔をさらしているカルロ。優しい眼差しで女をエスコートしている。
貴方がそんな顔、出来るなんてね。あの子を取り上げたら、彼はどんな顔をするのだろう。娘がこちらになびいたら、あの男の眉間の皺を再び眺められるかもしれない。そんな思い付きに、笑いが込み上げてくる。マスケラをかぶり楽しげに踊る人々の隙間を、軽い足取りですり抜ける。
「お美しいシニョリーナ(お嬢さん)、一曲踊ってくださいますか」
そう話しかけると、三人の視線が一斉にこちらに注がれた。
「……君は……」
建築家がぽつりと呟くと、怪訝な眼差し向けていたカルロの視線が取り繕ったものに変わった。お知り合いですか? 建築家にそう視線で尋ねている。娘はと言うと、どう振る舞ったらいいのか、カルロに困った眼差しを投げ掛けていた。
「一曲だけですから」
返事など不要といわんばかりに、強引に手を引き、至近距離で値踏みしてみる。白いドレスは金銀の凝った刺繍が施され、襟元や袖口を飾りたてるレースも繊細な模様を透かしていた。細い鎖に繋がれた宝石で飾りたてられている眩い金髪。よほどいい家柄の娘なのであろう。目を見張る程の大粒の真珠を胸元で揺らしている。
コルティジャーナ(高級売春婦)は真珠を身に付ける事を禁じられていた。真珠は貞潔の象徴であるが故、汚れた身体には不釣り合いだと。素知らぬ振りで貴婦人のごとく真珠を身に付けるコルティジャーナは後を絶たない。役人は諦めているらしくお咎めは皆無であった。だが私は真珠で装った事は一度もない。自分にはやはり似合わないと思うからだ。
ふと、母の形見となった真珠の首飾りを、姉の薬代の為に手放した瞬間が脳裏をよぎる。それは結婚の贈り物として父が母に捧げた真珠だった。父の隣でいつも優しい微笑を絶やさなかった母。
姉が貴族の男に見初められ嫁ぐ事になった時、莫大な持参金を両親は無理をして用意した。持参金は花嫁の義務だ。用立てできない女達は神に嫁ぐべく修道院に行くしかない。平民の家柄とはいえ、父は腕の良い医者だった。そこそこの蓄えもあったようだ。望まれ、娘が貴族の家に嫁入りするとあっては、家を借金の抵当に入れてでも、身支度を整えてあげようと思うのは親心だったのであろう。姉の結婚式の日に後ろめたさを感じたのだろうか、母は申し訳なさそうに私に言った。
『この真珠だけはあなたに捧げましょう』
愛情を感じるにはその言葉だけで十分だと思った。母には受け取れないと首を横に振った。真珠の首飾りは母にとても似合っていたから……。結局、一度も私の首にかけられる事もなく、首飾りはその後、運命の悪戯で人手に渡ってしまった。
薔薇の蕾のようなローズカットダイヤモンドの指輪。輝く数珠で縁取られたロザリオ。金細工が施されたエメラルドのペンダントトップ。
今、私はあらゆる宝飾品を容易く己の力で手に入れることが出来る。けれども、真珠だけは一粒も持ってはいなかった。コルテジャーナとなった自分には、やはりその輝きを汚してしまうような気がするのだ。記憶の隅に追いやった母の思い出さえも一緒に……。
「よく似合っている。貴女のような可憐で清楚な娘にこそ、純潔を象徴する真珠は相応しい」
その台詞に、カルロから拝借した白いドレスの娘は、困惑した眼差しでうつむいた。そして再びカルロにチラチラと視線を流す。男のあしらい方も知らない箱入り娘。こういう女なら、あの男の興味を引くのであろうか。
心の奥底で、何かがチリチリと焦げ付くような音を立てる。同じだ、貴族なんてみんな同じだ。姉をゴミのように捨てた男と何ら相違ない。身分の違いは、神から与えられた命の重みさえも左右すると勘違いしているのだ。
真珠によって引き出された過去の記憶が、冷静さを奪っていく。いつの間にか曲は違うものに変わっていた。
「あ、あ…の」
白いドレスの娘から隠し切れない途惑いが伝わってくる。ダンスを続ける私達に、カルロが一歩踏み出してくるのが目の端に見えた。
「今宵、貴女に会えて忘れ難い夜になりそうだ」
耳元でそっと甘く囁き、彼女のマスケラに手を伸ばす。剥ぎ取った素顔は、女へと移り変わる手前の美しい娘だった。彼女は驚いた様子で、顔を覆う仕草を見せた。背後から伸びてきた大きな手に肩を掴まれる。
「決闘を申し込んだら、受ける覚悟があっての無作法だろうな」
氷のように冷やかな声だった。
「やめて、カルロ」
私の肩越しに立つカルロを必死で娘はなだめている。その空気に密接なものを感じ取る。
しばし沈黙が訪れる。それは少し違和感を感じるものだった。肩に置かれたカルロの指先から、動揺が伝わってくる。そして小さく呟く声が聞こえた。
「まさか……」
判る筈がない。カルロの前ではマスケラを外してはいない。声色も十分に気を遣った。、しかも彼は今、私の後ろに立っているのだ。面と向き合っている時には、勘付かれてなどいなかったと確信している。
次に耳に届いたのは押し殺した小さな笑い声だった。
「カルロ……どうしたの?」
異様な雰囲気に堪らなくなった様子で、彼女はカルロを問いただした。私も、カルロの笑い出した意味が見えず、ただじっと立ち尽くしていた。だが、次の瞬間、すっと襟足を指先でなぞられる感触が擦り抜けたかと思うと……。 ばさっ。帽子が取り上げられ、結い上げていた髪がばさりと肩に落ちてきた。
「悪戯が過ぎるなモニカ嬢。男装とは恐れ入った」
脇を擦り抜けカルロは目の前に立ちはだかった。愉快そうに端の上がった唇が、不愉快極まりなく視界に飛び込んでくる。唖然とする私の指先からマスケラをもぎ取ると、カルロはそれを勝利品のように満足げに娘に返した。三人の輪の中に、建築家も驚きを隠せない様子で入り込んできた。
「どうしたカルロ殿、これは一体……モニカとはまさか……」
「意外な演出でしたな。なかなか見抜くのは難しい」
どうして? どうしてバレたのだろう。疑問は拭えないがそう口にするのは無様に思えた。マスケラを外し睨むようにカルロを見据える。
「その立派な髭も偽物か?」
可笑しくて堪らないといった様子でカルロは笑いを噛み殺している。うなじから指を差し込み、もつれた髪を整える。そして、今更になった髭を引き剥がした。
「モ……モニカ嬢っ」
大袈裟に驚いた様子で、食い入るように建築家がこちらを眺めている。白いドレスの娘といったら……胸元でマスケラを抱き締め立ち尽くしている。
「カルロの……お知り合いなの?」
不安げな口調でそう言うと、そっとカルロの腕に手を伸ばす。
「叔父上の客人だ。ビアンカ、迎えの召使が来ているぞ。屋敷を抜け出したことがばれたら、お父上にお叱りを受ける。もう帰った方がいい。ほら、人目がある。マスケラをつけなさい」
ビアンカ……そう呼ばれた娘は、壁際に控える黒い肌の召使に悲しげな視線を流した。そしてカルロの腕に絡めた指を、名残惜しそうに抜き取った。
「当分こちらにいるのよね? カルロ」
小さな声は懇願するような響きを含ませていた。
「あぁ、グリマーニ侯爵に挨拶もしなくては。近いうちに伺うよ」
その答えはビアンカに喜びをもたらしたのだろう。彼女は納得したように顔を上げた。
「エンツォ様、失礼致します。お会い出来て光栄でした」
優雅な物腰は見惚れるほど艶やかで、微笑みかけられた建築家は嬉しそうに挨拶を返している。
「ダンスのお相手、楽しかったですわ。まさか女の方だったなんて…驚かせるのがお上手なのね」
ビアンカは表面上は平静を装い笑いかけてきたが、探るような視線は隠しようもない。
「大切な夜をお邪魔してしまい申し訳ございません。まさかもうお帰りとは……カルネヴァーレはこれからですのに」
取り繕った笑顔で応えてみせる。心の内は何故見抜かれたのだろうという疑問がまだ渦巻いていた。
「父に内緒で来ました。過保護すぎて困りますわ」
真っ直ぐに女同士の視線が絡み合う。ビアンカに先程のたどたどしい雰囲気はなく、値踏みするような女の視線で一瞥される。躊躇する事無く私はその視線を受け止めた。
もう一度、ビアンカはドレスの裾をつまみ会釈した。そして、マスケラをつけると召使の方へ歩いていった。
「私もそろそろ退散するよ。隣にいながら気付かなかっただなんて全く自分が許せない。引き際だけは見苦しく無く振舞いたいものだ。モニカ嬢、今度は別の機会にお付き合い願いたい」
言葉とは裏腹に名残惜しそうな眼差しをよこすと、建築家は去っていった。二人きりの状況に置いてきぼりを食った気分にさせられる。
「さて、では付き合ってもらおうかな」
意外な申し出に「え?」と疑問の声がつい喉元を滑り落ちる。
「とぼけてもらっては困る」
有無を言わせない口調に返す言葉を失う。一歩、二歩、歩み寄るカルロは二人の距離を息のかかる隙間にまで縮めてきた。ありきたりの男達が浮かべる欲情の色など、微塵も滲ませはいない瞳に捕らわれる。
「無償で振舞われる一夜の夢とやらを見せてもらおうか」