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リュートの調べ(モニカ)

 よく男は嘘つきだなんて言うけれど、女のペテン振りに比べたら、可愛いものだと思う。視線を泳がせながらもじもじと、子供はあどけない嘘をつく、自分を守る為に。男も同じだ。

“愛してる”

“貴女だけだ”

 背徳の時間を熱い溜息で埋めながら、潤んだ瞳でそう囁いてくる。そしてお返しにと、甘いお菓子をねだるのだ。一歩距離をおいて耳をそばだてれば、なんて心地よく浅はかな嘘だろう。微笑みさえ添えて、私は彼等の願いを叶える事が出来る。そして逆に罠を仕掛けるのだ。金色に妖しく光を放つ、蜘蛛の糸にも似た罠。気が付いたら甘美な息苦しさに身動きが取れなくなるように……と、女の嘘は計算高い。

 言葉だけでなく、時には体温さえも、男を悦ばす為に熱を帯びる事すら出来る。

 娼婦かどうかの境目は、自分の価値を男に認識させられるかどうかだ。金貨を払ってまで再び、また会いたいと思わせる女だけが、娼婦の称号を背負う事が出来る。

 けれども、私はただそれだけの女になり下がる気は無い。寝たい男は自分で決める。そして、流し目ひとつで金貨の雨を降らせられる、ヴェネチアの花、コルティジャーナ(高級売春婦)への道を歩んだ。



 なんて愛想の無い男。そう思った。先程バルコニーから見下ろした男が、ぶぜんとした表情で居間に入ってきた。だが、おもてなしに関して、こちらは玄人。最高の笑顔で客人を迎える。

「はじめまして男爵様。今日はサロンへお招き頂き光栄ですわ」

 初見の客人だった。宮廷には出入りしているとはいえ、全ての貴族と顔見知りな訳ではない。まだ、私自身、顔が売れ始めたばかりなのだ。

 男は新しいものに目がない。噂のコルティジャーナを味見しようと、爵位を持つ貴族さえもが誘いをかけてくる。そんな男達とは対照的な冷めた口調で、目の前の男はそっけなく言い放った。

「……男爵は私ではない。だから愛想笑いも不要だ」

 見下した物言いにカチンときたが、こんな台詞に目くじらをたてる程、私は大人げない女ではない。あら、と大袈裟に目を丸くしてみせる。この男、使用人というには随分と立派な身なりに見える。

「残念ですわ。やっと運命の方に巡り逢えたと予感がいたしましたのに」

 真っ直ぐに男を見つめながら、甘い嘘を吹き付ける。だが、男は躊躇する事なく無粋な視線を絡めてくる。整った顔立ちが、余計にその冷淡な態度を際立たせていた。

「叔父貴好みの台詞だな」

「……叔父?」

「バルゾ男爵は私の叔父だ。人使いの荒い方でね。今日は小間使いの真似事を仰せつかった」

「エスコートを任せるなんて、男爵様は余程、貴方を信用なさっているのね。殿方は結構、嫉妬深い生き物ですもの」

「叔父は移り気な男でね。他のコルティジャーナの相手が忙しく、貴女を迎えに行くのが億劫になったらしい」

 ……嫌味な男だ。女たるもの修道女のように慎ましく謙虚に生きるべきだなどと、声高に諭すタイプなのだろう。

 今の時代、女の生きる道は三つしかない。修道院に入り神につかえる人生。または妻となり、家に篭りながら子供を産み育て、それが自分に与えられた使命だと微塵も疑わず夫につかえる人生。そして最後の道は、己の欲望に忠実になる代償に娼婦となる人生。

 その中でも、芸術にたけ、博学で、美貌を備えた一部のコルティジャーナは宮廷婦人と呼ばれ、特別な扱いを手に入れる。肉体的快楽よりも、蜃気楼のように儚く甘い、ひと時の恋煩いを男達に振る舞うのだ。女が自分らしく、知的に花開く唯一の道。

 コルティジャーナの何処が悪い。迷いなど今の私には微塵も残ってはいない。所詮、娼婦だと見下す者がいようとも、私は誇りを持って相手を見返すことができる。生まれた瞬間から、恵まれた人生をお気楽に歩む貴族の男など、自分がのし上がっていく為の踏み台でしかない。

「でも救われましたわ。代理に貴方のような方がエスコートして下さるだなんて。私、運だけはいいんですの。では、転ばないように腕を貸して下さる?」

 私はスカートの裾を少しだけたくし上げ、赤いビロードで装飾されたチョビン(厚底靴)をそっと覗かせた。

「今日の踵は特に高くて……けれどもこれなら濡れた川辺りを歩いても、足元を濡らさずに済みますわ」

「こんな靴が何故流行るのか理解に苦しむね。女のお洒落は命懸けだな」

 すっと、男は腕を差し出してきた。

「叔父に会わせる前に、怪我でもされたら面倒だ」

 全く嫌味な男だ。ちらりと歩き始めた横顔に視線を向ける。幾つくらいだろう。私よりひとつふたつ上といったところか。二十…二、三。

 背の高い男だ。差し出された腕にぶら下がるように歩を進める。

“女のお洒落は命懸けだな”

 そう、命懸けだ。おぼつかない足元に男が思わず手を引きたくなるようにと、こんな不安定なチョピン(厚底靴)を履く。優雅に広がるドレスを際立たせる為に、ギリギリとウエストを細く締め上げるコルセット。手加減を間違えれば、骨を砕く事さえ珍しくはない。

 金糸で織り込んだ花模様のドレスを纏ったコルテジャーナを、男達の瞼に焼き付けるため、誰よりも優雅に咲き誇らなければ。

 再び男の横顔を盗み見る。悪くない。柔らかく撫で付けた癖のある黒髪。形のよい顎。余分な肉とは縁遠い滑らかな頬は、出来すぎたブロンズ像のようではないか。冷淡で薄闇の海を映したような深緑の瞳を持つ男爵の甥。

 わざと遅れてサロンの扉を開けたなら、尚更に皆の注目を集める事だろう。そして意外なカップルの登場に驚きながらも、称賛の眼差しを注がれるに違いない。自惚れてなどいない。私は美貌を売り物にしているコルティジャーナなのだから。そして愛想がないものの、隣の男は競う程に光を放ち独特の魅力をかもし出していた。

 随分と時間をかけ、一階の船着き場まで降りた所で、男の上着の裾を引く。何だ? と彼は怪訝な眼差しを落としてきた。年季の入った演技力で、私は申し訳なさそうに罪を告白する。

「大事な物を忘れてしまいました。男爵様に絶対に持ってくるようにと仰せつかっていましたのに…」

「私が急いで取ってこよう。忘れ物は居間のテーブルの上にでも?」

「いいえ、大事な物ですから秘密の場所に隠してありますの。私も一緒に戻りますわ。また腕を引いてくださる?」

 男の表情が曇るのが見てとれた。決して口にはせずに、胸の内でそっと笑いを噛み殺す。

“綺麗なお顔が台無しですわ”



隠れ家のような男爵の別宅は、トルコ人商館の上階にあった。室内は、宮殿の一室かと見間違う程にきらびやかで、質素な外観から想像も出来ない。

 大理石、金細工、壁を彩る艶やかな絵画。今までの貴族とは格が違う。けれども、この場に相応しい男の腕に導かれ、臆する事なく私は広間の中央へ進んでいく。

 新参者のコルティジャーナに好奇な視線が絡み付いてくる。期待を裏切らない微笑みを携え、優雅な足取りでその視線を横切っていく。凝った細工を施した椅子に、一目で主賓だとわかる男が座っていた。

「叔父上、モニカ嬢をお連れしました」

 うやうやしく男は、帽子を胸に男爵に挨拶をした。彼の口から、さらりと自分の名が溢れた事に驚かされる。

 いつだって男から、ねだるように名前を尋ねられるのが当たり前の日常。だが、そんな価値など無いとでも言いたげな様子で、ここまでの道のり、男は決して私に名を問いはしなかった。自尊心を踏みにじられたが、こちらからもあえて彼の名を尋ねない事でブライドを保っていたというのに……知っていただなんて。わかっていながら、呼び掛けてもくれかっただなんてたいそうな嫌われぶりだ。

 だが、こんな時にこそ私は顎をあげ、自分の存在を引き立たせる術を知っている。蔑まれようとも、相手が無視できない程に価値のある女だと誇示する為に。

「男爵様、今宵はサロンにお招き頂き光栄でございます。ご挨拶がわりに一曲、リュートの音色をお披露目してもよろしいでしょうか」

 私は甘い媚を含ませた眼差しでそう挨拶をした。男爵は値踏みするように私をしばらく眺めると、満足そうに頷いた。

 男爵の背後に控え立つ女が、じろりとこちらを見据えている事に気付く。挑発するように胸ぐりの大きく空いた青いドレス。黒髪を高く結い上げ、金の髪飾りを散りばめている。若いという年を過ぎようとしている年齢だと伺える。熟れた果実のような色香をかもしだしていた。コルティジャーナだという事は付け足すまでもない。距離からして男爵の愛妾だろう。けれど、嫉妬深い女はいただけない。

 挑み返すほど私は愚かではない。男は余裕のある女に寄り掛かりたがるものだ。ご機嫌いかが?とでも言いたげな視線を女に流す。ついっと彼女は視線をそらしてしまった。

 私は後ろに控えた小間使いに目配せをすると、部屋から持参した楽器を受け取った。

 リュート。この楽器の震えるような上品な音色は人々の心を弾く。「楽器の女王」と称される理由は、小振りで女性にも似合うという意味が含まれているのだろうか。注意を引くような大きな音を奏でるわけではない。けれども思わず耳をそばだてずにいられない。魂を爪弾く魅惑の旋律。

 私は小さく息を吐くと、調べに乗せて歌いはじめた。


“気紛れでもいい。愛してくださるなら。

今宵、貴方の心に散る薔薇の花になりたい。

気紛れでもいい。愛してくださるなら。

今宵、貴方の瞼に私の微笑を刻みつけたい。

真珠の涙で惑わせようか。

甘い口づけで酔わせようか。

気付いてください。貴方から捧げられる花冠を待つ女を”


 しんとした静寂の後、溜息と共に拍手が沸き上がる。自分の才能をより知らしめる秘訣は、即興での弾き語り。伴奏を奏でながら、頭の中で次なる相応しい言葉を吟味する。すると、背後から調べを追い掛けるように、異なるリュートの音色が響いた。力強く弦を弾くリズムに、弾き手は男だと伺える。気にして振り返るのは無様に思えた。やがて、男の歌声が響いてきた。


“眠り込んだ貴女は気付かないまま。

愛は闇夜をいつもさ迷う。

夜毎、違う男に微笑む君に心奪われた私は愚か者だろうか。

気紛れの振りが唯一の砦。

それさえも奪われたなら、我が身に剣を突き立てるであろう。

追いかけて欲しい。

だから背を向けよう。

夢見て欲しい。

だから満たしはしない。

花冠は既に貴女の髪を彩っている。

だけど気付かないで

気付かないで…”


 弾き手はどんな男なのだろう。即興での返歌にしては粋な出来だ。仕上げの旋律は示しあわせたかのように、音をいっそう深く絡ませていく。高く低く。命を吹き込まれたリュートの音色は伸びやかに息づき、やがて小さな溜息へと消えていった。

 わっと湧くような拍手が辺りを包む。男爵までもが、席を立ち愉快そうに手を叩いている。私はひと時のパートナーを確かめる為に、ゆっくりと振り向いた。

 だって……まさか。どうしてこの男だったなんて想像できよう。深緑の瞳。男爵の甥だった。注目される中、男は芝居がかった様子で私の手を取ると冷たい唇を指先に重ねてきた。

「カルロ・モディリアーニです」

 皆が見ている。取り繕った笑顔を返してみたが、この男、カルロには全てを見透かされている気がした。

 カルロは私が手にしていたリュートをそっと取り上げると、自分の楽器と一緒に小間使いに手渡した。

「全く疲れるな。場を盛り上げるのは……」

 ひっそりと声を落としたカルロが話しかけてくる。

「お互い、思ってもいない嘘を歌にするのが得意なようだな」

 私は何も答えず、リュートを運んでいく小間使いを目で追っている振りをした。

 この男は危険だと、本能が囁く。カルロの存在が、あがらえない運命の渦のように感じた。歯車がゆっくりと回り出す予感。

「どうした。今宵の相手でも吟味しているのか。叔父上にはあの愛妾が一晩中へばりついている」

 青いドレスの女を視線でさしながら、反応のない私を挑発するかのような台詞が飛んでくる。

「相手に困っているなら、私が買い取ってやろうか?」

 からかいが含まれた口調に、怒りすら感じた。だが、乗ったら相手の思う壺だ。冷静に……冷静にならなくては。軽く息をつき、苛立ちを振り払う。そして、挑むように毅然とした態度でカルロを見据えた。

 馬鹿みたい。落ち着いてみれば、男の態度を鼻先で笑い飛ばす余裕さえわいてくる。さっきの歌……そうね、私達、嘘をつき合うには絶妙なコンビだわ。くすくすと、込み上げる笑いを噛み殺し、冷やかな口調で言葉を返す。

「残念ですわ。もう先約で埋まっておりますの」


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