表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/34

夢への逃避(レオン)

 長い一日だった。アートヒューマンの女の世話の、なんと疲れる事か。

 桟橋の先に連なる水上コテージの一棟を彼女にあてがった。隣の棟が俺の寝床。ひとつ屋根の下での監視は必要ないと判断した。泳ぎを知らない女では、海の上から逃亡のしようがない。桟橋を忍び足で横切るような事があれば、俺は部屋の中からでも察知できる。それになんと言っても疲れるのだ。さっき、裸のままドアをノックされたのには、さすがの俺も驚かされた。

「バス、いっぱい……」

 鼻の頭にシャボンの泡を乗せたまま、困った顔で訴えてくる。白い肌が薄暗い外の風景に溶けてしまいそうな程に儚げで……俺は自分の部屋のバスローブを、女の肩に羽織らせた。

 リコのコテージに行くと、開きっぱなしの蛇口がバスのお湯を溢れさせていた。泡風呂の泡がどんどんタイルに流れている。

「フワフワなくなっちゃう」

 しょんぼりとした顔でリコはその様子を眺めている。

 一刻前、蛇口を捻り湯を出したのは俺だ。その時、脇に置いてあったバブルバスのキューブも、あまり深く考えずに放り込んだ。温度の調整は無理だと思い手助けしたのだが、まさかここまで何も出来ないとは。今朝までドアノブすら回せなかった女だと、忘れていた自分が迂濶だった。

 この島では二十一世紀初期の生活様式が模擬されている。この無駄に水を浪費するバスがいい例だ。人間が資源を使い果たす前の、贅沢を好んだ時代。バカンスという名目で、人々は大金をはたき、わざわざこんな南国へといそしんで出掛けた。皮肉にも、自然を味わうひと時の為に……。

 ギアは裸でカプセルベッドに眠る。深い眠りについた頃、自動的に身体は消毒され、肌の老廃物もジェットエアで吹き飛ばされる。貴重な資源である水を、体の洗浄の為に使うなど、今時ありえない。この場所だから許される贅沢。

 平等などという言葉は綺麗事だ。地球を修復する為、コンピューターによる徹底した管理体制をしいた今でも、だ。マザーコンピューター・エリザベスの元では、管理する者もされる者も、身分の差はないとされている。役柄は、あくまで皆が円滑に生きていく為の区分けに過ぎないのだと。だが、己で物事を考える機会を失ったギアと、あらゆる知識を蓄えたチップを脳内に埋め込んだキーパーとの格差は歴然。

 地球が歩んできた軌跡、あらゆる言語、文化、時代を経た生活様式……浅瀬に戯れる魚の名まで俺の脳内チップは一瞬にして弾き出す。そしてキーパーの中でも上層部一握りの者は、特権階級の恩恵を味わえる。地球の環境が急変し、人類の存亡が危ぶまれる時、シェルターにも代わるこの楽園ヘブンで生き永らえる権利は、所詮、特等席をキープできる選ばれし者のみといったカラクリ。

 俺は? こんな女の面倒を見させられるくらいだ。特権階級には程遠いって事だ。

 苦笑いを噛み殺して、蛇口の捻り方と、栓の抜き方をリコに教える。びしょ濡れの髪から滴を落としながら、彼女は神妙な顔でうなずいている。

 昼間何度も心に覆い被さってきた慣れない感情が、再びひたひたと忍び寄る気配を感じる。一体、何だっていうんだ? 心の中で舌打ちする。

「明日、俺がこの部屋に来るまで、外出は一切禁止する。これ以上世話をかけるな」 

 振り払うようにそう吐き捨てると、俺はリコの脇をすり抜けドアへと向かう。

「ごめ……なさい」

 背中に小さく呟く声が投げ掛けられるのを、聞こえない振りをして外に出ていった。苛立っている自分がもどかしい。

 俺はどうかしている。

 脇を通り過ぎる時に一瞬、リコのはだけた前襟の隙間から、不思議な形のあざが見えた。羽を広げた小さな蝶のようだ。その瞬間、彼女を抱き締めてしまいたい衝動にかられた。唇を噛み締め邪念を振り払う。

 どうかしている。

 ちりちりと胸の奥底で、記憶の片鱗がくすぶっている。何故だ? 


 自分の水上コテージに戻ると、棚に並んだアルコールの瓶に手を伸ばす。グラスに注ぎ、唇を寄せると、誘うような香りが鼻孔をくすぐった。

 何世紀にも渡って、人は趣向品として飽きることなく、この液体を愛でてきた。時には溺れ、惑わされ、身体を蝕む事さえもあるというのに……。今、人々の口にアルコールが触れる事はほとんど無い。だが、ここはさすが監視外地域『ヘブン』、小道具まで徹底した二十一世紀ごっこって訳だ。

 窓を開け放ち、その先に続くテラスに足を運ぶ。ぽっかりと浮かぶ水上コテージは海に抱かれているようだ。海面に月の光が揺らめいている。

 カラリ……。握り締めたグラスの中で、氷が音をたてた。

 知っている。何を? この穏やかなラグーンに映し出される光模様を。

 グラリと頭の中が歪み、一瞬平衡感覚を失った。思わず閉じた瞼の裏側にちらちらと黄色い花模様が浮かんで消える。リコのワンピースの……? いや違う。似ているが違う。

 酔ったのか? アルコール耐性がレベル5のこの俺が、か?

 職務に就くまでの訓練には、本能を脅かすあらゆる快楽に耐えうる術も叩き込まれる。アルコール、麻薬、性欲に至るまで。生身の女をあてがわれ、何週間も甘美な肉体的快楽に漬け込まれる。生まれ落ちた瞬間から、人肌の温もりすら知らない男達は軒並み脱落者の印を押されていった。

 今、俺を惑わす慣れない感情が、酔いで説明がつくのならば、その状況に身を委ねてしまいたい。再び注いだウィスキーを煽り、ベッドに仰向けに寝転がる。固く瞼を閉じる。このまま眠ればいい。そう己に暗示をかける。

 暗い穴に引きずり込まれる感覚に包まれる。けれどもいつだって、眠りの淵を漂うだけで、俺はその穴に落ち込む事はない。不審な物音ひとつ逃さないよう、常に耳をそばだて眠る習慣が染み付いているからだ。

 瞼の奥から灯火のように浮かび上がる光景が見える。夢? もう何年も何年も、夢など見たことなど無いというのに。

 ……聞こえる。陽気な笑い声だ。男も、女も…歌も響いてくる。大袈裟に芝居がかった様子で、男が口説き文句を囁いている。


「今宵、貴女がいなければ僕はひとりシーツの海で凍えてしまう」


 どっとわくような冷やかし笑いが、辺りにこだまする。誰だ? 目を凝らすと、細長く小さな船の上に彼等のは居た。一人だけ立ち姿の男が長い棒状の物を水に差し入れている。

 棒……いや、これは船を漕ぐオールというものだ。何重にもドレープを描いたアーチを持つ、ルネッサンス調の重厚な建築物が建ち並んでいた。道ではなく建物の合間には水が満たされ、似たような細長い船が何槽も行き交っている。船上の女達は大胆に胸元のあいたドレスにきらびやかな宝飾品を飾りたて、編み込んだ髪に羽飾りをさしている。隣の男達は膨らんだ袖の上着に、ぴっちりとしたタイツと、かなり奇抜な装い。

 夢の淵でも脳に埋もれたチッブは的確に作動し、情報を提供してくる。ヴェネチア……ふとそんな単語が弾き出される。

 英名:ベニス、アドリア海の女王と賛美された水の都。彼等の服飾からして、中世十六・七世紀といったところだろうか。

 奇妙な夢を見るものだ。ふわふわと漂う意識のなか、俺はこの世界を傍観している。

 船上の男達は、ふと一点を見上げると、大袈裟に目を丸くし、うやうやしくお辞儀をしてみせた。その視線を辿ると、バルコニーより船を見下ろす、女の姿があった。クスクスと笑いを噛み殺し、両手で手すりに頬杖をついている。

 額を飾り立てる栗色の小さな巻き毛、螺旋状にまとめた網み髪。深紅の唇、強い光を宿した瞳。

 凛と咲く大輪の薔薇のようだ。

 船の上で膝まづく男達に妖艶な含み笑いをひとつ投げると、女は素っ気なく視線を他に移した。じっと女の視線が一点に捕らわれている。そこには帽子を被った男が一人立っていた。

 女が頬杖をつくバルコニーの真下には、柱廊造りのトンネルがあり、水際からの船を建物に招き入れる様式になっている。今、まさにそのトンネルをくぐろうとする船から、その帽子の男は彼女を見上げていた。

 カタカタと頭の中で、奴のいでだちが分析される。

 黒いビロードの山高帽。サテンのジュッボーネ(胴衣)には絹で包まれたボタンが並び、

首まわりは純白のひだ襟で包まれている。端麗に着飾った男は、深緑の瞳を見開いてバルコニーの女を見上げていた。

 いつまでも絡み合った視線はほどかれる様子もない。だがそれは、男と女の色恋沙汰を奏でる前奏曲のように熱を帯びたものでもなかった。お互いの存在に気付いた事を確かめ合っている、そんな雰囲気だ。

 ゆっくり建物に吸い込まれていく船が、二人の視界を遮ろうとしている。不意に女はドレスの裾を摘まみ、微笑みを携えてお辞儀をした。黄色……いや、黄金色の糸で織り込まれた花模様のドレス。

 ぐらり。視界が歪んで見えた。

 次の瞬間、船から上陸する帽子の男の姿が目前に迫った。まるで全身を映す鏡のように、俺の目の前に男は立っていた。

 ずいっと革製の磨きあげられた靴で、男はひとつ歩をすすめる。意識しか存在しない俺と奴の肉体がひとつに重なる不思議な感覚。

 墜ちる……ストンと深い穴ぐらに堕ちていく。

 遠のく意識の中、男の心が読み取れた。

“だから…こんな役回りは嫌だと言ったのだ。どうして俺があんな女の迎えなどしなくてはならない。

美しい。そうだ、異議など申し立てる余地などない程に。だが、それがどうしたというのだ。淑女と見間違う程に飾りたててみたところで、身体に染み付いた汚れを拭い去る事はできないであろう。所詮、あの女はコルティジャーナなのだから”


 コルティジャーナ……

 カタリ。

 脳内チップが溜息のように最後の分析を弾き出す。と同時に、俺の意識も途絶えた。

 コルティジャーナ。中世、宮廷に君臨した高級売春婦達。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ